昭和廿八年五月五目発行
春、玉樓の星の影
霞につヽむ花の色
それ紅に色そめて
熱き血潮も(たぎ)りてし
名残は盡きぬ若人の
燃えにぞ燃えし青春に
夢見つらむは三田の山
夢見つらむは三田の山

春、苟全(かうぜん)の時たらず
幽霞の色に醉ふなかれ
星冠(せいかん)高くかヽげつヽ
歴葉(れきよう)の血にふつふつと

うそぶけよまた長驅せよ
いざ壯励(さうれい)の青春に
よろこびの酒汲まんかな
よろこびの酒汲まんかな

春、清霽(せいせい)の風の聲
緑の草の生ふところ
それいくそたび経めぐりて
久遠の光培いし
鳳逐はん若人よ
あヽ明けそめし青春に
夢はるかなれ三田の山
夢はるかなれ三田の山

   
 

河村部長
 
岩井監督

倉橋会長
   
 
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三田軟式庭球倶楽部創立に際して

                会長 倉橋 富治

昭和二十四年初夏の頃、塾関係の軟式庭球部を打つて一丸とする為に、四谷の医科に関係者が集り協 議の結果、従来現役選手、OB及医科とバラバラであつて密な連絡を欠いて居たものが、ほぼ一纒りになって一応「オールKO軟式庭球クラブ」が生れた。その際規約も一応整つたのであるが、実際面に於 いては強力な団体と云う迄にはゆかず、従って現役選手(軟式庭球部)に対する後援も思うに任せず、 資金難等に悩み、難行苦行の模様であつて、自然成績もあまり振はない有様であつた。そこで之を打開 の為、休育会の他の部の様に後援会を組織し、広く資金を得て軟式庭球部を立派な男前に育て上げ様と, 云うので、昨二十七年暮近く日比谷に於けるオール早慶戦終了後会合を催して協議の末、本格的に此処 に『三田軟式庭球倶楽部』が組織せられ、塾軟式庭球部発展の為に大いにカになろうと云う運びとな つた。
 塾出身の軟庭愛好者は随分数多い筈であるのに、実際に連絡を保つて居る人は極く少数で、大多数の 人については勤務先・住所等の調査もうまく行われて居らないやに思われるので、之ではいくら後援会 が出来ても、所期の目的は達せられないわけで、..此際徹底した調査をして此等の塾員に働きかけ、強カ な後援会を作り上げる事となつた。この仕事を進めるには社会人では無理であるから現役軟庭部員中よ り委貝を選出し急速に事を運ぶ様努力しなければならないと思う。
 私の頭髪は霜程度ではなく、己に雪を頂いて居るけれ共、軟庭に対する愛着は幼時より一貫して少し も衰へて居ない。幼い時からの永い間の慣習で少くも週一回位はラケツトを振らないと体の調子が悪く て仕方がない。軟庭」は私の生活の一部であり、健康法であつて、之は終生変らない。恐らく私同様の愛 好者は数限りない事と思われる。
 私は時折現役選手の試合を見に行くが、ヘマな敗け方や、ダラシナイ試合振りなぞを見た時は一日中 不楡快である。勝負にこだわるわけではないが勝負を争う以上は勝った方が良いのは勿論で、勝ち度い ものである。つまり、我々の理想とする所は常勝KOであるから、此の目標で精進練磨する事であり、 後援会の目的も亦ここにあると思う。何卒塾軟庭にゆかりある塾員諾君の熱烈な御後援を切望致して止 まない衣第である。

 

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無題 

                                   副会長 森文雄


三田軟式庭球倶築部の会報を発行するので是非原稿を書けとの御依頼でお引受けしたものゝ、小生昨 年秋丁度全慶早軟庭対抗試合を日比谷コートで行つた頃から、信濃町廿五番地(慶応病院の向い側)に 病院の開設を計画して居て二月二十八日に開院式を行い三月二日から診療を開始する始末で、それこそ テンヤワンヤで落付いて原稿など書いて居る暇はなく、といってお引受けした手前何か書いて責任を果 さなければ申訳なく、小生が塾入学当時(大正九年)から卒業の十五年頃までの軟庭の思い出を書さ度 かったのですが、次回を約して、此の度は自己宣伝で誠に恐縮に存じますが、開院式当日衛生局長・区 長・議長・警察署長・日本医師会長・医学部長などの祝詞の後申述べた院長謝詞を略述して御免をこう むりたいと思います。、
 本日は公私共御多用中を斯くも多数名士の方々の御臨席を得まして信濃町外科の発足をお祀い下さい
まして誠に有難うございました。御出で下さいましただけでも光栄に存じて居りました処、先程来数々の御祝詞を賜り感激に堪えません。尚御祝詞の中で大変不宵私をおほめ下さいまして、穴があったら入り度い気持で拝聴して居りました。尤も本日はお祝いの事だから一応ほめておくが、いゝ気にならずに大いに自重して大いにガン張れという御忠告であり激励の御言葉と解しまして、精進致すつもりで御座居ます。次に信濃町外科どいう名称に就いては、私は信州信濃の生れで信濃町という町名には非常な愛着を覚えて居りますし、学生時代の四年間と卒業して満二十七年とを合せると三十一年間信濃町に御厄介になって居る次第であります。医学部の卒業生も四千に近い位ありますが、私位慶応の御世話になって居る者は他にないと存じます。さて信濃町外科でありますが、私は信濃町を「死なぬ町」にし、死なぬ外科であり、死なぬ病院にして此の病院に入院された患者さんは全部元気で退院して頂き度いと願つて居ります。従って生命の保証をしかねる病人は慶応病院へお願いするつもりで居ります。いづれ交通事故の救急車で怪我人も運びこまれる事と存じますが、只今申上げました通り助かりそうな方は此の病院へ、危篤の方は甚だ勝手ですが向いの慶応病院の方へ御連れ下さるよう御願い申上げます。いづれに致しましても決して殺さぬ事、親切に良心的な治療をする事をモット−に此の病院を経営し度い念願でございますから、何卒宜しく御指導御支援下さいます榛お願い申上げます。以上をもちまして簡箪ではございますが、お願いを兼ねまして戚謝の辞と致します。有難うございました。…
 倶楽部会報の原稿としては当を得ず甚だ恐縮に存じますが、次回には必す思い出を書く事をお約束して御諒承を得たいと思います。

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所感  

                                 部長  河村知男 


 このたび先輩諸氏によって三田軟式庭球倶樂部が結成され会誌創刊の運びとなりましたことは、真に慶びに堪えません。塾体育会軟式庭球部々長として、心からお祝い申し上げるとともに將来における御活躍御発展を期待します。
 三田軟式庭球倶樂部と塾軟式庭球部との提携はおそらく他校などには見られない程の緊密の度を加え、將来日本の軟式庭球界に多大の頁献をなしえるものと信じます。
 先輩諸子の平素からの軟式庭球部に対する絶大なる御援助と御指導を感謝いたすと同時に、なお今後とも相変らず先輩後輩一体となり塾軟式庭球のため御協力を茲に御願いいたします。
 この機会に私は軟式庭球部の現状を御報告しようと思います。
 軟式庭球部は体育会の歴史の中では比較的新しく、塾の新制大学とともに発足したのでありますがその後急速な発展をとげ、現在では部員約五十名、対校試合に出場する選手十数名を擁し、,部と同時に誕生した新制大学体育科の実技指導も毎年百数十名に達する程の大きな団体となり、三田軟式庭球倶楽部の將来の中堅を送り出す健全な母体となりました。
 昨年度より結成され内外にその前途を嘱望されている春秋の東京六大学リーグ戦をはじめとして、関東学生リーグ戦(春秋二回)東日本及び全日本選手権大会ならびに対.同志社大学定期戦とシーズン掉尾を飾る伝統の全早慶戦等々の大試合を有し、それぞれにおける塾チ-ムの活躍は他校に対する大きな推進力となっております。
 此の様な試合に出場の外、毎日日吉における五面のコート上や年数回の合宿練習で、部員一同張切って心身の鍛練に励んでいるような状態であります。
 私は、当然のこととはいえ、部員諸君は何よりも先ず将来社会の中枢となるべき塾生でなければならないと思います。学業も選手なるがゆえに劣ってよいわけはなく、一般塾生と比べて何等かわる所があつてはならないと思います。塾生の中でスポーツを通じ心身を練磨しようとする者が部員となり、その上技術の上で素質のあるものが塾の体育会をになう立派な選手にならなければならないのです。云い換えれば部は塾生が、その志す個々のスポーツを通じて心身を練磨する「場」であり、特に限られた選手の養成機関ではないのであります。勿論、対校試合にも出場するような技術の優秀な選手が一般塾生とともに入部するのは歓迎しますが、右の様な理由から私は、予め特別な素養を備へた既成選手を引抜いて入部させたくはありません。
 したがつてスポーツに全く素人の者でも自由に入部することが出来るのであり、入部後の努力によつてスポーツ精神を体得すればよいのであります。対校試合にいつ旦出場した場合には、やはり断固として勝たなければならないが、勝負よりも寧ろ勝利を手中にせんとして励む努力こそ尊いのであると考えます。
 此の様な私の考え方で部を指導しておりますので、外面的な対校試合における勝星の数より、部員在学中のスポーツ研讃の道程をよく見守つていたゞきたいと思います。此の様な根本に立つた部員の意志と生活自体が、将来何事かをなさんとして全く挫折し難い力を生む事を私は信じて疑いません。
 かくして、諸先輩の豊富な経験と地位とから、精神的・物質的両面において部員一同を御援助下さるよう希望する次第なのです。

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軟式庭球と私      

                                        顧問 小泉信三

           
 私がテニスをやりだしたのは数え年15のときで、今が65才だから51年前のことである。無論軟球であった。

その頃の塾の庭球部で多分私が一番練習したであろう。毎日、終日テニス許りをした。外のことは何もしなかった。その代わり選手としての上達も早かった。その頃は普通部も大学部も皆な一緒になって、庭球部を組織していたのであった。年寄りの自慢話をすると、私は普通部5年〔年17〕のときには、すでに全庭球部のNo.1になって、新聞などによく出された。私は運動が好きで、運動神経も遅鈍という方ではなかったが、上達がはやかったのは、全く人並み外れた練習の賜であった。その代わり、私の盛りは短かった。何時かその頃の古い雑誌でテニスの記事を見たら、私の事が出ていた。何と書いてあるかというと、「小泉未だ老いず。」とある。それが幾つのときかというと、滑稽にも私の20か21のときの事である。
蓋し私はもうその頃すでに老いたという批評を受けていたので、こういう記事も出たのだろうと思う。20才で「未だ老いず」は険しい評言であろう。

塾ではNo.1であったが、日本全体では仲々そういう訳には行かなかった。18,9のとき、一寸一時、何処にも誰れも怖いものがないように自惚れたときもあったが、それは極く短期間のことであった。私の選手時代には、高師の飯河か、早稲田の氏家・山住というのが第一人者であった。私は氏家とやって一度勝ったが、二度か三度敗けた。 大学の政治科に入ってから、私のテニス熱はさめ、少し勉強家といわれる方の学生になった。前にあまり熱中した反動であろう。引き続き部の上位選手ではあったが、あまり人に語るような話題はなくなった。

明治43年、私が大学を出るのとたしか入れ違いに塾に入った新入生の中に、熊谷一彌があった。そうして彼れと商大〔今の一橋大〕卒業の清水善造とこの二人によって日本のテニスが世界の舞台に進出したことは、多分諸君もご存知の通りである。
私が塾を卒業して3年たって、即ち1913年私のロンドン留学中に、塾は硬庭を採用した。この時庭球部の上位選手は寧ろこれに反対であったということだが、先輩の勧めに従ってこの転換を断行した。やってみると、軟球の名手はやはり硬庭の名手であった。熊谷はその第一人者であり、後の原田〔武一〕、佐藤次郎の如き大選手は、何れも軟球の出身で、軟球の技術が硬球技術の邪魔にならない許りか却てそれが日本独特の長所となることが証明されたと思う。
軟球出身者の長所は、フォアハンド・ストロオクの威力にある。熊谷、原田、佐藤、西村〔秀雄〕は、何れもそれの例証である。私自身も昔、軟球時代に、フォアハンドの強打を武器として、攻撃的のテニス許りやって来たものとして、これ等の選手の長所を見て、会心に堪えないのである。硬球選手の中には屡々バックハンド・ストロオクが得意で、フォアハンドは却って不安だというものがある。有名な大選手にも往々それがある。軟球出身者には殆どそれがない。茲にフォアハンド・ストロオクに対して軟球庭球の練習によって悟得される独特の秘密があるのではなかろうか。これは素人の観察で笑われるかも知れないが、私としては研究すべき問題と思うのである。
私はテニスマンとして、中年以後硬球界に属した人間であるが、軟式テニスは謂わば私の出生の故郷である。
故郷忘じ難し。昔話を記して青年諸君の一読に供す。

 

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塾軟式庭球の回顧

                                    監督・理事長 岩井英夫

 慶応義塾軟式庭球は昭和二十四年春正式に体育会の部に昇格、日吉にコート五面を新設、今日に至つた次第であるが、其れ以前に於ける今日の軟庭部の母体であつた慶応義塾軟式庭球クラブは、個人的に も幾多の名選手を生んで来たものであり、此の間の経過の大略を御紹介して置き度いと思う。
 大正二年、慶応義塾庭球部は軟球時代より硬球に転じ、軟式は存在しなくなつたが、当時熊谷一彌氏のパートナーであつた国見和宏氏(大正六年)は依然軟式を続けられ、益田信世氏(元日本軟式庭球連.盟会長)の小田原日本スボーツマンクラブに於て活躍され、デビスカツプ選手故西村秀雄氏、叉は昭和二十五年度軟式庭球部主將盆田辰男氏等を育成され古稀を越えられた今日、尚小田原庭球界の長老としてテニスに親しんで居られ、昨夏長野果岩村田の合宿にもコーチに来られて居る。
 更に現後援会長倉橋富治氏(大正十二年、エス・ケー油脂工業社長)も、在校中より全国的に活躍され、又目日向正善氏(昭和八年)は昭和四年度全日本一般男子選手権を獲得され、名実共に日本一の名選手として余りにも著名であつた。又、安友省三氏(昭和五年、東京都庁法人課長)は、在校中より永年に亘り東京代表選手として有名であり、昭和二十四年度遂に宿望の全日本一般男子選手権を獲得された。
 斯くの如く幾多の名選手を出して居るが、何れも一般クラプ等に加入され個人的に名を馳せたものである。然るに昭和初期より軟式庭球は最盛期に入り塾内に於ても同好の士多く、当時予科会主催の軟式庭球大会には数百名の出場を見、茲に組織化さた団体の必要性を各プレーヤーより要望され、昭和六年末・前記日向正善氏・新藤栄一氏(昭和八年、後援会副会長、昭和電工営業部長)並に四谷医学部選手等が中心となり慶応軟式庭球クラブを結成し、体育会の外郭団体として承認され、部長は当時の庭球部長井汲教授が兼任された。そして全日本学生軟式庭球連盟に加入、リーグ戦にも出場する事となつた。
 之が現在の軟式庭球部の前身とも云うべきもので、私も当時予科二年で其の一員に加わつたものである。
 昭和七年リ-グ戦に慶応義塾軟式庭球部として初出場、日比谷公園コートで早、立、明、帝、日等を降して優勝し、井汲部長は固より、当時の塾長故林毅陸先生も大変喜ばれ、記念撮影に加わつて頂いた事を記憶する。翌八年も連覇し、九年は早、慶同率の優勝以後早慶立等で覇を競い医学部山岸芳雄氏(昭和十三年、関東配電病院、医博)等も大いに活躍されたものである。
 昭和十二年・十三年度は小林珍彦氏(昭和十四年)呉啓三郎氏(昭和十四年)によりリーグ戦は固より、明治神宮、伊勢神宮大会に優勝、全国制覇し、学生選抜満洲遠征軍の主將として大いに気を吐いた時代である。以後戦争に至る迄大石、川野氏等により優勝は逸したが常に優勝圏内に在った。
 戦後は医学部盛合、堺氏が中心となり、四谷医学部コートを本拠として再出発、二十四年に至り当時の主将田中舒氏及マネージヤ山口竜夫氏の努力と、体育実技の実施と相俟ち、河村知男教授を部長に冠し、体育会の部に昇格、日吉にコート三面(現在五面)を新設し新発足した次第である。
 戦後は未だ好成績とは云えないが、素質ある優秀選手も多く、茲一、二年には充実したものとなり、全国制覇もなし得るものと確信する。
. 現部員諸君も、曾ても諸先輩が線習に使用するコートにも事欠き、貸コートを借用したり、又長期目黒クラブに御厄介になりつゝ、而も前述の如き相当の戦跡を収め来つた苦難の道を回顧する時、現在は惠まれたる環境に在ると云わねばならない。勿論スポーツである以上勝敗にのみ拘泥する事は好ましからぬ事ではあるが、充実した一つの力となつて現われる様努力して頂き度い。
 現在迄倉橋三田会長、副会長森文雄博士、顧間益田信世氏等の大先輩には有形無形の御援助御声援を賜つて居るが、何卒先輩諸兄も慶応軟式庭球部の育成に絶大なる御盡力を賜わり度く切に御願いする吹第である。

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上達の方法

                                        理事 安友省三


 スポーツには、体、技、心の三要素が基盤をなしていることは今更ら説明をする迄もない。強健な身体、円熟した技術、そして健金な精神、この三つが具備されゝば鬼に金棒であり、理想的な典型的スポーツマンと謂い得るのである。吾々はこの三つの要素を具備、体得するために努カと精進を続けておるのである。そして一日も早くこの境地に到達し得た者が斯界の成功者となり得るのである。このためあらゆる努力が持続され最後迄頑張り抜いた者が勝利者となる。吾々プレーヤーは如何にして早く上達するかについて苦心しその方法を発見するため苦労をしているのである。プ一レーヤー各自夫々素質を有しているのであるが、その素質発見の遅速、又向上発展の速度等によつて上達の速度にも影響があるのである。素質に惠まれた者はこれを益々助長育成することによつて早く上達の域に達することが出来るであろうし、叉素質に惠まれない者でも努力一つで或る境地には到達し得られるのである。そして誰でも或一定のレベル迄は容易に上達することが出来るのであるが、それ以上に進歩するのはなかなか容易な業ではない。普通一遍の努力では到底この難閲は突破出来ないのである。或る者は意志薄弱のため挫折するであろうし、或る者は慢心により折角のチヤンスを逸してしまうだろうし、こゝが我慢の仕処と頑張り通し自分の境地を切り拓き自分のテニスを編み出し最後の勝利者となり得る者もいる。要は各人の心がけ一つにあるのである。他からいくら注意されても本人がその意志にならなければ馬耳東風で何の役にも立たない。
 そこで先ず第一に自分は何のためにテニスをやるのか自問してみることである。そして確固とした目的なり目標をはつきり自覚することである。それからはこの目標に向つて邁進するのみである。猪突するのは能がない時に過去を振り返りまた一つの目標に向つて進む、悪い所は捨て良い所は執り脇目を振らずに進む。これが上達の一番の早道と考えるのである。
  上達を阻む原因の一つに安易な気持ちでテニスを始めることがある。選手となり頭角を現す迄の苦心は並大抵のものではないのである。今迄大成された選手には人に語ることの出来ない苦労や苦心があるのである。今の若い人達はこの苦労や苦心を知らない様である。一通り一遍の練習でうまくなるのであれば誰れでもやれるのだ。これが簡単に容易にうまくなれない処に問題があり価値がある。これを解決するには努力あるのみと断言する。
  練習に入る前に先ず自分の体質について検討を加えて見る。テニスに入るのに体が適応しているから選手になるという者は少ないと思う。大概は好きなためにやるのだと答えると思う。すれば殆どの者は体質的に欠点もあれば長所もある。テニスに適応した長所は飽迄もこれを助長育成し、欠点は早く矯正しなければならない。自分の健康と体質を知り体力を増強し、如何なる試練、苦境にも耐えられるだけの増進を積極的に計る必要がある。上達の一番基礎となるのは体力であるからである。如何に貧弱な体質でも鍛錬によつて或る程度体質の改善は可能である。
  第一に脚力をつける。このためにはランニングと縄跳びを利用する。脚の速くて強いことは第一の条件である。次に腕力つける、このためにはラケットの空振りとか懸垂なども一方法である。又腰のバネを強くするためには腰を利用する基本体操を行うとかして先ず体力を養成することに主眼を置き、常にこの調練を反復する。そして自分の体力を十分認識すると共にコンデイション調整の調子を会得することである。身体のコンデイションを整えるということは試合前特に必要である。常に試合前には最上のコンデイションに置く様平生からの心がけが肝要である。このためには常に攝生を重んじなければならぬことは言う迄もないことである。
 次に技術の習得であるが、フォームについては夫々癖があるので不合理な悪い癖は絶対改めなければいけないが、得意とする個性は飽迄助長さしてよい。そして試合をなるべく多く見て理想的なフォームを真似ることである。この場合原型にはまり過ぎて悪い型まで取り入れない様注意することである。若い選手内にはコーチャーにそつくりのフオームに固まつている者があるが、これは余程注意しないといけない。往々にして悪い型の方が多いからだ。フォームを真似る場合でもそのフォームが自分のテニスに適しているか否かを判断しなければいけない。これなれば大丈夫と決まれば自分のフォームとして自分の物にこなさなければならない。そして多くの人の良い部分をとり入れ自分の得意とミックスして自分のものとしてしまう。これが上達の一番良い方法である。
  練習方法として後衛はストロークに重点を置くシユート、ロツプを自由自在にこなす様、あらゆる角度とポジヨンにおいて練習する。これも一つ一つ目標を決め一つ一つマスターして行く様にする。何でもかんでもやることは却つて弊害が多い。サービスにも特に重点を置く。サービス側は攻撃側であるから飽迄もこれをキープするためには色々な種類のサービスを研究しておくことも必要だ。前衛の上げボールの場合も返球の練習をすることによつて球捌きのコツを知るであろう。
 前衛の練習も基本練習を重点とし、併せてレシーブの練習を行う。前衛のストロークは余り長くない方が良いレシーブだけ完全に返せればよいのである、前衛も前衛同志で上げボールをやり、返球の練習をする。又ネツトを挟んでダイレクトの練習をやり、球の捌きを覚える。そして練習と実戦とに差のない様にまで練習を積むことである。以上の練習も慢然とやるのではなく飽迄も研究的でなければならない。
 フオアーとバツクの当りも日によって違う場合がある、当る日と当らない日もある。このごとは交互になり勝ちであるが、この当り不当りのむらのなくなる迄練習を積むべきである。
 要するに練習のコツは目標を定め一つづつの課題を順次仕上げて行き自己のものとすることにあるので、決して功を焦つたり、自棄に陥つてはならないのである。庭球は生涯を通じて完成ということはあり得ないから全生涯修練であらねばならない。
 次に精神というか心構えの間題であるが、絶対不敗の信念即自信を持たなければいけない。これは日頃の習練によって得られるものであり、実戦を経るに從って爽第に強められて行くものである。自信があれば自ら試合度胸もついてくるのである。若い選手達は旗色が悪くなると直ぐ自棄的となり白滅してしまう様であるがこれは絶対禁物である。マツチポイントから挽回し勝を制した事は今迄幾多の実例が示しているので最後の一球まで大切に捨てることなく喰い下つてゆく気概が絶対必要である。戦う以上勝たねばならぬのは定石であり、勝つために全智全能が傾注されベストが盡されるのである。どの試合でも練習の時と変わらないよう、尚それ以上の実力を発揮出来るよう訓練することも必要である。練習の時何時でもベストを盡してやるという心構えが必要である。こうしてくるとどの試合でも実力以上の戦が出来、勝つても敗けても悔のない十分なゲームが出来るようになるのである。

 学生のテニスには学生らしさがなければならない。この学生のもつ良さが失はれてはならない。飽く迄もその純真さを保つてもらいたいのである。かと云つて小成に安んじて小さいテニスにならない様先は長いのであるから大きい大成するテニスを身につける様心がけが肝要である。上達にはけう慢は絶対禁物である。謙虚と人の意見を受入れる雅量が必要である。
 ゲームには必ず山がある。このポイントを自覚するか否かによって勝敗が岐れる。勝敗には必ずこのポイントがあるの.だから試合の後で勝敗の原因を究明する。この研究が何よりも大切であり、これによつてゲームの運びが上寺になる。是非この方法を実行されたいのである。
 テニスに対する心構えを一日も早く会得されこの精神訓練を基礎として練習に励まれるなれば、その上達は期して待つべきものがあり、その技法に品位が加わつてくるのである。
 どうか一度今迄の練習方法や自己の考え方に自省と検討を加え一つの方針の下にしつかりと再出発して貰いたい。その成果には期して待つべきものあると信じて疑わない。諸君の健闘を祈つて止まない。

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回顧一節

                   理事 野叉恭平

 ペンと丸帽に別れを告げたのが昭和十三年、鐘紡入社−−大戦−−応召−−。
眼まぐるしい変化と戦後の不安定な生活に、学生時代の想い出はおろか、残念乍ら塾の事すらゆっくり考える事も出来ぬ儘に今日迄、長い様な、又実に短い様な十余年の時間が介在して了ひました。処があの往にし日を再び想起させて呉れる機会が私に与へられました。
 それは去る十一月十六日の第七回全早慶軟式庭球戦でした。お招きを受けて当時を偲び得る歓喜に、北陸の地より卒業後初めて参加し、旧友に逢い、塾風に吹かれて、誠に心あたゝまる楽しい一日を心ゆく迄送る事が出来ました。
 久し振りに想い出のあの日比谷コートで、ラケットを握り塾生諸君との交歓試合に、又会食に爽快極みなく実に在塾そのものの気持でした。
 早速何か想い出話でもとの事ですので、十余年した先輩の一人として教訓めいて居りますが、一つ。

      ―――――――― ◆ ――――――――

 東都学生リーグ戦の時であったと記憶していますが、相手が何処の学校だつたかは確かな記憶が無いが、試合は七回ゲームで既に三ゲームを先取され、しかもスリー・ワンのマツチポイント迄追い込まれ、将に絶体絶命と云う処であったが、最後の一球とこちらが入れたサーヴがサービスラインの右のコーナーラインをかすかにかすめて見事に決まった。主審も副審も確かにセーフの宣告をしたのであつたのであつたが、相手からアウトだと物云いがつ試合の続行が出来なくなつた。ゴーをにやした当方の殊に短期者だつた私のパートナー(現在鐘紡船場勤務)はラケツトを地面にたゝきつけて「そんなけちなきたねえ相手となら試合はこちらの方が御免蒙る」と引き揚げ始めた。相手もこれには聊かびつくりしたのか、或いはどうせ後ワンポイントで勝敗は決するのだというたかをくつた気持ちがあつたのか、ともかく先刻のサービスは当方に得点となり、スリー・ツーから試合続行となつた。ところが形勢正に逆になり遂に勝つてしまつた。
 その友とよく当時を思い出しては笑話の一つにしている、と同時によき教訓 

――――――――― ◆ ――――――――

 正義は勝つだとかそんな事は云い度く無い。常にタンタンたる気持ちでやり度いものです。試合をするからには勝ち度いのは誰しも同じ事だが、余り勝負にのみこだわり過ぎると却って結果は面白くない。又スポーツに限らず、仕事でも必ず最後の機会はあるもので、「もう駄目だ。」と云う自暴自棄的な気持ちは絶対に持つべきで無い事を痛感致します。
 常に明朗にしてのびのび
とした気風こそ、塾風の中にのみ自づと培われて行くものであり、この気風こそ、実に塾が長年の伝統と諸先輩陰陽の努力に依り世に誇り得る力強き賜である事を、声を大にして叫び度いのです。
 学生諸君が学術・技倆と共に八角塔に黙々とこもり、益々將来を担い、保障するこの塾精紳を大いに体得せられんことを願って止みません。

 最後に諸君の健康を祈ります。



 
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庭球雑話

                    國見 和宏 

 

 
 原稿を送れとのこと事、何しろ四十何年も昔の事、想い出と言ふても印象に残る程のものもない。近頃は文章を書くのも面倒になつて来た。けれど折角の御注文であり、慶応の軟式庭球部とは切つても切れぬ縁故を持つ私としては、何か書かねば相済まぬと思うので最近小田原高等学校庭球部に「かりがね」と言う雑誌が出来た其の際庭球雑話として寄稿したが、其の原稿の中から少し慶応庭球部に関して書いた事を拾つて茲に再録してみよう。
 古い庭球時代の事は「慶応庭球三十年」及び「慶応庭球五十年」に書いてあるからよく読んでいたヾきたい。
 「かりがね」が小田原高等学校の庭球部機関雑誌として発行されるようになつた事は予てからの私の希望であつて本当にうれしい事だ。之れが号を重ねるに従つて沢山の記録が輯録せられ、部員の意見なり希望なりが記録せられ将来幾年
かの後迄保存され、小田中の今日までの庭球の古く且つ輝かしい伝統に更に一層の光と力を添えるこ.とになろう。
 今から四十五・六年の昔、私が小田中を率業して慶応の庭球部選手であつた頃と思うが、其の頃小田中生の関重広君(日本で照明学の権威)、太田黒元雄君(音楽評論家)等と金星倶楽部というものを小田原につくつて「金星」という庭球記録雑誌をこしらへた事があつた。色々の意見や希望、又人物評論など書いてあつた事を想い出すのである。私の居た慶応庭球部では庭球部報という機関誌があり、毎年二回発行され、今でも継続して私の家に其の部報が郵送されてくる。私としては誠に懐かしく自己の若かりし頃の記憶がまざまざと浮かんで来て、何とも言へぬ懐旧の想い出にひたるのである。こうして永い伝統を築き、慶応では今も尚努力に努力を重ね、精進に精進をして、将来世界の覇権を獲得せんと努めている。
 庭球の伝統と言へば、小田原も古く且つ立派な伝統がある。西村選手が小田原の出身であり、
小田中から慶応普通部に転校、更に進学してデ杯選手であつた事は一般に知られて居る処である。爾来、小田原から有名な選手が沢山現れた。
 何事も一事に成功するのは結局努力である。其の絶えざる継続である。そこで選手諸君は相当な負担がある。学校の勉強、毎日の庭球の練習で中々労力がいる。この困難を克服するだけの克己心が必要だ。
 私の畏友に小泉信三という人がいる。小田中の校長室に小泉さんの書が掲げてある。「伯夷其心、柳下惠其心」というのである。がこの人は私が慶応の選手をして居る頃、庭球部の大将をして居た。私より三年程先輩だつた。後衛をして居て、仲々うまかつた。毎日の練習にも非常に熱心であつた。其の頃の話だが、小泉さんがあんまり庭球に夢中になり過ぎて、お母さんが心配して其の当時の庭球部長林毅先生(後に塾長になり、其の後愛知大学々長となられ、今は故人になられた)に選手をやめさせて貰うように申し出た。其の時林先生は、小泉君は庭球に夢中になつても勉強の方は大丈夫だといつてやめさせなかつたという事であつた。勉強は大切である。というてスポーツはどうでもよいという事もどんなものか。私はスポーツを通して、即ちMerry gathsering knowledge の前にもつともつと大切なものを身につけたいと思う。
 以上が私の寄稿した原稿の大要である。私は今度発行される機関雑誌が健全なる発達を遂げ、長く長く継続され、慶応軟式庭球の歴史を再び復活して、慶応精神を軟式庭球のうちに活したいと念願するものである。
      

 


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部員の講君に

                        吉田五郎


 学生時代も卒業後も軟式庭球部の為に大した貢献もせず、大きい顔をして寄稿等と躊躇致して居りました処、豊田君の余りにも熱心な勧誘に動かされて一寸許り紙面を拝借致します。
 私が学生時代の軟庭はほんの名ばかりの部で、然も体育会に独立した存在ではなく塾内対抗競技部の一つとしての「クラブ」程度の団体で、然も選手及び幹部の殆どが医学部の学生でありました。処が新制大学の学制改革に依り体育が正課として登場し、塾生の希望が軟庭に非常に多く、石丸先生始め先輩の熱意で漸くにして私達の時に体育会の一部として昇格出来ました。その時の喜びは本当に忘れ得ぬ想ひ出です。それで勇躍して体育会の定期会合に始めて軟庭として小熊君と出席致しましたが、フェンシング部と共に最下位にあり、体育会の幹部連には全然存在も認められず、部費も確か年参万円弱で、問題でない程の虐待でした。それでも文句処か、相当の反対があつた中に昇格出来たのですから感謝の気持で一杯でした。
 其の後現役諸君始め大先輩方のご努力で、立派な日吉コートの完成やら部員の増強等僅か二・三年の間の進歩発展は目覚しく、只々御同慶の外ありません。私も何とかお手伝をと思つて居りますが、残念乍ら安サラリーマンの現状では閑もなく、皆さま方に相済まぬ次第です。唯、只今の社宅が京橋より一寸離れて八丁堀ですので、お遊び旁々一寸したお役に利用できれば幸甚です。



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慶 応 の 軟 庭 を 語 る

                        早大講師・早大軟庭監督 板野 壽夫


 三田軟庭に機関紙が出ると言うので一言語れの御要望をマネージャー岡本君から希望され思い出すまま一筆。私はソフトとしての熊谷さん時代は齢の関係でよく知らんが、大正8・9年前後、原田・青木・高石等のテニスはハード、ソフト共良く拝見したが、特に記憶から去らんのは名手青木君のテニスで、胸のスーッとする彼のストロークは実に見事で当りのツイタ日等は誰も勝てない。1人で相手を苦しめぬいていい気持ちになって居た。

 当時慶応大学はハードを採用し、マニラ、上海、横浜の外人等を対象とする以外にマッチのチャンスはなかったが、大学の庭球部とは別にソフトで有名な選手は数多く居られ、就中、大井クラブの前記青木、目黒クラブの倉橋(旧姓久保)、田村、好本、中田君等は1球として無駄にしないよううま味のテニスとして私の記憶にある。その後昭和年代になって日向、若林、小林、進藤君等、又その後に岩井、小林(珍)、呉君等の軟庭界に代表選手として球界に得がたい記録を残されたことは、球人の1人として心窃に敬意を表す次第である。


 終戦以来荒廃しきった各大学の軟庭に光明を与えて呉れたのは先輩と現役選手を交へて行はれた軟庭全早慶対抗戦である。学徒動員等の為に早慶両大学現役選手の技術的の面は実にレベルが下がって居ったが、先輩としての早慶の強みは慶応に断然強みがあった。爾来年次を経るにつれ両大学も旧状に復し現在の如き現役連中を対象とした形の早慶戦が出来る様になり、それが将来の文字通りの学生のみの早慶軟庭戦を夢想し得るに到ったことは誠に嬉しいことである。只茲に新聞紙上にもスポーツ界にも此の軟庭会の早慶戦が最高指導的なマッチである様になるに到るならば、私共先輩としてどんなに嬉しいことであろうか、又是非そうなって欲しいと心より念願するものである。この希望が去らざる限り私共先輩として現役選手に苦言も生まれる訳だ。早大の先輩板野が慶応に苦言を呈す又苦しからずや、なのだが最高度の線を希望するからには許して戴けるだろう。

 早大を良く見るのではないが、現役早大は慶応のそれに比較して確かに強い、又慶応に比しゲームがうまい。私も自分の立場から、又自分の熱意から、後輩の指導に熱を入れている。又これが当然と思う。他の先輩も私の様な考え方とやり方をして下さる。うまく強くなるのも必要と思うが、一方慶応を見ると私の彼想観かも知れんが先輩に熱意が足らん。現役の指導理念の希求が足らん。この2つに点を私は先ず求めたい。然らば他の悪条件は或る程度セーブできる。合同、合宿の2大訓練にもっと合理的テニスの練習をしてほしい。うまいテニスと言う言葉が出てくるように、そうして強いテニスに、と私は持っていって欲しい。大学の軟庭は正味2ヵ年あれば現役のレベルなら一流のレベルに持って行かれる筈だ。私なら持って行く。私は慶応の先輩でなかったことを喜ぶ。又一面慶応の先輩だったらと1人で力を入れてみるが如き感情が、最近の早慶戦後における私の入り乱れた際の頭の中に自然と沸いてくるのだ。

 独立独自の早慶戦の華々しい様相の夢を描きつつ慶応ソフトの180度の回転を心より念願して筆を止めます。



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現 状 報 告

                        主将 経済学部3年 石曽根 邦一郎


  昭和6年当時の塾長毅陸先生を顧問に井汲先生を部長に発足致しました三田軟式庭球クラブは、体育会の一員として認められなかったとはいへ、塾の名誉を担って活躍して来たのでありますが、昭和24年春正式に体育会の一員として認められ、名実ともに塾の名誉を担う事となりました。爾来4年間、ここに漸く体育会の一員としての要素を備えるに至りました事は、全く喜ばしい事であります。これは諸先輩の並々ならぬ努力の賜であります。

 今度吾が部の後援会として三田軟式庭球倶楽部が発足し、諸先輩の御指導御援助を受け得ます事は我々部員一同の最も光栄とする所であります。我々が吾が部を更に発展せしめ、往年の黄金時代を再現せしめる様努力する事こそ諸先輩の今迄の御盡力御厚情に報い得る唯一の道であり、これは又我々が当然せねばならない義務であります。茲に部の現状及び所感を記して諸先輩の御叱正と御鞭撻を俟つ次第であります。

1 部員及び練習

 部員は現在大学48名、高校80名の大所帯であります。大学の部員48名中、今春4年に進級する者は16名ありレギュラーの大半は此の最上級生で占め、下級のものは2・3名しかレギュラーに入って居りません。茲に現在の吾が部の不安定性があると思います。かくて高校界の優秀プレーヤーの入学を切望するのでありますが、年々きびしさを加える入学試験により之も多くを期待できず、結局無名プレーヤーを吾が部にて養成せねばならないのですが、現在の4年制の学制の下ではそれも充分になし得ず、而もかかる状態では年々高校界の既成プレーヤーを補充する他校に対処し、往年の黄金時代を再現せしめるには如何なる手段を取るべきか。これが吾が部の直面せる最大にして且つ焦眉の急を要する問題であり、此の問題解決こそ今後の吾が部の発展を約束するものであると思います。此の問題解決に残された唯一の手段は、慶応高校並びに普通部・中等部の養成であり、これ以外に活路はないと思います。現在の慶応高校は未だそのレベル極めて低く、直ちに多くを期待し得ないとは言へ、80名の部員の中からは指導如何で必ずや優秀プレーヤーが出現する事と信じます。現に吾が部に於いても、高校出身者がレギュラーのキー・ポイントを占めて居ります。今春よりは之等高校出身の選手を中心に高校の養成に充分なる力を注ぎたいと思って居ります。所が従来下級生及び高校生へのコーチに当たるべき大学上級の選手達は、自分の練習に追はれて他をかえりみる余暇がなかったのです。これを是正し高校の養成に主力を注ぎ得るためには、大学選手の実力向上が前提条件ではないでしょうか。我々部員一同従来諸先輩より受けた御忠告を守り、一意練習に励んで居りますが、独力ではともすれば十年一日が如き有様に陥り勝ちなのであります。体育会の他部、他校の軟式庭球部を見ますと、毎日誰方か先輩の見えていない日のないのに較べ、日吉のコートに先輩の御姿の全然見えない事は我々一同非常に残念に又淋しく思っております。諸先輩も社会の各方面に於いて色々とお忙しい事は我々も充分承知しておりますが、他部が先輩の指導の下に練習のはげんで居るのを見ますと実にうらやましく感ぜられます。此の機会を借りまして改めて先輩の御指導を切望する次第であります。

 次に練習状態でありますが、練習は原則として授業終了後という事になって居り、これは又学生スポーツとして当然の事だと考えます。吾が部では便宜上1週4日間、1時より練習に参加する事という最低線をきめて居ります。勿論部員たる以上、毎日練習に励むのは当然の義務なのですが、授業との関係上此の様な原則を設けたのです。コートは日吉にありますから三田の部員(上級生)は午後から日吉へ行き、日吉の部員(下級生)及び高校生と一緒に練習を行って居ります。諸先輩が目黒クラブのコートにてあの全国制覇の偉業をうちたてられた事や、私個人としましても1年の頃転々と諸所のコートを借り歩いて練習したことを考へますと、他の事情が異なるとはいへ、5面ものコートを持ちながら成績の上がらぬ現状に自責の念を禁じ得ません。

 練習は後衛同士のフォアのクロス、バックのクロス、ストレートの乱打の後、前衛のスマッシュ・ボレーの練習、以上の基礎練習の後に試合、と形通りの練習は毎日繰り返して行って居る事は申す迄もありません。従来ともすればサーブ・レシーブの練習が等閑にふされ勝ちでありましたが、ゲームにおけるサーブ・レシーブの重要性に鑑み練習方法を改めねばならぬと思って居ります。又従来ゲームに比し基礎練習、特に乱打の時間が長すぎた事も改めねばならぬ点だと思って居ります。

 練習方法につきましては私も私なりの考えを個々のプレーについて持って居りますが、これは諸先輩の御指導により改善して行きたいと思いますが、上達の要は結局各自の心に秘められたテニスに対する情熱と研究的精神の上に立つ、所謂勝気とであると思います。ゲームに於いて相手を破るには、その陰に相手より少しでも多くの練習量が必要であると思います。此の心身両面に於ける努力こそ、我々が部生活に於いて体得すべき言うに易く行うに難き最大の課題ではないかと確信して居ります。 尚合宿練習は毎年春夏の2回各地の関係者、知人の紹介で行って居りますが、昨年は春淡路島洲本市の鐘紡に、夏は長野県岩村田町の原様方(部員原成人君宅)にご厄介になりました。夏合宿には国見和宏先輩・岩井英夫監督の御足労を煩はし、コーチして戴きました。

2 試   合

 軟式庭球は他競技に比し、試合の多いことは余りにも有名ですが、我々に直接関係のある学生の部だけでも十指に余る数に上がります。即ち個人戦としては、憲法発布記念大会・東京選手権大会・関東選手権大会・東日本選手権大会・全日本選手権大会・新進大会、団体戦として春秋関東リーグ戦・春秋東京六大学リーグ戦・東日本学校対抗選手権・全日本学校対抗選手権・対同志社大学定期戦・全早慶戦があげられます。 茲に以上の如き多数の試合の中、主要なものについてその概略を御報告したいと思います。尚戦跡の詳細は記録の項をご参照ください。

◎ 東京六大学リーグ戦
 野球その他すべてのスポーツでポピュラーな東京六大学でリーグ戦を行い、六大学相互の親睦と軟式庭球を普及発展せしめんとする長年の懸案は昨年遂に達成され、日本軟式庭球連盟、日本学生軟式庭球連盟、毎日新聞社、昭和ゴム株式会社、朝日生命保険相互会社等の後援或いは協賛を得て春秋2回行はれるに至りました。此の六大学リーグ戦は新人の育成を目的とし、従来他のリーグ戦、対抗戦には取り入れられなかった「7チームの点取り」を採用したのであります。此の結果新人及び従来の3チーム乃至は5チーム対抗では出場する事が出来なかった者も大いに其の腕を上げ、特に新人の実力向上に大いに力があったと信じます。戦跡は春季が1勝4敗の第5位でしたが(6位は東大)、秋季は3勝2敗で第4位(法・立・東を破り勝率は法と同一なるも勝ち点に於いて法に劣ったため)に上がり、東大前の汚名を返上することが出来ました。

◎ 関東学生リーグ戦
 所謂1部2部リーグ戦で、現在吾が部は2部の1位に甘んぜねばならぬ状態であります。一昨年秋連盟の連絡不十分、及びその横暴を理由に1・2部入換戦(当時は1部の下位2校と2部の上位2校と計4校でリーグ戦を行い、その結果により決定、その時塾は1部第5位)に出場しなかった所、棄権の名の下に2部に落とされて爾来2星霜2部の憂き目をみて居ります。昨年も2部リーグに優勝し、勇躍立教大学との入替戦に望んだのでありますが、六大学リーグの時とは反して惨敗を喫し、再び2部に雌伏して居るのであります。

◎ 東日本学校対抗選手権大会
 此の試合は全日本学校対抗の予選を兼ねて行はれ、昨年は弘前・岩手・山形・新潟・山梨等地方新制大学も多数参加して行はれました。塾チームは全日本出場の資格は勿論かち得ましたが、準々決勝にて本大会の優勝校日本大学と対戦し、3対1で惜敗しました。

◎ 対同志社大学定期戦
 一昨年秋、四国丸亀市にて行はれた全日本学校対抗の際に同志社より申し込みがあり、毎年交互に行き来して対抗戦を行う事になりました。塾は未だ関西の学校との定期戦を持って居らず、此の機会に関西のテニスを知る事は非常に有意義であると考えたからであります。昨年夏全日本選手権大会終了後同大コートにて第1回定期戦を行ひました。塾チームは前日の全日本に於ける不名誉を挽回すべく一致団結して関西の雄同大に当りましたが、全員の奮闘も空しく同大の軍門に下る事となりました。

◎ 全 早 慶 戦
 昭和21年第1回の全早慶戦以来日を重ねることここに7度、塾に利あらず1勝5敗1分に終わっています。昨年全早慶戦後のミーティングに於いて好敵早大の監督より「塾非力也」の叱正の言葉を聞かされた事は、未だ我々の耳に残って居ります。好敵手なればこその言でありませうが、かかる言葉を2度と聞かぬ様練習に励み、いまに見ろのファイトは我々の若き血をいやが上にも燃え立たせて居ります。

◎ 全日本学校対抗選手権大会
 東西より各々選出された32校にて全日本の覇権を争うのですが、昨年、塾チームは3回戦に於いて本大会の優勝校関西学院大学に3対0で敗れ去りました。 以上団体戦の概要ですが、個人戦については記録の項を参照していただきたいと思います。只個人戦につきましては東京選手権大会と関東選手権大会の如き、実質的には少しも異ならないものが行はれて居る事は考えねばならないと思います。 試合の多くある事は実力向上に確かに望ましい事ではありますが、「すぎたるは及ばざるが如し」の例えにもれずあまりにも試合が多すぎて充分に練習をつむ余裕のない有様なのであります。この事は連盟関係者のみならず、我々プレーヤー一同の痛感致して居る所であります。 最後に一言せねばならないのは費用の事であります。吾が部は体育会の一員として認められて居りますが学校より支給される部費は3萬円にすぎず、之等は毎年ボール・ネット・雑費に費やされ、遠征・合宿は勿論何から何まで個人負担になって居り、他部に比較して余りにも苦しすぎるのであります。今度後援会が出来ました機会に、技術面のみならず財紙面でも諸先輩の御援助をお願いする次第であります。 以上部の現状を御報告致しますと共に所感を述べて来ました。部の実績即ち戦跡に関する限り連敗の一語に尽きると思ひます。併し我々は此の原因が何処にひそむかを検討する事により、新しき希望と決意に燃えて再出発せんとして居るのであります。茲に我々の飛躍の糧となるべき御叱責・御厚情を期待する次第であります。



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三田軟式庭球倶楽部の誕生

                        三田倶楽部主務 経済学部4年 豊田 隆郎


 同じ三色旗の下に、ラケットを振り回して何年かの苦楽を共にした多数の諸先輩を、今度は縦に大同団結して、吾等の軟式庭球部を庇護翼成・激励陶冶せんとする此の三田軟式庭球倶楽部は、昨年秋、時も早慶戦の当夜に力強く呱々の声をあげました。何年来かの部員一堂の熱烈なる希望が、はしなくも茲に実現するを見て、私共現役は更めて時の流れ、そしてそれを肉づける諸先輩の方々の母校とテニスに対する若々しい情熱の流れをしみじみと知ったのでした。 同じ道、而もそれが運動であった場合、そして又三田という名の下に集う者にとっては、それを志す者すべての意思と力が全く同じ方向へとの矢を示す事が、当夜の杯の間に如実に感ぜられて愉しい発足の餐でした。

         ×          ×

 そもそも此の様な目的を具体化して規約に定めてある様な様々の活動を行はんという計画が持たれたのは昨今の事ではありません。丁度今から4年前、軟式庭球部が塾体育会に加入を許されてからの部員の念願でした。そして当時以来部のマネージングをされて居た高橋昭二先輩が、益田・倉橋両先輩の御協力の下に非常な努力を重ねられて、現在の三田軟式庭球倶楽部の母体たるものを作っておいて下さったのです。戦後等に依って離散した先輩の名簿を集める事等、苦労の割に成果の目立たぬものだった事でせう。現在心から感謝している次第です。 そしてこゝ1・2年2部に呷吟して躍進への途を探索して居る当軟式庭球部を叱咤し、或いは又清新の気横溢した精鋭をより多く迎へんが為に、此の三田軟式庭球倶楽部を一層強力に組織化すべく、又一層大きく機動化すべく、不肖私が命を蒙ったというわけなのです。 高橋先輩その他の方々によって作られた土台に出来る限りの石を重ねセメントを注いで、せめて一歩でも対岸の全国制覇への道を短かゝらしめんと志したのです。

         ×          ×

  其の端緒となったのは、去年7月の長野県岩村田に於ける合宿でした。その合宿は東日本選手権と全日本選手権とにはさまれた慌しくも苛烈な合宿でしたが、その同じ軒?に岩井英夫監督の外、往年の塾のみならず全国的な名選手山本義路先輩と国見和宏先輩の御参加を得たのです。私達はコートに在って球を追う以外に両先輩が交々語られる昔話を愉快に聴き、そしてそれによって大きな刺激を受けました。 「勝つ」という事の基盤にあるところの精神的な強さ、即ち勝利者がその勝利を得る為に必ず培はねばならない精神の面からの強さ……これが先輩の繰返し話された絶対的な結論でした。斗志だとか技術だとか、或いはコーチだとか、それらのすべてを含めて而もそれを超えたもの、その大きな広い心の安定が勝利への圧倒的な強みを発揮すると強調されるのです。 私たちはそれの至る道として、その精神を育む沃地として、先輩の方々の一致協力を願ふ機関を先ず確立する様助言を受けました。之が昨秋11月16日の三田軟式庭球倶楽部創立総会の運びに至ったのです。

         ×          ×

 丁度、昨年度の全早慶戦は早稲田が当番校でした。私達にとってやりにくい事此の上ないのは第一に此の事でした。というのは、お忙しい先輩の方々を多く集めて創立総会を催すのに此の早慶戦が唯一の格好な機会であったからで、主として会場たるコートに就き、早稲田側が試合終了後の懇親会の便を考えるのに対して、我々の方は総会の会場や、先輩の交通の便を考慮したかったからなのです。そして何度かにわたる交渉の結果、我々の我儘を通させて貰って、その場所を都心の日比谷公園コートにする事が出来ました。そこは早稲田と慶応の、好敵手としての伝統的な仲の良さがなせるわざでせう。早稲田の当事者に感謝します。

 さてその次にぶつかった難問は、通信費や交通費にも事欠く程の資金難でした。何分部の財政自体が少しの余裕も許さない状態ですので、その方からの支弁を全く期待するわけに行かず、結局部員の誰彼の自己負担や、父兄からの小額づつの借金を仰ぐより外道がありませんでした。経験浅い私達の要領の好し悪しが交通費の高によって決まって行く様な気もするし、どうにも此の面の苦慮が正に「心配」に違いありません。金の多寡によって、総会乃至は三田倶楽部そのものの望むべき活躍が制約されんえばならないという事は、それがあまりにも当然過ぎる事であるだけに、一人しゃくに障ったのも寧ろ滑稽な経験でした。

  第3番目に当面したのは、名簿の不備による連絡の不徹底でした。高橋先輩の調べられた名前、或いは石曽根主将の持って居た名簿等を照らし合わせても、確実に判るのは僅々30名程度。何十年も続いたクラブ時代からの歴史を思った時、その数の少なさに却って驚いた様な始末です。山本義路先輩等から古い卒業生の方々をお聞きするやら致しましたが、結局は私達だけでは広範囲を踏査するすべもなく、之は後日相当の日数をかけて芋づる式に訪ね歩く外はないという事になって、一先づ知りうるだけの先輩をお招きする事にしたのです。一度学校を卒業して多忙な実社会に入ってしまったら、常に能動的な連絡機関が活発に働きかけない限り、相互の連携はいつしか忘れるともなしにおろそかになって行ってしまう事を知り、その面に於ける三田倶楽部の重大な使命を更めて感じた次第です。  

 茲におわびせねばならないのは、医学部出身の先輩の名簿を整備する暇がなく、森先輩、山岸先輩等、わづか2・3人の方にしか御連絡できなかった事です。創立総会席上に重ねて強調された如く、此の三田軟式庭球倶楽部が三田・四谷をうって一丸とする協力体であるという事からして、今後四谷医学部の方との連繋をより一層強化することが必要であり、同じ慶応の名に連なる者としてのこれからの人達の施策を切に望む所です。

          ×          ×

 以上の様な経過をたどって愈々11月16日、創立総会の日を迎える事になりましたが、その時の全早慶懇親会に早稲田の板野監督が述べられた激励の辞……いや、或いは勝者の歓呼……は皮肉とも何とも、総会を控えた時が時だけに切歯扼腕したことでした。そして板野監督の「先輩頑張れ」「現役ぼやぼやするな」の言葉を背にして総会会場へと向かったのです。

 総会の模様は多言を要しますまい。規約の制定に多少の曲折を経た後、あとは飲み、且つ語らひそして又歌い、テニスへの情熱と部への愛着を通した愉快な和気の一夕でした。 それはここに至る責任者としての私にとって実の此の上ない慰安の杯であったのです。茲に、改めて諸先輩のご尽力を心から感謝いたします。私の微力から、幾多の不備と今後なすべき問題の山積とを生じはしましたが、兎にも角にも懸案の三田軟式庭球倶楽部が発足の日を迎えるに至った事は、三田の山に根ざした伝統の力と、諸先輩或いは現役一同の御苦労の賜と歓ぶ次第です。此の上は三田倶楽部が愈々その結束を固くして会員相互の親睦を保ち、吾等の軟式庭球部に昔日の月桂冠を与えられるよう、漸新発展して行く事を切に祈るのみです。

 そして……時は春……。霜雪の中から今こそ立上った若芽が此の軟式庭球部なのです。三田倶楽部という暖かい陽光の下に、伸びずには居られない意気と力を持って、来る新シーズン、そして又次のシーズンを多くの諸先輩や三田の山の同僚に立派に誇示せねばなりません。必ずやそうある事を期待します。

          ×          ×

 私は今、此の仕事を最後として学窓をあとにします。慶応入学以来の5年間を顧みた時、感慨無量たるを得ません。有る時は一心に部のために働き、或る時は上級生に迷惑をかけた我儘も発揮しました。併し、今にして私の学生時代の想い出がすべて此の「軟式庭球部」に連なって居る事をつくづくと喜んで居ります。特に最後の1年間、夏の合宿生活、奈良・京都への転戦、或いは秋の全早慶戦、日光に於ける納会、そして此の三田倶楽部誌編纂等々、尽きない想い出の数々は、私の一生を通じての生々しい貴重な体験になる事と心から有難く思って居る次第です。

 卒業した後にも、私は慶応義塾体育会軟式庭球部の出身者として、其の事を多くの人に誇示します。そして吾等の軟式庭球部がその名に恥じぬ様に、実際的にも内面的にも充実したものになるよう、及ばずながらの力を添えたいと思って居ります。なにとぞ諸先輩やこれからの部の建設に当る方々も一臂の力をお藉し下さるようお願いいたします。

 最後に天野貞祐先生の言葉をかりて、私自身の教訓とも致したく、茲に僭越を顧みず紙面をいただく次第です。
「運動のチームは社会の縮図、否一つの社会である。生きた全体である。各成員がそれぞれ独立な活動を営み、しかも一つの活動となる。全体の活動は各成員の活動であり、各成員の調和が全体の生命である。それ故、全体を強くする道は各自がそれぞれの持ち場に於いて全力を傾けるにある。然し又如何に全体の調和が取れていても各選手に実力がなければ強力なチームの成立するわけはない。実力のある選手が居れば必ず強力なチームが成立するとは限らぬけれども、協力者が居なくては強力な全体は成立しない。ここに個人というものの如何ともし難い重大な性格がある。全体的とか一致強力とかいうことは、個人の滅却ではなくしてその充実であるという事理が運動に於いて実によく体験会得せられる。全体的とは各成員が同一になることではない。その特殊性を放棄してしまうことではない。直接にではなくして自己の持ち場を通じて全体へ参与することである。

 此の体験の如く重要な会得は人生において少ないであろうと思う。此の体験によって、我々は自己が単なる個人ではなくして全体の一員としての個人であることを会得する。他人は単なる他人ではなくして、全体に於いて自己と一である。かくして養はれる全体的体験が責任感となり、没我的精神となり、ひいてはリードに油断せず、ピンチに屈しない性格を育成することになる。凡そ我々が人生に処するに当って、之等の性格に比しうる徳が外に多く存するであろうか。順境に居て驕らず、逆境に居て卑屈にならぬ人こそ眞に勇気ある人と称すべきであろう。傲漫でもなく卑屈でもない人物にして始めて信頼するに足りるのであるが、スポーツに由ってまさにそういう徳が育成される、若しくは育成される筈だと思う。



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三田軟式庭球倶楽部規約

                        

第1章 総   則

第1条 本会は三田軟式庭球倶楽部と称する。

  • 本会は慶応義塾体育会軟式庭球部の発展、育成に資すること、並びに会員相互の親睦向上を図ることを目的とする。
  • 本会は事務所を慶応義塾体育会内に置く。
  • 本会は目的達成にため、左の事業を行う。
    • 現役に対しての指導育成
    • 親睦会、OB・現役対抗戦
    • 会員名簿の作成、発行
    • 会報の発行
    • 総会及びその他の会の開催
    • その他本会の目的達成上必要なる事業

第2章 会   員

第5章 本会の会員は次のものよりなる。

  • 普 通 会 員

  慶応義塾体育会軟式庭球部に在籍したもの全員。

  • 特 別 会 員

  本会の目的に賛同し、而も総会に於いて特に入会を認められた者。

第3章 役   員

第6条 本会には左の役員を置く。

1、会 長  1 名     2、副会長  2 名

3、理事長  1 名    4、理 事  若干名

5、監 事  2 名     6、主 務  1 名     7、副主務  1 名

第7条 会長、副会長、理事長、理事、幹事は会員中より総会に於いて選出する。主務、副主務は慶応義塾体育会軟式庭球部在籍中の者より会長之を任命する。

  • 会長は本会を代表し、会務を総理し、役員会を招集する。副会長は会長を補佐し、会長事故あるときはこれを代行する。
  • 理事長は会務を掌握し、理事は会務を処理する。
  • 監事は本会の会計を監査する。
  • 主務は本会と慶応義塾体育会軟式庭球部との間の連絡事務に携はり、副主務は主務を補佐する。
  • 役員の任期は定時総会より翌年の定時総会までの1ヵ年とするも重任を妨げない。補欠によって役員とな  った者の任期は前任者の任期を継ぐものとする。
  • 必要あるときは総会の決議により、名誉会長、顧問、参与をおく事が出来る。

第4章 総会及び役員会

第14条 定時総会は年1回4月に開催し、会長之を招集する。

第15条 総会は次のことを決議する。

  • 本会の規約の変更
  • 予算と決算の承認及び会務の報告
  • 役員の改選
  • 其の他の重要なる事項

第16条 臨時総会、役員会は臨時の必要に応じ、会長之を召集する。

第5章 会   計

第17条 本会の経費は、会費、寄付金、其の他の収入をもってこれに当てる。

第18条 普通会員は1年に就いて千円の会費を納入するものとする。納入の時期は毎年度初めとする。

第19条 本会会計年度は毎年4月1日に始まり翌年3月31日に終わる。

第6章 附   則

第20条 此の規約は昭和27年11月16にとより適用するものとする。





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編集後記

 昨年十一月、三田軟式庭球倶楽部創立総会の終了後二週間ばかりを経て直ちに会誌の発行に着手いたしましたが、何しろ初めての企画の事ゆえ万事が思うにまかせず、当初に於ける三月下旬の発刊予定日がとうとう五月に入つてしまいました。その間各方面の諸先輩並びに関係者各位にいろいろと御迷惑をおかけしました事を深くお詫,び申し上げます。
 創刊号の事とて出来るだけ立派な会誌に仕立て上げる様、私共一同努力を致したのでありますが、菲才の故をもつて種々の至らぬ点を生じました事は何卒御寛恕の上次年度に於ける御叱正の糧と致して下されば誠に幸堪です、お忙しい最中をわざわざご寄稿下さった諸先輩に対しては、実に御礼の申し上げ様も御座居ません。茲に感謝の意を表すると共に、今後とものご援助、ご指導を心から願つてやまない次第であります。
 三田軟式庭球倶楽部も発足後各方面に亘るご理解を得ましておいおいとその基礎を固めるに至つて参りましたが、此の度の会誌は全部無料で配布する事といたしましたので、そのための費用捻出が私達の主眼目となつたのです。此の点に就いては広告とりに東奔西走してくれた部員岡本守弘・伊藤日出夫・栄谷嘉恭の三君に御礼を申さねばなりません。
 ともあれ、不出来とはいえこゝに編輯を完了する事が出来ましたのは、ひとえに諸先輩・部員諸君のご協力の賜であると信じ、御盡力を厚く感謝します。重ねて、此の会誌が回をふるに従つて立派なものになつて行く様祈りつゝ後記にかえます。
                                     (豊田隆郎記)

     

三田軟式庭球倶楽部会誌 (創刊号)
昭和廿八年五月一日印刷 
                    【非賣品】

昭和廿八年五月五目発行 

           三田軟式庭球倶楽部理事長
   発行
   兼編集者  岩井英夫
   印刷者    白橋龍夫
   印刷所    株式会杜白橋印刷所
            東京都中央区西八丁堀四ノ五

発行所   東京都港区芝三田ニノニ
         慶鷹義塾体育会内


      
 三田軟式庭球倶楽部

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