1954年号部報

 
     
 

 

森下翁一夕話
――ラケットと共に40年――

                                   森下ラケット製作所

  

 早いもので私が此の世界に入ってからもう40年になります。私は最初宮大工になろうとし京都で4年年期奉公し、年期があけてから、東京・太田・横浜と色々忘れられない仕事をしましたが、丁度大正の初め、私が横浜の博覧会の仕事を終えて、東京に一まず落ち着いた時、私は一寸考えたのです。大工稼業と言うものは雨など降ると仕事が出来ないし、何か安定性がない様に思われる、それに宮大工などと言うのは特殊なもので、自分の一生のうちで果たして自分に悔いのない様な作品を残す様な事が出来るだろうか、などという疑問が出てきました。それで、漠然と何か室内で作業が出来る様な仕事をやって見たいと思っておりました。

 丁度その頃です。同郷の人で行商をやっている人が「そばやのザルの様なもので球を打つもの」を作る所で、至急人が要ると言う事を聞きました。私は小学生の頃、当時としてはモダンな野球など大好きでしたし、元来スポーツは嫌いでない方だったので一つ之は面白いと思って入って行ったのが此の世界に入った縁です。然し「そばやのザルの様なもので球を打つもの」とは妙な事を言ったものです。

 仕事場は池ノ端七軒町にあり私は本所から早朝割引5銭の市電に乗って通ったものです。当時は何しろ動力のない時分でしたのでラケット製作も今から思うと夢の様な事ばかりです。

 フレームを作る時、今なら機械化され帯ノコなどで簡単にとってしまいますが、一々木目を通す為に「チョウナ」で余分な木目を削り取り、その後「カンナ」をかけ、そこから厚みをつけて線を引き其処を「ノコギリ」を引くと言う具合で、随分手数の要ったものです。そんな訳でまあ1人1日30本位しかやれませんでした。然し私は宮大工の時の経験が物を言い、仕事は決して人に負けませんでした。そんなに1本1本手数をかけて作ったので昔のラケットはそれは念の入ったものでした。

 当時のラケットは硬式・軟式の形の区別があまりはっきりせず軟式のラケットも、硬式流の丸型であったし、フレームなど今よりはるかに厚かったし目方も当時は95〜110匁(356〜413g)が普通でした。今では一寸奇異に感じますが、我々が通称「バチ」と言っているグリップの上の方、トレードマークなどが入っている所の形が今では、フレームの円形に沿って凹型を作っていますが、当時のラケットは今と丁度反対に凸型で(イチョウの葉のような形)、フレームの内形に突き出しその存在を示威していたのも今から思うと懐かしいものです。

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 軟式のラケットが、はっきりとその独自の形を持つようになったのは、慶・早両大学庭球部が硬式を採用したのが契機となった様です。此れで硬式と軟式がはっきり分離し、それ以来軟式のラケットは円形から頭の大きい現在の形に移っていったのです。

 当時私達もコート迄出かけて行って軟式・硬式の区別をはっきり自分のものとしたものです。

 当時軟式愛好者の必然的な要求から、80匁(300g)位のラケットを作らねばならず、それには先ずフレームを薄くしようと言うので5分(15o)位の厚味から段々に薄くしていきましたが、すぐ折れ易いと苦情が有った事も事実です。然し我々はそんな事のない様に大いに努力しました。

 私は思うのですが、ショットしてからネット迄の球の速さはどんなラケットを使っても変わりはない。ネットを越えてからのボールの速力を如何に増やさせるかが、我々の研究課題じゃないか。そして、それはラケットの所謂「ノド」とその材質が解決してくれるんだと思います。

 又改良がフレームばかりでなく、ガットの張り方などの方も皆さん随分研究されたようです。

 「ダブル」と称してセンターに2本通してガットを20本にした時代もあったが、ボールが良くくっつかない等の難点があったので漸次目が粗くなって行った様ですが、此の方も目が粗いとガットの消耗が速いので限界が来て、そんな事をやっているうちに一応現在の横16,7本縦18本位に定まったようです。

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 昔のテニスは精神力に於いて現在とは大分上だったと思います。今の人はすぐやれ何かと言うとチャンピオンやれデェヴィスカップと何となくうわついていて、本当の意味での基礎をもってないようです。昔の人は、私達職人の場合もそうですが、テニスならテニスのプレイをする前にコート整理と水まき等の仕事をみっちりやらされた。そしてその時にいざプレイする時に必要な貴重な精神力と言うものを体得して、プレイ以前の基礎的精神力・体力を身に着けていたから、今より何というかシンが強かった様に思います。

 それから、私は門外者なので技術そのものに就いては余り言えませんが、今のような軽量のラケットを使った、トップ打ちテニスと言うのはどうも早くはなったがスケールが小さいと言うか、昔の重厚味のある豪快なテニスを知るものにとっては何か淋しい感じがします。

 私はどうも軽量のラケットには賛成できません。特に軟式から硬式に転じようとする場合など、今の様に軽いラケットを使っていたのでは、昔の様な好結果を得ることはないんじゃないかと思います。

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 プレーヤーの想い出というとどうしても硬式の方になりますが、もっとも昔は硬式に入る前に軟式をやっておられたのですから区別する必要もないでしょう。

 硬式採用後に於いても、一時は普通の大学庭球選手の持つラケットは皆外国製のウィンナとかゴールドスターなどで、残念ながら日本製ラケットは余り使われなかったのですが、最初に日本製ラケットを採り上げ育て上げてくれたのは、早稲田の安部さんです。

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 安部さん時代の早大には安部・川尻・麻生さんなどが居られましたが皆私の作ったラケットを愛用せられ、そのラケットに安部さんはウィニングショット、川尻さんはパッシングショット、麻生さんはクリーンショットと夫々命名してくださったのも懐かしい想い出です。

 私にとって1番印象深いのは亡くなられた佐藤次郎さんです。佐藤さんは日本のテニスが本当に強くなるには、優秀な日本製ラケットがなくてはならぬと言う考えを持って居られた様で、外国に遠征された時には必ず研究の為にと沢山の外国優秀ラケットを土産に持ち帰ってくださいましたし、逆に私の作ったラケットを外国に普及して下さるなど、此の時代に漸く日本製ラケットが世界の市場に登場できるようになったのです。

 又オーダーの時などもなかなかやかましかったので試合の日にやっと出来上がり、私がコートにラケットを持って駆けつけ白木のままで使って頂いた事も忘れ得ぬ想い出の1つです。

 その佐藤さんの死のニュースを知ったときは思いもかけぬ事だったので本当に驚きました。当時私は南方にも多くの特約店を持っていましたが、その店の1人が船上の佐藤さんのスナップを撮って送ってくれましたが、まさかその撮った当人もそれが最後のものとは思わなかったでしょう。然し折角の記念の写真も焼けてしまい残念に思っています。

 最近の方では隈丸さん、藤倉さん、御2人とも戦後初のデェヴィスカップ日本代表に推された直後でありましたでしょうか、連盟の方の紹介で私の所へ来られました。その時の隈丸さんの最初の質問がこうなのです。「全く同じラケットを1ダース作ることが出来ますか」勿論私は「ハイ出来ます」と答えましたが、それで満足なさったようです。御2人とも非常に熱心でしたが、特に隈丸さんは御宅が近かったのでそれ以来殆ど毎日の様に来られ印象が深いです。本当に自分に合う理想的なラケットをと言うので、丁度その時分は冬でしたが朝6時ごろ未だ私の起きないうちに工場に来られ、ストーブの火をたき私の行くのを待って居られ、私が起きて行くと早速昨日のラケットは此の点が良かったが未だ此の点が何とかならないだろうかと1歩1歩理想のラケットに近づいて行かれました。その様にして漸く4ヶ月目に理想のラケットを作り上げることが出来、隈丸さんも嬉しかったのでしょうが、私も本当に嬉しくて今でもあの時の事は忘れられません。その時しみじみ第1人者になるには本当に並大抵の努力ではないのだと思いました。

 ラケットは使う人と作る人が共に真剣になって進む時、本当に良い物が出来るのです。

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 最近わざわざ我々の工場まで来られてラケットを注文される方が多くなりましたが、私達も折角此処まで来られたのだからと言うので精神誠意作っていざお渡しすると、もうそれっきりで後の結果など教えて下さる方は稀です。ラケットは1回の注文だけで自分に理想的なものを求め得られる筈がありません。プレーヤーと製作者が一心になって進む時、初めて理想的なものが得られるのです。我々の勉強のためにもそのラケットの為にも、その使用結果は推し得て頂き度いものです。

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 私は日本のラケット製作法を従来のカンに頼った名人気質から開放し、機械によるより合理的な、精密なものにしようと心がけて来ました。

 私は若い頃から機械第1主義者でしたが、日本は何の世界でもそうですが機械に依る合理的な大量生産よりも名人物の方が高く評価され、私の様な機械信奉者は変わり者のように言われ、又私自身自分の見解の正しさを裏付ける機会が非常に少なかったのです。

 私が此の考え方に対して強い自信を持つ様になったのは、輸出をやる様になってからです。何しろ向こうの注文は量の多さと言い、精密度の要求度と言い、こちらの常識以上ですからとても名人物では追いつけません。

 何しろ注文の重量は何オンスで、グリップは何インチ、重心は何処にあるラケットを何本頼むと言う風に非常に細かい合理的な指定をしてくるのです。日本の運道具屋の様に、只漠然と頭の軽いラケットとか、細いグリップなどと言う注文とはえらい相異です。その様な合理的な注文に応じるにはどうしても名人物では駄目ですし、量の方の問題でも機械でなくてはこなしきれないでしょう。均一製品を何本も作る事が出来ぬと言うのが「カンに頼った」製作者の盲点です。

 先に一寸述べた様に、従来の日本人のラケットに対する何となく漠然とした考え方は早急に改めなくてはならないんじゃないでしょうか。只軽いの細いのばかりでなく、ちゃんとはっきりした客観的なものをもっていなくては本当の進歩は望み得ないと思います。もっとも近頃のプレーヤーの方々は相当此の点認識されて居る様ですが、私の言いたいのは運動具屋さん、只売れば宜敷いと言うのではなく絶えず御客を研究し向こうの商人が持つ様なデーター位は作り、もっとラケットに愛情を持ってほしいのです。そうする事が結局御客へのサービスになるんだと思います。

 ラケットに限らずテニス全般に対しても、只漠然とカンに頼るだけで満足して居らずに、更に1歩突っ込んで科学し前進しようと言う意欲が必要だと感じます。プレーヤーがその様な合理的精神を身に着けた時に、始めて日本のテニスも国際的になるんじゃないでしょうか。

 私はラケット製作の為の機械工具は皆自分で設計し作ったのですが、それを自分だけで秘密にし独占するなんていう事はせずに、皆さんの為になり喜んで頂ける事ですから広く公開し、私も度々よその工場へ伝授しに行っています。私のやったことが広く皆さんに利用して頂けるなら本当に嬉しいです。

 私も大分年老いてしまったが、テニスに対する情熱は前と少しも変わっていません。今後も、もっと勉強・研究し、より良いものを作って行こうと思っています。

以 上

 

後 記

 日本庭球史の側面を語れ得る数少ないお1人森下翁の回顧談を記述させて頂きましたが、此の記述と言うものもいざやってみますと仲々大変で、甚だ不出来なものとなってしまい申し訳なく思って居ります。

 ラケット製作過程をも丁寧に説明して下さいましたが、紙面の都合で割愛せねばならなくなり本当に残念に思って居ります。

 最後に翁の御健康とあのテニスに対する激しい情熱を、何時の日までも持ち続けられます様、お祈りし筆を置きます。(榮谷 嘉恭)

 

     
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