1954年号部報

 
     
 

 

学窓を去るに当って

                                   岡本 守弘

  

 昨年3月豊田、勝沼両先輩を三田軟式庭球倶楽部へ送り出して1年、陽光の4月を迎え再び会誌2号を発刊する時が参りました。

 三田軟式低集倶楽部の主務を豊田さんから引き継ぎましてから1年、その間にあった当然しなければならない問題が幾多残っておりますが、その先ず第1は、三田倶楽部の名の下に四谷医学部との連繋を強化し、名実共に三田軟式庭球倶楽部とする事でした。

 これは倉橋、森先輩を始め現三田倶楽部全員の切なる望みであり、又これなくしては三田倶楽部本来の姿ではないと思います。

 石田医学部軟式庭球部長にお逢いし、その旨をお伝えし、お願いするため、夏休みも始まる頃私と栄谷の2人で四谷医学部に出掛けました。しかし石田部長は生憎ご不在で、やむなく佐藤先輩にお逢いし、私達の希望をお伝えし、又会費の分配等の細部に亘る問題についても相談しましたが佐藤先輩1人で決めうる問題でなく、又石田部長もご不在の為、三四会(四谷医学部軟式庭球部名称)の会員にこれを伝え、意見を聞いた後、その結果を後日電話で知らせるとの事で私たちは一たん帰りました。

 勿論この問題は個人的なものでなく、全三四会々員の問題なので直ぐに定められる事でなく、期日を要することでもあり又私達には解らぬ種々の問題があった事だろうと思います。しかしその趣旨に於いては異論のある筈もなく、佐藤先輩もその事を望んで居られたので多少の曲折はあっても遠からずその夢は結ばれるものと思い電話のかかって来るのを今か今かと待って居りましたが、夏休みも終わりに近づき学校も始まる頃、あれ以来電話もかかってきませんのでこちらから電話で問い合わせましたが未だ意見がまとまらないとの事、その上仲々六難しく期日が要るとの事でした。森、山岸医学部先輩からも再三この事を医学部の方へお伝え下さるようお願い致しましたが、遂に医学部問題はまとまらず、この問題は一応来年度に持ち込まれる事になってしまいました。しかし今年の全早慶戦には医学部から森さん、山岸さん、長谷川さんが出席され、年を追って医学部との連繋が密接になり、遂には名実兼ね備えた三田軟式庭球倶楽部の誕生を見ることが出来るものと思って居ります。

 この事はやはり庭球部が三田と四谷に分かれて居ることに起因して居るのでは無いかと思はれ、これをまとめる事が先決ではないかと思はれ、1本にして行く事に努力して見るべきだと思います。

その第2は、先輩、現役の交流をより一層密にすることであります。

 今春卒業する14名の者、及び4年の諸君は先輩の顔も知り、又日吉の先輩が見えたときも進んでコーチを受けて居ますが、2,3年の諸君は殆ど先輩を知らない有様で、この様な状態に於いては技術の向上は仲々望めないのではないかと思はれます。ここに2,3年の諸君に、日吉に先輩が見えられても挨拶すらする者が居ないと言う事を反省して頂きたいものです。

 先輩が来ても知らぬ顔をしている、この様なことは決してあってはならぬ事で、積極的にコーチを受ける、進んで求めて行く、これが技術向上の絶対条件だと言えるのであって、以後此の様な事の無い様にして頂きたいと思います。

 扨てその手始めとして年幾回か先輩を日吉にお招きし、OB対現役の懇親試合をし、又合同練習をするという事でした。5月の総会の日、それに先立って芝恩賜公園でOB対現役の試合をする事になり、私達心待ちにその日を待っておりましたが、残念にも前日に雨が降り、当日も午前中は天気が定まらず、コートは軟弱でしたが、小林(珍)さん、五味淵さん、黒沢さんと集まられ、現役も岡本(政)、伊藤、関根の3,4人が集まりましたが人数が揃はず、OB対現役の試合は行はず合同練習を致しました。その間にあって、コートを貸せ貸さぬで一寸もめましたが、昼頃から総会の始まる日暮れまでテニスに打ち興じました。この時も五味淵さんから言われましたが、遠方からわざわざおいで下さったにも拘らず現役の数のあまりにも少なかった事は非常に残念な事でした。

 それから秋の全早慶戦と、去年は2回のみに終わってしまいましたが、何故もっと度々しなかったかと今更ながら後悔して居ります。

 私は大阪へ就職の為、出席する事が出来ぬ時もあるかも知れませんが、今年は是非この様な会合をもっと多く設けて行き、一層その成果を挙げて行く様望んでおります。そして又、この様な事は便宜的に設けたものであり、これのみで終わると言うものではなく、先輩諸氏も色々とお忙しい事とは思いますが、日吉のコートへ姿を見せて頂きたいと思います。

 又部に方としても1週間おき、又は2週間おきに日曜に練習を行い、先輩のおいでを願うと言う事も考えられるのではないかと思います。そして近い将来、是非なんかの方法を講じて実行して頂きたいと思います。折を見、機を見て、1度でも、1回でも多く先輩と接触していく、板野さんの言はれる指導理念の希求を高めて行って欲しいものです。これは私が後悔して居ることから起る現役に対する切実な欲求であり、又そうあるべきもの出す。

 第3は名簿不備のため消息不明の先輩が多く、それを整備する事でした。昨年以来分かった方は呉、長谷川さんと2,3名に過ぎず、この問題は私達の力ではどうすることも出来ず、先輩の御記憶に頼らねばならず、芋づる式に1人1人集めて行かねばならず非常に遅れて居りますが、問題は医学部問題と同じく、時が経つに従い整備されて行く事と思います。

第4に会費の使途の問題です。

 部との交流を図り、現役に対して指導育成して行く三田会の目的から、OB対現役戦に費やす費用、通信費、交通費及び維持費の外は全額部の方へ援助として支出することにし、夏の仙台に於ける東日本選手権、日吉の合宿費用、宇治山田市に於ける全日本学校対抗、上田の全日本選手権等の費用の一部として使用することに致しました。

 第5に会誌発行の問題でありまして、夏に入って直ぐ着手致そうと思って居りましたが、私は入社試験のため去年一杯は出来ず、今年に入っても学期末試験があって、やっと2月も終りかけた頃より始めましたが、原稿、広告の集まりが非常に悪く、困難を極めました。会誌発行については、種々御意見もある事と思いますが、先輩、減益の意見の交換、及び成績記録の会誌とし、又思い出を残し、後輩への1文を提して頂き、三田会の順調な発展、部の隆盛と共に、此の会誌も益々完成させて行きたいと思って居ります。

 この様にして今年の三田会の活動を続けて参りました。私の怠慢から何一つこれらの問題を片付ける事が出来ず、引き継いでやって行く人達に多くの問題を残した儘、学窓を去る事になりました。

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 最後に学窓を去って行くに当り、私が三田倶楽部の主務として勤めさせて頂き感じた事ですが、現役諸君に一言残して行きたいと思います。

 それは部員総会に於いて、又納会に於いて、そして私達の為の送別会の席上に於いて屡々申し上げて居る事ではありますが、現役諸君がまだ三田会に対する理解が薄いのではないかと思へる事です。

 三田軟式庭球倶楽部、慶応軟式庭球部と名称こそ異なれ、その目的は1つであり、それは軟庭部の技術の向上を図り発展を目指して居るものであると言う事です。見事な花を咲かせるべき幹であり、茎でもある三田倶楽部なのであって、決して1人独立した無関係な庭球倶楽部ではないという事を常に念頭において頂きたいものです。三田倶楽部は軟庭の活動を助けて行く為に生まれたのだと言っても差支えないと思います。

積極的に三田倶楽部を利用しようと言う方向に例え徐々にでも進んで行って欲しいものです。

 卒業するに当り軟式庭球部に深い愛着を覚えますがと同時に私は三田倶楽部の会員となって、諸君と共に居られる事を非常に喜んでいます。学生生活はわずか4年間ではありましたが、部生活はこれから10年、20年、いや終生続いて行きます。たとえ大阪に居ようと、又北の果ての北海道に居ようと、私たちは常に現役諸君の練習ぶりを見つめて居り、試合の成果に耳をかたむけて居ると言うことを忘れず一層の努力を続けていって頂きたいと思います。

 陽光の春を迎え、今年も合宿に、練習に、試合につらい楽しい思い出を結ばれる様、そして又とない部生活をあふれる闘志で送って行かれる様祈って居ります。
     
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