1954年号部報

 
     
 

 

富士山の見えるコート

                                   安藤 道也

  

 私がどうやら慶応義塾の空気になじむ事が出来るようになった、1951年の春の合宿は、昨年「村八分」問題で新聞紙上をにぎわして有名になった静岡県の富士宮市で行われた。この合宿は私が家を遠く離れて経験した最初のもので、色々な想い出を生んだ合宿でもあった。当時の日記から抜書きしてみることにしよう。

3月11日(日
 コバルト色の空に真っ白い雲が浮かんで美しい朝日に輝いている。昨日のひどい雨の跡はどこにもみられない。気持ちのよい日曜日だがのんびりしてははいられない。1日中かかって洗濯したユニフォームとラケットをバッグの中につめ込むと、下宿を出て大急ぎで東京駅へ向かった。暖かい春の日曜日を郊外で楽しく過ごそうと、大勢の子供連れの人達でホームは一杯である。やがて、長い汽笛と共に9時45分発米原行きの列車は動き出した。見送人と瞬時の別離を惜しんでいる者達も、自分の座席に戻って来たので、改めて参加者の顔ぶれを見廻した。3年生は黒沢さん1人だけ、2年生は岡本さん、柳本さんの2人、後は佐藤、原、平山、関根、伊奈、風間の1年生。総勢10名だが一昨日までのトレーニングで浅黒くなった顔はなんとなくたのもしい。あわただしい出発の興奮も覚めて来ると、隣席の彼女がウインクしたとか、何番目の席の窓側の娘が1番きれいだなどと話題は女性のことに限定されてしまった。いつの旅行も同じである。

 湘南の海の白い波が、別れて来たHの大きな黒い瞳と白い顔を連想させる。忘れようと眼を反対側の窓にやると、富士山が大きく見えた。これほど真近にこの山を仰いだのは初めてだ。突然に偉大なものの前に立たされると、それを表現する適当な言葉は仲々出て来ないものらしい。「美しい、雄大だ!」という誰しもが口にするだろう平凡な言葉が私の口から漏れたのも、富士の大きさに圧倒されたためらしい。白雪を頂に残した富士に眺めいっている間に汽車は富士駅についた。3年生の大石さん、高橋さん、田中さんと地元出身で今度慶応高校から大学へ入る都築さんとが迎えに来て呉れていた。大きな荷物を持つ我々一行の姿が異様に写るのだろう、街の人は立ち止まり、振り返りして観察している。恥ずかしい様な、偉くなった様な妙な気持ちだった。宿舎は感じのよい旅館の離れであった。我々に割り当てられた部屋には、この家の主人の趣味ででもあろうか、150振以上にもなろうかという沢山の木刀が、種々な形をして我々を見下ろしている。眺めていると夢幻の境に引き込まれてしまいそうな不可思議な雰囲気を作っていた。宿の小母さんは美しい人だ。すらっとして、やさしそうな白い顔を持ったその人を見た時から、私の心はさわぎ始めた。寂しげな陰が一層私を引きつける。

 ガットを張っていると、風呂場の曇りガラスにぼんやりと人影が浮かんだ。見るともなく見ているとその影は次第にはっきりして、アウトラインがくっきりと………。(少しカット)

3月12日(月)
 市の繁華街を散歩したが、東京と比較したのでは全然問題にならない。近くに富士山があることによって、市の貧弱さはカバーされているが。手の早い連中はもうどこかで女の子をつかまえたらしく、その噂で話ははずむ。女の子と言えば、今度借りたコートは昔の女学校のものだそうで、今は共学だがやはり女の子の方が多いらしい。昼休みの間に関根などが高校生のコーチをすることになった。その間は我々はゆっくり昼寝ができると言うものだ。

 駈足、準備体操などで身体をほぐした後、コートを整備していたので実際にラケットを持ったのは1,2時間ほどだったがもう豆が2つ出来てしまった。風呂から出てくつろいでいると、疲れが出てきて考えることなど長くして居られない。今夜はこれでペンを置くことにする。

3月13日(火)
Ich bin sehr mude 外に言葉なし。

3月14日(水)
 昨日はKO入試の第1次発表があった。聞くところによると軟庭部で推薦した者の内、2名だけ1時を通ったらしい。姉からの手紙によると従弟も田舎の後輩も駄目だったとのこと、多分大丈夫だと安心していたのだが、一体どうしたことだろう。昨年よりは倍率も増えたから、運動ばかりやっていた連中は無理なのかもしれない。去年入る事が出来て良かったと言うものだ。この調子では私も受からなかったろう。だが人事ではない事がある。他でもない明日は及落の発表が日吉であるのだ。今年はいつもよりきびしいらしいと噂されていたから、余計心配になってくる。どの科目も皆及第点は取れているつもりだが、大学では、どの様な答案に点をくれるのかさっぱり見当がつかないから困る。いまさら心配しても良い点がつくものでも無し、落ちる者は落ちるのだからもう考えない事にしよう。

 放り出してあった皆の汚れ物が、きれいに洗濯してあった。可愛そうだからと小母さんがして来てくれたのだとのこと。合宿でやせて帰っては家の方達に申訳ないからと色々御馳走を作り、もっと食べろと進めて呉れたり、あの小母さんは苦労性だ。暑くて、無味乾燥だった日吉の合宿から比べれば、ずいぶん楽なのだが、小母さんは大変だろうと心配ばかりしている。

豆が遂に11になり、ペンを執るのも苦労する。2段豆3段豆が出来たが楽しい合宿である。

3月15日(木)
 疲れた身体はフトンに未練が残る。朝フトンから抜け出すのには、相当な勇気と決断力が必要であることを知った。春眠をむさぼっているものが羨ましいと同時に、たたき起こす者がうらめしい。もう3分とたのんでも、フトンは無情にもめくられてしまった。

 今日は及落発表の日だ。岡本に電報するよう頼んであったのだが、奴、何をしているのか仲々来ない。昼休みもすみ、夕食もすんだがまだ来ない。大部分の人が風呂に入ってしまったが1年生は落ち着かない。どうしたんだろうと話合って居る処へ、郵便局から電話連絡があった。「ミナサンマンガ ンツモオメデ トウ」の電文を聞くと期せずして「バンザイ」の声が上がった。やっと2年生になったかと思うと張りつめた気もゆるんで急に疲れが出た。原、平山、風間と4人で合格祝いをやろうと外に出た。少し位ならいいだろうとビールを飲むことにした。だが弱い私は真っ赤になってしまい具合が悪い。部屋が違うから大丈夫さと戸を開けるとキャプテンが居た。あわてて風呂に飛び込み危うくセーフ。

3月16日(金)
 来る早々、彼女を作った腕の良い人と違って、昼休みや食後の外出も面白くない。そこで「おしるこ」をかけてポーカーをするより他にすることがない。誰かが25円の「おしるこ」を探してきて以来、いよいよポーカーが盛んになってしまった。25円にしては仲々うまい。

3月17日(土)
 我々の練習も今日で最後だ、女学生も今日は卒業式だ。ハンカチをしぼるセンチな学生も居る様子だった。

 今夜はお別れの為、酒が出て無礼講となった。高校部員も一緒に参加して色気も出た。酒、歌、踊りとにぎやかになり、大石キャプテンは大いにあれる。黒沢さんも酔っ払ってどこかに姿を消してしまい家中大騒ぎ。これで富士宮ともさようなら。

3月18日(日)
 午前中練習して、昼の汽車で帰京。1週間の短い合宿だったが想い出は多い。美しい小母さんの事が忘れられず、名前も知らない人だが便りを出した。番地は正しいのだから必ず着くに違いない。今日は疲れたのか頭の働きが妙だ早く寝ることにしよう。

 

     
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