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僕が慶応医学部の病理細菌学教室で結核病理学の研究を始めたのが大正12年のことであった。
当時、ある動機によって一意研究心に燃えさかっていた僕は、文字通り一心不乱に勉強し続けた。日曜も祭日も元旦も何もない、ただ研究一辺倒という有様で、まる3年間は下宿から教室へ行く電車に乗る時間だけが家の外に出る機会であったといっても、敢て過言でないくらいの真剣さであった。
日本結核病理学会の席上では、いつも火の出るような学問上の論争をした。それがために認められて、未だ学位を持たない一青年助手の僕を日本結核病理学会の評議員に推薦して来たのであった。(当時、学会の評議員というのは大学の一流教授級であることが不文律のうちに決められていたのである。)
このような訳で、運動としては昼食後に只ピンポンを30分間位やるのが関の山で、東校舎と西校舎の間にあったテニスコートで、盛んに打合っている軟式庭球の冴えたボールの響きにも、時間惜しさにことさらに耳を蔽うていたものである。
ところが、ある日の動物実験でモルモットに結核生菌を注射する作業中に、はからずも注射筒に連結していた注射針が外れて幾億万という結核生菌を顔中一面にまともに浴びてしまった。南無三、仕損じたりと、すぐさまうがいをしたり入念に顔を洗ったりして種々の予防策をも講じたが、一向に不安の念が去るよしもなかった。
そこで、僕の心気が俄に一転した。ひたむきな勉強もさることながら、「先ず健康」というわけで、日光に親しみ運動にいそしんで身体を鍛錬し、結核にかかりにくい体質をつくりあげるべきであると自ら堅く誓ったのである。それからというものは毎日テニスコートに顔を出すことになったが、てんで下手くそでしかも左利きの前衛ということでレシーブが受からず、組になった後衛こそ災難で、そのため常に敬遠されがちであった。それでも体育のための必須条件と観念していたから、おめず、臆せず、うまず、たゆまず練習したため、今度は薬がききすぎた状態でテニス病にとりつかれ、盛夏120度の炎天下で運動靴が焼けついて熱くて立っていられないような時でも、靴の裏を水にひたしては裸体になってテニスをやったものだから、遂には医学部長から「裸体のテニスは禁止」というきついおふれまで出たこともあった。
一日中勉強しているものと思い弁当を運んでくれる僕のフラウは、いつ来てみてもテニスコートに居るものだから、遂にはたまりかね「アナタ、それで勉強が出来るのですか」とたしなめられることさえあった。
しかし、そのお陰で、テニスは余りうまくなれなかったが、身体は常に頑健で、毎日多数の結核患者に接してもマスクを当てずに診察して爾来40年間、結核に感染せずに健康を維持できたのである。
僕のテニスはこのように研究上の必要から出発したものであったから、仲々根強く、知らず識らずぐんぐん熱度が高くなって行ったのであった。
それにしても僕の庭球生涯の中で、日本学連の会長であった時代は最も楽しく愉快であった。今でも当時を追想して純真な学生諸君との甘い接渉に自ら微笑を禁ぜざるものがある。(日本軟式庭球連名会長)
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