1956年部報・第4号

 

“縁は異なもの”                       
                          小熊 武次郎(昭25・文)

 

 終戦直後の浜離宮での近県大会のことだった。私は同郷の鳥海君(早大)と組んで出場し、山辺・川端組という早稲田の先輩に程よくあしらわれ、弄ばれて一ころにされた。憤懣やる方なく鳥海君に噛みついていた私の目の前をこれは何と至極のんびりした表情の塾生が何をやっているんだと言わんばかりの表情で通り過ぎた。「チェッ間抜奴」と正直な処いらいらしている私は怒鳴らんばかりだった。こちらはハンティングだから解る筈はないし、然も先方は全然見かけない顔だ。……尤も私も前年秋入部したばかりだが……学生服で歩いている処はテニスもやりそうに思えない。ところがである。私より年上らしい、然し帽子は予科1の様に新しい、何とも不可解なこの大将が、日ならずして私たちのコートへ現れたのである。部員の噂によると、浜離宮の大会に青木さん(横須賀在住)に掴まって口説かれたとか。

 信濃町のコートに来ても、長谷川さん(世田谷病院)や川島さん(昭和電工)が『さあ、打ちなさい』と言わなければ仲々腰を上げずに、まるで根が生えた様に悠々としている。乱打を始めると、お世辞にも美しいと言えないフォームで、時折ペンギンが海へ飛び込むような恰好すら見せて、誠に癖のあるボールを飛ばす。まるで暴風雨中の小舟の様に、ピッチングアンドローリングである。凡そ抛物線なんてスマートな飛び方なんかしない。普通の時で、目的地まで飛ぶのに紆余曲折の有様だから、雨上がりでボールに水でもついていたら、上昇気流に乗って、瞬く間に彼方へ飛び去ってしまう。だがボールの重いこととポール廻しが攻撃上の武器とすれば、このスライダーの様な、ナックルのようなボールは好調の時防禦にも都合がよかった。然もゲームは信州人特有の粘り強さで、地味に、真面目に、最後までも誰にでも食い下がっていった。

 秋のリーグ戦には、塾の誰もが余り振るわなかった中にあって黙々とボールを追い、懸命に打ち合う真摯なプレーは光彩を放っていた。そして翌年3月最上級生が去るに当り、この誠実で下級生の信望を僅か半歳の間に集めてしまった浅黒く逞しい体と眼鏡の奥に柔和な瞳を持つこの人を呼び、部員の前で宣言した。

『来年度のキャプテンはこの田中舒くんとする』と。

 半年前には浜離宮で睨みつけた田中さんと組んでテニスをやろうというのだから、私は妙に中途半端な気持ちであった。そして、旬日の中に最初の試合が巣鴨の養和会のコートで行われることになった。憲法大会である。ところが、正直な話一度も田中さんと組んで練習したことはなかった。だから両方とも不安で、ミスでもするとひどく恐縮しあっていたが、いつの間にか準決勝へ出てしまった。私は前年秋の学連の関東選手権大会で、川島さんと組み準決勝へ進み学生のテニスの大概の見当はついていたが、何分にも初めてのペアーではどうして良いのか解らない。折角ここまで進んだのだから勝ちたいものだとは思ったが、相手は当時常勝の山口・倉田組(日大)では、こちらのことなど一向お構いなしに激しく攻めて来る。こちらは勝ちたいと言う欲と、変な色気が出て忽ち3―0の3―1と先方のマッチポイントに追い込まれた。初めはコートの周囲をとり巻いた多くの学生も、『例によって例の如しか』とばかり何時の間にか少なくなり、僅かに日大の応援がいるくらい。『やれやれ、帰りは何処かでお茶でも飲んで……』と思いながら前を向いた途端、物凄い早さでサービスが入った。鮮やかなサービスエースである。ついで倉田さんの方にも同じようなのが飛び込んだ。打った本人も予期しなかったというから、叩き込まれた日大組こそ災難だ。危機を脱して気を好くした田中さんのボールが面白い箇所へ入り出した。右に左にライン際へ落ち、然もネットの辺りではどちらへ変化するか解らぬ程の大荒れ、加えてバンドが右へ左へと不規則に変わる。相手も困ったろうが、こちらとしても相手のモーションがバンドの度に変わって予想外のところへボールが飛んで来るので、危なくてうっかり動けない。兎も角自分の領分を守るのが精一杯で、とても田中さんの領分までは出掛けられない。一発倉田さんのレシーブを叩いたと思ったら、ゲームセットになっていた。試合が終わったとき早稲田の連中が走って来て、『やあ、おめでとう』なんて言われたが、何だか麩を食べた後の様でシックリ来なかった。

 だが、勝と言うのは嬉しいもので、それからは、ウマが合うと言うのか、毎日のように田中さんの下宿へ遊びに行く様になり、田中さんの生来のお人好しにつけ込んで随分我儘も言ったし、その結果、1滴も飲まなかった人を人並み以上の酒呑みにしてしまったのだから、何とも申し訳のないことだと常々心の中でお詫びしている。

 さて、当時の部員は田中さんを肉親の兄のような気持ちで慕っていた。田中さんも口でこそ喧しいことは言わなかったものの胸の中では随分と思い悩んだことが多かった様で、当時のマネージャー山口君(第一物産)はよく御承知のことだ。率先陣頭に立ち、責任感は誰よりも強く、語らずして教えられることが多かったし、反面、弁当箱の蓋などでカストリを車座になって飲んだり、酔えば部員とカンカン踊りでもやるし、部の内部では変な隠しごとなど通用しない程部員全部が田中さんを中心に打ち溶けていたし、それだけに明るかった。だから、部員も何か起こるとすぐに相談に行った。試験のことは言うに及ばず、下宿のことから家庭のことまで。将に軟庭部身上相談部長だった。

 私たちの仲間、田中さん、山口君、益田君達は、皆ほんの小さな縁の糸にからまれて塾の軟庭部というサークルに入って結ばれ、これからの長い人生を相倚り相扶けて歩む様になったのだが、もし浜離宮に田中さんが来なかったら、そして、山口君と私が予科で同じクラスでなかったら、更に、益田くんが松本の合宿に来なかったら……田中さんも酒は覚えず(だから奥さんにも叱られず)、山口君もテニスは知らず、益田君も部長名で選手を呼び出すなんて方法も知らずに、そして私も学生時代の楽しい思い出も持たずに然し誰からも恨まれずに……そして更に、お互いに誰もが知り合わずに……私なんか今頃は灰色の憂鬱な毎日を送っているだろう。

 縁は異なものであり味なものである。軟庭部で結ばれた私たちは、先輩という大きな幹に支えられながら後輩という若芽を育んで行きたい。先輩のお蔭により培われた力で。それが送り準という極く当たり前のことでもあるし、これが縁というものだから。

 

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雑 感


 
                        豊田 隆郎(昭28・経)

 

松田君が蒼白な顔をしてネットにかみついていた。「珍しいことである。」と思った。

 火花を散らしてファイトが甘泉園の杜に昇華していた。コートに入ったとたんにこれがしーんとぼくの、身内に冷たい棒を通した。ファイトの根源は向う側宮内・松田組の鋭鋒と、塾側応援席の猛烈な気魄だった。もう1度「久しぶりだな。」と思った。が同時にぼくもいや応なしに、とうぜんファイとのかたまりにとびこんで行った。

 言わずと知れた昨秋の入替戦の話である。負けたけれども楽しい痛快な後味だった。第1に沢山の先輩が来たこと。大阪から偶然久米君も来て、若手の先輩から倉橋会長までずらりと並んだのは心強かった。何と言っても、短時日の間にこれだけ密接な連絡がとれることは、努力によって生まれた組織力のものだ。吾々O・Bもそして恐らく現役の諸君も、このような組織力が有形無形の吾が部の「大きな財産」であることを如実に感ずるだろう。先輩は自分が現役の活動の場に顔を出すことによって何らかのプラスを与えていることを期待し、自認し度い。その意味で先輩は我儘である。だから逆に言って現役の諸君に大いに感謝している部分も多いのである。

入替戦のあの一致団結した気魄は忘れてはいけない。(……と僕自身に言いきかせる。)

 先輩が沢山応援にはせ参じたことと同時に、その先輩が現役の活躍に感謝することが出来、そして将来への大きな期待と夢を持つ事が出来たあの旺盛なファイトがうれしかった。

今度の春はきっともっと素晴らしいだろう。

         ×     ×     ×

 春の合宿は平塚とのこと、東京から近いところにしていただいて有難い。自分が行けるか行けないかだけでなく、近いところでやれば寸暇をさいてラケットをかついで行くことの出来るO・Bがさぞや多いだろうと、それがむしろ有難い。

 僕は中学校時代野球部に席を置いたことがあった。東北地方では指折りの名門と言われた山形中学だった。終戦直後で、復員したての血気盛りの先輩が暇にまかせて毎日グランドに姿を現した。ぼくらはまだほんの子供で練習というものはこういうものだと思っていたが、今から考えるとずいぶん物凄いスパルタ練習をやらされたものだった。毎日々々人数からすると部員1人に先輩2人位の割合でこづき廻され、最初50人位いた部員が遂には15人ばかりになってしまった。それでもその年、復活第1回の中等野球(現在高校)に東北代表として西宮にいけたのは、先輩のスパルタ練習のお蔭だったのだろう。それら復員先輩の就職が追々と決まってグランドに姿を見せなくなったと同時に山形中学野球部は凋落してしまった。

 「平塚」というと、何となく明るい陽の当る、暖かい健康な処を印象づけられる。しかしぼくの合宿の思い出は大抵汗くささに始まって汗くささに終わった。

 特にぼくが2年の時の夏、日吉のラグビー部の合宿所を借りて行った合宿は参った。10日間のうち雨は1日しか降らず、毎日々々汗にまみれてかわくひまもなく、むしぶろのような蚊の多い日吉でごろ寝だった。前住者が押入れの中に興味尽きないナントカ誌を大量に置いて行ってくれたので、ただでさえ暑苦しい夏の合宿が余計しめっぽくなって弱った。汗によごれた下シャツは我慢が出来なくなるまで着て、あとは捨ててしまった。

久しぶりでその時外食券の食事に御厄介になった。日吉の田圃に夜どおしやかましく鳴き続けていた蛙の声も思い出す。

此の合宿のコーチは露木さんだったと記憶する。先輩は殆ど何方も見えられなかったのではなかったろうか。

         ×     ×     ×

昨年度(第3号)の部報に岡本(政)君が良い事を書いて居られた。

「下積みよ頑張れ、君達がいなくては部は存在しない!」である。

 これを読んで同感の手を拍ったのはぼくばかりではあるまい。“Stick to my Bush”ということわざがある。生来運動神経に恵まれなくても、長い間のうちには少しは上手になるし、その人でなければ出来ない重要な仕事も部の中にはいくらでもある。部に生活し、部のためになることに意義を見出すことが必要であろう。学生時代の部生活は必ずやマイナスにならないであろうことを確信する。

 今年の卒業生も三越の2名を初めとして皆一流会社へ入社が決まり、この部報が出る頃には夫々新調の背広を着て颯爽と歩き廻って居られることだろう。誌上遠くからおめでとうと申し上げる。

 最近の部員諸君は皆よく勉強するようだが、ぼく等と同年代には体育会に愉快な男が多かった。決して所謂勉強の出来た連中ではなかったが、長い部生活の甲羅を経てきた彼等には何か知ら強いバックボーンがあって、たのもしかった。ある部員の某社入社試験における傑作が伝説になっている……………。

 試験官(何をきいても判らないので業をにやして……)「それでは最近起こった出来事の中で君が最も重要だと思うことを1つ挙げてごらんなさい。」

某部員(これは又悪戯っぽく……)「はい、川上が100本目のホームランを打ちました。」

もう1つ、吾が部吾が友人の稀なる珍問答がある……。

試験官(助け舟の気持で)「では、最近君が読んだ本の中で1番印象に残った本を1つ挙げてください。」

某君 (即答……)「はい、35時であります。」

試験官「えっ? 君、それは25時じゃないか。」

某君 「ああそうでした。」

試験官「ではその著者の名は?」

某君 「さあ……。知りません。」

試験官「うーん。それはゲオルグだよ。ゲオルグって何国人だったかな。」

某君 「はい。ロシヤ人であります。」

試験官(又うなる)

という具合で、某君、その会社に入社してしまった。某君曰く、「面接試験の結果がよかったため」らしい。

今も張り切って勤めに精出して居られることだろう。

         ×     ×     ×

 学生時代の夢はずい分楽しいものだった。学生時代の夢は希望という形で果てしがない。つまり学生時代の夢は現実の自己を中心としてそれに立脚する部分が多いのである。それに比べるとサラリーマンの夢なんて実に雑駁そのものだ。サラリーマンの夢はまず希望という言葉におきかえることは出来まい。単に無責任な客観性を頭の中にえがくような場合が多いのではないか。少なくともぼくの場合は……。

テニスコートのある家に住みたい。

 南面の明るい大きなテラスのある家、目の前は広い芝生であり、その先に手入れの行き届いたテニスコートがある。夏。毎朝早く起きて露を踏み乍らコートに出掛ける。相手は誰でも良い。30分、1時間、ラケットを振り廻して球を追う。朝食も、出勤も爽快なことうけあいである。春、秋。友人を招いてイミ・デ杯の争奪戦をやる。A君も招ぶ。みんな息子や娘を連れて来るのかもしれない。

……と、ことほど左様にぼくはテニスが好きだ。いやこれからもいよいよ好きになって行くことだろう。

今年1年、現役諸君の悔いのない活躍を心から祈る。

 

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