1957年・部報第5号  

 〜卒業生の言葉〜

懐 古 ―思索しつつ4年間―                  
      

宮内 健彦


 此れ程無気力に只ぼんやりと、為すことなく過ごさねばならない春をここ数年間私は知らなかった。春と言えば、常に新しい覚悟と希望を全身に漲らして、1日1日を追われる如くに張り切って過ごして来たものだ。時には自己に自由な時の持てないことを嘆き苦痛にさえ思ったことすらあったものだ。それがこうして、何もすることを持っていない自分を久し振りに発見した時、自由を楽しめる筈なのに、皆と、一緒に合宿にも行けず、別に用のないことを怨めしく、嘗って以上の苦痛をさえ感じている。

 自分は最早や好きな時に好きなだけのテニスをやることすら出来ない身となって了ったのだ。こうなると、過去に於ける愉しかった思い出、いや苦しかった事、困った事、不愉快な思いをした事等、全てが浄化され懐かしく思い出されて来るのだ。今の自分には過去が楽しきことのみとして蘇って来る。

 4年間の部生活によって私は実に良い勉強をさせて頂いたと感謝している。部にあって私は先ず“考えること”を体得した。而してその“考えること”は自分1人の利害損得に就いてのものではなく、常に部全体に亘って考える事を自然に身に付けて来たのである。

 今、自分は何を如何になすべきか。これを決定するに、即ち「時」、「場所」、「身分」を考えねばならないだろう。斯くして決定されたものには全力を挙げてその貫徹に突進すべきだ。

 今まで私は自分勝手の考えから、無意識のうちに他を苦しめ、全体に迷惑をかけてはいないだろうか。ふと為した言動が究極に於いて1人よがりの個人のみに妥当なもので、部全体を考えた場合にはそれ程役に立たなかったのではないだろうか。斯くあってはなるまい。

 今、自分は他人の欠点、短所、失敗をのみ見つめているのではないだろうか、誰にでも又長所あり、賞すべきものは持っているのだ。他人の長所を認めてそれを活用するならば自己の為にもなり、又部のプラスにもなる筈だ。兎角人間は他人の失敗を咎めがちであるが、これはよくない事である。

 一方に、自分自身とて欠点も多いが長所も持っているはずである。自己を再認識し、持てる長所を最大限に伸ばすべく努力せねばならない。

 斯くして、物事は“此れ位でいいだろう”の気持ちが最も忌むべきである。中途半端は寧ろマイナスである。常に高き理想を抱き而してそれに到達せんがために渾身の努力を尽くすべきであり、それにはもう1歩、今半歩の向上を求める“意欲”が失われてはならない。全力を尽くすこと。此れは絶対にマイナスを齎さないと確信できる。

 斯く懐古している私は、今以て自分は何を為し得たであろうかに思い当たる。自分1人で全てを為して来たかの如くに考えていた多くの事々が、全く先輩諸氏の御指導と部員諸君の協力によって始めて為し得たものであること、就中、私が主将の大任を賜って以来、思い出される試合、合宿練習、その全てが先輩諸氏あって始めて為されて来たことであったと、突如到達し愕然としたことである。

 不肖私が過去1年間、大過なく全うしえたことに就いて今更ながら皆様方に厚く御礼申し上げるとともに、今後三田会の1員として自分はより良き先輩たらんことに努めたいと念じる次第です。

 過日、勇躍して旅立って言った諸君は、合宿にて如何に過ごし練習しているであろうか。昨春平塚合宿に於ける“袋叩きの件”“「頭右ぎ」後の怪電話の件”“派出所に呼び出さるる事”など昨日の如くに思い出されて苦笑を禁じえない。

 現役諸君よ、苦しい時にもユーモアを忘れることなく、楽しくそして有意義な合宿練習又部生活を送って呉れるように。部生活は、今日、私がそう感じているように、きっと諸君等の人生にも偉大なプラスを齎してくれることとなるだろう。苦いことのみ言い且つ書いてきた私も、今度からは個々の思い出など愉しく書きたいと思っている。

 

 

 

 

 

 

1人歩き

藤岡 嗣倫

 

 卒業する頃になると、何れこうなるとは思っていたとは言え、月日のたつのはかくも早き者かと歎じ、入学当時のことを思って懐しむ。あれこれと名残の尽きない思いをしながらももう1度学校へ残ってという気にはならない。正直な所、大学にも4年間居た、未だその成果を深く考えても見ないが、ほどほどにしておん出てもいい頃だ。何かと学んだようだしいよいよ実社会に出て腕をふるってみたい、といった気持ちが強い。軟式庭球部に関しても同じような気が働いている。4年の後半には念願としていた安定性と鋭さのバランスされた力が或程度獲得しえたように思った。折角糸口を掴んだ所でやめるのはつまらん。もう1年やれば存分の力が発揮できるのではないかと思わないでもなかったが、馬鹿なことを考えるなよ、という声が直ぐ何処からか聞こえてくる。4年間の部生活は終わったし、その間、力一ぱいにやったのだ。今はじっと物思いに沈むのにいい機会だと思う。入部当時の我武者らにやった時代から六大学全勝の望みが適うまで、1つ1つを味わいながら思い起こす時、息をこらして手に汗している自分に気がつく。考えてみれば、好きな道とは言え、真剣すぎる位に真剣だったものだ。妙なことだが、大学に入って24時間の生活の中、1番真摯な態度で過ごしたのがテニスをしている時だったようである。部にあってスポーツマンシップの長所を学ぶことが出来たが、1つ変わった所があった。それは、自分のテニスが正に勝ちたい一心のテニスだったことである。勝敗を超越してというわけには行かなかった。又やるからには勝った方がよいなどという生易しいものではなかった。フェアということはあくまでも遵守した積りであるが、邪道呼ばわりされ兼ねない程勝つことに腐心した。塾の軟式庭球部が技術的に第1流の諸校に劣っていたこと、又自分が対抗戦に於いては最前線に立たねばならなかったという事情があった。しかし、このような条件がなかったとしても、自分の性格から言って寧ろ長所を生かした方針だったと思う。

 学生に限らずスポーツをやろうとするものは、活動意欲を満たし身体を鍛えるということの他に、精神的に得る所がなくては意義が半減する。此の精神的な所産の看板みたいなものがスポーツマンシップであろう。この内容についてはあれこれ説明されるが、所詮自分で考えるものであろう。私は率直と誠実をスポーツの場を通して得ようとした。成長するに従って周りに嘘やごまかしが多過ぎると思ったし、何の考慮も払わないで過ごしていると何時の間にか馴れっこになって麻痺してしまいそうだった。世間の風潮に逆らって生きようとかいうような大げさなものではなかったが、とにかく出来るだけ純真な気持ちでいたいと思って努力した。運動部仲間の付き合いは腹の底から親しめることが多いがそれでも誠実の上に立って社交性ではなく、誠実に代わった社交的ウソがかなり巾をきかせているようである。私は将来気性が勝っているので、ついはげしい言葉遣いになって相手に悪い印象を与えることがあり、自分でも相手に対して済まないと思うと同時に、全く損な性質だから直すように努めている。しかし、本末を取り違えるようなことはしない積りである。幾ら口で上手に述べられても言葉に誠意がない場合は信頼する気にはなれない。率直、誠実といってもコチコチの人間を想像するには及ばない。温和ともユーモアとも相入れない点は少しもないと思う。お互いに誠意を持って信頼し合い、開けっ放しの陽気さを持って楽しくやる時に団結する力が生まれる。団結の消極的表現が和であろう。和は大切である。和のないところには花も咲きがたく実も成り難い。しかし、見せかけの和ではいけない。事の判断や問題の解決に充分努力することなくして、ただ紛糾を避けてまるく収まったからといって和が実現されたと考えるのは誤りである。いい加減に欠陥をカバーし合って事なかれ主義をとるのは一旦事が生じたら忽ちに崩れてしまう。信頼によって結びついたものでなければ問題に対処することが出来ないのではなかろうか。要するに個人々々が自覚して欠点を矯正し合い、1人歩きが出来る状態になっていてこそ和が完全なものに近づくのだと考える。

 各人求める所は違うかもしれないが、自分の人格形成に役立つような目標を選んで部生活を有意義ならしめるべきであろう。実社会に出てもスポーツはやはり続けていく積りだが、場に条件が変わったのであるから当然目標も変わってくる。学生時代とは異なった新しい活動を開始する積りであるが、学生時代に得た長所は育て生かして行こうと思う。何かあるといつも考える。考えては最後にいつも思う。テニスはいいなあと。そしてこの気持ちが、私の心身両面のエネルギー源である。

 

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