1957年・部報第5号  

 〜卒業生の言葉〜

四角い三角                  
      

佐々木 芳也


 部員会でのことである。「腹が減ってしょうがないんですが、オヤツの時間をこしらえては」と誰かが提案した。その場の空気は賛否両論であった。部は2,3年年を追うて民主化(と言っては語弊があるが)の傾向にあるように思えないでもない。私の入部当時のリーダーはオッカナイもので笑顔1つ見せなかった。動かすことの出来ない学年制と言うものがあった。時ある毎に義務練習は行われ、1年生はボール拾い。空振りなどの連続で腰掛けて休んでいる者は1人として見当たらなかった。いや腰掛けたくもそれが出来るような空気ではなかった。団体運動に慣れない私などは1人息苦しい思いだった。余り組織立ったものが必ずしも良いとは言えないが、慣れが出来てくると、とかく規律が軽んじられ、統括が取れにくくなる。それは勿論直線的なものではなく波を描く性質のものであろうが、この辺は難しい問題である。

 きっとオヤツの件なども全体的に賛成の意がない以上、特にその傾向のある者は昼休みに余計食べておくとか、さもなくば絶対に皆にわからないように食べれば良い。トイレへ入ってするなり、何なり……。その代わり、それがばれた時は規律を乱す動機となるから厳処されるべきである。

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 部報4号のグラビアを開けるとオール早慶の写真がのっている。30名ほどの先輩の顔が並んでいる。現部員の数よりも多いかに見える。岡山、京都、静岡、沼津、長野、甲府、栃木、千葉と各地から参じて下さった先輩の方々には今も心から嬉しく思っております。あの時の事を思うと担当柄愉快でなりません。本当にありがとうございました。今後とも1人でも多くの先輩が折りにつけコートに立ち寄られ、御指導あらんことを祈っています。

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 タイプを忙しそうに叩く音が聞こえる。銀座にビルの一室である。私は部報の広告を依頼するために慶応の先輩の多いK紡績会社を訪れていた。大臣の坐るような白く大きないすに腰をおろして待っている。種々の会社をのぞくが担当者を待っている間に、いやドアを開けた瞬間にその部屋の、会社の空気がわかる様に思える。――やがて私の番がまわってくる。1番奥に座を占めている方の側へ腰掛けて交渉をつづける。「君は何時卒業するの?」「何処へ勤める積り?」などと問われる。話はこれ以上具体化しなかったようだが、試験を受けてみないか、と思ったかもしれない。私は当時、これから三田の山へ登ろうという時だったし職の方の考えはそろそろと言うところで大した関心を持っていなかった。今年は神武以来の好景気とやらで就職も最良の年だったようだ。私は一寸変わっているから、何処も受けないでしまいったが、職は4月からである。

 広告集めは苦労を伴うが、こんなチャンスがないでもない。その会社の空気が気持ちよく働ける所かどうかを選択を一基準に見てくるだけでも良いもではなかろうか。

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 ホールから汗を拭き拭き若者が出て来る。こちらの控え室も満員である。かなりの盛況だ。言わずと知れたダンスパーティの夜である。――と部員が2,3何やら話している。私も呼んでいる。何か不可解な空気である。「金を狙われている」という。私は学生服でO・Bの接待をしていたが「Sなら気づかれないだろう。あずかってくれと言う。」引き受けて部員ルームへ入る。無意識に辺りに気をつかう。中には係りと思われる見知らぬ人が1人。その人さえ何かあやしげに見える。内ポケットへ大金を納めると、そしらぬふりで雑踏へ戻った。引き継いでは見たもののあまり気持ちの良いものではない。こうなるとフトコロはあたたかいどころではない。何くわぬ体では居るものの内心常に辺りに気を配っていた。結局は無事、翌日学校へ持って行った次第であるが、今もその時の事を思い出し、余計なスリルを味わったものだと感ずる。

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 リーン、リーン……電話が呼んでいる。テニスの○○さんだという。――リー「又お前だろ、きっと」と父は言う。受話器をとると早稲田の魚釣部の友達だ。とにかく学生生活を通して僕は沢山の良友を持った。大学へ入ってからの級は慶応高出が集まった組だったから横のつながりも割合いい。軟式庭球、文地理(モンチリ)へ入ったから法、文、工と学部の連絡があり、(医は高校の時親しい友がいる)縦のつながりがある。テニスでは三田会を担当していたから先輩との連絡もある。高校初期には野球のクラブが作られていた為、それらとも気心はあっており、更に中学(目黒区立11中)からは今まで十数名、慶応に入っているし、殊に3年の時の級は今でも正月と夏休みに10〜20名集まっている。昨年は小学校に同窓会も行われた。大学4年の春頃から早大の発起により、関東学生釣魚会連盟をつくろうとの誘いで、先ずは六大学からと、キス、ハゼなど慶応を代表して?参加した。キスは4〜50名中第2位を獲得、団体では準優勝し、リール附の六角竿をせしめたりした。

 このほかにも浅いが趣味は広く、旅行、麻雀、撞球、卓球、スキー、弓、重量挙(但し2〜30キロの軽重量を家に持っているにすぎないが)等々。この方面の仲間もいる訳である。現に重量挙の主将、主務が同級でグループにいる。旅行ではやたらに騒ぐ連中が多かった。「旅の恥はかきすて」とやらで、松江方面へ出掛けて行って、縁結びの神様である出雲大社の前で、アベックを中に囲んでシャン、シャン、シャンと1ちょうしめたりした。酔って夜中やおら起き出し、床の間を便所と間違えてつっ放し、翌朝起きたら壁に穴があいていたなどという豪の者もいた。わい歌も1時間位ぶっ続けで声を張り上げたこともあったのは学生ならではであった。――そうそう、昨夏は特技が1つ出来た。自動車の運転である。

 こう書いてくるとテニスの方がまるでおろそかではないかと言われるであろうが、練習こそ左程励まなかったが三田会の仕事は縁の下の力持ちとして、不出来ながら委員と共に微力を尽くした積りである。

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 私がラケットを握ったのは大学へ入ってからであり、軟庭を選んだ動機は体育会精神への漠たる魅力と、太陽の下で球を追う健康さであった様に思う。入部当初は身体を頑強にする為、精神修養の為など語る人があるが、部生活を通して知った事は、結局、好きでなければ長続きしないという事だ。又、下手でも汗を流して白球を追えばいいんだと思っても、伝統ある体育会では、塾を代表するスポーツ団体である以上、ある程度の技、或いは素質がなければならない様に思える。でないと1種のディレンマにおちいる。自分にあったことを、好きという理屈を超えた範囲でやって行くのが、長続きすることと思う。これが又自分の特性を延ばす事にもなりましょう。

 照井主事は「体育会は宝の山だ、人によって金も出ればカワラも出る」と歓送会の席上で言われましたが、うがった御意見と思われます。私の掘り当てたのはカワラかもしれませんが、先輩と部の連絡の仕事の方により、多くの時間を費やした者にとっては、多くの良友を得たこと、より広い視野を得た事などの意に於いては金であろうと信じます。

 とにかく未熟な私をお導き下さいました諸先輩、同友諸兄には感謝しております。どうも有難う御座居ました。1日も早い1部昇格の朗報と、ひいては全日本制覇の栄を勝ちとられん事を心より祈ってやみません。

 

 

 

 

 

 

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