1967年・報第15号

 

 

 

鎌倉を訪ねて
                             鎮目俊之

 

五年前の早春でした私は三十年振りで鎌倉を訪ねました。鎌倉は大学時代の四年間を過ごした思い出の多い土地なのです。ですから家内と銀婚式の記念旅行の途次この地に立寄ることにしたのです。
 私は塾の予科三年の時に軽い肺尖カタルを患らって鎌倉へ転地して学校を続けながら療養生活を始めました。パスやマイシンなぞの特効薬のないその頃はカルシューム注射とオゾソの多いきれいな空気と目光と安静以外に療法はなかったのです。材木座の下宿で寝たり起きたり又海岸や鶴岡八幡の境内を散歩したりそんな毎日でした。
 下宿のすぐ近所に「天野薪炭店」という炭屋がありました。私とは同郷の山梨県出身の実直な若い夫婦者でした。小学校三四年位の女の子が居りました。真黒になって働いているこの夫婦にLてはとても親子と見えないほど色の白い目鼻だちの整のった可愛らしい子供でした。名前は千代子と云って無邪気で利口でチョッピリお転婆で……私はチヨちゃんが好きでした。一人っ子なので身分不相応と思はれる程着物や洋服など上等なものをもっていました。母親から「よそ行き」を着せて貰ったチヨちゃんと散歩するのがその頃私の楽しい日課の一つになっていました。小坪の漁師村で大きな犬に吠えられて泣き出しそうなチヨちゃんの手をひいて一生懸命に逃げたこともありました。又、その当時慶応の幼稚園に通っていた故奥井復太郎先生の二人の坊ちゃんと鎌倉山の植林したばかりの斜面で鬼ゴッコをしたことがあります。お転婆でもチヨちゃんは女です、いつも鬼にさせられていました。鶴岡八幡神社の祭礼の日に三十三間通し矢の行事で神主さんが「大的式始めましょう」と云ったのを「オオマトシキハジメマショウ」と大きな声で真似ながら人混みの中を帰って来たこともありました。一ヶ月以上も微熱と盗汗が続いて不安と焦躁の私の心をこの幼い少女の無邪気な言動が慰めて呉れたのです。
 ある日散歩の帰途、稲村ケ崎の江の島電車の変電所のコートで、私は一年何ケ月振りにテニスを見ました。スポーツは医者からとめられて諦めて居りましたものの、もとより好きな道です。私はコートに近づいてしぼらくゲームを見て居りました。このクラブは「月影クラブ」と云って鎌倉の地の者の集りでテニスのレベルは余り高い方ではありませんでしたが、唯一人真新らしい塾帽をかぶった学生のテニスが群を抜いて光っていました。この学生が当時慶応の予科に入ったばかりの岩井英夫君(現在の岩井三郎氏)だったのです。私は急いで下宿へ帰りラケットを持って引き返えし強引にその仲間に加えて貰ったのでした。病気の事も何も彼も忘れて私はゲームに熱中しました。ユニホームは汗にグッショリ濡れて気分は真に爽快でした。そしてその日から微熱は出なくなり医学的には何うなったのかわかりませんが、事実上私の肺尖カタルはなおって仕舞ったのです。
 それから二三ヶ月経ったある日中年の紳土がラケットを持って此のコートに現われました。非常にうまいテニスで私達はキリキリ舞をさせられました。負けぬ気の私は懸命に立ちむかいました。そんな私が気に入ったのかテニスの帰途私は彼の家に招ねかれました。金縁眼鏡の似合う上品な奥さんと、この春三輪田を出たと云う綺麗なお嬢さん、そして小さな坊やが二人、なごやかな楽しい雰囲気でした。金井さんと云って東京の小さな銀行の頭取で、奥様が胸を患らって最近転地して来たばかりだとの事でした。金井さんは見た目にも又気分も非常に若い方で私や岩井君を友達のように扱って呉れました。よくあちこちのコートヘも連れて行って貰いました。お宅へ誘われて馳走になった事も度々でした。横須賀の湘南地区の大会に金井さんと組んで出場して私のミスの連続で二回戦で負退した事があります。口惜しがる私の肩をたたいて彼はやさしくなぐさめて呉れました。終戦後金井さんは東京で碁会所を経営して居るとか、そしてあの病身の奥さんと離婚なされたとか風の便りにききましたが・・・
 私は懐かしい思い出の多いこの鎌倉に三十年振りで来たのです。私は家内と一緒に先ず最初に「天野薪炭店」を訪れる事にしました。店頭は改装されて色々の型の石油ストーブが陳列してありました。看板は「天野燃料店」にかわっていました。奥から私の想像していた以上に年老いた白髪の婆さんが出て来ました。確かにチヨちゃんのお母さんです「私がわかりますか?」婆さんは首を振りました。私が名前を云うと彼女は驚いてしばらく私の顔を見つめていましたが「千代子が喜びますよ」と云って私達を直ぐ隣の「鎌倉整形医院」へ案内して呉れました。間もなく「まあお珍らしい…」の声と共に大柄な眼の大きな中年の婦人がシャム猫を抱いて現われました。チヨちゃんは医者の奥様になっていたのです。 彼女の運転でドライブしようと云う申し出を断って徒歩で八幡神社へお参りに行く事にしました。彼女は道々知人と挨拶を交わして居りました。その言葉使いやもの腰は、すっかり「博士夫人」のそれでした。八幡さんの境内は全く昔のままでした。私は歩き乍ら心の中でひそかに思いました。三十年の距りは遠い、追憶の中のチヨちゃんは追憶の中にしか居る筈がない。この夫人もまた禿げ上った私の顔の何所に昔の面影を見出し得るであろうかと 「大的式始めましよう」隣で干代子夫人が独り言のようにつぶやいていました。

 

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アルバム
                     豊 田 隆 郎

 

部報原稿の筆をとろうとしていた時にまことに思いがけないしらせが入った。六大学リーグで女子が優勝したと謂う。申し訳ないことながら夢かとばかり驚いた。そこに至る練習の苦しみ努力の過程をまの当りに承知していなかった私にとっては、あまりの意外さに喜びよりも先に自分の部が何か手の届かない遠くに行ってしまったような心細さすら感じた。
 併し、フロックで鎬をけづるリーグ戦に優勝など出来る筈がない。皆さんが自分の力で獲ち得た成果である。何はともあれおめでとうと言わなくてはならない。
 勿論優勝という事の原因は多様であって、天の利地の利人の利に歴史的必然性までが加わる。そしてこの栄誉を護ることが又大変である。先輩もさらにいろいろなことを言うだろう。だが、すべてを捨象して私には現役の皆さんが羨ましい。現役の皆さんの心のアルバムに一生忘れ難いキラキラと光る一頁が加えられたことは間違いないからだ。
私にもアルバムはある。眼に見えるアルバムもあれば、皆さんと同様眼に見えない心のアルバムもまた大部にわたってしまってある。
その中でも軟庭のアルバムは素晴らしい。学生時代は予科を含めて五年にしかすぎないが軟庭の生活は卒業してからの十四年を加えニタ昔にもなる。当然女房より古いつきあいである。私自身の成長を軟庭という大きな動かない山がじっと見おろしているような感じである。喜怒哀楽を親に訴え恋人に囁く年令でもないが軟庭に対しては無言のうちに語りかける気持をもつ。軟庭とのつきあいの中に育んで来た数々の過去を大事に大事にしたい気持である。
 或る時の卒業生送別会の席で岩井さんが言われた。「君達は部生活を有意義に終え今日の卒業を迎えて、実社会に対する最高のスタート台に立つ事になった。多くの人に羨やましがられる選ばれたスタート台にである。是非このことを弁えこのことを大切にして貰いたい。」と。
 現役の皆さんの心の中に残る部生活の毎日のアルバムを一つ一つきれいに整理し、そして又このアルバムにより美しい影像を掲げて行くように努力していただきたい。そのことが将来に対して一層大きな責任感を持たしめることになるに違いないからである。
 優勝おめでとう。

 

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各自が自覚を
                      糸 川 雅 也

 

 昭和四十一年度は、全日本学生ランキング第四位の成績を収めたが、残念乍ら関東リーグでは二部に落ちてしまった。新らしいシーズンを迎えて、我々は如何なる目標をもって進むべきか、現在おかれている立場を正確に把握し方向を誤らないようにしなければならない。
 先ず我が部の現状をみてみると、昭和四十二年一月現在、総部員数五十名で、その内訳は、
     男子 女子 計
 四年部員 8  0  8
 三年部員 5  2  7
 二年部員 10  8  18
 一年部員 10  7  17
計     33 17  50
となっている。参考までにこれを昭和三十五年度と比較してみると、当時は総部員数一〇二名、内訳は男子部員八十五名、女子部員十七名となり、女子部員数は変らないが男子部員数においてはほぼ三分の一に減少している。このような部員減少の傾向は他大学、各運動種目にみられる共通した悩みであり、唯単に我部だけの問題ではないが見過ごすことの出来ない事実である。未経験者が殆んど入部しなくなったという事が大きな原因であり、何も数が多ければ多い程部が強くなるとは云えないし、逆にある程度少い方が練習も十分に出来良い結果が生まれると見ることも出来るが、要はこの事実を各部員がよく認識自覚して行動するかどうかに掛っていると思う。はっきり云うならば残念乍ら我が部員には自覚が少し足りない。長時間の練習も必要だが、現在の好環境に押し流されず、密度の濃い練習をしてもらいたい。と同時に上級生には上級生の任務があり、下級生にも当然やるべき仕事があるが、只それを行っただけで満足していては現在の難かしい局面を乗り切ることは出来ない。上級生といえども下級生の任務に積極的に協力し、下級生はもう一段上の状況に目をやり自分が部をしょって立っているんだという意気込みで発奮興起して欲しいと思う。
 扨て今年の戦力であるが、優秀な卒業生を多数送り出し例年になく弱体化されたことは否めない。その結果レギュラーの半数は必然的に新しいメンバーと入れ変ることとなり、多少の不安もあるにはあるが、逆に大きな期待も抱かせてくれる。まだまだ日吉には伸び盛りの優れた素質を持った者が前、後衛共多数居り、これをチャンスにお互が競争し切瑳琢磨し合い、先輩をどんどん追い越して優秀な選手に成長してもらいたい。何と云っても各自がやる気を出し練習の鬼となることである。そういうやる気のある諸君の為に今年は全く白紙の状態で部員を見つめ、一線に並んだスタートから飛び出した者を先ずリーグ戦に起用したいと思う。皆が一丸となり勇気をもって努力すれば一部復帰も必ず達成出来、更に進んで全日本制覇も決して夢ではないと思う。
昭和四十二年度は以上のような非常事態ですので、現役部員諸君の奮起一番を期待すると共に、先輩諸兄の温かく又厳しい一層の御指導、御援助を心より御願いする次第であります。
 強く、しかも規律正しい気骨ある部員を育てていく為に今年も全力を傾けるつもりでおります。

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二十五年
                       川野 操

 

先日、卒業後初めて日吉を訪れた。丁度二十五年振りになる。予科に入学した頃、完成したぼかりの真白い校舎が、日吉の駅に降り立つと、何の遮るものもなく、実に美しく目に飛込んできた。その堂々たる容姿を眺めるだけでも、塾に在籍する誇らしさを感じたものだったが、今はその建物も、うす黒く汚れてしまって、見る影もない。そのかわり、当時私の身長位しかなかった樹々が、素晴らしい大樹に生長し、明暗二つの面にも二十五年の歳月の経過が身に泌みて感じられた。
 友人に逢った。頭髪が余りに白くなっていたので、"おい、随分白くなったな”と云えぼ彼"お前の方が白いぞ”。互に譲らぬので第三者に比較してもらった。"同じ位ですね”。私は考えてしまった。
本当なんだろうか。娘の受験で苦労する年頃になったのだから仕方のないことかもしれぬが、まだまだ老込む年令ではないのに、最近、とみに体力の衰えを感じる。
余りテニスをやらなくなり、歩くことの殆んどなくなった目常生活が退化のスピードをより速めているのか、時偶思い立ってテニスをやる。翌日は足腰が痛くてどうにもならぬ。ゴルフに行く。十八ホールの競技だとなんとかもちこたえられるが、三十六ホールともなるともういけない。後半は膝がいかれてしまってガタガタに崩れる。昨秋、育友会のソフトボールに参加させられた。不幸にも優勝戦まで勝進んだ。次の日から二日間は寝たきりであった。
 こんな話を若い連中にすると"お年ですね”。いとも簡単に片付けられる。実に淋しい。この淋しさは、現実にその年令に達したものでなくては、なんと説明しても判らないだろう。
 ドリアングレイが肖像画を見るまで、本当の自分の姿を知らなかったように。
 ああ、もう一度疲れを知らぬ体力が、柔軟な筋肉が欲しい。そうしたら若い連中なんかに………なんて止めよう。
まだ僅か二十五年ではないか。

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シンガポールにて
                  内 藤 享 佑

 

  その後シンガポールの地を踏む度に、此処で彼等をして、この青二才の僕に服従せしめるに至った事の次第を想い出す。
日本のスポーツマンには「参った」という語彙の持ち合せがないんだ。その訓練が耐え難い程に、どんなに苦しくても決して「参った」などと、ほざいて降参することは許されず、敢えて云えば、心身の総てが消耗し尽して、コート上に倒れた時、それが参ったことに対する唯一の表現なのです。歯を食いしばって耐えているのは、「普通」の事であり少くともこうして立っている間は「さあ、こい」の体制にあるのです。さあ、仕事を続けましょう
 今から三年程前、生れて初めての海外出張という重荷と、雨期をひかえて最も暑い時期に、香港、バンコック、ニューデリー、ボンベイを経てシンガポールに到達した頃、その酷暑と、馴れぬ食事と、英語の生活を続けているうちに、不覚にも激しい下痢と四〇度近い高熱を起してしまった。赤道直下の地でラジオアイソトープ市場開発の為、当地の支配人ライ氏と朝から晩まで駈けづり回っていた時、僕の異常さに気付いた彼が「どうかしたのか?」と尋ねてくれたことがあった。
 実のところ、あの時は本当に苦しかった。赤道直下の太陽にジリジリと照らされて頭はガンガン痛むし、下痢と高熱によるものか、足元がふらふらしてどう見ても心身共に、仕事に適した状態ではなかった。
 どういう訳か、そんな時僕はいつも現役時代の部生活を想い出す。特に一〜二年生の頃の日々をである。二部の歴史が始まってから数年間、上がれそうでいて、どうしてもその壁が破れず「今年こそは 今年こそは」と苦悩していた我が軟式庭球部に入部したのは、昭和三十年の春だった。「何糞 何糞」と腹の中 でつぶやきながら、仕事に歩く姿は、かって「一部へ 一部へ」と昼間はコートでラケットを振り、走り続け、日が暮れてからは如何にして強くなるかを語りながら夜の更けるのも、意としなかった頃の正にそれであった。そして昼間の仕事に続く宴会、業務打ち合せで夜更けるまでホテルではレポートの作成、明日の準備等を終えてベッに入るのはどうしても午前一〜二時になる生活を、全うすることが出来たのは、部生活を通じて学んだ「勝つ為にベストを尽す」ことと、僕なりに得た「根性」のお蔭であったと思う。
 ともかくも数日後、シンガポールからマニラ行き飛行機の空席にぐったりと腰を下した時は、下痢、高熱の症状は消え、あとは体力の回復を待つのみとなっていた。「遂に勝った!」とつぶやきながら、数日間に亘る苦闘も勝利を得る為の当然の条件のように、むしろ楽しい想い出の一つに加えられたことを知った。そして昭和三十二年春、遂に明治大学を入替戦で破って待望の一部昇格が成った時嬉しさで先輩も現役も互に手に手を取り合い汗と涙にまみれて小躍りしながらも、次は一部で勝とうと誓い合ったように、「次のマニラでも頑張るぞ」と、次への作戦を開始したのも勝負師がとるべきごく当然の手順であった。

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大失敗
                寺 岡 基 夫

 

 酒飲まず、煙草はない。パチンコ、マージャン、ダンスはいっさいやらない。」 はたしてこれがほめ言葉であろうか。心ある人なら問うだろう。「一体お前は何をしにきたのだ」と。人を評価する際にしなかったことを評価して一体何になるのだろうか。我々はしに来たのだ。したことでもってのみ評価されるべぎだ。
 部生活について語ろう。
 部員は規律にしばられた部生活に不満をもつ。なぜ規律を守るのか。部は常に強くならねばならないという使命をもつ。そのために皆が行動しやすいように規律がある。しかし、いやでも守らねぼならない規律のためにかえってやる気を失いはしないか。規律は必要最小限(・・・・・)でよいのだ。皆やる気があるから入部したのだ。強くなりたいと思っているのだ。彼等は黙っていても強くなろうと努力するだろう。規律は彼等の部生活を行いやすいようにと作られたはずのものだ。それは頭から押しつけられるべきものではなく、側面から援助するためのものだ。同じく上級生は自分たちに従わせるのではなくして、伸びようとする下級生を補助する立場にあるのだ。規律とか上級生とかは常に補助の役目しかもたないのだ。一人一人が伸び伸びと自分の個性をフルに発揮できるようでなくてはならない。部員一人一人が遊んで自らを統制し、苦しめ、その中に充実感(・・・)

を見いだすような部でなくてはならない。
 部員は自らのやる気と、部のあり方についての正しい判断力と、内に秘めたファイトを認めてくれないと不満をもつ。しかし数多い部員一人一人の潜在的な能力をはたして正確に評価できるだろうか。やる気があるからこうしたのだ。秘めたるファイトがあるからこそこうなのだ。このようであってほしい。潜在的な能力も発揮されてこそはじめて意味をもつ。積極的に発言し実行しなくてはならない。いかに思慮深くても実行力がなくては何にもならない。実行することによって、実績をもつことによってはじめて認められ評価される。部とはそういうものだ。
 失敗を好む人はいない。しかしながら失敗を恐れていたのでは何もできない。こういう人は小細工ばかりする調子の良い人間にしかなりはしない。人一倍打ち込み努力しても常に失敗はあるだろう。否、それだからこそ失敗するのかもしれない。その時のショックも人一倍激しいだろう。しかしショックが大きいからこそ徹底的な反省もでき進歩もあるのだ。失敗は大きれば大きいほど将来の自分に役だつ性質のものなのだ。役だたせなければならない性質のものなのだ。
 部は自ら進んで実行する行動の場だと思う。失敗して反省する場だとも思う。考えるだけで、ぐちをこぼすだけで実行しない人にかぎって、したがって失敗もしない人にかぎって俺だったら何でもできるのだととんでもない自信をもっている。また人並の努力もしない人にかぎって俺はやっても仕方ないのだと思っている。大いに努力実行し本当の自分を知ろうではないか。最大限の自分に近づこうではないか。
 極論すれば「部とは思考して行動する場ではなくして、行動しながら思考する場である。」と思う。
 四年間の部生活を振り返ってみる。そして思う。自分の四年間の学生生活の中で一番大きな失敗は、 四年間を部生活に費したこと、それ自体ではなかったかと。しかしまた思う。同じ失敗なら願わくは大失敗であれと。若い我々には致命的な失敗など何もありはしないのだ。

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サンデーテニス
                   谷 口 保 夫

 

 

早いもので、良く遊び良く学ばなかった学窓を後にして二年すぎてしまった。卒業してからも現役の皆様より時々活動状況の報告を聞き、自分が日吉でやっていた頃の事を思い出して、なつかしく思っています。同期の寺岡君より、「部報にぜひ一筆書け。何か陰でこそこそやってるそうだな。」という便りがありましたので、近況でもと思って
 別に蔭でこそこそやってるわけでもなく、真面目なサラリーマンとして元気にやっています。幸か不幸か同期の悪桜連中と別れて、単身名古屋に就職すると同時に、異国の一人暮しに、又会社という封建組織の中に放り込まれて、自分なりに苦しみもがき、又楽しんできました。「全く現実はきびしい」ってところです。
 さて、主題のサンデーテニスですが、お蔭さまで楽しくやっています。名古屋もなかなかテニスの盛んな土地で、我が社には残念ながらコートがないので、近くの鶴舞公園のコートやら、東邦ガスのコートに出かけ田舎テニスを楽しんでおります。我が社の女子部は、なかなか強くて、毎年団体やら都市対抗に出場していい成績をあげているようです。男子のほうは、それにくらべると少しおちますが、毎年天皇杯には参加して、日頃サンデーテニスできたえた実力を、発揮しているのですが……。学生時代と違って、練習もろくにやらずにすぐにゲームをやったりするもので、どうもボールの方が思う方向にとんでくれませんが、二、三ゲームやっているうちに結構いい球が打てる様になるので、つい夢中になり月曜日の朝、腰が痛いとうなっている状態です。現役のレギュラーとまではいかなくても、岩井さんや糸川さん達とは対等のゲームが出来るんじゃないかと思っています。
 何はともあれ、名古屋在住の吉村さん、石植さん、大堀さんと今年もサンデーテニスをやるべく張り切っておりますので、現役の皆さんもこちらにおいでの折は、是非一報下さい。
 では、本年度の健闘を祈っています。

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「後輩へ寄せる」
                   青 山  忍

 

この卒業試験を以って愈々学生生活ともお別れとなった。他の卒業生七人と異り会社の関係で三月一日を以って出社を指定されている私は全く臨終を迎えたような気持である。余す二十数日だけが私の人生の全てのような気持である。誰も信じないだろうが私はロマンティストなのだろう。尤も卒業する人全部に共通な心理状態であろうが。
 とんでもないことをして了ったものだといつも思う。全く諸君らにとって耐え難き重荷を負わせて了ったものだ。今迄のキャプテンよりも威張るだけ威張って残して行ったものはといえば「二部」という屈辱感だけ。自分ながらあれだけ努力(この一年に関しては私はこの事を自信をもって言えるのだが)してこの結果と思うと呆れて、自身への嘲笑につながり淋しく思う。諸君達の中には年代の関係で詳細な事を知らない人が多いと思うが部に迷惑をかけたのはこれだけに留らない。一年から四年迄何ら貢献度無しの感が強い。想い出は即失敗、迷惑につながる。一生懸命想い出せば、私の勝利が部の勝利に通じたという試合もホンの僅かはある。がそれにしても失敗談の方が自慢話しより多いという点では私は抜群の出来であろう。ということは結局私はチャンスを悉く?み得なかったという事である。四年間の中にチャンスは幾度となくあった。(優勝、部への貢献への)。それを?み得なかったという事は実は私が凡プレーヤーである事を、強いては我が部が二流のチームである事を裏付けている。名プレーヤーと凡プレーヤーとの差は目の前に差し出されたチャンスを如何に料理するかどうかにあると言える。料理の腕は練習によって養われていくのは明白だが私はこの点に於て反省するところが大きい。が今更どうしようもない事である。
 「チャンスをつかむ」という事は単に優勝とかに限られたものではなく如何なる試合、或は練習に於けるレギュラーへの道にも相通ずるものであるのだから、ワンチャンスを自分のものにするという技術、並びに気迫を養えるような練習システムを今迄以上更に厳格に採ってもらいたい。これは首脳人への要請ではなく部員各自への希望である。
 諸君全員”いいヤツ“の一言に尽きる。がいいヤツすぎる。願わくばもっと”不良“になって図太くなってもらいたい。もっと遊んだらどうか。”もっと飲み””もっと……。”全部が全部こうして了っては困るがこのような類の男が少しは居た方が強くなる。大胆でふざけた説と先輩から御叱りを蒙りそうだが"いいヤツ”だけでは勝てない。私も修行が足りなかったと反省している。要は相手に呑まれてうなだれて試合をやらないようハッタリでもいいから相手を呑んだ元気ある選手になって欲しいという事です。
 最後になりましたが四年間の在部中、合宿所の小母さん、諸先輩方、長い間お世話になりました。今後共よろしくお願い致します。


                                 (三越本店)

 

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テニス遍歴
                   
石田康太郎

 

 

大学に於ける四年間のテニス生活も、二日後に納会を控え、最後の幕を閉じようとしています。ここに、例年よりも三ヶ月程も 早く、"卒業論文”を認めさせられているわけである。
 四年間をふり返って見ると、やはり"この人を見よ”というようなわけにはいかず、懺悔録とならざるを得ないようです。ここにぽくのテニス遍歴の一断面を記すと同時に、下級生諸君のテニ ス生活の参考になればと思います。
 中学から高校二年迄はテニス至上主義で通して来た僕も、三年になってこれを疑わざるを得なくなってきました。まず、優勝す ることの意義、その為の全を犠牲にした過度の練習、そして、何をなさねばならぬかということの模索、このようにして全を疑問に付するようになった時、単純明解を好み、一つのことを精一杯やるには、他の全てを犠牲にしなければならないし、できないと 考えて来た僕としては、俄に動きが取れなくなってしまった。つまり、テニスに対する信仰が崩れてしまったのである。結果はス ランプに落ち入る以外になかった。それでもコートに立っている時はスランプから脱すべく努力したのであるが、コートから出るとテニスから逃がれることばかり考える。テニスが全ではないという気持がスランプのかくれみのとなり増々逃避的となり、テニスをやめようという気持に迄嵩じる。しかし、信仰を失った以上テニスをやめてみても、他に全人格をあげて没入できる対象があろうはずはない。ならば、好きなテニスに踏み止どまらざるを得ない。こうしてスランプは脱し切れず、かといってのめり込むこともできず、いらいらした毎日が続き、あちこち歩きまわったものである。しかし、根がまじめで小心な僕は(このまじめは"まじめ人間、ばか人間”である。)酒にも、女にも溺れることかできず、況や、勉強をやである。しかし二年の後半、このまじめさが実ったのか、技術的にテニスらしきことができるようになると、"意義”とか、"何をなすべきか”など関係なしに再びテニスが楽しくなって来た。しかしここで敗因は積極的な解決ではなかったこと、つまりテニスを精一杯やり、楽しむことそれ自体がいいことなんだということを信じ切れなかったこと(感じていながら)と、これは積極的な解決ではないんだとささやく"まじめ人間”的性格だった。
 こうして三、四年はテニスを楽しむことができながらも、徹底的に没入し、徹底的に、テニスを苦しむことかできないまま卒業しようとしているのである。
 今下級生諸君を見てみると、テニスに、又テニスすることに迷っている人がかなりいるようである。迷わない、悩まない人間はいないし、徹底的に迷い悩むことも必要だと思う。ただ迷いながらも進まなければならないし、生きていかなければならないのである。人間の一生は試行錯誤の連続であり、間違ってもいいし、しかたのないことである。今、当にやるべきこと、やらんとしていることに全精力をもってぶつかる時、そこに道が拓けて来るのだろうと思う。
僕自身、性格の弱さから動きが取れなかったし、これからも度々そうであると思うけど、そういう自分の殻を打ち破り、破壊し新しい自分を創造していこうと思っています。
 四年間、先輩諸氏には大変迷惑をかけ、下級生諸君には無責任な上級生であったことをお詫びします。


                                             (丸誠重工業)

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「学生生活」
                川口十二朗

 

 

小生の中学、高校、大学の生活を顧みるとテニスということしか思い浮ばない。テニスというものが中心となって学生生活が過ぎてきたように思われる。中学入学当時多少走ることに自信を持っていたので陸上部に入部しようと思っていたが両親の反対で結局テニス部に入ってしまった。小生が本当にテニスが好きになったのは、高校の頃からである。その時はただ全日本選手権出場をめざして、がむしゃらにテニスをやってきた。しかし高校三年頃になると大学入試という問題があるのでもう少し勉学に励まなければならないと思いながら結局秋頃までテニスをやってしまった。大学一、二年の頃はテニスだけでなくいろいろなことをやろうと考えていたが、やはりテニスを自分から切り離すことが出来なかった。このように僕の学生生活は一口に言ってしまえばテニスが中心となっていろいろな事が行なわれてきたのである。しかし私はこの生活を少しも後悔していない、というのは私たちの生活範囲は実にせまく、何事に於ても未熟そのものだ。しかしたとえ狭く浅くてもその小さな事をよく調べ、観察することが大切な事ではないだろうか。これは職業についても同様で、人は何らかの意味での専門家になるのでないだろうか、その事に対して何年も何年も苦労して熟達した人こそ人間としての信用出来るのではなかろうか・・・・・・。
 あれもこれも浅く広く知っているが、自分の身についた事を何も持たない人は浮草のような存在であろう。ほんの小さな部分でも詳しく確実に知っていることはその人に自身をもたらすのではないか……。
 人生の各時期に於て一番大切なことは自分に与えられている事を、他の事はおいても、それに没頭する事が大切なことではなかろうか……。
 この未熟者の私がこの様な生意気な事を書いたのも四年間という学生生活に於て少々わかった事といえばこれ位で、おぽろげながら目標を定める糸口をみつけ出した様に思われたからです。
 四年間いろいろ御指導下さいました諸先輩、同輩に心から感謝すると共に現役諸君の今後の御活躍を祈ります。

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「若さ」
                 田村英彦

 

 スポーツがしたい。顔を真黒に焼いて男らしく逞しく成りたい。そうすれば女の子にモテて楽しいだろうな…-。これが高校三年間室内遊戯(マンドリンクラブ)に明け暮れていた僕の体育会入部の直接の動機であった。
 そう、おてんとう様が光輝くコートで思い切り跳び回ればよいのである。その為にはどんな苦労も辞さない。俺はやるんだ、誰にも負けるものか! とまるで新婚ホヤホヤの花嫁の心構えの如く。入部して僕は幻滅した。体力、精神力の限界迄努力する。いや、させられる(・・・・)させられると思っていたものが楽な事、楽な事。結局は自分から努力しない(していても実際はそうではないのだが)強いられて初めて精一杯努力する、そんな状態だったのである。
 それでも足腰の鍛錬、敏感性をつける為とか考えてボール拾いも一生懸命やった。苦しかったマラソンも人一倍頑張った。お陰で常に中位以上にランクされ三年、いや六年以上も激しい鍛錬を通して来ている連中に勝っては「俺も意外に体力があるなあ」と自惚れていた次第である。事実はそうではない。大半の連中がいい加減にやっているのである。そのマラソンも試合前だけ、次第にやらなくなった。ボール拾いの多かった僕にとってマラソンは唯一の楽しみだったのに。独りで走る程の強い意志を持たない僕はこうして鍛錬に甘えていたのである。ある奴が言っていた。
「体力づくりは高校迄。大学は技術と体力の調整にある。」と……。そうかも知れない。しかし僕等、初心者は倒底コート内で充分体力を出し切れる程の技能、精神力を持たない。だが、現実にコート内で自分の限界を知る迄努力している人間が何人いるだろう。他のスポーツのことは分らないがスポーツの楽しさをその瞬間、そして持続的苦しみに求めていた僕にとって軟庭は世間一般が見る如く女子、老齢者の為のスポーツに見えたのである。こんな考えで続けられる筈がない。ある奴から言われた。「それは君が努力していないからで精一杯やっている人間は充分それを楽しんでいる。」と。確かにそうであると思う。いや、そうに違いない。そう信して努力したつもりが今だにその考えは、あくまでも理想であり現実と化さないのである。
 以上が入部当時のそして相も変らぬ今の心境であるがコートに練習に来た以上、全てを忘れ、ただ走る事、そして苦しむことに自分の青春を賭ければそれだけで充分であると思う。「皆が単純にそう思えば先輩の説教も仲間の悪口も自分自身への不安も失くなるのではないのかなァ。」いかにも幼稚で一面的な考え方(誰かに言わせれば「こんな事は当然の事で誰だって心得ているサ」ということになるが)に思えるが、現実に行動している者が幾人いるか。人材不足を弱さの原因にしている我部にとって根本の原因は今述べた事にあるのだと思う。
 長い長い伝統を通じてバカに成りきれぬ人間の集団が出来上っているのである。全てがそうだと言っているのではない。中にはバカに成りきっているのもいるが彼等も人間である以上朱に交われぱ赤くなる。具体的に述べるなら一大決心を、いや少くとも精一杯やってやろうと思って入部した新入生を如何に使うか。その逞しい若さ、バカに成りきれる力を如何に持続させるかであり、それは上級生の任務である。もし彼等が下級生の時甘やかされていたのだったら四年になってやる事などたかが知れている。何故なら鍛錬は一年から四年迄を通じて成されるものであり急に変化のあろう筈もない。我部の"弱い"という伝統はその悪循環にある。残念ながら我代もその例にもれないが少くとも多少の進歩はさせたつもりである。だからいつかは上級生が下級生の尻をひっぱたいて(・・・・・・・・)

マラソンをしている姿が日吉に見られるであろう。その為にも大学四年間、常時鍛練に励む様望む。"若さ”とはそこに存在するものである。真理に対してどこ迄も忠実に突き進むことができるものなのである。


                     (株式会社牧野フライス製作所勤務)

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セカンド・サーヴィス
                     矢倉正之

 

過去一年間余、私は主に塾の女子部と共にテニスをやり、女子部のテニスについて色々考えたりしたが、その中で特に感じた事を二〜三書かせて頂きます。尚、これは昨年の女子部を念頭に入れて書くので、別に書いた女子の前期戦評の一部としてお読み頂き、今後の練習の参考にして頂きたいと思います。

 現在の軟式庭球が硬式庭球に比して、明らかに劣るのはサーヴィスである。硬式の一流選手はファースト・サーヴィスは勿論、セカンド・サーヴィスもファースト・サーヴィスに劣らぬ程、破壊的威力を持つものであり、又こうでなけれぱ一流選手になれぬのである。硬式のボール及びラケット(ボールはよく弾む)それにネットの高さ(真中が低い)という点で軟式のそれ等とは大きな相違があり、この構造的な相違の面から、硬式サーヴィスの優秀性が当然必要とされるものであり、硬式のサーヴィスを同一条件で比較するのは軟式にとって酷かも知れぬが、兎に角硬式庭球に於ては、特にサーヴィスが重要視され、それ故大変良く研究し練習がなされているのである。
 一方、我が軟式庭球に於ては、セカンド・サーヴィスは別名安全サーヴィス(これは攻撃的というよりも先ず相手コートに確実に入れる事をモットーとしている。尤も、セカンド・サーヴィスで相手レシーブの逆襲を少しでも防ぐ為に、コースについて考慮し、バウンドを変える為に種々の角度からカットする等の工夫がなされているが、それでも硬式のセカンド・サーヴィスの、より攻撃的であるという点を見ると、お粗末な限りである。その上尚悪い事には、この安全サーヴィスと言われるセカンド・サーヴィスに於て、フォルト(この場合にはダブル・フォルト)が決して少くない事だ。以上の点からも、軟式のサーヴィスは硬式のそれに大変劣るのである。これを逆にレシーバーについて考えると、安全サーヴィスが入った時のレシーブで、無雑作にネットにかけたり、サイド、バックアウト等のミスは、サーバーのダブル・フォルトに相当するもので深く反省せねぱならない。(実際には、ゆるいボールはタイミングの取り方が難しいものであるが) TENNISの発展の為に、現在ある硬式庭球と軟式庭球が相互に研究し、相手の長所を吸収する事である。その意味でも我々軟式庭球は硬式庭球のサーヴィス技術をもっと取り入れて学ぶ必要があろう。実際の硬式選手に接してその試合や練習を見聞し、硬式庭球の技術書を読む等して硬式庭球のサーヴィスに対する研究態度、練習方法等を貪欲に吸収しなければならない。軟式のサーヴィス技術が向上すれば当然レシーブカの進歩が必要となり、ここに軟式庭球が一歩前進するのである。
 次にサーヴィスの有利性と、それを行う上での注意すべき点について考えてみよう。
 サーヴィスはボレー・スマッシュ・グランドストロークと異り、太陽光線や突風等の自然的条件を除けば、サーヴィスという行為の全てが、サーバー個人の力、すなわち当人の持つ技術、意志、行動力のみでなし得るという事が大きな特徴である。だから練習と経験を積む事によって相手コートの狙った場所に、緩急自在にしかも確実にサーブして、その試合運びの上で先手を取るという事がサーヴィスの第一の使命であり有利な点である。
 次にサーブする上での注意すべき点は、技術書によると大体次の三つである。

 @相手を圧する破壊的威力を有する

 A相手の弱点を突く=コースを考える

 B確実に入れる

優秀なサーヴィスとは、右の三要素がミックスされたもので、練習や試合に於ては、この点を十分頭に入れて行わねばならない。全力を集中した破壊的威力のサーヴィスは、その一発で工ースとなり楽にポイント出来る大変魅力的なものであるが、確実に入ってこそ効果があるのであって、如何に確率よく入れるかが問題であり、要は、良いサーヴィス(単に威力に富むというだけでなく、三要素をうまくミックスしたもの)を行い、試合に於ける主導権を握り、常に味方型を有利に導くべきものである。
 ところで我が女子部を見た場合、中西・天本は時々威力あるファースト・サーヴィスをし、ポイントをする。しかしまだトスが一定せず、ラケット操作が不安定で力のロスがあり、自分の技術となっていないので、これからも、益々努力して、時々入る今の威力あるサーヴィスを研き、マスターしてほしい。尚威力という点では先の二人に劣るが確実性、安定性という点で、本安がかなりの進境を見せているのが楽しみだ。
 後衛の大きな武器としてのファースト・サーヴィスについて、今後一層研究がなされなければいけないのは当然であるが、それ以上に塾女子部の現段階に於いての重要な事は、セカンド・サーヴィスに対する再認識と研究である。セカンド・サーヴィスのフォルト、つまりダブルフォルトは、只で一ポイントを相手に献上するのみならず、それは相手に対しては勇気着け、自分には大きな心理的負担となってプレーを萎縮させ、次々ミスを誘発しがちである。少くとも一ゲーム中、ダブルフォルトを一本以下に出来たならば、もっともっと有利にゲームを展開出来るであろう。事実天本、中西は良いサーヴィスをした次に、とんでもないダブルフォルトをし、自ら攻撃、反撃のチャンスを潰すという事が多々ある。未だ未完成の選手にとって、どんどん新しい技術を開拓し取得せねばならないが、この時、すでに得たものは必ずマスターし、自分のものにせねばならず、この意味で一ゲーム中の何本ものダブルフォルトは絶対許せないものである。セカンド・サーヴィスも究極的には硬式のサーヴィスの如く、破壊的威力を持つファースト・サーヴィスに劣らぬ程のものとするのが理想であろう。しかし現在の女子部後衛陣は、大変地味であるが、先ず、いわゆる安全サーヴィスと称される、確実に相手コートに入れるセカンド・サーヴィスの練習に力を注ぎ、セカンドサーヴィスに関しては絶対の自信を持てる様務めてほしい。
 蛇足ながら今一度セカンド・サーヴィスを前衛のレシーブという観点から考えてみる。レシーブは前衛だけのものではないが、前衛の早くネットに着き、良いポジションを取るという特殊な任務を考慮しての事である。ファースト・サーヴィスを入れる事が出来たならばサーバーに利がある。しかしセカンド・サーヴィスが一般に言う、安全サーヴィスとしてなされたならば攻撃に於ける有利性は、逆にレシーバーが有するものと積極的に考えるべきであり、先に書いた如く、無雑作なレシーブ・ミスはダブルフォルトに匹敵する。利を得たレシーバーがアタック等一発で工ースとするのは積極的戦法の一つであるが、前衛の重要な任務である良いポジションを取る為に、相手陣内に深く返球し、素早くネットに着くというのが基本であろう。以上、前衛は早くネットに着くという点を考慮に入れたレシーブの研究と練習が望まれる。
 サーヴィスについて若干書いたのだが、テニスの試合でサーヴィスの果たす役割は非常に大であり、それ故よく研究し、練習せねばならないのである。硬式のサーヴィスを例に出したが、ごく身近かな塾の先輩の中にも、軟式のサーヴィス日本一と言われる西村信寛先輩(昭・36卒)、近くは鈴木連先輩(昭・41卒)等のサービスの名手が居られるが、いずれも在学中から色々創意工夫の努力を重ねて、立派なサーヴィス技術を身に着けられたのである。テニスの練習に於てサーヴィスのみならず、グランド・ストローク、スマッシュ、ボレー、ゲーム等幾種類もの練習を消化せねばならないが、少くともサーヴィス練習は、サーバー個人の積極的な研究心と行動力があれば、何時、何処に於ても、一人でも練習出来るものである。サーヴィスは、個人の個性を最大限に発揮し得るものであるから、各自よく研究して練習を積み、自分に合ったサーヴィス技術を身につけて下さい。皆様の益々の御健闘を期待します。
 四年間テニスをやり、とても楽しい部生活、そして充実した学生々活を送る事が出来ました。今迄御指導頂きました先輩諸兄姉同僚、後輩諸君、その他テニスに関する諸々の方々に深く感謝致します。今後もどうかよろしく御指導をお願い致します。

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思いつくままに
                    原 章次

 

卒業後すぐに実社会に放り出され、右も左もわからない毎日を送っており、再び生活することの出来ない学生生活に対、後悔もし、また満足もしている次第です。
 私は部生活の意義を自分なりに解釈し、自由に行動して来ましたので思い残すようなことは見当たりませんが、ただ一つだけ四年間、私の後を常に追いかけてきた事があります。それは「後悔先にたたず」ということです。
 毎年、私自身春になれば自分なりに、その年の目標を定め、少くともその半分だけでも実現しようと努力してきました。しかし シ-ズンが終った時、感じる事は自分の努力の不足だけでした。 人が「よくやった」と云ってくれても、最終的には、まだ自分の努力の足りないことを感じるだけなのです。この様な点は私だけでなく慶応軟式庭球部全体に云える事のように思われます。即ちはっきり云えば各自が自分に甘く、自覚が足りないということになると思います。全てに対し「自分に厳しく!」ということは不可能に近いと私は思います。しかし、各自が自分の与えられた責務に対しては(レギュラー、イレギュラーを問わず)自分にできるだけ厳しくあって欲しいと思います。学生時代、この事に少し最もルーズであった私が卒業とし、強く感じたのがこの点ですので特に一つだけ挙げてみたのです。
 私も当分の間は東京を離れそうもないので日吉には度々御邪魔させていただきますから、「先輩が来た」等と敬遠せずに宜しく御願い致します。
 最後になってしまいましたが、入学時より卒業、就職まで御面倒を見て下さいました諸先輩諸兄氏、並びに、私にとって常に良き指導者でありました現役諸君に対し感謝の意を表し、なお今後の御発展を御祈り致します。


                                               (大倉用紙店勤務)

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ファイトなき者は去れ
                          主将 大久保 勉

 

 

スポーツに於いて、勝ちたいという欲求は自然の理である。それでは勝つにはどうしたらよいか。技術面の向上と精神面の充実とが必要であって、その総和によって勝敗が決すると言える。技術面の向上には精神面の充実がなけれぱ、進歩が遅いし、精神面の前向きな充実は、技術的錬磨があってこそ、得られる。
現在の我が部を考えると、この技術面と精神面との関連が乏しい。技術的なスランプや伸び悩みの壁にぶつかると、技術的努力の継続を安易に怠り、精神的問題へと変化させ、結局、逃避してしまう。日頃の練習にも、こんな例は数多く見られる。コートに入る時は、各々、やる気を出しているのに、いざ、ボールを打ち出すと、ものの10分もたたない内に、元気がなくなり、クシュンとして、考え込んでしまう者が多い。そんなに簡単に、巧くなるものではないということは、充分に承知している筈である。コートに立ったら、考える前に、まず実際に練習して欲しい。
 "ファイト”である。若さ溢れるファイトである。我が部に、単純に燃える人間が少なくなった。世相の移り変りの結果だとしたら、スポーツマンは、そんなものを葬り去るべきである。ファイトとは、気力である。誰でも瞬間的には燃える。大切なのは、大きさと時間的持続である。ファイトが大きく燃えることによって、はじめて考えが具体化し、あとはその目標目指して果敢に、着実に努力すると共に、技術と精神の関連を自覚し、常に自己を厳しく律すれぱ、必ずや、内、外両面に於いて、絶対的勝利に結びつくであろう。又、どんなに弱くて下手でも、勝たなければならない。
スポーツは勝つことを目標としている。人間形成等の終局目的は、あくまでも勝利へのひたむきな努力の課程があってこそ、結果として得られるものだと思う。最初から、それを掲げる伝統的ムードのある我が部で、実際の練習には無気力な連中が、精神云々と口にするのは、弱者の戯言に過ぎない。
 我々、若者の目標は、夢は、はるかに遠く、高く、大きい方が良い。容易には達成出来ない目標を実現するには、それこそ、自分のすべてをかけて頑張らざるを得なくなる。「すべて」をである。目標達成には犠牲が必要となる。今更、言うべき事ではないかもしれないが、我々の中には、まだ他の事には目もくれずに没頭する者が少ない。テニスが"好き”なことは好きだが、正しく表現、行動していない。好きならぱ夢中になって欲しい。少なくともコートに立った時だけでも、自分を忘れる位、夢中になって欲しい。テニスは自分のすべてを捧げるに足るスポーツである。一生懸命やれぱ、何かが得られるに違いない。深く求めれば、それだけの事が得られるに違いない。テニスに於いても、「求めよ。さらば与えられん」の原則が脈々と生きている。
そう確信する。私には、まだ解からない。
同じ道を歩んだ先輩だけが知っている。我々は先輩に甘え、戒められ、正しく前進しようではないか。我々の部はそういう点で恵まれている。諸先輩が、築いて下さった”和のムード”がある。私は”和の精神”を正しく理解出来るように、勝つべく厳しい練習をするつもりである。
 部員全員にとって、一番必要な事は、野性的なファイトを持つことである。日頃の練習では、大きな声を張り上げ、ガムシャラに身体を疲れさせ、試合に於ては、何が何でも勝たねばならぬという執念が必要である。
 真のファイトが全員に備わった時、全日本優勝も夢ではなくなるだろう。
 さあ、頑張ろう。

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マネージャー
   ニケ月目

                       主務 光岡通安

 

 先ず私のマネージャーなる役職に対する定義付けをしてみたい。抑々「マネージャー」という言葉は、西洋輸入の外来語であり、「主務」という日本語は後に当てたものであろう。それは社会機構の多様化が生んだ産物であり、西洋ではいざ知らず、我が日本においては、その座はいまだ確立していない。私流にそれを象徴化して言うならば、マネージャーとは、何か重要な話に熱中している人が吸っている煙草のようなものである。その人は話に気を集中し、自分の吸っている、或いは指に持っている煙草を殆んど、否全く意識していないであろう。その人にとって煙草はなければないでも済みそうだが、しかし矢張り必要不可欠の様である。かかる事情は、全く喫煙しない人でも理解できないでもないだろう。何かはっきりしない「けむり」みたいな話だが、それだけマネージャーなるものも、煙みたいな存在だということである。今後、社会機構の発展に応じて明らかなものになると思う。
 次に話は具体的な面に変わって、我々各学年の部員はすべて、自分より下の学年の部員に対して積極的に範となりたいものだ。「俺が下級生に影響してやる」という構えである。より下級生は上級生を絶えずみている。これに応ずるに、上級生が「みるなら勝手にみやがれ」といった態度を以てしたのでは、年功序列の学校クラブ組織においては、大きな発展は望めないであろう。その為には、テニス全般においても、人間的な面においても、並の努力では済まない。然しこれも確固たる自尊心と責任感があれば、出来ぬことでもなさそうだ。
 マネージャー二ヵ月目の立場より、二点について申し上げました。
本部員諸君、今後十ヶ月間宜しく。同時に在学中はクラブ活動を共に致しました若い先輩の方々を始めまして、他の先輩の方々におかれましても、何かと至らぬ私であります故、大に御叱責、御指導下さいます様お願い申しあげます。

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「憧れる」

                     副将   菅原信弘

 

 先日、大久保と蓮実と私と三人集まった時「お前変な憧れをもっているんだな。」と大久保に言われた言葉がどっかにひっかかっていたので少しばかりおしゃべりしたくなりました。何の話をしていた時かと言えば、私が名古屋にある会社の試験を受けることに決めたばかりでしたので自然に将来の事に話題が進行していた最中のことでした。男同志の話ですから女性の話、結婚観等出なかった訳ではありませんが、ここにあげるのは男一匹どう生きてゆくかということでした。男同志の話というのものはいろんな回り道をしましょうが結局はこの話題になるんだろうと思います。そこで私が何を言ったのか。恥しいこと乍ら非常に甘ったれたことをしゃべった訳です。それは高校時代テニスに熱中したが幸いにして慶応の経済で四年間過ごしここでまたテニスに熱中し、さて卒業、就職という段になったらテニスの先輩に良い会社を紹介して戴いてそこに入ってしまうなんて話がうますぎはしないかというようなことなんです。
週刊誌の読みすぎかも知れませんけど何か不安で仕方がありません。この先どんな苦しい試練が待ち構えているかわからないのに果して取っ組んでゆけるだろうかという不安なんです。無論なんとかしてやっていけるという自信はあります。けれどもこの自身では不安な気持を押し包むことはできないことがわかるから不安な訳です。小さくちょっとしたものだけど、大きさには関係なく無視できない存在であると思います。だからいろんな苦労して頑張ってきた人の顔をみると尊敬したくなるし、又実際尊敬している人も二、三人おります。勿論単なる苦労ではなく回復の予想もできないし生死がかかってるようなものを言いたい訳です。そんな訳ですから自然に苦労するとか冷飯を食わされるとかいうことに"憧れ”を感んじるんです。"憧れ”には"こわさ”がつきものですけれど、"憧れ”を捨てる訳にはいきません。確かにそのようた暗闇に入ったら自分はもしかしたらつぶれてしまうかも知れませんが、その暗さの中でこそ自分の姿がわかるんだと思います。自分の姿を知らずに一生を終ることはこのうえなく嫌なものだと思います。人生の1/3を過ぎて未だ知らないのがたまらない位ですから。今迄全く何事もなく育ってきたという訳でもありませんが今迄の苦しいことには必ず誰かの暖かい配慮があった筈です。頼ろうとしなくても身近で無言の励ましがありました。そういった人間関係は必要なものだし又非常に素晴らしいものだと思うんですけど、それがない時の自分はどうするだろうかということが知りたい訳です。
 それでは自分の姿はどうしたらみとめることができるだろうか。そういう苦しい立場というものは作ってえられるものじゃないし又初めから自分はこれから苦しみにぶつかるんだという準備ができていては真の自分の姿というものはみることはできないと思われます。自分がいつか苦しい立場に置かれることがあったら、自分の姿をみつめることができるだろうということしか言えないのではないかという気がします。その意味で苦しい立場を経験され乗りこえられた人を尊敬するのであり、又自分にとって苦しい立場を経験したいということが"憧れ”となるのです。変な憧れというにぴったりだとお思いになりますか?。

 

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私のしてみたい事
                       松浦公子

 


 私が初めてラケットを手にし、それまで"網のような”と形容していたものが"ガット”である事を知り、“握るところ”が“グリップ”であると教えられたあの頃……寒い朝、誰も居ないコートに飛び込んで「こんにちわ」と叫んだ時のあの気持…自分では巧くなったつもりで臨んだ試合に次々に負けて味わったあのくやしさ、あの淋しさ……その一つ一つの小さな想い出を、私は常に見つめて歩んでいきたい。そしてーー勝ちたい。
私は私の代に、何か大きな事をしてみようなどとは思わない。又、たとえ思っても一代きりではできるものではない。結果はすぐには出て来ない。代から代へと受け継がれて様々な形で現われるものだと思う。
今までの各代の考え、方向が、私の持つそれ等にどう反映され、生かされ、いかに調和し、そして続く代にどういう形となって現われるかーーこう考えると責任の大きさを感じずにはいられない。歴代のキャプテンの方々が、各々それぞれの立場で考えてこられたことを、私もここに感ずる時が来た。ーー今が大切な時である。と…、これまで培われて来たものを土台に、そこから学び、そこから考え、その上に次の代へ橋渡しとなる一層を築く。そういうつもりで私は臨みたい。現女子部は一頃にくらべ、部員の数もふえた。戦力も、まだまだ微力ではあるが、ついて来た。私も、いえ、私こそこの現在を大切に育てていきたい。私達女子部のテニスは、これからである。
 大きい事はしないと言った。しかしやりたい事はたくさんある。焦らずに一つ一つと取り組んでみたい。がっぷり四つに組んでいたのでは、なかなか先に進めないかもしれない。しかし簡単につり出してしまう程の腕力は私にはない。四つになって水が入り、あまり喜ぱれないお土産を次の代に残していく事になるかもしれない。しかし誰のお土産かわからないような物を私は残したくない。私達の代のカラーを残しておきたい。
 一にも二にも私は強くなりたい。スポーツをしている人達誰もが考えることであると思う。試合に勝つことが主目的であるとは、決して言わない。唯勝つことのみを目的として、その為に努力していると思うと、なぜか空しくなる。空しく感ずるのはまだテニスに対するそれだけの考え方がないこと、又、その基となる力がなさすぎること、に通ずるかもしれない。私は、空しさを感ずることなく努力できる人達が羨やましい。勝を争い、必死になってボールを追う姿は美しい。私が、常に抱いて離すことのできない雑念など、少しも見られない。誰しもいざ試合のコートに立った時は、勝を意識している。そしてボールを追う。その人なりに美しい。どこが違うのかと、いつも考える。ともかく彼等は美しい。私は一歩でもそれに近づきたい。
 私は勝つ事を目的としてではなく、一つの方向として持っていたい。そして、そこにある過程を疎かにすることなく、結果として出てくる副産物をすべて吸収する程の欲張りでありたい。これ程熱中できるのは、若さあってのことではないだろうか。これが若さだ、というものを、私は、自分に教えたい。そういうつもりで、私はやりたい。
 現在、女子部は、男子部にとって、目の上のこぶの如き存在である。できることならばこのこぶを、おでき位にしたい。しかし、量は多少増したとは言うものの、質の点では到底男子には及ぱない点、又、女子テニス界に於ける地位等を考えあわせると、一言もない。これこそ四つに組んだまま、ちょっとやそっとでは、動きのつかない問題である。皆、それぞれ女子部に対するお考えは、お持ちであろうと思う。お叱りなり御批判なり、おおいに聞かせていただきたい。女子部の存在にまつわる問題はいろいろある。そのこぶたる存在を少しでも小さくするべく、努力したい。
 私が下級生の時、言いたい放題の事を言っては、上級生に相当の御迷惑をおかけした。今、思うと、本当に申し訳なかったという気持と同時に、あまえさせて下さった先輩方に頭の下がる思いがする。人間、誰もが、自分より長く、尊い経験の持ち主を持っている。ありがたいことだと思う。御教え、御導きをお願いし、そこから多くを吸収したい。
 部は、部員一人一人の考えが、一つの個性となって現れた時、はじめて生きてくるものではないだろうか。皆、それぞれの立場で、その人なりに多くを学ぶ。この春には新入生を迎え、又、一層にぎやかになることでしょう。皆手を取りあい、楽しく、若く、ピチピチとした女子部を作るべく努力したい。今後共、宜しく御指導をお願い致します。

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感ずるままに
                  中野祥子

 

 

冬期トレーニングも終りシーズン・オフとなって、一年のうちのわずかではあるがテニスそのものからは離れた生活を送っているこの頃である。昨年のことを振り返ってみると、九月から代を引き継ぎ、試合試合で夢中になっているうちに三ヵ月余りが過ぎ去ってしまったという感じで、部運営の面に於ても特別大きな問題にはぶつからずにきてしまい、かえってこれから先のことが不安になってくるのである。私達の一年上にブランクがあった為、主務としての仕事も今までの一年間先輩から教えていただいたりして、少しづつつは頭に入れてきたつもりではあったが、まだまだいたらないところが多く、自分では気付かずにいかに上級生に甘えていたかを痛感してもいる。それと共に上級生のありがたさや必要性も感じ、これからの自分の責任というものがはっきりしてくる。
春季合宿は今年は男子と別にすることになったが、この一週間の合宿生活をいかに有益にさせるかが私達が初めてぶつかる大きな仕事であると思う。技術的にみれぱ、二年生はかなり安定してきているし、一年生も目ざましい進歩を昨年末には示しているので、ここで川野さんという良き先輩の御指導をいただけるのであるから、その成果も大きいのではないかと楽しみである。
しかし技術面でのびるには全ての面における協同生活がうまく行なわれなけれぱならない。それは皆の責任でもあるが、究極的には私達三年の指導ということであろう。
現在の女子部をみると、幸いなことに各学年ごとに非常によくまとまっている。その上に一、二、三年がむすびつくというのが理想であるが、まず学年ごとのまとまりが必要なのであるからこのムードは良いと思う。春にはまた新入部員を迎えると思うが部の"和”ということを考え、より良い女子部となるよう最後の一年間努力するつもりである。

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編集後記

 

 例年の如く五月発行を目ざしながら、例年の如くおくれましたことを深くお詑び申しあげます。また、出版に際して、御多忙中にも拘らず、原稿をお寄せ下さいました諸先輩、現役の皆様方、ありがとうございました。
 「部報」も十五号を迎えました。記念の意味もあって、単なる住所録、記録集にはしたくないと思いながらも、積極的な投稿もなく、逆に原稿の催促に大半の時を費しながらできあがった次第です。
 この本はみんなの本です。私が思っていること、みんなにきいてほしいなア…。 こんな創作を書いてみたんだけど、読んでもらいたいな……。こういう欲求があってこそ本当の私達の「部報」が生まれるのではないでしょうか。部報の係が原稿のわりあてをするのではなく、先輩、現役を問わず「これを部報に……」という積極的な投稿があってできる部報こそ本当に親しみのある私達の部報ではないかと思うのです。
もう一度「部報」のあり方を、考えてほしく思います。
 最後に、編集の面でいろいろ御指導下さいました野田様、印刷所の名畑様、又広告をおよせ下さいました各社には心から御礼申しあげます。
 尚、部報の紙は、大同洋紙の林哲夫先輩のお世話で譲りうけたものです。
     

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