体育会入会二十周年にあたり
体育会理事 生 田 正 輝 |
軟式庭球部が慶応義塾体育会に加入して以来、ここに二十年を迎えることになった。しかし、わが国のテニスが軟式テニスをもってはじまり義塾体育会の庭球部もかって軟式テニスを行ない、後に硬式を導入したことを考えるならば、その歴史はさらに長く、また、輝かしいものであるといわなければならないであろう。
軟式庭球部となってからも、この二十年の間、時に消長があったとはいえ、まことに誇るべき歴史を重ね、すぐれた伝統を築き上げ、立派に体育会の一部として成長して来た。しかしながら、その陰には、多くの人びとの汗と泥にまみれた努力があり、時に勝利の美酒によい、時に敗北の悲運にないた歴史が秘められていることを忘れてはならない。しぱしぱ指摘しているように、「より輝かしい歴史の一頁を加えるべく努力することは、過去に栄光を荷うものの責任であり、宿命ですらある。」
そのような意味において、現在の軟式庭球部の部員諸君が、さらに厳しい訓練を積み、努力を重ねてすぐれた成果をおさめられんことを切望してやまない。「すべて練習は不可能を可能にする」といわれた小泉信三先生が、ほかならぬ軟式テニスの名選手であったことを、この際とくに思い起こして欲しい
のである。
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学連の創立について
総監督 岩井 三郎 |
学生連盟の創立については現在の学生諸君は勿論、庭球界に於いても余り知られていないので創立者の一員として御紹介しておく。
軟庭界は大正末期から昭和の初期にかけて混乱が続いた。私の記憶で間違いがあるかもしれぬが、簡単にいえぱ日本軟球協会があり、これに対立し明治神宮大会を主体とする全日本軟式庭球連盟があり、更にこれが分裂、改組され故宮田光雄氏(元警視総監)が会長、崎山武夫氏(代議士)が副会長で昭和七年日本軟球連盟(現連盟の母体)が新発足した。
一方、学生は昭和の初め、一応、関東学生連盟ができ、報知新聞後援の下に大学、高専大会が行なわれていたが、この学連なるものは、いつもいずれかの連盟の隷属下にあり、その色彩もその都度変り、内容的にも誠に貧弱なものであった。いわぱその連盟の勢力範囲誇示の一手段に使われていたにすぎない。
私が慶応に入学したのが昭和六年で、翌七年現軟庭部の母体ともいうべき慶応軟庭クラブが誕生し、 昭和八年、その時の高専大会で優勝したが、これは旧協会時代の流れのものであった。昭和九年であったと思うが、連盟の崎山副会長が死去された。その折、連盟から君達学連の会長が死去されたと聞かされ、崎山氏には申訳けないが、崎山氏が会長であったことを初めて知った。これも前記のように連盟が学生連盟の会長は、自動的に連盟副会長が当るということになっていたからであり、学生は連盟会員でもあった訳である。
そこで早稲田の北条君、先田君、立教の落合君、内藤君、明治の清水君と慶応の私が期せずして、もっとスッキリした学連を作りたい、取りあえずは学生自治でよいではないか、連盟とは手を切るということになり、崎山氏葬儀を全員で手伝った後、平河町の連盟本部を訪れ、これまでの学連より脱退を表明、会員からも離脱して東京の他の大学、高専に呼びかけたところ、いずれも吾々の意を了として脱退したため既成学連はここに解散となった。而して高専クラスはそのクラスだけでリーグを結成して(現在もその一部が医師薬リーグとして残っている)吾々と袂を分った。結局、残ったのは六大学と中央と
なった。そこで名称は暫定的に東京学生軟式庭球連盟としたが、別に事務所がある訳ではなく、早稲田や三田の喫茶店で打合せをなし、幸い前年度大学高専リーグで慶応が優勝していたため優勝旗寄贈主である読売新聞(報知が読売と合併)に赴き、改めて吾々の作った学連に優勝旗を再交付してもらい、後援も約し、曲りなりにもリーグ戦を挙行、早慶同率優勝した。これが現日本学生軟式庭球連盟の母体であり、誕生である。
その年の末(昭和九年)改組された日本庭球連盟の常任理事に就任した万俵賀一氏より話があり、君達の作った学連は学生自治のものであり大変結構だし、その自主性も大いに尊重する。連盟も、もう全国的に統一され立派なものだったから、君達の作った学連と兄弟関係のように提携していきたい。けっして以前の学連に処したように隷属的存在にはしない。ついては、やはり立派な社会人を会長、後援者に迎えるべきではなかろうかとの事から、では、連盟に関係ない人ならと意見が一致し、二、三、侯補の中から糸川病院長の糸川欣也氏に白羽の矢を立て、万俵氏共々清洲橋の糸川病院に赴き糸川氏より承諾を得、初代学連会長に就任して頂いた(氏は後の連盟会長、氏の息が現監督)。
初めは名目的で多少の後援を期待する程度と思っていたところ、糸川会長は極めて熱心に吾々と共に学連の育成に没頭してくれ、吾々は糸川病院を半ば宿舎として諸計画の事務遂行に当った。そして翌昭和十年には関西の関学、同志社に呼びかけ関西学生リーグを統一し東西合同して名称も全日本学生軟式庭球連盟とし、東京会館に於いて東西合同記念結成大会を開催し、名実共に吾国に於いて初めて全日本の学生連盟が誕生した訳である。
しかも、事ここに至るまでの諸費用は総て糸川会長の私費によって賄われてきたもので、御礼の申し上げようもない次第である。
現学連の隆盛をみて誠に吾々としても感銘深いものがあるが、創立当時の吾々の、また、会長の意志でもあった学生らしい学生の自主性を根幹としてあくまでも進んでいって頂きたいものである。
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思い出すままに
高 橋 昭 二 |
連休前に、学生さんから電話があり、原稿を頼むといってきた。大分日数もあるので、何んとか書けると思い、一応、引受けることにした。最近は学校の方にも、理事会の方にもすっかり御無沙汰してしまい、まことに申訳けなく思っているが、それと同時にテニスの方もすっかり御無沙汰で、ラケットを手にするのも年に1回位になってしまい、小さい球をたたく方に血道をあげている。
それというのも、5年程前に、会社の各課対抗(当時部内の支店勤務)のバレーボール大会に出場して、アキレス腱を切ってしまってからは、すっかりおじ気づいてしまい、テニスをやらなくなってしまった。今から思うと、まことに馬鹿なことをしたもので、会社の中では一応スポーツマンということになっているため、本職はテニスでも、何かというと、いろいろの対抗試合には引っ張りだされることになる。それに、中学時代に、一時バレー部にもいたことがあるため、そのへんの素人よりは、いささか腕に自信はあった。しかも、僕の所属の課が過去の戦績がいつも、出ると負けということで、それでは一ついいところを見せてやれと、よせぱいいのに、中衛のセンター(九人制)を、かってでたものだ。
ところが、その活躍のためかどうか、一回戦、二回戦、三回戦と、勝ち進み、とうとう決勝戦まで進出してしまった。女の子達の評判も上々という次第となった(当時三十六才)。そして、いよいよ決勝戦、コートの囲りは黒山の人、相手チームは、毎年優勝の地中線課チーム、平均年令二十五才、それに対して、我が方は、毎年、出ると負けチーム、平均年令、三十七、八才、ということで、観戦者の応援は、大方が我が方に送くられるのもまた当然のこと。こうなれば、チームの中心である僕としても、張り切らざるを得ない。接戦の末、第一セットを取り、第ニセットの中頃と記憶しているが、ジャンプしたはずみに、右足首に強い衝撃を感じて坐りこんでしまった。タイムをかけて、ベンチで足首を調べてみたら、足首のところが、ぴょこんと、へこんでおり、たとうとしても足首に力が入らずたつことができない。早速、会社の病院へ車で運ばれ、診断の結果、アキレス腱が完全に切れていることが分った。その日から入院、翌日手術、二ヶ月間の入院生活をすることになってしまった。電話で、かけつけた女房からは、「年も考えずに余り張り切るからですよ」とさんざん小言をいわれてしまった。考えてみたら、学校をでてからすでに十年以上、日頃、ろくに運動もしていなかったので、気持とは逆に体の方はすっかりなまってしまっていたんだなあ、と、つくづく感じた。
今年で満四十二才、男の厄年を迎えたが、不思議なもので、気持の方は学生時代と少しも変っていないような気がする。ときどき学校時代の悪友と飲んだりすると、とくに、学生の頃と同じような気持になる。しかし、身体の方はあの頃とは相当変ってしまったことを、お互に感ぜざる得ない。酒を飲んでも二十代の頃に比較すると、大分量も少なくなったし、とくに深酒をしたりすると、翌日の回復がまことに遅い。どうかすると、二、 三日胃の調子が回復しないこともある。それに比べると昔は本当によく飲んだし、それでも平気だったものだと、つくづく思う。
僕が本格的に飲みはじめたのは、予科の二年の頃と記憶している。当時の部は、まだ体育会にも入っておらず、主力選手は医学部の人達で占められていた。コートも病院の中に、粗末なコートが二面あったにすぎなかった。したがって、三田の連中は毎日三田から都電で信濃町まで練習に通っていた。練習の終った後、毎日寄る店が、信濃町の駅の近くにあった。名前は忘れてしまったが、喫茶店ともつかず、おしるこ屋ともつかず、お客が五、六人も入れば、満員になってしまうような店だった。ちょっと可愛い女の子と、その母親とでやっている店で、我々は、その可愛い子ちゃんが目的で、毎日のようにそこに通ったものだ。ところが、そこには、安物のウィスキーも置いてあったので、いつ頃からか、それを紅茶に入れてもらって飲んだりしているうちに、だんだんと酒の味を覚えるようになってしまった。そうこうしているうちに、合宿が四日市で開らかれることになり、それに参加した。合宿といっても、当時は、まことにお粗末なもので、参加人員も、二十人とはいなかったように記憶している。合宿所は平田漁網という会社の工場の中の建物を借りたが、畳など敷いてなく、板の間にござを敷いてそこに寝るのだが、蒲団なども満足になく、不足の分はむしろを掛けて寝るといった始末であった。食事もまた同様で、工場の中の工員食堂を利用させてもらったが、文字通りの一汁一菜の毎日であった。折悪しく、その合宿は天候に恵まれず、半分以上が雨で、薄暗い合宿所の中で、ごろごして暮す日が何日か続いた。そんなわけで若いエネルギーの発散もならず、ある夕方、大石君(現在日下部ワンソンKK大阪営業所長二十六、七年主将)と、ぶらりと町にさまよいでたが、そこで一軒の屋台に毛のはえたような飲屋を発見、早速入り込んだが、なんと、そこでだされたのが、カストリといって、いまの若い人は多分お目にかかったことのないやつで、ちょうど米のとぎ汁のように、白濁し、ぷーんと異様なにおいのする酒である。それでもアルコール度は、かなり強く、二十五度位、最初口にしたときは、吐きだしたいような気がしたが、二杯目位からは酔いがまわってきて、独特の臭気もそれほど気にならなくなり、二人で、五杯位づつ飲んでしまったが、すっかりいい気持になって、雨の降る夜の町を二人で肩を組み、大声で歌いながら御帰還と相なったが、すでにして門限をとうにすぎ、門は堅く閉ざされている。仕方なく、酒の勢いで門を乗り越えて合宿所にたどり着いた。さて、それからが大変で、その頃には、すっかり酔いもまわっていたので、すでに睡眠中の下級生といわず、上級生までも片っ端からたたき起す狼藉を働き、下級生の床をぶんどって、お先に高いびきで寝てしまった。翌日、キャプテンから何んらかの注意は受けたようだが、それほどきついお仕置きはなかったような気がする。さて、それが病みつきになってしまい、練習があった日も雨の日も、夜な夜な二人でその飲屋通いがはじまった。そして毎晩コップで五杯を平らげて御帰還、御帰還後の狼藉ぶりは例の如くで、これには部員一同ほとほと閉口していたようだ。それでも二人共帰京を命じられることなく、最後まで皆と一緒におられたのだから、当時の合宿が如何にルーズなものであったかがお分りいただけると思う。
この合宿ですっかり酒の味を覚えてしまい、東京へ帰ってからは、それこそ本格的な酒の修業期に入ることとなった。大石君と僕の二人に加えて、すこし後に入部してきた黒沢君というのが、これまた豪のもので、以後三人で銀座、新宿、渋谷とよく飲み歩いたものである。試合に勝ったといっては飲み、あるいは、負けて、三人一緒に丸坊主になって、学生証をかたにおいて新宿のキャバレーで飲んだこと等々、思い出はつきないものがある。
ふり返ってみると遠い昔のようでもあり、また、ついこの間のような気もするが、会社の中とちがって、本当に気のあった連中と、毎日好きなテニスをやり、酒を飲み歩いていた頃は、本当に楽しい時代であった。学生時代は、それこそ、テニスと酒の毎日で、教室にでるのは、試験の時位であったので学問を通じて役に立つものはなんら得ることなく卒業してしまったが、庭球部という一つの組織を如何にうまく運営してゆくかについての経験は、社会にでてからも大いに役立っているように思う。
最近、入社してくる若い人達の中に、とかく個人本位の行動の強い人をみかけるが、一つのチームの中に於ける個人は如何に行動すべきかについての訓練がたらないような気がしてならない。そのような意味では、体育会の部における生活は、このような全体と個との調和について、大いに学ぷぺきものがあると思う。私は会社に入ってから、学生時代に勉強をしなかったことを大いに悔んでいるが、部生活を通じて得た体験は、教室では得られなかった貴重なものであると思っている。
したがって、体育会に所属している現役の諸君は、恵まれた環境を充分生かし、根性のある、そして協調性を有した人間性の育成に心掛けられるよう望みたい。
思い出すまま、非常にとりとめないことを書いたことを御許し下さい。
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随 想
理事長 豊 田 隆 郎 |
この正月から川崎の片田舎に転勤致しまして、御無沙汰がいよいよ激しくなりました。部の方々からいろいろご連絡を頂戴するのですが、そのたびごとにまず申訳ない気持が先に立ちます。
皆さん張り切て練習に、勉強に励んでおられることと思います。及ばずながら、私も仕事の場でKEIOの名を恥かしめないように努力致しております。おそらく先輩の皆さんもそれぞれ精一杯の毎日を送っておられることでしょう。勿論、断絶の時代の厳しい職場ですから、ふわついた気持でロマネスクの世界に遊んでいることは全く許されません。ただ、慶応が、東大が、早稲田が、といったような時に、やはりを背負って立ってしまうような気持が湧然とわいてくるのです。三ツ子の魂に等しい感覚の帰結なのです。
最近、私にとって”スポーツは見るもの”になってきました。本来、私は見るスポーツにあまり意義を認めておりません。見るスポーツは娯楽乃至余暇であって、生活の目的になり得ないものです。”スポーツから学ぶ"ためには、自ら身体を動かして汗すべきものだと思っております。その点、、スポーツに対して、私は万止むを得ず堕落してしまいました。現役の皆さん方を心から羨ましく思う次第です。
是非、できるうちにできるだけの努力をして、そこから人生のひとかけらを汲みとっていただきたいものと願っています。スポーツの中には自分があり、相手があり、社会があります。それを見つめて判断して行くことによって学ぶべき多くの点が見出せる筈です。
私が学校をでてから、早くも十六が経過しました。十六といえば私が大学(予科)に入った年令です。
オギャアと生れた子がいっぱしの大学生になる位の年月だと思うと、何かしら空おそろしいような気持になります。同時に今年が体育会加入二十周年とのこと、いよいよ感無量たらざるをえません。
あの頃のコートは日吉の山の上、今の大ホールのある場所でした。そのコートの脇で当時の田中キャプテンから体育会昇格の報告をきき、いろいろと驚かされたことがつい昨日の事のように思い出されます。コートの前がグリーンハウスでした。相原さん、加藤さんというウェイトレスがいて軟庭のファンでした(この名前覚えている先輩いらっしゃいますか。懐しいでしょう)。部員会などいつもグリーンハウスでやったものです。眼をつぶると田中さんはじめ小熊さん、大石さん、高橋さん、ゾネさん等々の勇姿がつぶさに脳裏にうかんできます。皆さん頭の毛がふさふさしていた頃です。
想い出は限りないものがありますが、わが軟庭はそれだけの楽しさを育んでくれたのです。
毎度々々申し上げることでいささか気がひけますが、現役の皆さん方は是非四年間の部生活を全うして下さい。軟庭は良い部です。決して皆さんの期待を裏切らないでしょう。そして、そのことは卒業してはじめてしみじみと身にしみて判るのです。
取急ぎ思いつくままこの雑文で恐縮です。ますます張り切って今シーズンを乗り切って下さることを祈ってやみません。
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断絶と飛躍
監督 糸 川 雅 也 |
最近「断絶の時代」という本が発刊されベストセラーとなっているようである。これはいうまでもなく、現代のように科学をはじめとしてあらゆる分野での進歩が速い時代になってくると、昨日までは常識のように思われていたことが、今日は旧式となって通用しなくなるおそれがある。従って、急速な進歩と変化に即応できるような準備と心構えが必要であるという警鐘であろう。昔の100年の進歩が現在は数年で達成されてしまうような勢いである。過去の延長線だけで物を考えていたのでは正しい判断は生まれてこないであろう。
昭和四十四年はわが軟式庭球部が塾の体育会に加盟してから丁度二十年目に当たる年である。勿論、加盟以前から部は存在し、多くの先輩が努力と苦労を重ねられ現在のような立派な部に成長してきたのであるが、我々はこの機会に次の飛躍を期し大いに反省する必要があると思う。
従来より各方面からわが部の長所欠点が種々指摘され、我々も少しでも良い部となり、また、良い成績があげられるよう改めるべき点は改めてきたつもりであるが、残念乍らこの数年気持とは裏腹に大した成績も残せず経過している。
では、良い成績を得るためには今後我々はどのようにすべきであるか。
各部員一人々々の自覚を促し練習に励めというのでは余りにも漠然としている。更にいままでの延長では大した成果は期待できない。
勿論、スポーツである以上そこには当然ルールという枠があり、それを越えることは許されないし、急速な進歩を望むわけにはいかないと思うが、この際、いままで我々が習慣的に行なってきたことに囚われることなく、部のあり方、練習方法、試合の戦法等に関し、もう一度皆で最初からつっこんで考えてみる必要があると思う。
一例をあげれば、軟式庭球では、後衛はサービス練習はするけれどもスマッシングやボレーの練習は余りやらない。やらないのが習慣になっているのであって、後衛といえどもスマッシングやボレーの練習を十分つみ、チャンスボールには積極的に前進してノーバウンドで打球し、スピードと攻撃力を高めるとか、また、サインプレーを徹底させることにより思い切ったプレーができるようにするとか、いままでにも随分いわれていながら実行されていないことが多くあると思う。今後、慶応義塾の庭球部は率先してこういう問題を取り上げていきたいと思う。しかし、科学的な練習や試合をやるにしても一球々々に全精神を集中する魂のこもった練習の積み重ねが根本となることはいうまでもない。意欲的な練習により過去の不成績から抜け出し、新しい飛躍への第一歩を踏みだしたいものである。
最近、学生スポーツのあり方がいろいろな面で問題になってきているが、体育会加盟二十周年を迎えたわが軟式庭球部が今後益々発展するために先輩諸兄も現役諸君も現状を真剣にみつめ、一体となって努力していきたいと思う。
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| 「四日市より」
小 林 邦 威 |
東京は四月にはめずらしく雪が降っているようですが、私は毎日、四日市で工場実習をしております。講義の間に、日吉の皆様はどうしているかと講師の話も聞かずに考えています。今もって学生気分が抜けずに困ったものです。
工場での勤務時間は、今までの所、朝八時より午後四時までですが、下旬より三交替勤務にはいり、夜十時より朝七時までという深夜勤務もやることになります。実にきびしいもので、遊んでいては給料はもらえません。もっとも給料分だけ働くのは、長い先のことですが。工場の中は当然作業衣ですので、毎朝寮から作業服、作業ズボン、作業帽に安全靴となり、完全な工員スタイルです。その上プラントの中はヘルメット着用です。よく言えぱ黒部の太陽の裕次郎のようなスタイル、普通に言えぱ道路工夫のようスタイルです。先日は消火訓練などがあり、20mもあるホースを肩にかついで、ダッシュをしたり、重油に火をつけて消火器で消したりして、失業したら、消防夫にはなれそうです。幸いなことに私の独身寮にはテニスコートがあり、糸川監督や大久保先輩のようにはなりたくないので(ハラが出ないように)暇な時にテニスをしています。もっとも相手はラケットをはじめて握る同僚で、しかも硬式テニスですが結構楽しいものです。やっぱりテニスはいい。つくづく思うのですが、軟庭部での四年間の生活は今の私にとって非常に貴重な財産となっています。特に下級生のころの生活、練習後の蚊に悩まされながらの草むしり、寒い冬の日のローラー引き、上級生に勝ってもらいたかったリーグ戦、ジャッジミスがこわかった審判等々、それから六大学で勝点をあげた時の塾歌が印象的です。社会人一年生として、草むしりやローラー引きこそないけれど、今はあの頃と同じ心境です。社会に出ると最上級生は四年生ではなく、十年生、二十年生は真中ぐらい、我社の会長は八十五才ですので実に六十三年生ということになります。つまり私は二軍などではなく、何軍になるのか自分ではわからない状態でして、条件は大学一年生の時よりずっと悪化しています。そのうちにニ軍になり、一軍になり、いつかは工ースになれる日が無いとは限りません。あるとも限りませんがね。まあ二十年先のことです。
ある人が優秀社員の条件として
一、健康であること。
二、自分の会社が好きであること。
三、ユーモアを解するセンスのあること。
四、リーダーシップのあること。
五、協調性のあること。
以上五つの条件をあげていましたが、軟庭部の生活においても、よく当てはまると思います。全部を満たす人間が我部にいるかどうかわからないが、独善的にならず謙虚に柔軟な頭で自己啓発す
る必要が我部にも必要だと思います。
話はかわりますが、東大紛争を頂点とする学生運動は私の任期中にあっただけに印象深いものがあります。東大のある部に於ては、政治運動で意見が分かれ、分裂した部もあると聞きました。
米資闘争では、軟庭部々員にノンポリ、或いは非活動家と言うべき人間が多かった為、部活動に影響はありませんでした。しかし、私自身なし得なかったことではありますが、部員は個人の立場ではっきり自己主張ができるようになって欲しいと思います。
自己主張をしないということは結局、テニスに対しても自己主張をしないのに結びつくのではないでしょうか。ただ、今の段階では君達の言動はすべて、体育会部員がどうした、こうしたととられやすいので、まったくの一学生として自己主張する困難さがあります。部員各自はいろいろな考えを持ち、それを主張するがテニスをする時は心からテニスに一緒に打ち込むようになって欲しい。自己主張が相手の人格や存在そのものを否定することは絶対許されないが、世界的な学生運動の中で、我関せずと黙っていられる状態ではないことだけは、はっきりしてます。
来年は七〇年安保の年です。しかし考えようによっては、この時期に学生でいられるのは好運だと思う。大学紛争ということを通して貴重な経験を得ることができるから。部員各自が、個人の立場で積極的に意見を述べ、自分の学生生活を守ろうと思わなけれぱ、慶応も今年の東大と同じにならないとは言えません。
最後に、今年はきっと優勝すると思うけれど、その時には中味の薄い月給袋を持って飛んでいく新人サラリーマン(労務者)が、真青な四日市の空の下で君達現役の活躍を楽しみにしていることを、お忘れなく。暇な時には遊びに来て下さい。四日市の青空を充分御覧にいれます。
昭和四十四年四月
四年間本当にありがとうございました。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
(三菱油化)
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| 学 生 考
高 田 明 |
糸川監督はじめ諸先輩・同輩・後輩諸君、四年間御世話になりました。又、送別会にはとんだアクシデントを起し御心配を掛けましたが、四月一日より元気に出社し、一日も早く新聞人になり切れる様努力しております。今から考えれぱ、合宿所生活をスタートとしテニスを基軸とした四年間(勝負にはあまり勝てませんでしたが)は非常に楽しいものでした。しかし非常に楽しい想出を持った四年間でも、”楽しかった”という過去の夢想を抱くだけでは、連続した人生に何ら意味を持ち得ないのであり、卒業した今、自分も過去に於てそうであった学生の一面を、反省を含め社会とのかかわりあいを通して分析してみました。
最近「人間疎外」という言葉がよく口にされる。疎外状況とは、人間が本来人間の手段であったものの手段として働く事によってのみ自己の生活を実現し得ないという事態である。即ち学生は大部分が卒業した後サラリーマン(ビジネスマンという表現を使おうと使うまいと個々人の労働に対する姿勢によって区別されるだけで、本来はサラリーマンだと思われる)になるのだが、彼等は資本と機構の要請にそって生活時間、行動様式の規格化に陥り、諸個人が主体的に予見しかつ操作しうる生活圏の局限化が行なわれ、疎外感を生み出してゆく。この様なサラリーマンの状況は、学生の意識に侵入し、自己を産業側の要請に合った型に作り上げようとし、大学は一般に「出世」ことにその「学歴」への期待と関心をつのらせるべき対象としてのみ存在する様になった。
こうした状況に於る学生の生活行動は、体制側の新中間層的安安ムードによる天下泰平の幻想を無批判に受け入れ、自らプロレタリアとは一線を画す事により、自己を体制側のものであると意識するのである。
この様な諸要素は、学生の間で慢性的な倦怠を生み出して来るのだが、これには二つの方向をとるのである。第一の方向は、未来の既定性などと相まって消費的・享楽的な欲望の肥大が行なわれる。つまり学生の生活上の問題意識や権カヘの抵抗感覚は、消費的享楽的感覚へとすりかえられ、特に政治問題等に関しては全く無関心になるか、生理的に反撥を示すものさえ出て来るのである。第二の方向は、学問等からの疎外を感じながら巨大な物神化した社会のワク組みを破れない無気力を、ホームドラマ的な幸福感の中へ解消しようとし、規格化された幸福とか成功を学生時代から頭の中にイメージとして描き、価値観の固着を生み出しているのである。
昨年の慶大に於る米資闘争の形態、経過を見ても、運動の意義すら認められなくなり、自己の政治的アパシーさえ明確に意識していない学生が出たのは以上の様な状況からではないだろうか。
(もっとも運動の本質をすり換えて、反運動に走ったものもいたが)。
では社会的経済的に特権的な立場を与えられている学生は、自己の生活面での問題点や大学問題政治問題に対して如何に対処していくべきだろうか。それは現代の疎外状況を絶対的に固定化したものとして握えるのではなく、学生が疎外を克服する主体として自己を形成し、人間にとって普遍的本質的な価値を創造するという確固たる基盤に立ち、大学問題にしろ、七十年安保にしろ、自己の問題として志向しつつ進む以外に道はないのではなかろうか。学生は自己の体制への姿勢と本来的価値観の吟味を十分にすべきなのだ。
最後に後輩諸君の御健闘を心から祈っております。
(毎日新聞大阪本社)
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| 失 恋
鳥 居 洋 |
僕は小さい時からすごく野球が好きだった。いつも大きな人に混じって野球をしていた。体が小さいのに重く長いバットを使うので、空振りするとそのままくるくると体が回転してしまうのである。敵も味方もおもしろがって「こらバットにふられんようによくポールを見て打て」と声援してくれた。すでにこの時から僕にはふられるという運命がつきまとっていたらしい。テニスを始めた時もラケットにふられていたし、まして女性には、大学にはいり体も大きくなったし腕力もついてきたしラケットにふられる心配はなくなった。よし肝心なものにふられないようにやるぞと固く決心し「誰にも彼女やらないぞ」「こんな可愛いやさしい女を他人に渡してたまるもんか」「三年間はみじめな苦しい片想いでもいいがむしゃらに努力して四年になってきっと彼女のハートを捕え、うまく操って見事にゴールインするぞ」「勉強、マージャン、パチンコを犠牲にしても俺はやったるぞ」僕にしてはすごい心掛けを誓ったものだと思う。
しかし彼女に対する俺の努力もなかなか実を結ばず、かえって彼女の冷たいしうちに逢いスランプが続いた。しかも彼女は他の男性と楽しそうにつきあっているのである。俺は絶望的になった。「なんで世の中はこうもうまく行かないんやろ」「理想と現実はなぜこうも違うのやろ」「彼女を早くあきらめて学問一筋に生きて学者になるべきやろか」と真剣に考えた。しかし数多い女性から彼女が俺に最適任として確信をもって選んだのだ。「今さら後に引いては男がすたる」「ライバルはたくさんいた方がかえってファイトが湧くわい」思い直して真夏の暑い日ざしの中を汗で重くなったシャツ、トレパンを体にまといコートの左右前後を走った。苦しくて自分の意志でなく誰かのリモコン装置で動いているような時もあった。霜どけ道も走った。考えることもなくただ足を交互に動かしているだけの時もあった。でもほとんどの時は彼女をデートに誘い手を握りそっと○○○をすることを夢みた。
三年になると幸運がめぐってきた。僕よりいい男が、ほとんど卒業したのである。ここがチャンスとぱかり春先からとばした。 ここで無理がたたったのか、手首が全然効かなくなった。ラケットを握ると痛くてどうにもならなかった。みんなが楽しそうに彼女とつきあっているのに僕は遠くから眺めている。これ程つらいことはなかった。熱が40°あろうと胃ガンであろうとラケットは握れるのに、体の方も丈夫なだけにくやしかった。手首の痛みも徐々にひき、シーズンにはいった。そして人材不足がかえって僕をマイナスにした。自分の立場が安定し、以前のような苦しみを味わうことを嫌い、努力を怠ったのである。つまり自己満足にひたり、妥協し、自分を安易な方向に行かしめ、人間としての成長を止め、迷い疑問苦しみもなくしたのである。こうなると人間若くても老人と同じである。人間常に精神的老衰を恐れなけれぱならない。その為には、常に問題を背負い、その解決に努力して生きぬいてゆくことである。努力には迷い苦しみはつきものである。
このように僕はもうあと一歩というところで我慢出来ず、彼女を日比谷公園ヘデートに誘ったのです。暖かい春の日でした。お日さまも西に傾むきかけ、赤黄の美しい花に囲まれ、たくさんの
ハトにうらやましそうに見つめられる中で、俺はロマンティックに酔い、彼女の可愛い手を両の手でやさしく包みそしてカをぐいと入れてひきよせいざという時、あごに強烈なひじ鉄砲をくらったのである。彼女は怒って走り去りました。回りの人は笑っていました。確か僕と彼女以外人はいなかったはずなのに。
幸福、喜びは空想化してはだめだ。結局一日一日の苦労の中に感じるか築きあげる以外、ないのではないだろうか。この事件は僕の人生における大きな教訓となるのは確かです。
幸か不幸か無事卒業出来るそうです。でも今の僕には四月から背広着てネクタイしめて、ドライヤーかけて会社に出掛け出勤簿にはんを押して陰険な上役に、にらまれながら一日じゅう机に向
かって仕事をするなんてピンときません。それより夜遅くまでトランプをやり昼頃起きてテニスをし、その後女子部と彼女達の豪快な飲みっぷりをながめながらくだらんことを話している方が余
程ピンときます。とにかく僕は若いんだ。そして精神的も若く生きていくんだ。
卒業するにあたってただ一-つ心残りな事は合宿所の多くの問題を何一つ解決できず、舎監として失格者であった事をお詑びし、OBの方々も合宿所の問題を真剣に考えていただきたいと思います。
最後に色々御指導頂きました多くの先輩諸氏いろいろ面倒みてもらった合宿所のおぱさん後輩諸君この誌上をお借りしまして深く感謝申し上げ御健闘を、心からお祈りいたします。
(大倉工業KK)
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勝
負
芝崎 喜一郎 |
勝負とは読んで字の如く、勝つか負けるか二つに一つである。
この勝負というものは人生や恋愛にもあるだろうが、その結果が明確にあらわれるのはスポーツに於いてである。
今日半プロ化した大学のスポーツ活動は、半強制的に勝つことを強いられているようである。確かに勝負である以上勝たねばいけないと思う。しかし勝負には相手が必要である。そうである以上相手も勝とうとする。その結果一方は必ず負けなければならない。この因果関係はどうしようもないのである。まして我々は学生である。今日の学生の本分の一般通念は学問することにある。
学問は教室に於ける勉学の他に、人生勉強もあろう。しかし社会が我々に評価するのは学業成績である。これが全部を占める訳ではないが、ある一流といわれている会社の社長は次のようなことを言った。「我々は諸君を知らない。だから評価の一つとして学業成績を基準とする。これはあくまでも評価の一つに過ぎないが・・」と。全部が全部こうとは思わないが、これは仕方ないことであると思う。そうである以上我々は授業にも出席しなければいけない。しかしこれはクラブに於ける練習時間の短縮ということにつながる。スポーツは体で覚えなければいけないものである。
そうであるから練習時間の短縮されたことは技術の進歩に遅れをきたし、それは精神的充実を妨げることになる。まして凡人はそれで試合に勝てる訳はない。ここに勝を目的とする大学のスポーツ活動は半プロ化してくる。そして我々はこのジレンマに立たされ、身動き出来なくなり、退部やサボリ、練習のマンネリ化、クラブに籍を置いてるだけ、というような状態になる。これで勝負に勝てる訳はない。先輩は先輩で朝から練習をやれという。
(僕もこの原稿が部報にのる頃には諸先輩方の後をつぐ先輩としての名誉を得るのであるが。)先輩の意見が理解出来ない訳ではないが、所詮無理な話である。テニスを幹とし、その他を枝、葉としてやりぬこうと考えた純真な、一、二年の頃はまだよかったが、諸々に雑念が入り乱れて同居した三、四年は、諸々の雑念が幹となり、テニスが枝、葉となってしまい退部さえ考えるようになってしまった。しかし何んとか、先輩、同輩、後輩、その他の人達のおかげで四年間やり通すことが出来た。それは単にやり通したということに過ぎず、積極的解決策を見い出すことはできなかった。しかし今日の大学スポーツのあり方を改革してみても、この解決策は出てこないと思う。人間は闘争を好む本能を持っているからである。そこから思うに勝負とは勝つことである。参加することに意義があるのではなく、まして負けることでもない。絶対に勝つことである。人生全て勝負、勝つことである。
画竜点晴を欠く文となってしまいましたが、最後に今後ともよろしく御指導の程をお願いすると同時に、我が軟式庭球部の御健闘、御活躍をお祈り致します。
〔(株)芝崎商店〕
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| 小さな勇気
中島 秀彦
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「小さな親切」ということが、東大元総長である茅誠司氏によって言われたことはつい最近のことで記憶に新しいことですが、その根底をなすものは「小さな勇気」なのです。例えぱ、電車の中で席を譲ったり、困っている人を助けるにしても、この「小さな勇気」なくしては、「小さな親切」はありえないのです。
この「小さな勇気」は、私達が一つの組織(細かく言えぱ軟庭部ですが)で過ごしてゆく又は、過ごしてきた過程において、重大な意味をもっていたのではないでしょうか。
一日の時間内の定まった練習を終え、更に自分自身の練習をすることは非常につらいことであり、暑い夏場にかけてはなおさらのことであり、これは自己との闘いなのです。しかし、ここにおいて「努力する人」又「努力しない人」言い換えれぱ「小さな勇気」を出せる人又「小さな勇気」を出せない人によって、強者・弱者の差が後において明白にあらわれてくるのです。
他人との競争において勝たねぱ意味のないものであり、その勝つという自信が他の面でも相当なプラスになるのであり、学生時代ならまだしも社会に出てから敗北・失敗は即ち人生の落伍者に結びつくのであり、このようなことは絶対許されないのであるということをよく銘記しなければなりません。
又、練習においても、自分は何のために練習しているかということを常に頭に入れて行動を起こさなけれぱ、自然に練習のマンネリ化に陥ってしまい、技術の進歩はありえず漠然としたものになってしまいます。私は、上級生からコートに入る前に今日はこれをやるんだという目標をもって来いと、よく言われましたが、コートに入るまでは覚えているのですが、一度コートに入るとすぐ忘れてしまい、今になって考えますと、そのことが私のテニス
技術の進歩を妨げた原因の一つだと思っています。
軟式庭球部に入ってから、四年という年月が早くも過ぎ去ろうとしていますが、非常に有意義な楽しい学生生活を送ることができ、又この上ない仲のよい友達を得ることができましたことは非常に幸わせだと思っています。
四年間の在部中諸先輩の皆様のいろいろな御指導ありがとうございました。又、現役諸君の一層の御活をお祈り致します。
(東京電力)
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雑 感
矢内 融 |
「三月十七日午前九時半までに出社されたし。」ついに来たのだ。私の恐れていたものが。出社の通知を受けとった瞬間、言いようのない虚脱状態に陥ってしまった。ああ、学生生活にもいよいよ別れを告げるのか。出来ることなら、あと二・三年学生でありたい。私の考えは甘いのだろうか。しかし四年間の学生生活を振りかえってみると、全くいろいろな事があった。上級生に説教されて思わず涙ぐんでしまったこと(何と純情なんだろう)。下級
生と麻雀をやりその後、酒を飲みながら語りあかした一夜。又試合で五-○で負けてマラソンをさせられたこと。etc.でも楽しかった。本当に。良く遊び、よく飲食し、かつ十分に睡眠をとった天下泰平の学生生活であった。(勉強とテニスは全然……まあ固いことは言わないで。)
私の父は私が大学へ入学した時に次の様に言った。第一に体を鍛えること。第二に机に向う勉強も必要であるが、それ以外のこともすべてが勉強であると。脳細胞が恐しい程単純である私は第二の前文を顧みず、後文の部分だけをフルに拡大、拡張解釈したのだからたまらない。ちょうど糸の切れたタコと同じだった。しかしそのタコも、まさに地上に落ちようとしているのだ。……ここでインクのスペアーをかえる。なお使用中の万年筆はミジカビノ キャプリコトレバスギチョビレ スギカキスラノ ハッパフミフミ の万年筆である。わかっているね。・・こんなくだらないことを言っていられるのもあとわずか。いよいよ社会の荒波の中へ飛び出していくのだ。現実は厳しい。あまっちょろい懐古主義はもはや許されないのだ。これからは険しい山もあり大きな河もあるであろう。しかし絶望してはならないのだ。若いのだから。でも純真な胸に大きな希望と夢をもち、かつ強い意志をもって、ひたすら前進したい。
次に四年生の人物評を紹介しておく。これは最新式のコンピューターにより出されたものであり正確度は百パーセントである。
◎服部・実に真面目な責任感の強い男。二年間のマネージャーの仕事ぶりからみて容易にわかる。日比谷高校出身の秀才。但し少々マザー・コンプレックスに陥っている。通常、真面目なだけに飲むとかなりオチル。金がない時に彼の所へ行けば必ず貸してくれる。しかしこれからは利子を取られるかもしれない。Aの数18個。
◎中島・政治に関する興味の度合、テニス部 bP、政治については、かなり色々な事を言うが、けっこう自分でも分っていない方が多い。胃が弱いので体に破廉恥なものを年中まきつけている。Aの数14個(但し選択科目のAが90パーセントをしめる。)
◎鳥居・テニスをやりすぎて背がのびなくなってしまったというような見本。テニスに関して見習うべきところが大。又、人に対する思いやりも一倍強い。子供みたいな顔をしているがかなりH。Aの数13個。
◎浦野・四年生の中では、かなりのスタイリストであったが、最近ことに腹が出てきてしまってかっこの悪いことこのうえもなし。愛読書、朝日ジャーナルから宝石と、かなり幅がある。それゆえ、知識が実に豊富。何でも知っている。Aの数13個。
◎芝崎・信じられない程の音痴、自分ではもてると思っている。麻雀全くデタラメに打つ。しかし人の悪口を言わないところはみならう所大。Aの数推定により12個。
◎高田・関西弁まるだしで、はじらいもなく話しまくる。一緒に電車にのるのが恥ずかしい。短気ではあるが、現代の青年にはちょっとみられない純真な所がある。又、ナニに関して全くの無知。将来が少々心配である。Aの数推定により両指の数。
(帝国ホテル)
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繰
り 言 光岡 通安 |
目の手術が失敗し、以来病状が思うにまかせず、四年生として過ごした二年間は全く部外者に等しい生活でした。改まってここで卒業生とされるのを非常に心苦しく思います。それでもサヴマネージャーをやり始めた二年の春合宿以来約一年余りの間は、私にとって大変密度の高い部生活であったと思っています。
サヴマネジャーをやることに決まったときは大変不安でした。重責に対する不安に加えて、縁の下の力に堕落することの敗北感が多少嫌だったのではないかと思います。しかし、プロの世界ではとも角も、アマチュアの、しかも学生スポーツの世界では、かかる敗北感を抱くなど相応しくない、第一それはアマチュア精神に反するものだと今思っています。プロというもの、アマというもの、又学生スポーツの姿とかについて考える契機をその時持ちました。今、実社会というプロの世界へ入って行くに際し、これが収穫と言えぱ、言えるのではないかと思います。
とに角、その時は、人生の一大事に思えたものです。それから一年間は、かなり忙しい毎日を過ごしました。今から考えてみて、さほど一大事ではないにしても、しかし、矢張り私が大学生活で得たものの相当の部分は、その時期のものであるように思います。私によくぞマネージャーを強要したかの先輩、同輩の部員に感謝したく思います。それにも増して、私が中途で辞めたために大変迷惑を受けたであろう服部に心からお詑びしたいと思います。
甚だ簡単ですが、これが卒業しようとする今、私のもっとも感じていることです。
(自家営業)
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思い出すまま
藤沼 美典 |
一年の時は一日一日が新鮮で楽しくて楽しくてたまらなかった。学校とコートを三往復した日もあった。二年の時はちょっぴり厳しさを感じ、強くなりたいと願った。ただガムシャラに夢中でやったのはこの頃だったと思う。三年の時は苦しかった。どうしたらこのクラブで自分の存在価値を見つけられるだろうと思った。何時やめようか…何時やめてもいいように一日一日を悔いのない様、必死になって練習しようと思った。四年生の時の思い出はたくさんありすぎる。うれしかったことも苦しかったこともすごくぽんやりしている。ただ、私は一体何が出来たのだろうか、という疑問だけが残った。
秋の六大学で、私は日比谷のコートの上でひっくりかえって右腕をケガしてしまった。就職試験の終った次の日だった。あきれ返る程涙が出てきて情けなかった。
未練が残るのはいけないことだ。だから今でもテニスがやりたくてしようがない。
けれどもこうして社会人となってしまった今でも、気持の上では部生活から実に離れがたい。雨が降るにつけ風が吹くにつけ、今日は練習はどうかしら、日吉では皆どうしているかしらとフッと考えてしまう。これも未練の名残りであろうか。
ところでよく私達は、いつもフレッシュでありたいと言っていたが、最初の情熱が持続する人というのは一番強いと思う。コンスタントに情熱を続かせる意志の持主はなかなかいないものだ。だれでも、今日だけはいいだろう、と思う気持を持っていて、それに甘えてしまうことが多い。この一本はミスしてもいい、ということはないとわかっていても心のどこかにひっかかっていることがある。私はそういう甘さを捨て切れなかった。
今、私はよく、練習や試合の時のことを思い出すが、何故か、勝たねばいけないと張りつめて考えていた時のことは思い出そうとしない。ただ、青い空を思い出す。
日吉のコートで汗をぬぐいながら見た青い空。小諸の合宿で見た真夏の白い太陽が輝く青い空。そして上田や伊勢や宇部で見たホコリっぽいにおいがする青い空……。
今年も又、5月の空が青く美しい。
日吉では新一年生を加え張り切って練習していることだろうと思うと、皆の真黒な顔をみたいという気持で一杯である。今年の女子部はどんなにファイトにあふれていることだろうかと想像するだけでもうれしくなってしまう。しかし、私達の代をはじめ女子部の皆が忘れてはいけないことは、現在の女子部になる為には男子部の方々の力がいかに大きかったかということであろう。一人一人が感謝の気持を持たねばいけないと同時にそうして出来た女子部の伝統をしっかり守っていって欲しいと思う。最後に色々とお世話になった諸先輩、後輩の皆様と合宿所のおばさんに心からお礼を申し上げます。
(兜x士ゼロックス)
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社会人一年生
中西 ふみゑ |
十六年間の学生生活を終え、社会に出て、一週間、楽しくもあり、つらくもあり、又、学生時代が恋しくもあります。
我が  では、女子社員の仕事は主に、男子社員のアシスタントです。私の配属された所は"海洋開発室”と申しまして、できたてのホヤホヤの所です。"海洋開発”という言葉はみなさん新聞や雑誌などで時々御覧になっていることと思いますが、"宇宙開発の次は海洋開発だ”と言われ時代の脚光を浴びている産業です。と書くと何だかすぱらしくカッコのいい仕事をしているようですが実際は、雑役万般。何しろ室は男子三人、女子一人。それ
こそ、お茶くみから秘書、部長席、何でもやるわけです。まだ会社の内部も、種々の書類の様式ETC、も知らないのに、次から次へ仕事を命じられ、"聞クハ一時ノ恥”とぱかりに、手あたりしだいにつかまえては、質問攻めにしています。一言"オシエテクダサイ”と言う言葉のありがたさをつくづく感じました。また世帯道具一切なく、すべてそろえるため、連日社内のあちこちへ行って、山のような荷物をかかえて帰ってきます。四年間の部生活できたえられたおかげで、体力の方は自信がありますが、神経の方はあまり自信がありません。会社はきびしい所です。忘れました。遅くなりました。は通用しません。
毎日"アレハヤッタカ、コレハドウシタ”
次ハ何ヲヤル”頭の中が混乱してきそうです。
これも慣れるまでと思ってがんぱっていますが、まるで動物園につれてこられた野生の馬のようです。
でも就職してよかったと思います。
何かの本に書いてありました。
"蔵の中で百年生きるより、市の中で三十年生きた方が長寿命だといえる”と。
私は一度しかないこの私の人生。しかも、そんなに長いとはいえないこの人生を、できるだけ長命に生きたい。できるだけ多くの経験をし、できるだけいろいろな生活を知り自分が、どこまでやれるのか試してみたいと思います。
生れてから二十二年、そのうち十六年を学校で暮し、そのうち七年間をテニスで暮してきた。長くもあり、短くもあった。決してそれらの生活をすべて知りつくしたとは、言えないし、自分の能力は満足のいく結果ではなかった。それでも結構。
学生時代は終った。そしてテニス生活も。人生で最も楽しい時代の最も楽しい思い出、それがテニス生活なのです。
これからは今までとは、まったく違う生活が始まります。いろいろな生活、社会を知りいろいろな経験をし、私というものは変って行くでしょう。成長していくでしょう。
それがどんな道に続いているのかわかりませんが、とにかく前進してゆかねぱなりません。前へ、前へと。
チョッピリ後を振りむきたい気もしますけど-…。
最後になりましたけれど、四年間お世話になりました先輩後輩のみなさん、どうもありがとうございました。
私にすばらしい思い出を与えてくれたテニス生活に心からなる感謝を捧げつつ筆をおきます。
(伊藤忠商事)
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ある一日
金子 やよい |
さわやかな朝の太陽。一日のはじまり。そして本当の意味での私の新しい世界のはじまり。いよいよ今日は始業式。
連日にわたる職員会議で、なんとも言えずいやな疲れを感じながら、暗い教室に一人ポツンと坐ってみる。教卓の前に立ち、又子供達の椅子にすわってボンヤリしているうち、なんだか大きな不安におそわれる。なにかやらなくちゃ!…そしてハッと我にかえって、何回も何回も教育書をあさる。私にいったいなにが出きるというのだろう…私がいったい何を知っているというのか!
始まる前のあせりが私の全身をおそう。たいへんだどうしよう!
こうしていよいよその朝を迎えた。心は不思議に静かであり、青空の中を軽くスキップしていくようだ。輝くまぶしい太陽の中で、朝礼台に立ったとき、あの素晴しい太陽よりも、もっとキラキラ輝くたくさんの目とぶつかった。一瞬体がピリッとしそれと同時にそれらのどんな目の中にも素直に入っていける自分をみつけて、これならなんとかやっていけるかも知れないというあわい望みがわいてきて、いやが上にもやる気をそそる。新米教師の誕生と時を同じくして、まったくの対照をなす光景もみられる。
「……最後にひとつだけお願いがあるのよ。学校中にひびき渡って又はねかえってくるような大きな声で、さようなら!って言ってちょうだい。…一・二の三……」やっとこれだけのことを言いおえたと思うやいなや、われんぱかりのさようならが返ってきた。なんてすぱらしいお別れだろう! いいナー、私も絶対頑張ろう。
もろもろの雑用を終えれぱ今日は午後から初めてのフリー。あまりに良い天気さっそくテニスらしきものをやろうということになり、何ヶ月ぶりかでラケットを握る。あまりの忙しさで忘れかけていたものが次から次へとうかんでくる。テニスがおもしろくて仕方のなかった頃、夏のテニスのつらかったこと、テニスから逃げることぱっかり考えていた時期、夕暮のコートで一人センチな気分に浸っていた時、生きているんだという実感で胸が高なっていた時あの涙、この笑い、etc,etc…………今私は体中で感じている。四年間の部生活を通して、ひたむきな気持でなにかに対することを教えられたんだと。へたくそだってなんだって若いんだもんがむしゃらにやってみる。それが大事なんだと。そしてその若さときり離すことの出きないたくさんの思い出は私の一生の心の支え。
今の私は、四年前、初めてみる不思議な世界にみせられたかのようにセッセと日吉に通ったころと同じ気持を味わっている。しいて違いを言えぱ、「なんとかなるさ。よしやってみよう」が、「なんとかしなくちゃ、やってみよう」に変わったことだろうか。そしてやれぱやる程目にみえてうまくなる時期をすでに通過して、いつまでたってもなんて同じことぱっかりしか出きないのかとひそかに涙を流したのと同様に、おまりにも敏感でこわれやすい子供達の前でたじたじとなる自分をも想いうかべる。それでも私は、初めから、こんなに責任ある仕事をもつことの出きた幸せを、一日も早く自分のものにしたいと念じている毎日である。
四年間御指導下さいました先輩の皆様方本当にありがとうございました。あわせて日吉で頑張っている現役の皆様の今後の御活躍を期待しております。
(湘南学園小学校)
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卒業にあたって
本安 治子 |
机の前の本棚に並べてあった教科書も、本棚の奥にしまい込み、代りに私の机の上には、数冊の新しい本が並んでいます。コートでエールを交したのもずっと前のような気がするこの頃、やっと社会人としての生活にゆとりを持てるようになりました。はじめの一歩を踏み出した時は、期待と不安が入り混り、毎日、やせる思いをしましたが、近頃では、規則正しい朝の生活も楽しくなり、「早起きは三文の得」と、昔の人はいいことをいったものだなあと感じられます。
まず自分の仕事を覚え、それと共に、まわりの人がどんなことをしているか、一日も早くつかむことが大事だと思っております。仕事に対しては誠実に、スピーディーに、そして正確に、会社を離れたら、残された短かい時間を、フルに生かしていこうということが、今のモットーです。
これを実行していくには、時に応じて、気持の切り換えが必要で、ともすると、時間に追われる身になり、消化不良をおこしかねません。けれども、私は、女性として、生涯続けられる何かを、今、この時に、身につけたいのです。ということ、とても大げさになりますが、趣味として、あるひとつのことを始めました。私が就職をした目的のひとつを何とかしようと、もがいている最中なのです。残念ながら、学生時代は、みなさん御存知のように、下からの優等生(?)ですごしてまいりましたので、社会学の方では大きなことをいえませんが、テニス生活を通して得た貴重な経験は、大なり小なりいつも生きていて、私の現在の生活を支えているように思えます。
社会人一年生として、謙虚な気持で物事を見て、そして山ほどある吸収すべきことはどん欲に取り入れ、その中で、自分らしさを見失わないように心がけたいと思っております。
終りになりましたが、諸先輩の皆様の御指導、心から感謝しております。また、いろいろ励まして下さったり、いたらぬ点をカバーして下さった同級生のみなさん、どうもありがとう!今後ともどうぞよろしく御願い致します。そして現役のみなさん!たくましく成長されますように!生きているからには、つらい時も、照る日も、くもる日もいろいろです。太陽の下で、腕を組んで、元気に進んで下さい。
(三井ライン興業)
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あるがままの
なりうるかぎり
主将 高山英幸 |
「あるがままの自己でありながら、なりうるかぎりの者となった男」ダグ.ハマーショルドの言葉である。
この言葉は広く解釈する方が適切ではあるが、あえてスポーツ、就中、我々の取りんでいる軟式庭球に限定してみたい。
高校を卒業し、大学に入って来、日吉のコートで練習する時、真の意味で、新一年生で新しくテニスをやろうとする者は少ない。確かに一年生としての義務、例えぱコート整理とか、その他雑用は良くやっている。しかし、一番大切なテニスに、自己なりの検討を加え、これから四年間、どのようにテニスととりくんでいこうかという用意がなされていない。用意がなされていないぱかりではなく、なお悪いことには、まず、技術的に、自己のテニスに対する批判がない。自己に対する批判を行なわず、自己のテニスに余りにも、疑問を持たなさすぎる。これが、我が軟式庭球部の下級生である。新しい環境に入れぱ、まずその世界で通用するべく、努力すべきであるのに何故か、自己に自信を持ちすぎ、自己のテニスに疑問を抱くことがない。これは、一年生のとるべき態度ではない。自己のテニスに対し、疑問を持たない一年生は、もうそれで、大学四年間のテニス生活は、半ぱ、終ったも同じである。疑問を持ち、反省を行ない、改良を行なうのが進歩に通ずる道である。
進歩がなけれぱ、なりうるかぎりの者になることはできない。
"あるがままの自己”であることは、慶応においては容易である。独立自尊である。昔から個性を尊重する気風がある故に、それがややもすると、異った意味に解釈される。しかし「あるがままの自己」を正しく解釈したところで、それは、スポーツの場合、十となるものか、一となるものか。軟式庭球において、上達するべく練習する時、終局的には、個人の自覚によりすべてが決定される。各人が考えて、意識をもって行なうことにより、進歩がある。しかし、そのような意識なり、自覚を有する以前にある人間に対しては、そのようなやり方では効果はない。しかし、現在の軟式庭球部の部員には、そのようなローレベルの人間はいない。とすれぱ、各自のテニスにかける情熱に期待するのが一番いい方法であろう。皆んな、他人には、他校には負けたくないと思っているはずだ。では何故、勝とうと努力しないのか。努力しているかもしれないが、まだそれでは努力が足りない。終局的に各自の自覚により、進歩が決定されるのだから、何故、各自が情熱を燃やしてやらないのか。
受験を経験した者は思い出してほしい。
学校から指定された教科書一冊で充分だったかどうか。補習をやらなかったかどうか。きっと皆んな色々な手段を用いて、合格を目指したはずだ。テニスコートでの練習は教科書でしかない。それ以外の参考書を各自利用してほしい。どん欲なまでに利用すべきである。
幸い慶応は様々な条件に恵まれている。やろうと思えぱいくらでもできるはずである。青春をかけて、テニスを通じて、あるがままの自己であり、なおかつ、なりうるかぎりの者となろうではないか。 (政四)
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所感
主務 太田庄造 |
我々は、現在テニスをしていて、それがしかも体育会という好なことを思う存分できるサークルに入っていることができるのは、この上なく幸せと考えなくてはならないであろう。なぜならば、生まれながらの素質ある無限の可能性を秘めている肉体や頭脳を皆が等しく持っているからである。
又、この世に生を受けて以来、両親の厚い疵護の下に、経済的にも精神的にも何ら不自由なく、今まで過してきたのであるから。
しかし、このことに反発する人もいるかもしれないが、自分の身辺にばかり眼を向けないで大きく広く社会全体に眼を向けてみると、より不幸な人間の存在に気づくであろう。最近の傾向として、体育会各部の部員数が減少してきている。それだけ個々に対する期待や、可能性は大きくなってきている。
このような多くの可能性や期待を無視する訳ではあるまいが、これに対するわずかな努力をしない人間の多いことは残念なことだ。
このような面にこそ欲を持つべきだと思う。部員のやることは数多くある。多すぎる位あるかも知れない。しかしその一つ一つに皆で互いに協力しあって目標に向って進んでゆくところに部としてのよさが出てくるものだと言われてきた。自分に与えられたというより、自ら進んで入った環境の中で自分をいかに生かして行くかをよく考える必要がある。、
現在の時点だけでなく将来に対して自分自身を生かすも殺すも現在の自分自身であることをよく考えるべきであると思う。
これは自分自身のことになることは言うまでもないが、部全体の発展の基礎ともなり得る。常にベストを尽せ。どんなつまらないようなことでも、一生懸命為すところに価値が出てくる。やがてその事に対する報いがあるであろう。その時の気持や雰囲気に左右されてはいけない。為すべきことは早速とりかかること。後には何があるか
わからない。
為すべきことはいくらでもある。気がつかないのは自分の怠慢である。又、自分の仕事と他人の仕事との境界を勝手に作るな、個人の気持ちが集まってそれによって全体を構成したとき全体は最大限の力を発揮することができる。これらのことは、既に何回となく耳にしてきたことだと思う。
しかし、考えようによっては単純なことだが他人まかせのことが多すぎるのではあるまいか。
既に今年も三分の一のシーズンが終った。残りの三分の二は是非皆の力を合わせて、当初の目標に進んでいこう。 (政四)
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ある朝の事でした
橋本 明 |
「起床です」夢の中から聞き馴れないやさしい甘い?声が耳元をかすめた。夢にしてはどうも変だ、と思いながらぽんやりと目を開けると天井の格子の桟が目に飛び込んできて、ほとんどそれと同時に訳の解らないままとりあえず「はい」と返事をした。
女性の声の様であるがぽけていてピンとこない。太い低い声で「起床!」と言われた事のあるのを思い出した。その声は頭にビシッと突き刺さり不快感と絶望感を味わされたものだったが、今回は違って非常に爽快な気持であった。そんなつまらない事を考えているうちに"まりと殿様”のオルゴールに起こされた。そうです。此処は和歌
山であり不快感と絶望感を味わされる声が聞かれる男子の合宿ではなくやさしい甘い?声が聞かれる女子の合宿であった。そしてそのオルゴールは朝七時に和歌山城から流されるのであった。
此様にして合宿は始まった。朝のランニングの時毎日の様に私は一緒に泊まり合わせた先輩を誘って天守閣のある山へ登った。木の葉も動かずしんと静まりかえったまだ朝もやの残る石段をトットッと駆け登ると足音は緑深い木々に吸い込まれ吐く息の音だけが聞こえてくる。空気はまだひんやりと冷たく頬を撫で頭のシンまで冴えきって寝ぽけ眼がパッチリ?と大きな目になるが、空腹だけがやけにこたえ一段々々が山の様に感じられる。
黙々と登りながら今日の練習はどの様に行なっていこうか、あいつの調子は彼女の健康状態はあの人のフォームはどうだろうか、ところで自分は何をやっているのだろうかと様々な瞑想にふける。私は幾つかの仮面を持ちTPOにより付け替えそれぞれを可能にする為自分なりに努力しているがスーパーマンではない。中途半端となりどれ一つを見ても立派な成果は見当たらず時間ばかりが無情に過ぎていく。
ところで先程の石段を登りつめると和歌山市内から紀ノ川まで一望され車や人の動きまで手に取る様に判るが、何事をするにしても深い木々に囲まれた石段を登る様に成果というものは途中では見えないのではないだろうか。そして登りつめた時にやっと何もかもが解るのではないだろうか。また見えたものは何でもよく、石段の登り方が大切であると思う。結果自体よりもそれを目指す過程での努力というものが必要である....。
空に浮んだ雲を見上げて朝食を思い出し石段を駆け下りた。 (経四)
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みんなの力
女子主将 渋谷洋子
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私にとって、部生活四年目の春がやって来ました。三月のトレーニング、春の合宿と、誰れもが期待とやる気に満ちています。この皆の情熱を一つにまとめ、練習に、試合にぶつかっていけたら最高です。
皆の力が一つになる、こんなに素晴しいことはありません。
御覧のように、現在の軟庭の女子は、三年生三人、二年生四人、一年生四人と、小ぢんまりしていますが、少人数なりに、お互い同志よく知り合えるという機会も多いわけです。テニス面における個人の技術的差異は、言うに及ぱず、個人の持ち味や、性格上の欠点もわかりやすいはずです。特に、同学年同志は話しやすい間柄なのですから、前向きの姿勢で交友関係を深めて行くべきです。そして、何んでも話しあえる友達同志になりましょう。
貴重な大学生活の四年間、テニスだけに集中するのよいでしょう。でも、それだけでは割り切れない何かが部生活にはあるのではないでしょうか。自分のテニスを研究し、又、他人のテニスをみることによって、テニスそのものが上手になるだけでなく、自分自身を成長させていくよう努力しなかったら、それこそ無駄な四年間になってしまいます。
軟庭部という集団の中で、皆と協調してやっていくということは、簡単なようで、とても大へんなことです。協調という名のもとに、個性を抹殺し、妥協してしまう集団生活など無意味です。お互いの長所を伸ばし合い、欠点を補い合ってこそ、協調がなし得るのです。
協調ということが、単に個性を抹殺するものでないと同時に、テニス面でも、その人の技量に見合った練習が考えられるべきであり、又、個人も自分にあった練習を研究する必要があります。
何んでも、上からの言うことを素直に聞いてその通り実行することだけが協調なのではありません。集団の中の一人が私であるという消極的な認識ではなく、私が集団を構成しているという積極性が必要なのです。特に、新入生や、新二年生は積極的に軟庭部という集団に入ってきて欲しいと思います。下級生からの押し上げの力が、部全体の強力な活動源になるのです。
この一年、テニスに、部生活に、勉強に、自己の最善を尽していきましょう。個人の悩みは、その人一人だけの責任ではないのです。部の仲間、一人一人にその責任の一端があるかもしれないのです。そして、又、その悩みは部全体で解決せねぱならないものなのかもしれないのです。みんなの力を合わせて、この一年、つきあたる
障害をのりこえていきましょう。一人一人の個性を尊重し、合わせて、みんなの力を一つにまとめて、前進して行こうではありませんか。諸先輩の皆様、よろしく御指導御願い致します。 (文四)
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樹
女子主務 帯屋洋子 |
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三田の山の上のまん中にある銀杏の樹は
その下を通る何人の若人を
見下ろしてきたろうか
何千人何万人の若人が
あるいは語り
あるいはうたい
あるいは泣いた。
そして軍靴に銃剣をかついだ青春も
そこにかつてあった。
何世代もの若人がその下をすぎていった。
そこには青春の躍動があった。
今足元にあるベンチで
春の陽をあびているきらめく青春の上に
彼は
ひそやかな影を贈る。
二
ぬけるような青い空の下で
桜の花びらのまう春がすみの中で
青春は飛翔し昇華していった。
白い球が飛び交う上に
三田の山の銀杏の樹が
黄色い落葉を足元のベンチにふらせたように
日吉のコートのそぱのけやきの木は
茶色い落葉をふらせた。
けやきの木は
三田の山の銀杏に比べれば
三分の一の太さもない
その下を通った若人も
何百人かにすぎないけれど
彼らは
あるいは楽しそうに
あるいは苦しそうに
あるいは涙をこぽしそうになって
白い球を追いかけていた。
そこには青春の爆発があった。
今彼の見下ろすコートで
飛翔しているきらめく青春の上に
彼は
やさしい葉ずれの音を贈る。
(文四)
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