1979年・報第26号
 
     

軟式庭球への期待

                            塾 長   石川忠雄
 軟式庭球部が創立されて満十年になるという。慶応義塾体育会のなかでは比較的歴史の浅い部に属するが、それは体育会に加入したのが昭和二十四年であったというにすぎず、軟式テニスそのものが慶応義塾に定着したのは、それよりはるかに古い明治三十年代のはじめ頃であったとされる。「慶応庭球三十年」によれば、「明治三十一年の春、酒井良明先生の塾生藤田敏夫君、石田広治君達が、昔の山上運動場の北隅でテニスを始めた。夫れを見て私のクラス(私は明治三十五年大学部卒業)でテニスの心得のあった辛島渉君、橋口純介君、小野吉郎君、松本要熊君が発起してテニス会を作りました」(大塚千代造)とあるが、おそらくそれが最初ではなかったか。そして小泉信三先生の時代を迎えるのである。同じ本で先生はこう書いておられる。「私が庭球部の選手をしていたのは、明治三十六年から明治四十三年の卒業に至る七、八年の間の事であるが、其の初めの頃が庭球部最初の勃興時代であった。明治三十七年の秋、当時の日本庭球界に覇権を制していた高等商業(今の一ツ橋の前身)が塾に初めて破られた。これはその当時に於いては塾の庭球部は勿論、日本の庭球史にも一つの新しい時代を開く一の事件であった」と。因みにこの明治三十七年という年は日本の私学スポーツ史の上で記憶されてよい年でもある。というのは、同じ年に、それまで野球界で多年覇権を握り続けてきた一高を早稲田と慶応とが相次いで破った年で官学全盛の夢は、早慶両大学の進出によって、私学にとってかわられる端緒となったからである。やがて大正二年には硬式庭球の採用となり、軟式は主としてクラブ活動によって維持されたのであった。
 なぜこんな古いことを述べたかといえば、軟式庭球部の歴史は、表面的には比較的新しいけれども、その背後には、明治以来の長い伝統を背負うものであるということを、この際あらためて認識してほしいと思ったからに他ならない。しかもいまひとつ指摘したいことは、軟式庭球は硬式ほどの国際性はないにしても、日本人の考案したものとして、世界に誇ってよいだけの複雑で、微妙な味わいを備えたスポーツだということである。かりにスポーツと国民性といった問題を掘り下げて考察するとすれば、軟式庭球はわが国の風土と民情にもっとも密着したスポーツといえるのではないか。それを守り育てることが、わが慶応義塾軟式庭球部に課せられた大学の対抗試合に勝って庭球王国慶応を造ることとは別の、いま一つの任務であるように思えるのである。創部三十年というこの機会に、幾多の先輩各位が築いてこられた過去の栄光を讃えると同時に、新しい未来に向かってのOB,現役を含めた関係諸君の、一層の精進を期待してやまない。


 

 

 


三十周年記念祝典に出席して


 

部 長  佐 野 勝男 

三越の大宴会場に集まった三百人にもなんなんとするOB、現役、また数々の来賓、早大同志社大の選手諸君など、その盛況ぶりはさすが伝統を持つ体育会の集まりだとの感を深くした。今まで慶応の体育会を育ててきた照井さんの軟式庭球部の長い歴史をせつせつとして語った祝辞にも打たれた。これだけの盛り上げ方をされたOBの御苦労のほどがほんとうに有難かった。
 卒業年次の同じ人がマイクの前に並び、その代表が一こと挨拶すると、ほかの人がまぜかえし、その時の好敵手だった早大の中山監督にもしゃべらせるといった具合の進行があり、同じ釜の飯を食ったという仲間の感情が並々と流れていた。これが体育会出身者のよさでもあり、強みでもあるとつくづく感じた。
 “私の卒業年度は一人を除いて全員集まりましたよ”と暫らくぶりに昔の話に熱中していた。大分白髪の多くなった先輩にも話しかけられた。とてもよい雰囲気だった。
 翌日はカラッとした晴天に恵まれ、先輩、現役を交えてのテニスの試合が日吉で行はれた。
 昨夜は同期生同志が宴会後飲みに出かけ、遅くまで語り合った様子で、試合のとき、球が二つに見えて仕方がないとコボしていた初老の先輩もいた。しかしさすがに昔やっただけあって、そのフォームはきれいである。
“もう走れないョ”といって球を追うのを途中でやめた先輩もいた。私も前衛として年配組の試合に出させてもらったが、一回戦でコロリと負けてしまい、三戸さんからもう負けたんですかと冷やかされたりした。
 大勢の人が集まり、それぞれテニスを楽しんだなごやかな会であった。
 体育会に入る学生が少なくなっている現状であるが、この雰囲気こそ、日本の一つの原動力であり、先輩、後輩、のつながりで学ぶものが多いと思う。この点を現代の学生は見直す必要があるのではないかと痛切に感ずる。青春をあげて、一つのことに熱中したからこそ、これだけの会が成り立つのだと思うのである。
 軟式庭球部の今後の発展を心から期待しております。

 

 

体育会主事  川 島 忠男  

 体育会軟式庭球部が、その前身である塾内対抗競技部新種目団体であった軟式庭球倶楽部から、昭和二十四年に部に昇格して満三十年が過ぎました。心からお祝いを申し上げます。当時の昇格に努力された、先輩の方々には感慨深いことと存じます。三十名の主将が、三十名のマネジャーが次々と引き継ぎ、各人の一年間をコートに若き血を燃やし、一つの流れとなった三十年は素晴しいと思います。毎日、厳しい訓練を積み重ねることで、自分に克ち、自信を持って試合に臨み、前衛、後衛が一体となって、初めて相手に勝つことができます。現役部員の諸君は、今まさに若き血を燃やしていることと思います。今頑張ることが、五十年への道であり、昇格五十周年を迎えた時、先輩として何ものにもかえ難い思い出を持つことが出来るのだと思います。体育会軟式庭球部の活躍と三田軟式庭球倶楽部の発展をお祈りいたします。

 

 

 

 

 

 

思いつくままに
                         三田軟式庭球倶楽部会長  岩 井 三 郎
  昨年十月二十日三越で催された軟式庭球部昇格三十周年記念パーティは、予想をはるかに越えた名実ともに立派なものであった事は皆様異論のない処であり、執行委員の方々の御骨折りに深く感謝致します。
 昭和七年軟庭部の全身である慶応軟庭クラブの創始者で当年七十余才の方々から昨春の卒業生に至る迄の先輩に現役を加え、三百人近い人々が参集され、誠に和気あいあいとした雰囲気で而も其処には何んのわだかまりもなく、他に見られない様な全員の気持ちが一つになったものがあり、私自身楽しさの余り遂い長々とおしゃべりをして終った様な訳ですが、之が現役部員を含めた三田軟庭クラブの真の姿であるとつくづく感じ入った次第です。
 おこがましい云い方だが、私が最初に監督を御引き受けした当時考えた将来の理想像がそのまま実現されたと云う感じで、誠に涙が溢れる思いでした。どうか後に続く方々は此の気持ちをもって更に四十周年、五十周年を迎え、老いも若きも軟庭部出身の同じ仲間としての誇りある集いとして大切にして行って頂き度いと思います。
 糸川監督が退任され、内藤新監督が就任された。糸川監督には十五年もの長い間誠に御苦労様であったと申し上げる外に言葉はありません。
 内藤新監督に対しても、既に総てを御承知の上の事であり、宜敷くお願いすると云うばかりです。殊に近年はコーチ陣も強化されて居り万全の体制であると思います。唯云い度いのは指導を受ける現役諸君が受身ではなく、自分から進んで上手に成り度いと云う意欲的な姿勢で臨む事が肝要です。無駄な練習は退歩あるのみ。

 最後に昨年一月病気で倒れ皆様に御心配掛けましたが御蔭様にて略回復し、近くのコートで一週二・三回一・ニセット宛テニスを始める様になりました。今後は日吉にも時々伺い現役の練習を拝見したり、女子諸君の御相手位しようと思って居ります。お見舞い下さった方々に心から御礼申し上げます。


 

 

 

 

体育会昇格三十周年を祝って
                         
 沼津硬式庭球協会長  小 野 晴 男(昭八経)
  慶応義塾軟式庭球部の皆様の御健康と光栄を御喜び申し上げます。学校を卒業して半世紀にもなろうとして居る我々にも体育会昇格三十周年祝賀会に御招待を頂き誠に有難う御座いました。昨五十四年度は春三月男子部の合宿が静岡の草薙テニスコートで行はれ、一日親しく練習を拝見させて頂きました。選手諸兄の宿舎への出入りの動作、コートへ往復する動作、コートに於ける練習のキビキビした振舞い、食堂で御飯を食べる時の敬虔な姿等眼を洗はれる様な清々しい風景でした。
 現在ではテニスクラブも企業化され、東京は勿論全国津々浦々にテニスクラブが誕生し老若男女喜々としてテニスに親しんで居る姿を見ることが出来ます。テニスが他のスポーツを引き離して此の様に隆盛になったことはテニス愛好者として限りない喜びであります。
 各地に有料無料の初心者教室が開かれテニス人口は急速に而も着実に伸びて居る現状です。然し体育会庭球部のテニスは本質的に別個のものと思はれます。母校の名誉のためにのみ苦しい練習に打ち勝ち、規律ある生活に従い人格と体格を磨き上げられて行くものと思はれます。
 草薙テニスコートの練習風景は私にとって永年忘れていた美しいこと、重要なことを呼び覚まし、思い起こさせてくれました。
 昭和五十四年十月二十日、体育会昇格三十周年式典に御招待頂き参列できましたことを此の上なく名誉のことと感謝致しております。昭和の始め頃軟式庭球部創立当時のメンバーである関西在住の鎮目俊之君、横須賀在住の田原直人君と小生の三名が顔を合はせ、過ぎて来た種々のことに思いを馳せました。
 当日は三越本店七階の大食堂に弐百五拾名以上の軟庭部現役、OBが集まり豪華な料理を頂き乍ら部長先生、岩井大先輩等のお話があり、創立以来約五十年続いた軟式庭球部のドッシリした重み、有為な人材が一同に会し誠に立派な会でした。私も数あるスポーツの中からテニスを選び、若いプレーヤーと共に在り、共に語ることの出来ることを心から喜んで居る次第です。
 今や軟式庭球部は立派な組織の下に立派なコートを持ち、資金的にも或る程度のゆとりを持ち、安泰した部の中で十分な活動も練習も出来る様になり、前途洋々たるものがあります。勝つも負けるも部員諸兄の心がまえと練習に左右されるものと思はれます。昨日は三十周年を立派に送ったので、今日は四十年に向かって又五十年に向かって新しい一歩を踏み出して頂きたい。部員の皆様も我々卒業生OBも一致団結して慶応義塾軟式庭球部の栄光に向かって前進致しましょう。
 三十周年記念の御祝いを申し述べ、且つ多少の我々の希望を申し上げました。失礼をお許し下さい。

 

 

 

監督を辞すにあたって
                       前監督  糸 川 雅 也
   昭和三十五年に越前監督の後をうけて監督に就任して以来十五年余りの歳月がアッという間に過ぎましたが、この度、内藤享佑先輩に引き受けていただくことになりました。
 サラリーマンということで、部員諸君にはもう一つ十分な指導が出来なかったことをまずお詫びしなければなりませんが、私自身としては一生懸命努めてきたつもりです。振り返ってみますと、昨年は体育会加入三十周年を迎え、三越で盛大な式典を行いましたが、その半分を監督として努めさせていただいた訳でありますから、それに恥じない立派な成果を残さなければ申し訳がたたないのですが、残念乍ら皆様に誇れるような戦績を残すことが出来ませんでした。
 男子は一部に上がったり二部に下がったり、その度に先輩諸兄にはご心配をおかけしましたが、現在は二部に居座ったままです。個人戦では上位へ進出する組もありましたが、何といっても団体戦で勝たなければ意気があがりません。唯、ライバル早稲田大学との定期戦はこのところ勝利を重ね、やっと五分の対戦成績までこぎつけ、女子部の勝利と併せて毎年塾長招待の祝勝パーティに出席させてもらうことが出来、こんな嬉しいことはありません。
 女子部は部員数が常に団体戦最低必要数ぎりぎりというハンディにもかかわらず本当に良くやってくれています。私が云うのはおかしいですが、全く胸が熱くなるときがあります。これからも挫けずにしっかりやっていってもらいたいと念願しております。
 しかし何といっても幸せだったことは、若さあふれる部員諸君と常に接することが出来たことですが、その皆さんが卒業された後、久しぶりに再会した際立派に社会人として成長されている姿に接することは感激と共に一番の喜びです。
 さて此の度の交替ですが、内藤先輩にお引き受けいただくことは誠に申し訳ない次第ですが、三十周年を機に盛り上がった先輩諸兄の意気を更に一層部に向けていただき、体制強化していくことが当面の急務であり、今後のわが部発展に最重要と考え、敢えてお願いしました。試合をするのは学生でありますが、先輩諸兄のバックアップは何にも増して大切なことであり、部員が充実した体育会生活を続け、立派な成果をあげるには欠くことの出来ないポイントであります。そしてこれこそが塾の伝統であり体育会の良さであると思います。
 わが部は今年も非常にきびしい状況で、並み大抵なことでは低迷脱出とはいかないと思いますが、若い優秀な芽も出てきていますので何とか先輩と学生が一体となって頑張っていけば、大きく育っていくと確信して居ります。
 私も外見的には薄くなってきた部分もありますが、テニスに対する情熱は益々つのる一方ですし、学生に負けない瑞々しい精神だけはいつまでも持ち続けていきたいと思っています。
 最後になりましたが、在任中一方ならぬ御指導御鞭撻を賜りました堀江前部長先生、佐野部長先生、岩井会長はじめ諸先輩、又体育会の諸先生に心より御礼申し上げますとともに、一緒に汗を流しながら喜び悲しみを味わってきた部員諸君の今後の大活躍を祈念して止みません。
 本当に長い間有難うございました。

 

 

 

 

 

O・B諸氏と共に
                          監督  内 藤 享 佑
 今般、糸川監督の後任として、その大任をおおせつかることに相成りました。
 糸川君の、我部体育会昇格後三十年の生い立ちの文字通り半生に当たる十五年間の長きに亘り監督として御尽力頂いた、偉大な事実に対して、心から感謝と敬意を表するものであります。
 YESかNOか可成り長い間悩みましたが、お引き受けした以上はBESTを尽くしてこの任に当たる覚悟ですので、諸先輩、OB諸氏にはよろしく御指導、ご鞭撻、そしてご援助のほどお願い申し上げます。現役学生諸君には、我々の部が君達の一人一人が強くなるために、そしてこの部が内外の目から魅力ある存在たるべく、この道に精進して頂くようお願いします。
 幸い、我部には、戦前よりの長く輝かしい歴史と、岩井、越前、糸川三氏の先輩監督の築かれた立派な道があります。私はその道を着実に進むことこそ、正道、且つ近道と信じており、それが実行に努力し度いとおもいますが、特に重要と考えている三点を以下復習してみたいと存じます。
………三田軟式庭球倶楽部、即ち先輩あっての部であり、先輩諸氏の一丸となった支援体制を不可欠とするところのものであります。幸い、この三十周年記念の諸行事を通じて結束された力を以って御支援頂けることが、此度の常任理事制度発足の形で確認され、大いに気を強くしているところであります。よろしくお願いいたします。
………当然のことですが、現役部員の心技体の育成向上に努めることこそ、部の直接且つ終局の目的であります。基本の重要性の追求と、自ら厳しさを求める環境づくりのお手伝いをしたい考えです。これには、二年程前より結成されたコーチングスタッフの御協力に期待するところ大なるものがあります。特に、若手のOB諸君の活躍をお願いします。
………資質ある人的資源を確保することも又同様に重要な課題であります。OB諸氏の出身地をはじめとして、OBのネットワークを十二分に生かした新人獲得のためのキャンペーンを実施することが出来ないものかと考えております。振り返って、塾高校部員の育成も、入試の困難な現状における強力な手段であることは、従前より指摘されている通りです。浜名高校監督と協力して具体策を練り度いと考えています。
 以上、私が特に重要と考えている三点について、私なりの解釈にもとづき一般論の復習をさせていただきましたが、今後は諸先輩、OB諸氏と相談しながら、御協力いただきながらこれらの一般論を具体化、展開し、実に結びつけるべく努力したい所存であります。よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

同志社から見た慶大軟庭部
              同大軟庭部 副将  渡 辺   豊

私と慶大軟庭部との付き合いは、三回生の秋、日吉のコートで定期戦をやってから特に親密になったと思います。「同志社から見た慶大軟庭部」というテーマで文書を書いてくれといわれたのですが、やはり私、四回生ですので、四回生同志の話から始めることにします。
 慶大の四回生、一口に言って非常に面白い人間集団だと思います。主将の赤井君を始めとして自称「窓際族」と豪語する西川君まで個性豊な人が多かったので、私も本当にすんなりと親しみを持ちながら、みんなと友達になれました。まだ卒業はしておりませんが、同大四回生の中でも特に私は慶大のみんなにお世話になったので、いろいろな点で思い出に残りそうな気持ちでいっぱいです。夜のコンパはもちろんの事、今年の十月には会社訪問で東京へ行った折り、就職活動の中休みとして日吉のコートで共にテニスをやり、その後の就職活動に精神的に非常にプラスになったことなど本当に昨日の事のようです。
 又十月二十日に私、就職の事で東京にいたのですが、その夜。慶大軟庭部三十周年記念パーティーに出席させていただいたので、その事について述べさせてもらいます。
 まず、全国各地から大多数のOBの方々が集まられていたことに大変驚きました。又歴史あるが故にいろいろな人達の話を聞けたことをすばらしく思います。その中でも御名前は失礼ながら忘れましたが、現役時代の日記を切々と読まれているOBの方の話を聞いて、大変胸を打たれました。我が同大軟庭部でも「やれば出来る」と、よく言われてきましたが、全くその通り、「今後の生きていく姿勢に対しても前向きに進まなくてはいけないのだ」ということが就職活動中だったこともプラスして私の心の中に刻み込まれたような気がします。
 「慶大軟庭部」………私は何か同大軟庭部と似かよった点があると思います。「それはなにか」と考えるとマイホーム的なファミリーなムードが感じられます。
しかし言える事として私も当然含めて「もっと荒々しさというものを前に出さなくてはいけない」と感じます。
「俺達はこういう集団なのだ」という。
何か偉そうぶったような文章かもしれませんが、私自身幹部として今夏までやってきた中での反省点でもあります。
 来春から私も一社会人となるわけですが、東京地区に勤務したときには、また日吉のコートでテニスをさしてください。
 

 

 

 

 

ま だ 現 役 や ぞ            
赤 井 宏 司

3年も前の夏の話です。インカレのレギュラー決定リーグ戦で、当方赤井・古賀組は必死に下岡・山本組と戦っておりました。3ゲーム先取したものの、敵も仲々強くファイナルに。古賀さんの強烈レシーブが冴え、ついに2−3でマッチポイント。ここでも、古賀さんのレシーブが火を吹き、決まったかと思えたが、さすがにしぶとい下岡さん、リターンした。「抜いたれ」と思ったけど、そこは一年生、勝にビビリが出て、「後衛の前に確実に」と思ったのが甘かった。山本さんの「気合」ボレーが決まりジュース。結局、そのまま押し切られて負けてしまった。未だに古賀さんに申し訳なく思っている痛恨の一球。
  4年間で最も印象に残っている試合です。あの天下の山本さんが始めて本気でプレーしてくださった記念すべき試合なのですから、忘れようとしても忘れられません。と同時に最後のワンポイントの難しさがわかった試合だったのです。この後も、近江・鈴江戦、入替戦、崎・永森戦、秋山・磯部戦、と応援の方々をハラハラさせどおしでした。しかしながらタイトルを何も取れなかったことだけが残念でなりません。
 また技術面も、やっと4年の秋、それもシーズンが終わりそうになってから伸びたようで、チト遅すぎました。でもテニスの面白さがようやくわかってきたような気がしてきて、「卒業したらゴルフに精出して………」と考えていたのを改めて、テニスに精進するつもりです。ひょっとしたら内藤さんくらいになれるかも………なりたい。
 最後にこの4年間お世話いただいたすべての方に感謝を申し上げ、筆を起きます。
 久米、頑張れ!!      

                      (博報堂就職)

 

 

 

嗚 呼 花の55年卒
              杉 町  真

大学生活も残りわずかとなり、日々、日吉での練習や、遠征先での思い出にふけっている。部報原稿の〆切りがせまるにつれて、何を書こうかと迷ったあげく、浮かび上がったのが、今春この日吉コートから実社会へ飛び出してゆくフレッシュマン(only men)8人組の紹介である。日頃のコート上での生態やうわさ話では知りえない部分をも吐露してみたい。失礼にあたる事もずいぶんあるだろうが、登場人物の皆様には、何卒ご了承の程を。(尚、登場順位等に関しては、特にうるさい輩が多々おるのでアイウエオ順で行なう。)
 赤井宏司(商 5)
 就職の面接の際に、漫才ばかりいって人事の人を笑いころげさせた男、けじめがはっきりしているのかどうかわからんが、コートの中にはいると、ガラッと人が変わる時がある。「あれが、町ではテレテレしているあの赤井か?」と思わせるように、ピリッとこわく、厳しくなるのである。つまり「豹変」をよくやって、マネージャーをひんぱんに泣かせた。女性にはもてそうでもてないのが実態であったが、最近彼女とキャンパスをかっ歩しているのを見かけた。常にリーグ戦では、1番に出て活躍し、思いやりのある下級生をよく指導した主将であった。
 大賀茂幸(政 13)
 就職の面接の際に、みんなが暑い中、ネクタイしめてスーツを着ているのに、ポロシャツ1枚で出かけていった男、筆者からみれば非常に垢抜けしていて、スマートな都会っ子であるが、ズッコケも多いにあり。女性にはもてそうでもてる。嫁をもらうのは彼が一番早いだろうともっぱらのうわさである。テニスも、手が長くてかっこよくて、春のリーグ戦では全勝した。日吉・三田マラソンを完走したガッツの持ち主でもある。
 栗原清彦(政 12)
 彼のあだ名は、だれがつけたのかはしらんが、村長、引率の先生、駅長、助役、宮沢さん、じいさんと、非常に落着いたムードを持ったものが多かった。この原因をいろいろな角度から研究してみたが、彼の部活動におけるイブシ銀的存在感からであろうという結論に達っした。彼は非常に責任感が強く、三田会の仕事をうまくこなし、特に年配OBとの会話に特筆のものがあった。女性関係はうわさを時々きいた記憶がある。
西ヶ谷嘉明(政 20)
彼の性格は「お人よし」の一語につきる。なにしろ身上書の長所には「面倒をよくみる」短所には「人がよすぎる」と書いてあった。長短、表裏一体なのである。下級生の面倒のよさは、コート内外を問わずピカ一であろう。また大食いで、一食に三合の米を炊いているのを実際に見てしまった。テニスセンスは抜群で、静岡では親子鷹として有名である。昨年、秋の関東リーグ戦のピンチを救った張本人である。女性関係は、shyであまり表には出てないが、かなりありそうである。
 西川順三(政 11)
 「極道」とか「兄ちゃん」とか呼ばれ、時としてその性格むき出しとなることがある。服のセンスに関してはかなりうるさく、ファッション雑誌などでかなり研究しているもよう。しかし、いったんコートに入ったら「鬼の順三」と言われるくらい、しゃかりきになって練習する。あの安藤・西(法政)にも勝った経験がある。ここ一番に強く、リーグ戦ではプレッシャーがかかる五番に文句なく起用されていた。部員の信望も厚かった。女性関係は、常にうわさ話ではなく、実話が絶えずはなやかであった。
 丸山靖則(文 7)
 豪快なプレーと、堂々たるコートマナーは、下級生や他大学部員をして「天皇」と言わしめていた。インカレチャンピオン園田(日体大)とのシングルスでは、見事に打ち勝ち、その「天皇」ぶりを見せつけたことであった。
 根は真面目で、部報の仕事を精力的にこなした。責任感が強く、好奇心旺盛で、New Event
には必ず彼の影ながらの力があったと思われてよい。6大学リーグ戦では全勝し、塾チームの中心前衛として頑張った。女性関係では、数々の武勇伝があるが、誌面の都合上、ここでは割愛させていただく。
 三笠博司(政 9)
 彼の紹介はあだ名ではじまり、あだ名で終わる。列挙すれば、カッパ、ペコチャン、ハゲ、イーピン、満月、ステテンコ、十五夜、テンタクルズand so on 、
 これだけあだ名があるということは、それだけ部員みんなに親しまれたことを示すものであり、うらやましい限りである。テニスコートでの真剣なプレーとボールに対する執念は、下級生の手本であり、部員全員が見習うべきことであろう。前出の丸山とのペアは、部史に残る名ペアであった。女性関係は、女子美大を中心にいろいろにぎやかであった。
………筆者の紹介は、以上の文から想像していただきたい。………
 本当にこうして学生最後の原稿を書けるのも、諸先輩のご厚意とご指導のたまものであり、下級生の理解があったことに他ならないと思い、深く感謝しています。
 卒業を目の前にして、良き先輩、良き後輩、そして良き仲間を持った僕は幸せもんだと断言できます。ほんとうにいろいろと有難うございました。        

 (東京海上火災就職)

 

 

 

ス ポ ー ツ 感
 
             西ヶ谷 嘉 明

江夏の投げたボールが、すいこまれるようにミットにおさまった。その瞬間にかけよる監督、選手等の顔顔、誰もかれも抱きあって喜んでいる。そう、これは、先の日本シリーズ最終戦のハイライトシーンである。
 私は、特にカープファンというわけではないが、テレビで見ていてひとつの目標のために努力してきた男たちが、やっとつかんだ勝利の前に思わず胸がジーンとなり拍手を送られずにはいられなかった。この日までのプロセスには必ずや失望、挫折、衝突がくり返されたに違いない。そのたびに危機を乗り越えるためのより強い精神力の養成、あらゆる努力がなされたことは言うまでもない。
 我々も同じスポーツマンとして、一つの白球を追いかけ勝負を競っているわけであり、大げさに言えば青春を白球に賭けているのである。スポーツをする者なら誰もが感ずる時があると思うが、「勝てば官軍」なのであり、1位2位では天と地の差がある。……それは、賞品においてもそうであるが……本当に勝負の世界は厳しいわけである。たった一本で運命が分かれることもしばしばあり、江夏がもし、あの場面で打たれたら、まさしく逆転負けなのである。それだけに勝てば嬉しいし、負ければ腹立たしく、自己嫌悪に陥ることさえあるのである。特に負けた後によみがえってくるあの凡ミス。考えれば、考えるほどくやしさがこみあげて、なんともいえない歯がゆい気持ちを酒などでまぎらそうとすることが多い。
 時に、人は勝負をラッキー、アンラッキーで片づける場合があるが、ラッキーだけでは勝てないのである。もちろん、勝負にラッキーはつきものではあるが………。我々はラッキーやファインプレイの背後にかくされた努力すなわち、精神力、技術的両面の鍛錬であり、もっとつっこめば忍耐力、集中力の養成からフォームの改善、筋力の強化が挙げられよう。
 私も、もう4年、まもなく卒業し社会人となるわけであるが、今後も自己を磨くため体育会で学んだ教訓を生かし、プライドをもってがんばるつもりである。どうか現役諸君も、あの大ピンチを投げぬいた江夏の根性、あそこまで試合をもりあげた各選手をひとつの手本として、今後一層の精進を心がけてほしく思う。                      

(鈴与就職)

 

 

 

私 の テ ニ ス 人 生
             西 川 順 三

コートのそばの木々が寒そうに立っている。あとわずかで、私のテニス生活も終わるんだなあ………、近頃コートに立つと、どうしようもなく淋しくて………10年間か………よくやったなあ、くやしさだけがいつもいっしょだったけど。
 テニスって一体私にとって何だったんだろう、今まで立ち止まって考えることもなかったけど。いつもそばにテニスがあったから。
 私が始めてラケットを握ったのは、小学5年の時でした。姉が中学で軟庭を始めたので、私が練習相手になったのです。その頃はジャイアンツの長嶋選手にあこがれていて、毎日野球に明け暮れていました。そんな私が中学に入ってなぜ軟庭をやることになったのか、今もはっきりしないのですが、その時9人でやる野球よりも2人でやる軟庭のほうが、勝てそうな、そんな気持ちだったのを覚えています。10年間もテニスを続けてきたのは、軟庭を続けてゆくうちにいろんな人に出会い、又忘れられない人々に巡り合うことができたからです。
 中学の部長先生だった曾根先生、テニスに対する姿勢と基本、そして勝つことの喜びを教えていただきました。ただ一つ心残りなのは全日本中学生選手権を目指しながら一番大事な試合で、自分のプレイが出来ず予想外な結果に終ったことでした。高校に入ってもう一度テニスをやろうと思ったのもそのくやしさをインターハイを目指すことでテニスにぶっつけてやろうと思ったからでした。
 高校での私に、本当のテニスのきびしさと、つらさを教えてくださったのがOBであり、当時神大生の志茂先輩でした。毎日本当に毎日授業も出ずにコートにこられては、きびしい指導をうけました。つらかった冬の基礎トレ、涙と汗がいっしょに出ることを知りました。こんなにまでやらないといけないのかと何度も思いました。夏の合宿、何度も頭からバケツで水をかけられながら、ようしゃない声を背に受けたこと、今でも昨日のことのように覚えています。それでもインターハイには出場できなかった。志茂先輩の淋しそうな顔が忘れられません。もう二度とラケットは握るまいと心に決めて、受験勉強を始めました。それでも一ヶ月もすると、体が自然にテニスコートに向かうしまつです。後輩から“勉強は大丈夫ですか”と心配されながらも、やっぱり私にとってラケットを振ることが一番の喜びになっていました。その頃から大学に入る目的はテニスだけになって、どうしても慶応でテニスをやろう。そのことが私を現役でパスさせてくれました。実際不可能に近い大学でしたが、毎日の練習に比べたら受験勉強はむしろ楽しいくらいでした。
 こうして現在の大学生活に至るのですが、大学ではテニスに対する精神力と、テニス以外の生活においてもあらゆる意味で私の心に大きな位置を占める下岡先輩に会いました。2年の春の六大学での法政戦、安藤・西組にファイナルジュースで勝ち、私もこれで一流になるかなと思ったことも、その後の入替戦で、亜細亜の大将チームに完勝して慶応の二部残留を支えたことも慶応に入学しPRAYできることの喜びを知って、感激にふるえていた最高の時でした。3年の秋の六大学、明治戦でマッチ5本しのいで勝ち慶応にも優勝の可能性を残した時、いろんな事があってテニスを止めようと思っていた私が、もう一度ゼロからスタートした最初の試合でした。本当にやめないでよかった。涙がとめどなくあふれていました………。
 ふり返ればいろんな思い出があるテニスですが、あとわずかで日吉のコートと別れてゆく私にとって、残る3年生以下の諸君が、今の私のくやしさと無念をくり返すことなく卒業してくれることが、先に行く私の本当の気持ちです。
 私が中学、高校で曲がりなりにも一流に近いプレイヤーでいられながら、大学では二流で終わったのは、大学時代には私自身の大きな目標がなかったからでした。一部に昇格し、六大学に勝つことが宿命として課せられていて、二部で勝つテニス、六大学で勝つテニスしか考えられなかったからです。これは二部である我々慶応のしかたないことであるかもしれないけど、これからの現役諸君は一つ個人としてインカレチャンピオンになる。そういうつもりで必死のチャレンジをして欲しい、私が大成できなかったのはこれがなかったからです。私のこのくやしさと無念さが、部員一人一人にのりうつり、そのたましいのなかに、やどれるならば、私が恥をしのいで告白した以上のことが、少しは役に立ったと信じ、去りゆく私の最後のことばに換えたいと思います。現役諸君、インカレチャンピオンを目指せ!!

(サニーマート・ファーストフード就職)

 

 

 


三 回 戦 ボ ― イ よ り
 
           三 笠 博 司

私は、4年間コンスタントに三回戦どまりでした。1年の東日本で三回戦まで勝ち残り、次で負けましたが、この分なら3年か4年でいいとこまでいくだろうと思ってました。そして、4年の全日本、三回戦で負けました。この学生最後のゲームは、スコアーこそファイナルですが、みじめなものでした。みじめさよりはずかしさのほうが大きかった。この時の気持ちはいくら時間がたっても忘れられないだろうと思って居ます。
 中学、高校、大学と10年間のテニスの毎日、中でも塾での4年間は、すべてがテニスを中心に動いていました。犠牲にしたものは数え切れない。そして、あとに残った成績は何もない。体育会という世界は、いわばプロの世界であり、勝たなければやはりだめだと思います。私は全く勝てなかった。ただそれが悔しくて仕方がない。もし自分がテニスをやってなかったらと思うこともしばしばある。しかし後悔の念は全くない。テニスは私に、勝利を与えてくれなかったけれど(否、勝利をつかむことが出来なかったけれど)目に見えない何かを与えてくれたと信じている。そしてこれからもずっと与え続けてくれるんだと信じている。
 今、こうして4年間の自分をふり返ってみて、外から自分をみる時、みている自分に成長した自分を感じる。現役の時整理できなかった気持ちが整理できそうな気がする。どうして1年前に気づかなかったんだろうと、又ここでも自分に腹が立ってしまう。今気持をあなたに伝えたいけどうまく言い表せない。そうだ !! あなたも毎年4年生とともに卒業してみたらどうだろう。もちろん気持ちの上でのことである。
 先日、面白い記事を見つけた。これは驚くべきことだと思うのだが、あのボルグさえ、あのプレーに対し必ず成功するという自信はないんだそうだ。彼はただ信じているんだそうだ。あなたなりに噛み砕いてください。
 最後になりましたが、私はあなたにいいアドバイスが出来なかったことがとても残念です。
 ・ 私は、あなたが勝つ日を楽しみにしています。
 ・ 3回戦ボーイより未来のチャンピオンへ。              

(天満屋就職)

 

 

 

無    題
 
                大 賀 茂 幸

僕らが1年の秋、関東リーグで優勝した。シーズン=スポーツで入った僕にとって、初めての試合であった。当然の事ながら、選手としてではなく応援だけであったが、大学でのテニス生活をふり返る時、やはり一番嬉しかったのは、あのリーグ優勝であった様に思う。その後慶応は、どんな試合に於いても優勝の経験はない。つまり、僕等が卒業した後の現役諸君は、大学での優勝経験は一度も持たないわけである。
 優勝の喜びと言うのは格別である。誰でも優勝したいという気持ちは持っているであろうが、一度優勝の味を知ったら、それは一層深いものになってゆくと思う。そして、その気持ちが強ければ強いほど、練習での身の入り方も違ってくるだろうし、結果も良くなってゆくに違いない。これからのためにも、六大学でもリーグでも良いから何か一つ早く優勝して欲しい。
  最後の優勝以来、惨敗、あるいは健闘したが及ばずといった試合をくり返してきて、負けることの悔しさは皆充分に知っていると思う。確かに負けた時の悔しさも強くなっていく上には不可欠であろう。しかし、負けることに慣れる気持ちは捨てねばならない。そういった気持ちを持っていると、ある程度勝つ事はできても、勝ちきってゆく事はできない。1位になる為には勝ちきってゆく事が絶対に必要である。この勝ちきるんだという意思がない限り、結局、健闘したが及ばずと言った事のくり返しになってしまうだろうと思う。
 体育会でやってゆく以上は結果である勝ち負けが全てである。その過程の大切さを口にする事ができるのは、勝負の場を去った時初めてであって、勝負の場に居る間は、勝つ事が最も大切な事であり、その為に練習しているんだと言う事を忘れてはならないと思う。
 自分自身勝つ事のできなかった僕が偉そうな事を書いてしまったが、同じ悔いを残して欲しくない。テニスだけの大学生活に何ら悔いはないが、勝てなかった事、そして勝つための努力に手抜きがあったのではないかと、それだけが心残りである。練習で楽をするのは、それだけ損をしているという事を知っておいて欲しい。              

 (キャノン販売就職)

 

 

 


四    年
 
                栗 原 清 彦

大学受験の前日、私は初めて日吉のコートを訪れた。案内された合宿所で、何人かの部員が、いかにも優しそうな顔で、受験生である私の緊張をほぐすかのように迎えてくれた。私は何と汚いところであろうかと思いながら、差し出された、これまた汚いスリッパをはいた。
 あれから4年の月日が流れ、もうすぐ日吉のコートとも別れを告げねばならない。いろいろなことがあった。いろいろな顔があった。喜び、屈辱、悲しみ、そして感激、そのいずれをとっても決して忘れることのできないものばかりである。これからの人生においても数限りない経験を重ねるであろうが、これほど強烈に残るイメージはそうないであろう。それだけに感慨深いものが胸に込み上げてくる。
 ふとしたきっかけでテニスを始めて、もう10年になる。その中の大学4年のテニス生活を通じて感じたことは、私が高校までやってきたテニスは本当にテニスだったのだろうか、ということである。テニスの何たるかを語ることは、現在の私には、非常に困難なことであろうが、少しではあるが、それが見えたような気がする。確かに抽象的ではある。しかしそれだけでも4年間やってきた価値があると思えるのである。さらに、縦、横の人間関係を通じそれによって得た数々のものは、何ものにも変え難い宝であると思える。これもまた口では容易に表現できるものではないが、私も多大の影響を及ぼしていることは、自分のことながらよく解る。また、規律、あるいは忍耐、試練といったものは、体育会においてこそ有るものであると信ずる……所属していなかったらと思うと、想像するだに恥ずかしい学生生活を送っていたかもしれぬ。
 ともかく4年の間、体育会軟式庭球部に所属し、数々のものを学び、それを誇りとできる私は本当に幸せである。ただ一つだけ残念なのは、良い成績を残せなかったことである。そういう意味で、最後に、後輩諸君、君たちは体育会軟式庭球部という実に素晴しい部に所属しているのだ。この部をもっと素晴しくするために、月並みな言葉で悪いが、頑張ってくれ。頼む。

(山形銀行就職)

 

 

隆 太 の お 話
                伴 野 美智子
 僕の名前は、伴野隆太、今年(昭和54年)の7月に生まれました。家族は両親とおじいちゃんとおばあちゃん、それからちょっぴり変わってる叔母ちゃんの6人です。今日はこの変わり者の叔母ちゃんの話をしようと思います。
 叔母ちゃんは、本当はとても優しい人なのです。僕のおしめをかえてくれたり、いろいろ面倒をみてくれるし、いっしょに遊んでくれたり、あたたかい洋服を編んでくれたりするのです。でも僕に理解できないのは、隆太かわいいねなんていいながら、ほっぺをキュッとつねったり、鼻をピーって指でおし上げたりすることなんです。まったく、叔母ちゃんみたいになっちゃったらどうしてくれるんだよ。
 聞いたところによるとね、叔母ちゃんは高3の頃からずっと教師になりたかったんだって。とってもいい先生がいて、その先生みたいになりたかったんだって。だから浪人までしたんだって。でも教育実習を経験してみて、教師のやりがいや、むずかしさ、教育のすばらしさとその責任の重さを知れば知るほど、なんだか考えこんでしまったらしい。試験に落ちたこともあって、教師になることはあきらめたらしいよ。むずかしいことは僕にはよくわからないけど。
 でもさ、叔母ちゃんにとって教師になることが、ずっと大きな目標であり、ささえであったわけでしょ、だからそれがなくなって、おおげさかもしれないけど、人生の指針みたいなものを失ってしまったんだよね。
 時も時、民間の会社への就職活動、クラブ活動の終了、卒論のこと、その他いろいろかさなってずいぶん悩んでいたみたいだよ。
 でもね、今は叔母ちゃん、元気をとりもどしてきたようだよ。この前僕に、こんなふうに話してくれたんだ。
 「隆太、叔母ちゃんは4年間クラブを続けたことに後悔はない。むしろほこりに思っている。でも何だか、ちょっぴりむなしいんだよね。自分が悪いことはよくわかっている。自分はいったい何をやりたいのか、この先どうしたいのか、もう一度考え直してみたいんだ。卒論もいいものが書けなくてもいい。ただ、自分はこれだけやったという自己満足のできるものを書きたい。
 そんなわけでね、もう1年大学に残ることにしたよ。もう若くはないし、これ以上親に負担をかけるのはしのびないけど、わがままを許してもらうことにしたよ。いつの日か、自信を持って教師になれる日がくるまで、自分をみがくつもり。だからね、隆太におもちゃを買ってあげられるようになるのは、もう少し先になってしまったの。ごめんね。」
 僕はまだ言葉が話せないから、何も言えなかったけど、心の中でこう叫んだ。
 叔母ちゃん、ファイト !! ファイト!!
 
   

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