初代監督 岩井 三郎(昭12卒)
三代監督 糸川 雅也(昭36卒)
質 問 者 三戸 節雄(昭34卒)
丸山 靖則(文 4)
三宮 慎司(政 3)
と き 昭和54年12月9日(日)
ところ 慶大軟式庭球部合宿所
心のよりどころとなる人間の集まり
・・・・昭和54年は慶応義塾大学軟式庭球部にとって、体育会昇格三十周年にあたります。この30年間の前半と後半をほぼ15年ずつ部の監督としてご苦労されてきたお二人にじっくりお話をうかがいたいと思います。30年とはちょうどワン・ゼネレーションにあたり、時代が大きく変わったことを意味します。両監督それぞれ、どのような部をつくろうとお考えでしたか。
岩井 私は体育会で育ったものでないので、監督やれと言われて困ってしまったんだけど、他にやる人も居ないので引き受けたんです。
部長の河村知男先生とお話しをして私の考えを述べました。「新しい部なんだから、斬新さのある人間の集まりにしたい。勝つこともむろん大事だけれども、それよりも卒業して社会へ出てからも、心のより所となるような、そんな部にしたい」と考えました。いささか小市民的ですがね。時代は戦後の混乱期で、私も仕事の再建に飛び回っていましたし、一時、自衛隊の情報将校として引っ張られたこともあって、最初の頃は親身になって部の面倒をみられなかった。あの頃の人たちには申し訳なかったと思っています。
・・・・体育会昇格当時は一部にいたようですね。昭和24年の全日本では準優勝しています。
岩井 戦後、学生軟庭界が復活して間もない頃だから、全体的に水準はそれほど高くはなかったけれども、粒はそろっていた。田中君、益田君、小熊君らがなかなかいい線いっていたね。彼らが抜けてしまって、実力がガクッと落ちてしまった。その後、部としての実力がついてきたのは昭和30年代に入ってからです。二部に落ちてから、それまで何回も入替戦で一部に挑戦したんだけど、二部のテニスに流されて勝てなかったですね。
糸川 内藤(享)さんから何度も聞きましたが、30年秋の早稲田との入替戦は大接戦なんですね。その年のインカレで早稲田は団体優勝したんですから、たいしたものです。2対2で諏訪・内藤(享)で決戦をやるんですが、これは両先輩にとって忘れられない試合なんですね。
岩井 その入替戦がきっかけになって、みんな自身をもってくるんです。そして翌年に糸川・西村・村井・水内など素質のあるのがたくさん入ってきた。選手の層が厚くなった。
越前主将がこれまた厳しいけれど人間的な温かみがあって、部を良い方向へ引っ張っていった。そして32年の春に明治を、破って待望の一部昇格となるんです。
糸川 なにしろ私が入部した時、新人が70人もいたんです。それで幹部会というのができましてね。出席率の悪い奴はどんどん首を切られる。全部員が150人もいました。多すぎるので何とか数を減らして、やる気のある連中にいぼろうとしたわけですが、なかなか落ちこぼれていかない。ファイトのある連中がそろっていたんですね。結局、それが層の厚さとなって部の力になりました。
物資欠乏の時代の合宿
岩井 戦時中に物がないのは当然として昭和30年の初めは、今に比べるとまだ物資のない時代でしたよ。ちょうど糸川君が入ってくる春合宿あれは川野さんのお世話で和歌山でやったんだけど、ずいぶん質素な合宿だったな。
糸川 あれは印象に残っています。赤十字の引き揚げ寮かなんかで、施設も貧弱だったし、食事もすごかったです。三月になっても寒さが続きました。暖房器具ひとつないし、朝昼晩の食事が御飯につくだに少量、味噌汁一杯だけなんです。どうにも辛くて、マネージャーの牛山さんにパンを買ってきてもらったり、マーガリンをご飯に入れて食べたり……….先輩の時代にはこういう合宿はあったと思いますが、私の経験した中では、食事は最悪、テニスは最高の合宿でした。(笑)
岩井 食事のことで言えば、もっともっとひどいのがあるよ。益田君の時に、信州・松本の鐘紡で合宿やったことがあるんだけど、私のところに電報が来たんだ。「イキテイケナイ」ってね。(笑)麦飯と味噌汁だけでは力がつかないって言うんだ。それで缶詰やら食料品を持って陣中見舞いしたことがあった。
あの頃はまだ物資のない貧しい時代だったんだなあ。今のようにハイカラなトレパンはなかった。海軍で使ったもののお下がりだった。それもつぎはぎだらけでね。
・・・・昭和30年代に話しを戻しますと、糸川・西村・村井といった優秀な選手が入ってきて慶応の本格的な第一期黄金時代(体育会に昇格してから)が始まるんですが、岩井さんはそういった選手をマークしていたんですか。
岩井 これと思う選手はマークしていました。この時に限らず、いい選手で慶応に入れそうなのがいると声をかけてましたよ。古くは益田君。彼は小田原のもと日本軟式庭球連盟会長の息子さんで、どうしても慶応に欲しかったもんだから、私が引っ張ってきたんです。亡くなった世良田君もそうです。彼はインターハイ準優勝でした。高校時代の彼と一緒にマッカーサー杯(今の都市対抗)に出場し、横須賀市が第三位になったことがあるんです。
糸川君たちのあとにも、寺岡・高取組とか、谷口、大木などの有望選手を勧誘しました。あの時、岡井と中野だったかな、入試の合格発表の前日、私の事務所に泊まって夜明かしして三田へ出かけたことがある。たくさん入ってきて喜んだ憶えがあります。
・・・・32年の春に一部昇格した後も、入替戦は続くんですね。糸川さんの時に初めて入替戦から開放されています。
糸川 選手の層が厚かったですからね。私の同期には西村・村井・水内など精鋭がそろっていましたし、下級生にも岡井君・一条君たちがいましたから、当然といえば当然なんです。それよりも私のいちばん強烈な印象は、一部で試合をやった時の、球が速かったこと。そして試合の厳しさです。私も村井と組んで、早稲田の桐原選手に一勝しただけでした。一部リーグ戦を通じて全体で三勝ぐらいしか出来なかったと思います。入替戦独特の切羽詰った雰囲気はいやなもので、だれもが縁を切りたく思っているんですが、一部の強敵はなかなかそうはさせてくれない。それでもみんな一部の試合に場慣れしてきたんですね。徐々に勝てるようになってきて、上級生になった時には滅多に負けなくなった。西村君は全勝しています。それにしても記録を見ますと入替戦の相手が手強いんですよ。青山学院の小松選手とか教育大の石川選手。この二人はアジア大会にも出場しているんです。それから日体大の中沢選手、明治の亀川、木本両選手、こういった強豪が二部から挑戦してきたわけですが、すでにこちらは一部の空気を吸っていましたから、チームとしては二部との差をつけたという自信を持っていました。
・・・・岩井さんはその頃、監督としてどういう指導をされたのですか。
岩井 あまり細かいことを言ったわけではないね。一緒に練習し試合をしました。
糸川 強くてわれわれも参りました。
岩井 そんな事はない。でも、現役の下位の連中とは互角にやったのかな。あの頃はチーム自体が充実していたので、私がこうやれ、ああやれと言わなくてもよかったんです。一緒にやる事で私の考えを言いつくしていたというところでしょう。
サラリーマン監督として
・・・・糸川さんは監督になられてどういうチームづくりを心掛けられましたか。
糸川 学生スポーツの基本を忘れないで欲しいということでした。学生それぞれが自覚をもって勉強とスポーツを両立させる。そういった塾風をバックボーンにして、各選手の個性を引き出すことに力を貸そうという考えで取り組みました。これは申すまでもなく、岩井・越前両監督のお考えを受け継いだものです。体育会ですから、強くなければいけないのですが、肝心なのは、その強くなる目標に向かっての努力ですね。これが人間形成の上でいちばん大事なことではないかと思います。サラリーマン監督ですから、四六時中、学生とともにいられるわけではありません。
チーム全体の方向づけをはっきり指示することに重点をおきました。
岩井 確かに四六時中、選手と一緒にいて指導できればよいなあ、と思ったこともありました。しかし、問題は専任の監督でなければならないということではないんです。当時、日大とか中央と試合してわかったんですが、強いチームというのは一つの「形」をもっているんですね。慶応はバラバラなんだ。選手の実力からすると、入学の時から慶応にはハンディがあるんだけれども、「形」を身につけさせるのは指導者とそのチームの空気とかカラーといった問題になるでしょう。「形」を作ることは昔も今も必要ではないかと私は考えているんですがね。
糸川 例えば日大では戦後、金森さんがずっと面倒をみてこられましたし、加藤選手も一時残って指導に当たっていました。日体大も西田選手が合宿所に泊り込んで学生たちを引っ張ってきています。それに比べますと、慶応の場合、サラリーマン監督が週一回やってくるのが精々ですから、本当に指導できるのかという問題はあります。しかし、要はやりようです。岩井さんのおっしゃった「形」をつくるためには、OBのコーチングスタッフもおりますので、今まで以上に技術面での指導をしていかなければなりません。それから何より肝心なのは、学生たちがキャプテンを中心に、どうしたら個人個人が上達するか、チーム全体の力が向上するかを考えつつテニスに打ち込むことです。
一部昇格を念願して
・・・・昭和32年春に一部昇格してから、糸川さんが卒業するまで、慶応のいわば第一期黄金時代が続くのですが、その後、数年低迷して再び三九年から四二年頃まで、第二期黄金時代を迎えています。団体戦、個人戦ともに目覚しい活躍です。一部でテニスをやれる条件は何なんですか。
糸川 確かその時、一部に昇格してすぐに三位になっているはずです。いい成績がしばらく続くというのは、一代限りでなく、代々いい選手がいたということです。それは各年代が努力して何とかレギュラーの地位を確保しようとしたのです。切磋琢磨があったんですよ。それから強い時代に共通していることは、前衛と後衛のバランスがとれていることです。私どもの頃は、どちらかというと後衛におんぶされているところがあったんですが、39年から42年頃には前衛諸兄の健闘が特に目立つんです。
岩井 私が熱心に来たのもこの頃まででした。この頃の連中はみんな高校時代の有名選手でしょう。関東二位の成績の選手が三年連続して慶応に入ってきたとも聞きましたしね。外部から強いのが入ってきたし、慶応高校も強かった。石田・浜名組が慶応高校として初めてインターハイへ出場しました。
・・・・41年の入替戦で日体大に敗れてから長らく二部生活が続くことになります。
糸川 この間七年も二部に低迷するのですが、レベルからすると悪くはなかった。むしろ非常によかったと私は思います。技術的にも他校のトップ連中と比べてさして見劣りしませんでした。ただし、私たちの代とか、青山君の代とかに比べて違う点は、飛び抜けた選手がいませんでした。私も、何とかこのチームの中に核となる選手が出ないものか、つくらなければならないと痛感していたんですが、それが出来なかった。残念でした。心棒になるペアが出来ると、周りもみんなそれを目標に頑張るようになるんですが………。
・・・・48年になってやっと一部昇格。しかし、それも束の間の喜びに終わってしまいました。
岩井 久し振りの一部昇格だったから、みんな喜んでお祝いを三田でやったんだよね。あの時、内藤享佑君が気合を入れたの憶えているね。「一部に上がったくらいでお祝いだなんておかしいではないか。これは昇格ではなく復帰である。もといたところにやっと戻ったんだ。これくらい当たり前の事だ。祝勝会は一部で優勝してからやれ!!」ってね。
糸川 一部に上がるには二、三度は授業料をおさめないとダメですね。実際にその時も、三度目の挑戦でやっと一部に上がったんです。この時には宮本、山田という看板チームがあり、しかもまた周囲がそれに引っ張られ、又追い付こうと努力したから出来たんです。
・・・・近頃は一部挑戦どころか、二部を守るところまで追い込まれてきてしまった。
糸川 選手層の薄いのがいちばんの弱みです。最近でも山本君とか二・三人はいい選手がいるんですが、チーム全体の強さにつながってこない。インドアの試合を見に行った時、日本代表の稲垣選手から「慶応もなかなかやりますね」と言われたことがあります。あの山中湖で行われたインカレも惜しかった。優勝した日体大をあと二本のところまで追い詰める健闘がありました。その年の入替戦も残念ながらやられました。入替戦には独特のムードがありますから、実力通りにはいかない。二回・三回と入替戦のチャンスをつかんでいかないと、一部昇格はむつかしいです。三部の挑戦を受けるなんてことは、選手の実力からすればあり得ないことなのですが、それも現実なのですから、なんとか低迷から脱却したいものです。わたしが思うには、最近の選手は本番での自信に欠けているところがあります。もっと個人戦で勝って、オレはやれるぞといった自身とファイト、相手に勝つんだといった信念を養って欲しいものです。
印象に残ることども
・・・・慶応の軟式庭球部の歴史を振り返りますと、いろいろ懐かしい場面、それから名選手が想い出されると思います。
岩井 古いところからいくと、田中・小熊でしょうね。記録を見ましても、山口・倉田組 (日大)というインカレ個人で四連勝しているペアを敗っています。これは価値があります。次の大石君のときに、今の日吉会館のところにコートが出来たんです。風の強いところでね。初めてもつ自分のコートです。涙が出るほど嬉しかった。あの頃は、他校でもコートを持っているところは少なかったんです。
糸川 私もそのコートには一年間お世話になりました。なにしろ場所が校内でしたから、学生の注目を集めました。私どもの頃、大量の部員が入ってきたのも、キャンパス内にコートがあったことと関係があるように思います。ところで先日の三十周年記念の全慶応大会で関根さんはじめたくさんのOBのプレーを見せていただきましたが、関根さんの時代の実力はいかがだったんですか。
岩井 戦争でスポーツ全体が中断されていて、復活して間もないころですから、高校のレベル自体が低かったですからね。大石君にしても、石曾根君にしても、いま一歩だった。でも原君はうまかった。一風変わったテニスで、ちょっと横流れなんだけど。球は速かった。原・関根で上位に食い込んでいましたよ。
・・・・亡くなられた世良田さんにはいろいろの話題が残っていますが……….
岩井 前にも触れたとおり、彼は高校時代から強くて、私が引っ張ってきた選手なんだけど、豪快でスケールの大きい前衛でした。
その後の大久保選手のような感じです。彼は主将になってから、部の再建に苦労するんですよ。前の石曾根君の時代のレギュラーがごっそり抜けてしまって、いかに部を維持するか、いかに後輩を育てるかに専念していたんです。自分のテニスを投げうってやってくれたんです。後輩の指導は厳しかった。日吉のコートから多摩川大橋までの往復ランニングは彼の発案だったしね。ランニングをやっても彼がいちばん速いんだけれど、いつも後ろについて、遅いやつに「頑張れ!!根性出せ!!」と元気付けていましたね。
糸川 あのランニングは世良田さんが始められたのですか。私の頃もよく走りました。交通事情が激しくなって警察の許可が得られなくなってからも、裏道でずっと走り続けていました。往復で8キロ、30分切って帰ってくれば速いほうでした。実は、私は世良田さんに面識がないのですが、その厳格な指導振りは語り草になっていますね。
岩井 彼は越前君が入部してきた時「いい前衛が入ってきました」と喜んで私に言いましたよ。越前君にいちばんいい後衛をつけて自分は二番手かそれ以下の位置で試合に出ていた。なんとか若い越前君を強くしてやりたいという配慮ですよね。卒業して東急に入って、切符切りや車掌の仕事も立派にこなして、表彰されました。眠そうな顔で出勤する人たちには元気よく「いってらっしゃい」、疲れて帰ってくる人たちには「ご苦労様でした」と声をかけていたらしい。車掌やっている時など、「次は日吉、日吉でございます」という彼の声はよく響くんだよな。真面目で思いやりのある仕事ぶりに対して投書があって、表彰されたんです。それから伊豆の韮山水宝閣という東急の経営するホテルのマネージャーに抜擢されたんです。そこである時、ボイラーの調子がおかしいという連絡が入って世良田君がかけ付けるんです。ボイラー室へ一人で入っていって、ボイラーのふたを開けた途端に爆発事故が起きるんです。本当に気の毒な事をした。いま生きていれば、三田会の重要な一員だったんだけどなあ。
・・・・世良田さんに越前さんたちが厳しく鍛えられて、それが32年の一部昇格へとながっていくんですね。
岩井 そうですね。そういう意味では世良田君が基礎を作ってくれたとも言えるでしょう。30年秋に早稲田とやった入替戦は実にいい試合だった。全日本をとった早稲田にあれだけ善戦して自信がついてきたのでしょう。翌年の明治との入替戦では勝てると思ったんだけど、もう一歩だった。第一試合で藤岡・岩本組がいま軟庭界で活躍してる斉藤君とやったんだけれど、ファイナルで惜しくも負けた。岩本君には「絶対に出ろ!!」と言ったんだが、恐くて出られなかったらしい。でも藤岡・岩本組は好成績でしたよ。六大学でも初めて全勝してるでしょう。慶応の歴史の中では、力量のあるペアとして最初の存在でしょう。松田君は器用な前衛だったな。宮内君はきれいなテニスをするんだけど、ちょっと線が細くてあまり勝てなかった。それから内藤君と同期生の佐藤君、彼は一年の時にインカレ個人戦でベスト8に進み、これは有望と思っていたんだが、期待ほどに伸びなかった。
初の一部昇格のころ
・・・・32年春の一部昇格当時のメンバーの実力はどうでしたか。この年に糸川さんが入部してくるんですね。
岩井 内藤・越前組が大将で、副将の近藤・山崎組もしっかりしていました。それから上級生では大岩君もファイトがあった。近藤組は日吉で内藤組と互角に戦っていた。山崎君は女子部の山崎暁子さんの弟さんです。なかなか図太くていい根性をしていた。そういう上級生と西村・村井・糸川という新人とうまくかみ合ったんです。このメンバーをみると、一部昇格も当然と思われますね。
糸川 内藤・越前組、その後の内藤兄弟組みは強力でした。合宿や日吉で何度も挑戦しましたが全然勝てなかった。西村君が「慶応なんてたいしたことないと思って入ってみたら、すごいペアがいるんで本気でやる気になった」と言ってました。内藤(尚)さんに勝ったのは私が二年生の時、世良田杯が最初にして最後なんです。内藤さんが学生のときに勝てて嬉しかった。
岩井 同志社に初めて勝ったのも内藤・越前組がいた時でしょう。同志社定期戦は27年に始まったんですが、負け続けでした。マネージャーの牛山君と清水寺にお参りして必勝を期したことがあります。実はね、以前に世良田君とマッカーサー杯に出て第三位になったんですが、その時の験(げん)をかついでお参りしたんです。越前君が足をつりながら頑張って初勝利をおさめたんです。
糸川 内藤・越前組で相手を回したんですが、四つ勝った後、足がつって最後の試合の途中でまたつって、冷や冷やして応援していたんですが、結局は全部やっつけました。立派でした。越前さんは何でも出来る前衛でした。内藤(尚)さんがシングルスで二冠王になりました。あの人は欠点のまったくない素晴しい後衛でした。
岩井 そう、特にバックハンドがうまかったのが、シングルスの優勝につながったんだろうな。東日本で優勝して全日本が始まる前、西軍の監督をされていた呉さんが、「ひょっとしたらひょっとしますよ」と内藤君の優勝をほのめかしていましたが結果はそうなったんです。
糸川 呉さんが内藤(尚)さんにシングルスの戦法を詳しく伝授されておられました。当時シングルスが始まったばかりで、戦法なんて誰も知らなかった。呉さんの作戦と内藤さんの頭脳的プレーが原動力ですね。
岩井 呉さんのコーチぶりは高度にして緻密なんだ。並みの選手では理解できないところがあるんですが、内藤(尚)君ぐらいになるとそれを理解して実践できたんだね。それから内藤(享)君も、スマッシュは追えなかったけれども、横モーションが素早くて特徴のある選手でした。特にぶつけてくる球に強いんだ。いい度胸をしていた。
全日本学生で早稲田と決戦
・・・・34年度、会津若松の全日本学生で早稲田と決勝を争い準優勝。これは立派な記録です。
糸川 準々決勝が山でしてね。当時の中央には遠藤選手がいましたし、大野・畑山組がいてすごいチームでした。たまたま私どものペアが好調で三つ回したんです。その勢いで関大を撃破しました。関大には荒井・仏円組がいて六人全員が東西対抗出場選手だったんですが、中央に比べると楽でした。そして決勝の相手が早稲田。ところが、その頃はどういうわけか、慶応は早稲田に対して異常なくらいコンプレックスがありましてね。特に城・小久江組に勝てませんでしたね。私どものペアも四回ぐらいやって一度も勝てませんでした。城選手は相手の前衛にまったくポジションをとらせないテニスをやってくるんです。結局、決勝戦でも、岡井・古山組が最後に一矢を報いてくれましたが、完敗でした。試合に負けた直後には、この炎天下で体力の限界に挑戦したんだからというわけで、満足感があったんですが、少し経ってから、口惜しい気がしてきましてね。優勝しないといけません。早稲田の方も「慶応が相手でよかった」と言っていましたが・・・・。
岩井 その時のメンバーに主将の半田君は出なかったんでしょう。ベンチで引っ張っていったんだろうね。半田君はグリップがイースタン気味で重厚なテニスをやった。
糸川 私は一年生の時、半田さんと組んで新進大会に出場して準優勝しました。私らの代は個人戦ではベスト8を目標にやりました。ところがそこまでくると壁を通り越した気になって安心してしまうんですね。私も優勝のチャンスを目に前にして、安堵感が出て負けてしまう場合がしばしばありました。そういうところが慶応の弱さだったんでしょう。
優勝ペアが出るとそれに続くことが出来るんですが、これは昔も今も同じです。誰かが突破口を作らなければならない。
岩井 先日、全慶応大会で久々に西村君の試合見たんだけど、相変らずうまいね。彼の特徴はボールがガットに当たっている時間が長いんだ。それからおっつけて運ぶし、彼のプレーを現役は見て覚えなくちゃいかんと思う。後衛じゃ西村君を一番かうね。
糸川 西村がアジア大会に出るのは四年の時なんですが、その前に一般の東西対抗に選ばれまして西村・鳥井で組んだんです。鳥井さんは日大出身で当時のナンバーワンでして、いかに西村が期待されていたかがよくわかります。一次戦で東軍が大敗して西村組ただ一チーム残ったんですが、この日の西村はサービスはベースラインにいても頭の上まではねあがるし、前衛の動きはことごとく見破って全然取らせませんでした。それで藤田・武田組をはじめとするそうそうたる西軍をなぎ倒し、日没引き分けに持ちこんだんです。東軍の熊埜御堂監督は泣いて喜んでましたよ。私は彼と長いあいだ組んだんですが、私の知っている中でも最高の試合でしたね。
岩井 西村君は日本の軟式庭球の歴史の中でも屈指の後衛だろう。卒業してから天皇杯で決勝までいっているでしょう。西村・佐藤組だったかな。相手は確か坂本君だったと思うけど。
糸川 われわれ坂本選手とはよくやりましたね。関東リーグ戦では西村・糸川がトップに出ると決まっていて、むこうもぶつけてくるんです。個人、団体を通じて二勝四敗ぐらいです。
・・・・当時どんなチームが他校では強かったんですか。
岩井 立教が強かったでしょう。今は落ちてるけど昔はトップクラスです。内藤・内藤組がインターハイで三位になった時に優勝したのが太田・大綱組でしょう。太田・菊(法OB)で天皇杯取ったこともあるしね。斉藤・橋本組(赤Mク)は天皇杯取れなかったかな。斉藤選手は根性のかたまりみたいな男だった。
糸川 天皇杯は取ってないと思います。東日本一般は二回取ってますね。その二回ともわれわれ準決勝で負けたんです。特に四年の時、ファイナルで負けましたが、今でも勝つチャンスがあったと思うんです。斉藤選手が逆クロスの打ち合いからストレートへアタックにきまして、私もそれを待ってたんですが、ちょっと腰が高かった。試合後、彼が“あれ腰を落とされてたら負けてたなあ”と私に言ってね。他には立教の石橋・鍵谷組、法政の黒田・横溝組なんか強かったですね。内藤・越前組でも勝てませんでした。
練習試合に泣く
・・・・ライバルとして村井・水内組はどうですか。
糸川 彼らは三年の東日本で準優勝してるんです。これが私のペアにとって強烈な刺激になりました。慶応の中でライバル意識というものをこの時はっきり自覚しましたね。この東日本で村井・水内組が勝ち上がっていくのを最後まで見てたんですが、
ファイナル、
ファイナルの連続なんですよ。でもこういう時はうまい具合に前後衛のコンビネーションがかみ合ってるんです。一種の勝負運というのが彼らにはありました。村井は一発やでね。(笑)、思い切りが良くてどんどんぶつかっていくから大物はよくやられてました。
岩井 それでまた器用で、うちの卒業生の中でいま硬式をやらせりゃ一番うまいんじゃないか。また水内も味のある前衛だったね。卒業してから全慶派や戦で私と水内が組んで二組倒して最後に中山選手に負けたんだけど、その時、村井君が私に“負けてよかった。勝たれてたらいばられてかなわねえ”て言ってたね。
糸川 水内はスマッシュは下手だったけど、レシーブと横のモーションはうまかった。リーチがあるからストップボレーで落としていくんです。でもこれは村井が育てましたね。徹底的に村井が水内を鍛えてました。やはりペアとして愛情がなければ両方ともうまくなりません。後衛がただ義務的にあげボールするんではなく。前衛のコンディションを見ながら、あるいは弱いところを見ながら一球一球気を配ったあげボールをしなくちゃいけない。
以前に木口選手(ヨネックス)と練習する機会があったんだけど、壮年の人にあげボールをしてたんです。そしたら一球ごとに“これぐらいでどうですか”と聞きながらボールあげてました。自由に前衛の要求を満たせるような強さ、コントロールの気配りができないといけませんね。今の現役の練習はただ速いボールを打って困らせようという感じがしないでもない。
岩井 乱打にしても、速くなくていいから安定した長い球をコンスタントに打てることが大事です。前衛の挙げボールにしてももっとやさしい球をあげてやる方がいい。やさしい球で前衛にしっかりポイントをつかませてからじゃないと速い球打っても意味ないよ。昔、北海道に山本・新妻君というペアがいたけど、やさしい球で一日300本あげボールをすると聞いたことがある。それをノーミスでやろうものなら物凄い自信になりますよ。
糸川 我々の頃、人数が多かったでしょう。一、二面がレギュラー中心で三面が女子とその他が使っていたんですが、何せ三軍まであって練習させてもらえない人もいますから、気の抜けた練習など出来るはずがない。密度の濃い練習でした。試合しても、西村・糸川組と村井・水内組がやって私らが勝つと、水内泣いてました。それくらい気合が入ってましたね。
・・・・先日、世界チャンピオンの西村君から頼まれて、伊井・稲垣両選手のインタビューに出かけたんですが、その中で特に面白かったのは“強い時代はコートに駆ける”と言うんです。その気持ちを今でも忘れないと。
糸川 そうです。少しでもコートに早く行きたいという気持ちがありました。日吉に着くと自然に速足になるんです。着いたら着いたで着替えるのももどかしい。(笑)練習量は多かったです。小林さんなんかも早く来て遅くまでやってましたよ。どちらがたくさん練習するか競争してました。
選ばれた人のみ合宿へ
・・・・34年に合宿所が完成しますが、それはどういう変化をもたらしたのですか。
岩井 ここに学生が泊まるというのが最大の利点なんだけど、部員は勿論、OBも含めて軟庭部のオアシスになりましたね。そういう意味で非常に良かったと思っている。
糸川 合宿所に入るのは地方出身の人が中心なんだけど、何せ人数が多かったから選ばれた人しか入れませんでした。ここに入るのは並大抵のことじゃなかったですね。今は人数も少なくなったし部員もぜいたくになりましたからね。合宿所と比べて他の下宿やアパートのほうが設備の面でも当時と比べて格段に良くなりましたからね。そのために、今の連中にしてみれば、練習後のひと時が合宿所だとちょっと………という面もあるかもしれません。
岩井 入試のシーズンには受験生がここに泊まったりするなど実に活用範囲も広がった。我が部の組織的なつながりを発展させる上で果たした役割は計り知れないものがあるよ。
34年に完成したんだから今年で満二十年か、一度建て替えなきゃいかん時期かなあ。
糸川 さっき選ばれたっていいましたが、これは合宿所に入る事だけじゃなくて、合宿に参加するのも選抜でしたね。今のように全員連れてってもらえるようなことはなかったです。
岩井 三軍まであった時代ですからね。選考で誰をけずろうかってことをやってましたよ。卒業生送別会で“最後の合宿に連れていってもらって最高に感激した”ってことを三軍の人から聞いたことがある。そういう時代だから水内君が練習試合で泣いてたというのももっともなんだ。今は随分人数も減ってレギュラーもイレギュラーもないみたいだけど、毎日の練習でみんな同じように扱っていたらトップクラス、或いは上をねらっている連中には悪い面が出るかもしれない。何も負けん気がなくなるというんじゃないけど、自然と甘い雰囲気になるからね。
慶応のライバルたち
・・・・我が慶応の好敵手早稲田の流れを簡単につかんでおきたいんですが。
岩井 前慶早戦なんかよく出てたけど、今の稲門会会長の和田さんから始まって菅原・有馬組とか五十嵐・大川組がいた時が強かった。全日本取ってるよ。
糸川 それから我々と全日本で決勝をやった城選手。あのときの主力というと斉藤さんに有馬さんの弟ですね。あの後衛三人は強かったですね。翌年この人たちが卒業すると前衛の小久江選手だけとなり力は落ちました。余談ですが、私が主将だった35年は力では早稲田より慶応のほうが上だったと思うんです。でその春の慶早戦で負けてるんです。それは慶早戦の意義を二回目ということでよく知らなかったことと、誰が出ても勝てると思ってましたのでオーダーをうかつにもじゃんけんで決めたんです。(笑)この時、初めて勝負のこわさを知りました。事実、東日本じゃ勝っているんですよ。今だから話せることですね。(笑)その後、野口・中山・伊藤選手達のいた時代も全日本を取りました。その後は秋田・石元選手が最後かな。最近、武士選手が頑張ってたけど早稲田では久々ですね。慶早戦にしても最初大きく負けてたのをここへきてだいぶ挽回しました。
・・・・同志社の今西さんがおられた時代は強かったんですか。
糸川 同志社とすればいちばん強かった時代じゃなかったですね。全日本を取ったのは一回ありますが、やはり東に負けていますね。西では常に一・二を争うけども。私の一つ下で林田・藤井組というのがいて、私らよくやりましたが。藤井が西村の顔見るのも嫌がってましてね、全然取らせてくれないもんだから“もうあきまへんわー!!”って。西ではトップのペアなんですよ。監督の山本さんはインカレの個人を取りました。たしか山本・石貝組で39年ですね。
二部の屈辱を跳ね返す
・・・・36年の春に四年間いた一部から落ちます。
岩井 岡井のときだな。入替戦は守る方はむつかしいからね。あの落ちたときの悲壮感というのか無念さで部が一色に塗られていたことがあったね。岡井の時代は沢山いたけどレギュラーはペアの古山ぐらいだろ。あとは伊藤君とか金沢君とかね。岡井とよく硬式やるんだけど学生時代そのままの真正直なテニスだね。(笑)こっちが思ったところへ打ってくる。古山は呉さんに発掘されたんじゃなかったかな。あいつは器用だったね。
糸川 そうです。明石合宿で呉さんが古山を呼びつけて岡井の前衛にしたんです。このペアは岡井君がリードしたんですけど古山君はよくあそこまでついていったと思うんです。頑張った選手ですよ。上級生になってからは風格が出てきたみたいでいい前衛になりました。いぶし銀のような渋いプレーで売ってましたね。ちょっと器用すぎたところもありましたが。(笑)
岩井 記録見ていくと武井の時に上がってすぐ落ちるのか。武井がこれまた速い球を打っていたね。スピードガンで測ったら一番早いんじゃないか。最もこれがみんな入りゃすごいけど(笑)試合運びが今の選手と似て単調だったね。同じフォームで同じように打って出しちまうんだから。ちょっとかたかった。
糸川 彼は校内では滅法強かったですよ。ところがそれがなかなか外の試合で出ないんで私も苦労させられました。実力的にはもう一歩。ところが四年生になると武井・深沢組が実に強くなるんです。深沢君は私が主将の時には全然目立たない選手だったけど四年になると本当にうまくなりました。見ていて安心できる前衛でしたね。
岩井 武井と正反対なのが一条だね。彼は高校時代、東京ナンバーワンでしょう。見てても実にやわらかいテニスでね。一般でも通用する後衛だったな。ただもう少しトップが入ればもっと勝てたような気がする。大淵君もなかなかセンスあったけどもう一息ってとこか。
糸川 一条君はうまかったです。私の見てきた中でも特筆すべき後衛です。彼は卒業してからも国体へ出てますね。前衛が良ければもっと勝っておかしくないですよ。
・・・・39年に一部昇格しますがこのメンバーを見てどうですか。
糸川 “大逆転勝利で一部復帰なる”か。勝負強い選手が多いですね。実力以上のものを出せるんです。谷口君とか大木・浜名君、それに大林君がそうですね。
岩井 浜名は誠に不器用だけどファイトあったね。セカンドをサイドへいってみろって言ったことがあったんです。そしたらあればかりおぼえちゃって何とかの一つおぼえだね。
(笑)
個性と信念のテニス
糸川 寺岡君は私と入れ違いに入学してきたんですが、彼に印象が一番強烈だったのはその年の慶同戦です。さきほどの林田・藤井組が同志社の、いや西の大将なんですが、彼らと寺岡君がやっていい試合の末勝ってね。始まる前に“大将の首取ってこい”って言ったら本当に取ってきました。
岩井 寺岡から大久保までいい選手がそろってるね。寺岡・高取組と鈴木連は国体準優勝時のメンバーでしょう。高取は入ってきた時から小型糸川と言われたけど思ったほど伸びなかったね。全部まあまあこなせるけどこじんまりしてスケールが小さかったな。谷口もインターハイでエイトなんだよね。大体はどうだったの。
糸川 明星でけっこうやってましたね。キャリアはありましたね。明星としては彼の一つ上の吉田君から始まるんだけど、その後続々と明星から選手が入るようになるんですよ。高田一三君、下岡兄弟、大林君がよほど良かったんでしょう。
岩井 鈴木・大林組で天皇杯エイトになっているね。大林でよくここまでいけたという感じがしないでもないが。連がいくらうまかったと言っても軟庭は前後衛ともしっかりしてないとここまでこれないものね。大林もやっぱりうまかったんだろうな。(笑)
糸川 連のボールがまたゆるくて、もうハエがとまりそうなくらい。(笑)
このペアはアタックが得意でしたね。それから石田・浜名組は慶応高校出身なんですが、この二人は熱心でね。練習でも大学の連中と一緒にやって、試合させると勝ったりしてたんだから。まあこの辺の連中は個性がありましたよ。原・浜名組はその代表で、そんなに強くないんですが、団体戦で最後に出ては絶対勝つんですね。二人ともしぶとい勝負強い選手でした。
・・・・42年卒業の青山君・中西君・石田君らもなかなか個性の強かった選手でしたね。
糸川 みんなテニスは強かったし信念みたいなものも持ってましたね。中西君もなかなか自分の意見を通すほうだから。(笑)ペアとしたらお互いケンカしながらやってたかも知れません。
岩井 鈴木連も下級生のころわがままだったよ。ちょっというとすぐプーとむくれちゃうんだ。記憶では中西はガムシャラで元気だけは良かったなあ。私もこの辺で日吉へはあまり来なくなるんだなあ。
糸川 ところが四年の中西はこれはもう一級品でしたね。彼は歴代でも五本の指に入る後衛だと思ってます。石田の兄貴も超一流ですよ。体力的には損してるけど負けん気が強かった。いつか風の強い日でサービスのトスあげた時、ボールがとんでもない方向へ流れたんです。ふつうあきらめて打ちませんけど彼は倒れながらその球を打ってサービス入れたんです。執着心といいますか、そういったものが石田君を一流にしたんでしょうね。
・・・・主将の青山君のプレーはどうでしたか。
糸川 すべてにいいものを持った本格派の前衛ですね。彼のお兄さんは今でも活躍されてますよ。今年、静岡が国体で優勝しましたが、その西ヶ谷・青山組というのがそうです。インカレの個人も取ってますよ。それで弟の方も高校時代素晴しい戦績を持ってたんです。ところが彼は一時硬式に入部したことがあるんです。でもやはりはだに合わないということで軟式に戻ったんです。体育会らしい非常にさっぱりした男でしたね。テニスも若干さっぱりしたもんでもう少しねちっこかったら優勝も考えられないわけではなかった。後衛も中西君・石田君がいた時代ですからね。
天皇杯準優勝の大久保選手
岩井 でもやはり何といっても大久保がすごかったね。一目見てこりゃすごいのが入ってきたと思った。
糸川 ストロークが速くて最初打てたもんじゃなかったね。彼はインターハイ三位かな。
大久保の場合はこの強かった時代に一年の時から慶応の中でもまれたこともあるでしょうが、ワザも精神力もピカ一、慶応の中じゃナンバーワンですよ。ゲームやってる時の目つきといったらすごくて集中力がとびぬけてましたよ。
岩井 プレーはそんなにカッコ良くないんだよね。ぶ器用なんだ。(笑)バックはすごかったけどフォアはね。どこへ飛ぶかわかんなかったよ。彼のプレーで一つ挙げろと言はれたらスマッシュだね。日比谷のコートで後ろの金網越えたのはびっくりした。やはり一球でもそういう可能性のあるボールを打てるのは練習の激しさを物語っていると思う。
糸川 大久保は四年の時に天皇杯で準優勝してるんですが、それと同じぐらいすごかったのはアジア大会の予選ですよ。何次にもわたって順調に最終予選まで進んだんですが、最終に残る事は大変なものです。私も西川口まで見に行ったんですが、そうそうたる選手ばかりですごい激戦だったことを覚えています。今は世界選手権と名前が変わっていますが、これに勝つよりその予選のリーグ戦を勝ちぬく方が難しいとさえ言われてますからね。
・・・・この時代はどういう時代ですか。
糸川 黄金時代ですね。いい選手がそろってますし各代にバランスが取れてますね。チームの状態もペアが個性を持ってて非常に良かったです。正統派で本当に強い中西・青山組、石田・大久保組と勝負強さの鈴木・大林、紅原・浜名組がうまくミックスしてましたよ。
岩井 それでいて青山の時に二部に落っこちるのか。やはり一部にいないといかん。一部にいると強い選手と試合が出来て自然と強くなれるしね。今の六大学じゃ有名選手あまりいないんじゃないか。
糸川 二部に落ちても青山の代がいたときは学校対抗ではまずまずの成績をおさめてましたが、卒業するとガタッときましたね。大久保の代で三部と入替戦やりましたよね。あの時に大久保は“大丈夫です。絶対何とかします。”て私に言いましてね。気持ちの上では物凄く苦しんでたと思うけど、まわりに対しては絶対大丈夫だといいきかせてた感じでした。彼はその年にアジア大会に出とるんですが、チームとしては彼一人がとびぬけてたということでちぐはぐだったんでしょうね。
強力な武器を持たぬと勝てない!
・・・・43年以降の印象に残る選手としては。
糸川 大久保の次の代は鳥居君ですか。背が低くて左利きのね。インターハイで結構いいところまで言ったんですが大学では気が弱かったというかおとなしかったせいか伸び悩みました。個性がないと大学では勝てないですね。
岩井 何か一つ武器がないとダメだね。全部一通りこなせるだけじゃ勝てないよ。高取もその典型で器用なのもいいけどまとまってしまって伸びないね。その点浜名は得した。(笑)
糸川 その後にも何人かは良い選手がいるけれども、柱がなくて必然的に層が薄くなるんですね。
岩井 高山はうまかった。石田は弟の方か。彼のテニスよく見たけどももう一つキレが悪いな。最後のつめが甘かったような気がする。
糸川 球そのものは速くてもピリッとしたところがないんです。勿論幸太郎君はよく頑張った選手だけど結果からも兄貴は一部で弟は二部です。康太郎君のほうが上でしょうね。
・・・・先日三越で川越君が“俺達の頃はメチャクチャ弱くて入替戦のチャンスすらなかった”と言ってましたが。
糸川 川越君は最初前衛で慶応高校ではこの代のマネジャーをしていた小宮君と組んでたんです。彼もまたワガママな選手で(笑)ちょっと気にくわないとすぐラケット折っちゃうんですよ。何本折ったかねえ(笑)一時はどうなるかと思ったんですが、四年になるとうまくなりました。進歩と言う意味では大変な進歩ですね。彼は関東インドアにも出場していていい選手に育ってくれましたね。
・・・・今三田倶楽部で活躍してる吉野君はいかがですか。
糸川 吉野君はクセ球でボールがゆれてくるんですよ。彼は卒業してからアクが抜けたというかうまくなりましたが学生時代はあまり勝てませんでした。その他で私が挙げたいのは高田一三君ですね。彼は高山君と同じ明星出身だけどワザとすればすばらしいものを持ってました。あと伊地知・加藤組、中津・加藤組が良かったですね。東西対抗にも選ばれてるでしょう。
50年代では宮本・山田組が出色
・・・・宮本・山田組が中心になって一部に上がった時は層が厚かったんですね。
糸川 宮本・山田組はいいペアで四年の時リーグ戦、六大学通じて一回負けたかそのくらいです。最近では前後衛そろった最高のペアで、最初から一部でもまれていたら個人戦でもっと上へいけたでしょう。特に山田君は球際に強かったですね。
・・・・宮本君のテニスというのは。
糸川 サービスが強烈だし前衛いじめが好きで(笑)。下級生時代にはアウトかノータッチかくらいの豪快な(笑)テニスだったけれど四年の時は安心して見てられましたよ。他にこの代には中村・阿蘇組がいます。阿蘇君は今でも神奈川県で頑張ってます。
・・・・そのあとで印象に残る選手としては。
糸川 松木・山本組が50年の天皇杯で西田選手とファイナルやるんです。山本君は我々の頃坂本選手(日大OB)が育てたプレーヤーでいい前衛でした。松木君は下級生の頃はどうということなかったんですが四年になってからうまくなりましたね。下岡君…弟の方ですが、ちょっとスケールが小さかった。最初から活躍してますがまとまりすぎた感じですね。
・・・・最後に今の現役に対するアドバイスをお願いします。
糸川 今年の四年生がレギュラーの大半を占めてましたので、来年はその穴が大きいとは思いますが、毎年繰り返されることなんで決してカバーできない事はない。各人レギュラーになれるチャンスは大きいんですが、それを待っておったんではいかんと思います。やはり自分でしっかりしたものを持って努力していかねばなりません。我々が指導する前に何といっても本人のやる気、これが第一です。ところで今年の一年生は選手層とすれば十年来のものと私は思ってるんです。ですから彼らが上級生になる二年・三年先を私は非常に期待してるんです。どうか一つ期待に添ってくれるよう自覚して頑張ってもらいたいと思います。
岩井 下級生の頃は勝てなくても荒けずりでいいんだ。それに最初から勝てるような選手は今や慶応に入ってこないしね。小さくまとまってしまわないように大局的観点で自分のテニスを確立させてほしい。糸川君の代を例にとっても西村君はほんとうに目立たない選手でしたよ。でも黙々と練習やってたもんね。
自分のテニスに信念みたいなものを持って練習に励んでもらいたい。糸川君自身も努力でここまで来たんです。
糸川 目先にとらわれることなく大成してほしいですね。今までの歴史が語ってくれてるように今の一年生は三年・四年でほんとうに強い選手に育ってもらいたい。全日本をねらえる選手になってほしい。
頑張りでは男子以上へ
・・・・これまで男子の流れを追ってきましたが、ここで女子に目を移してみたいと思います。女子の歴史は29年卒の山崎さんに始まっています。
岩井 山崎さんのほかに誰もいないので一人だけ男子の中に混じってやってました。惜しいですねえ。彼女は高校時代にインターハイ取ってるし男子と乱打しても対等に打っていました。他に一人でもいれば試合にも出られたんですけどかわいそうだったね。山崎さんのあとだいぶとだえて次に来るのが神戸・田代・島崎さんね。彼女らが試合に出た最初の女子選手で、男子もなかなか熱心でよく合宿などについていってやりました。藤岡とか牛山君がコーチをしました。
糸川 その次にくるのが我々の代の出田・西田・鈴木らですね。神戸さんの代のあと女子部は消えたんですが、日吉の校舎に勧誘のポスター貼って入部してきたのが彼女らです。
岩井 出田君は元気のいい子で、下手だったけどよく練習してたね。卒業の頃には糸川君と乱打して18分続いたと喜んでた。とにかくぶかっこうだけどよく続くようになったんでびっくりしたんだ。
糸川 そうでしたね。あれはこちらがゆるい球をいいところへ続くように打ってやったからですよ。(笑)
岩井 何しろみんな素人でしょう。伴さんが少しやってたくらいかな。その素人の彼女らがよく練習してたよ。それで試合でも結構いいところまでいくんだから。
糸川 出田・西田組で新人戦ベスト8ですよ。よく頑張ってました。我々の刺激があったみたいで、我々が試合やってると必ず後ろで見てました。
・・・・伴さんの頃から成績が上がっていきますね。
糸川 伴さんの時か次の太田さんのときか二部との入替戦やってるんですよね。とにかく女子部の基礎というのはこの辺にあるんじゃないですか。
岩井 あれはやっぱり出田君の力だよ。彼女が大きい声でみんな引っぱってましたよ。それから伴さんは気が強くてね。岡井君がキャプテンの時だろう。伴さんとケンカばかりやってるんだ。(笑)
糸川 次は太田・田川組、山川・長門組ですね。最初はみんな全くの素人なんですがよく練習してうまくなりましたよ。たいしたものです。
岩井 この代の人は学業成績が抜群に良かった。伴さんもテニス、学業とも良かった。
糸川 そのあとの栗田・水原・吉村・田辺、この辺は実力的にはちょっと下でしたが、よく頑張ってました。
岩井 それから山本玲子という選手ね。本格的にうまい選手としては最初だろうね。歴代でもトップの部類でしょう。彼女は伴さんとも組んだことあるんじゃない。
・・・・チームとしての強さはどうですか。
岩井 やはり山本君が卒業してからは弱くなったね。
糸川 実力と言ってもみんなもともと素人ですから。一時、歯止めがきかずに落ち続けて七部までいったこともあります。牛山・松浦・矢島・金子・天木・藤沼、確かに強くはなかったけれどもそこそこやってましたよ。岸裏が入ってきてからだいぶ強くなりました。彼女は和歌山の川野さんのめいです。高校時代は硬式やってたんですが、川野さんが“慶応に入ったら軟式やらせる”とおっしゃいまして彼女入ってきたんです。小さな体なんだけど脚力はすごくて、足がめっぽう速かったですね。
六大学リーグに初優勝
岩井 あの時に六大学で初めて優勝したんでしょう。三宅・松浦組、中西・中野組、岸裏・旗持組と三組そろっていたものね。六大学は伴さんの頃からいい線までいってたけど明治に畠中選手がいたので優勝できなかった。先日、照井さんが今までの女子の後衛では山本玲子が一番だろうって言ってたので、やっぱり岸裏の方がうまいでしょうと言っておきました。
糸川 三宅もうまくてインターハイで四回戦行ってるんじゃないかな。とにかく岸裏は拾いまくるし、それでまた前衛の旗持がうまかった。岸裏・旗持組は私の知っている限りでは最高ですね。学連でも二部ぐらいの実力の持ち主で、ひょっとしたら一部の下位に通用するかもしれないと。
・・・・現役の清水君と比較するとどうですか。
糸川 難しいね。ただペアとすれば岸裏・旗持組でしょう。いや清水のほうが試合は強いかな。(笑)
岩井 彼女はスケールがあるし、試合したらサウスポー特有のいやらしさがあるから、清水君が勝つかもしれない。
糸川 清水のパワーと岸裏の足をたせばすごい選手になると思うんですよ。(笑)清水に岸裏の脚力があれば一流ですね。
・・・・女子の指導についてはどうされてましたか。
糸川 我々の頃、男子は三軍までありまして、三軍と女子が一緒に練習してましたね。
また一軍の連中も休憩時間にはよく面倒見てました。
岩井 いつだったかエヌワンの小柳さんに二年間コーチに来てもらったことがある。彼女は一年間の公式試合に全部出て全部優勝してるんですよ。皇后杯から何から何までね。それから小田原の前衛の露木さんね。二人とも型があったから呼んできて見せたことがあった。へたなうちは見ることで学ぶという教える手がありますからね。
・・・・三宅 ・岸裏選手らのあとはどうですか。
糸川 彼女らの活躍で七部からの巻き返しが始まったんだけれど、その次の代では前衛の山本順子が良い選手でした。47年にはとうとう三部復帰を果たすんだけれど、その時のメンバーが吉田・石浜組、高野・中川組、小家・中島組ね。吉田と中川は福山誠之館での経験者だけれど他は素人なんです。全く頭が下がる思いです。最近ではこの吉田・中川組と安野・久保組が強かったです。安野君は個性の強い選手で、力いっぱい何でもかんでもアタックへ行ってしまう気の強い選手でした。女子の場合はペアで二人そろうことはなかなかないですね。一人良い選手がいても岸裏・旗持組のようにそろうことはめずらしいことです。ですから個人戦では四回戦に進んだら実に良くやってるといえますね。
存続こそ至上命令
岩井 女子は何部に落ちても責められないよ。でも今は定員を割ってるそうで、数が足りなくて落ちたり、試合に出られなかったりすることほどやるせないことないからね。何とかしてあげたい。
糸川 女子の場合、推薦をあてにするのはちょっと無理がありますね。だから入学した学生の中から部員を獲得する必要があります。ラケット振った経験のある人なら半分くらいいるんではないですか。とにかく素人でもいいから部員を獲得して一生懸命練習を積めば三部、四部に通用するテニスになりますからね。今はとくに情勢は厳しいようですが、へこたれずに頑張ってもらいたいものです。
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