1979年・部報 第26号
   
 
特 別 企 画 U
慶應義塾軟式庭球部部史
 

明治・大正・戦前編

 明治の初めに日本に伝ったテニスは、明治11年に来日した米人リーランド氏が体操伝習所に紹介してから段々と普及していった。これは勿論硬球である。ところが硬球は輸入品であることから仲々手に入りにくく加えて高価でもあったので、日本独自のボールを作り出そうという努力がなされた。30年、三田土ゴム会社(現在の昭和ゴム)が作成したゴムボールがそれである。このゴムボール即ち軟球が硬球に代わってテニス又は庭球の名で日本全国に広まっていったのである。

塾庭球部創立の背景

31年(明治)春、大塚千代造氏がクラスのテニス経験者を集めて薩摩原付近の広場でテニス会を催した。これが塾に於けるテニスの始まりである。翌年三田山上の柔道部道場の横にコートが出来、又会員も増えたので、名前を清遊ローンテニス倶楽部とした。初の対外試合は東京外国語学校戦である。試合方法は六チームによる殲滅戦であったが、大将の大塚組の活躍で辛うじて初戦を飾った。尚、この時「時事新報」に記事が出たが、これは塾のテニスが活字となった最初のものである。34年5月、第2回の外語学校との対抗戦は三田で行はれたが、応援していた塾生のテニス熱を大いにあおった。

体育会庭球部

 清遊倶楽部の大塚千代造、宮本鉄太郎、管篤三各氏等は自分達の卒業後も三田にテニスの跡を残す為に体育会に入れてもらうよう鎌田塾長・福沢体育会会長に懇願した。三田での外語学校との試合で両先生ともテニスに対する認識を深められていたので程なく賛同を得、ここに雨山達也教授を部長とする体育会庭球部を創設された。34年10月の事である。
 翌35年には小泉信三氏が弱冠15歳で入部されている。小泉氏は36年から41年秋に引退されるまで部の中心選手として活躍され、我が軟式庭球部の前史に於ける主人公の一人であった。テニス人気も過熱化してきて新聞に大々的に取り上げられるなど(事実、「新聞日本」は小泉氏のフォームを大きく載せた)、テニスの上手な人はスター扱いされた。
 対外試合も東京高等商業(一橋大学)、東京師範(教育大学、今の筑波大学)、そして早稲田と行い、38年ごろから有名な四校対立時代に突入する。また、前後三度の関西遠征も塾庭球部の名を天下にとどろかせる大事業であった。ここで陣形について触れておこう。元来二人ともベースライン付近にて打ち合う平行陣が取られていたが、一人前について相手を苦しめる雁行陣が出現した。36年ごろ塾の市川選手が試合で始めてこの雁行陣を敷いて非常な効果を挙げたという。前衛の元祖ともいうべきか。


三 田 稲 門 戦

 39年秋、野球の慶早戦紛擾が原因で全て両校の対抗戦試合は中止となっていたが、復活を望む声が強く、双方で円滑に話が進められ、43年5月に名を三田稲門戦として再開した。通算成績は慶早戦が4敗1分け1中止、三田稲門戦が2勝1敗である。
 第三回では10対8で塾の勝利に帰したが、この試合で特筆されるのは新人の熊谷一弥・国見和宏組の活躍で、早稲田側5組を倒し塾に勝利をもたらした。この試合がのちの大熊谷を生み出すきっかけになったのは言うまでもない。

硬 球 変 更


 明治44年10月、対高商戦に敗れてから硬球変更へ可否が部員の間で論じられていた。先輩を含めて相談会を開いた結果、席上小泉氏は、今硬球に変更すれば技術的に庭球部は破滅する。それにこんな意気地のない状態で硬球にしてもものにならぬ。少なくとも天下を平定してからだ。との反対意見で一時見送りとなった。
 翌明治末年、選手は気分を入替えて練習に励み全ての対抗戦で勝利をおさめた。一方小泉氏も留学先のロンドンでウィンブルドン大会を観察され(これは硬式変更後であるが)硬式に対する認識を変えられつつあった。
 大正2年2月19日、三田東洋軒において林毅睦部長慰労会がもたれ先輩現役多数の集会を見たが(林部長は欠席)、席上先輩側の青木知四郎氏から硬球変更の儀が出された。主将の野村祐一氏は、全部員を別室に連れていき部員会を開いた結果、硬球変更に賛成する事になった。
 硬球変更の理由としては慶早戦中止によって部員が張り合いを失くしていた為、その沈滞した空気を一掃する必要があったことがあげられる。又日露戦争に勝って日本が世界の第一線に飛び出そうとしていた時代情勢も見のがせない要因であろう。即ちあらゆる面で国際的に進出しようという気運が高まり、庭球も国際試合を行う為是非とも硬式をやるべしとの意見が出されていたことは想像に難くない。
 かくして体育会庭球部は約15年間慣れ親しんだ軟球に別れを告げ、硬式という新しい世界に挑戦していくのである。よって塾軟式庭球の歴史はここで一応のピリオドを打たれた。その後学生軟庭界は依然として隆盛を極めていたが、塾の選手、特に熊谷一弥氏や清水善造(東京高商出身)三神八四郎(早稲田出身)各氏等が海外で好成績をあげるのに影響されたのであろうか、大正9年には関東の高商,高師、早稲田、明治、東大等、翌10年には関西の神戸高商、関西学院、京大等が一斉に硬式に転向したので全く凋落してしまった。

硬球変更から戦前まで
 大正2年の硬球変更に伴い、塾庭球部から軟式は事実上消滅した。塾を代表する軟式庭球部の成立は、「慶応軟式庭球クラブ」が結成された昭和6年まで待たねばならない。しかし、この
20年の間、軟球は全くなかったわけではない。軟球を愛する人は硬式に転向することなく、一般のクラブに籍を置いてその腕を磨かれていた。
 国見和宏氏は塾庭球部の軟式時代、熊谷一弥氏のパートナーとして活躍されたのは前述の通りであるが、硬式変更後も依然軟球を続けられ、「小田原日本スポーツマンクラブ」に在籍された。氏はそこで、後年硬球に転じてデ杯選手となられた西村秀雄氏、また第三代主将の益田辰男氏等を育てられ、軟式庭球の発展に尽くされた。
 大正半ば頃、東京には八つの大きなクラブがあり、リーグ戦がさかんに行われていた。この八大クラブが中心になって、大正11年に「東京軟球協会」が結成された。(後に「日本軟球協会」と改称)。倉橋富治氏が在籍されていた「目黒クラブ」もこの一つで、リーグ戦では、最強を誇っていた「金門クラブ」とこの目黒クラブが常に覇を争っていた。また、大正13年の第一回東西対抗戦では、塾から倉田・田村組が選抜されている。
 庚甲クラブの日向正善氏は、昭和4年度全日本選手権で優勝されており、同時に理論家としても著名で、文字通り日本一の名選手であった。また安友省三氏も塾生時代から永年に亘り東京代表選手で、昭和24年度全日本選手権を遂に獲得された。現在も日本軟式庭球連盟の発展に御尽力されている。

慶応軟式庭球クラブの結成
 昭和初期より軟式庭球は再びブームを迎え、塾内においても予科テニス大会などには数百名の参加を見るに至っている。目黒月光園を始め、その他の貸コートで練習されていた鎮目俊之、
若林孝三郎、小野晴男各氏等は、これらの大会で活躍されていた。昭和6年末、右諸氏と全日本選手権保持者の日向氏が中心となって「慶応軟式庭球クラブ」が結成された。この瞬間こそ塾軟式庭球部の歴史の始まりである。部長に井汲清治教授を戴き、正式に塾を代表する軟式庭球の団体、即ち塾内対抗競技部として認められたのである。そして日向主将以下全員が、半ば空白状態になっていた目黒クラブに入会し、そこで来るべきリーグ戦に備えて猛練習が開始された。
 翌7年春、大学高専リーグ戦に初参加した塾は、早稲田、日大、中央等の強豪を撃破して優勝杯を手にした。続く秋も連覇し黄金時代がここに幕を開くのである。このときのメンバーは
日向・新藤・鎮目・若林・小野・田原・荒木・横山・小林虎吉・岩井各氏等である。なお、試合方法は五チームによる殲滅戦を採用していた。

新 学 連 の 発 足
 日本の軟庭界は大正末から昭和の始めにかけて混乱期で、「日本軟球協会」と「日本軟球連盟」の二つの流れがあった。学連は関東、関西とも昭和初期に発足していたが、常にいずれかの団体の奴隷下にあり、きわめて独自性の薄いものであった。こうした状況を打開し学生自身による学連を作ろうという機運が生じたのは言うまでもない。岩井三郎氏は先田(早稲田)落合、内藤(立教)、清水(明治)各氏等と共に活動を起こされ旧学連から脱退、そして糸川欣也医学博士(前糸川監督の父君)を会長として「学生軟式庭球連盟」を結成された。昭和8年暮れの事である。当初参加校は六大学と中央の7校のみであったが、翌9年には関西学連もその傘下に入り、また続々と参加校が増え、名実共に「日本学生軟式庭球連盟」となった。これこそ現学連の誕生である。

小林・呉組全国制覇
 昭和9年春、新発足した学連によるリーグ戦では慶早で優勝を分け合った。その後もリーグ戦では数回優勝を果たしているが、就中13年には小林珍彦・呉啓三郎両氏のペアが全国制覇を成し遂げるという大金字塔を打ち立てた。これは明治神宮・伊勢神宮両大会の大学高専の部で優勝したものであるが、取りも直さず全日本学生選手権を獲得したことにほかならない。尚、このペアは学生満州遠征軍のメンバーにも選ばれ、小林氏は遠征軍の主将として活躍された。

戦 争 に よ り 中 断
 翌14年には小林・呉両氏を含め、五味淵均・中村正・中村喜兵衛氏等主力選手の大半が卒業、残るは黒木重道・大石三郎・河野忠男各氏等ぐらいで、人数的にも非常に苦しい事態に陥った。また戦時体制も日増しに色濃く反映するようになり、従来使っていた目黒クラブのコートが遂に閉鎖されてしまった。リーグ戦には医学部に選手の応援を得て辛くも戦い抜くという苦難の時代で、成績はあまり芳しくなかった。そして太平洋戦争が始まり、川野主将の代を最後に軟式庭球部は一応休止状態になったのである。

戦    後    編

塾 軟 庭 部 の 復 活
 戦後は四ツ谷で慶応軟庭クラブは再スタートを切った。医学部の境昌弘、長谷川利郎氏等と三田先輩岩井氏と相計り練習が始まった。又戦後、全慶早戦が始まったことで荒廃しきっていた学生軟庭界に一筋の光明を与えた。学連の機構も徐々に復興し続々と各種の大会が開催され始めた。これらの大会で塾は数的には劣勢ではあったがよく健闘、川島・田中・益田・小熊選手等が常に上位に進出していた。就中23年春の憲法記念大会では、田中・小熊組が準決勝で常勝を誇っていた山口・倉田(日大)を破り準優勝を獲得した。

体 育 会 昇 格
 昭和6年末対抗競技部の一部門であった「軟庭クラブ」は遂に念願叶って体育会昇格を果たした。これは新制大学に体育が成果として取り入れられ、軟式庭球の実技が体育の単位となったのが大きな要因である。部長には河村知男教授を戴き、監督を岩井三郎氏にお願いしてここに体育か意図しての「軟式庭球部」は第一歩を踏み出した。24年春のことである。
 同年春、国体の全日本学校対抗では決勝で早稲田に敗れはしたが、堂々の準優勝を獲得した。三回戦では最強の日大を相手に柳本・岡本組が三組をなぎ倒す大活躍で、準決勝の明治は問題としなかった。チーム力が充実していたこともあるが、体育会昇格に気を良くした塾の快進撃であった。

日 吉 コ ― ト 完 成
 体育会昇格後、部は四ツ谷を離れ養和会や朝日生命を始めとしてコートを転々としながら練習を続けていたが、石丸体育会理事、河村部長の御尽力で新コート設立が決定され、25年9月に現日吉記念館のところにコート五面が完成した。コート開きの日には先輩多数が駆けつけてくださり、現役共々初めて持つ自分のコートに皆感慨無量であった。

関東リーグ二部転落
 同年秋季関東リーグ戦、塾は明治と中央には大接戦の末敗れたが春季に続いて法政に勝ち五位だった。ところが一部八校時代と同様、一部下位2校と二部上位2校の入替戦とする旨の学連からの連絡が不十分及び塾が学連の横暴を理由に入替戦に出場しなかった為棄権の名の下に二部へ転落せしめられた。
 部員は勿論監督を始め諸先輩が再三の抗議を申し込んだが学連はこれを受け付けず、塾はリーグ脱退を示唆したというエピソードもある。

東京六大学リーグ戦開幕
 戦後、一方では慶早東で試合をやり、片や別のリーグ戦を法立明が行っていて分裂状態にあった東京六大学であるが、27年春より、両者とも発展的に解消して六校でリーグ戦を行うようになった。これは六大学相互の親睦と軟式庭球を普及発展させる旨で春秋の2回日比谷公園コートで行われ、現在まで続いている。尚56回の長い歴史をもつが塾は残念ながら一度の優勝もない。

第 1 回 慶 同 戦
 27年春たまたま立教との定期戦の為上京していた同志社から塾に対し定期戦の申し込みがあったが、塾体育会の多くが同志社と定期戦をもっており、又関西のテニスに触れてみる絶好の機会でもあったので塾はこの申し込みを快諾した。同年夏の全日本選手権のあと勇躍京都へ乗り込み、ここに第一回慶同戦が実現した。試合は大将同志の対戦で石曽根・山路組が全日本学生準優勝の明井・八木組を倒すなど白熱した展開となったが、最終戦では木村・岡本組がサービスキープのままファイナルで惜敗、かくて第1回慶同戦は同志社の軍門に降ったのである。尚これまでの対戦成績は塾の8勝20敗で、同志社にはだいぶ分が悪い。

三田軟式庭球倶楽部創設
27年晩秋の全慶早戦終了後、新橋のうなぎ屋大和田に於いて三田軟式庭球倶楽部は誕生した。これは強力に組織化された我が部の後援団体である。会長に倉橋富治氏、副会長に森文雄・新藤栄一の両氏、理事長に監督兼任の岩井三郎氏が就任された。
翌年5月部報創刊号が発刊された。発刊の目的はまず、三田倶楽部会員の名簿を整備すること、次に部の戦績を残すこと、それに卒業生の言葉を載せること、この三つであった。いずれも三田倶楽部及び軟式庭球部の発展の為に大きく貢献している。
このときの主務豊田隆郎氏の御尽力はなみなみならぬもので、現在の三田軟式庭球倶楽部及び部報の生みの親である。

入替戦と六大学リーグ戦
二部転落以降塾は13期に及び二部生活を続けるのであるが、そのうち実に10度一部に挑戦している。その間六大学リーグ戦では第3位が1度あるだけである。これは関東リーグ一部校が日大・中央を除けば六大学の早法立明によることに他ならない。ここで入替戦にスポットをあて、六大学リーグ戦と対比させながらこの時代の塾の流れを追ってみる。
最初の入替戦は26年春である。田中・益田。小熊等の中心選手が抜けたとはいえ前年秋まで一部でやっていた塾である。二部では問題なく優勝し法政と対した。これまで比較的分が良かっただけに大いに期待されたが2−Bで惜敗し、渋谷で全員丸坊主となって悔し涙を喫んだ。
27年秋季六大学リーグ戦、塾は法立東から勝ち点を挙げたが勝組数の差で第4位にとどまった。その10日後の入替戦では立教とぶつかったが善戦の域を越えなかった。ところで六大学リーグ戦でこのあと法政から勝ち点を挙げるのは35年春季まで待たねばならないので実に14連敗喫したことになる。立教にいたっては16連敗であるから丸8年間勝ってなかった。また早稲田に初めて勝ったのは31年秋季であるから10度目の対戦で漸く一矢をむくいたということになる。早法立の3校には全日本のトップクラスの選手がひしめいていた。
28年春季六大学リーグ戦で今度は明治を破った。これは最初から三つ続けて取られたあと四つ勝つという、それも第五試合から三連続ファイナル勝ちという劇的な逆転勝利だっただけにムードが最高潮であった。ところがその明治との入替戦当日、一選手の欠場という思わぬ落とし穴があり惨敗を喫した。同年秋季リーグ戦では塾は東大にまで敗れ最下位に落ちた。長い歴史の中でこの屈辱的記録はこの時と53年春季の二度だけである。勿論六大学そのものが変わってきており(現在は一部2校、二部2校、三部2校)一概に比較する事はできないが、今季に始まり大量の主力選手を送り出した翌年、そして翌々年の所謂“東大前”と呼ばれた時代が戦力的に見ても最も苦しい時代であった。
30年秋季関東リーグ、内藤兄弟の加入でやや戦力が上向いてきた塾は二部で完全優勝し甘泉園で早稲田との入替戦に臨んだ。早稲田は同年夏の全日本大学対抗の覇者であったが、一部で最下位となって入替戦に出場するはめになった。相手にとって不足はない。トップは四年生松田選手の活躍で塾に貴重な1勝をもたらす。第三試合早稲田の大将菅原組に対し新進気鋭の内藤組は実によく喰下がったがあと一歩のところで及ばず。しかし、四番藤岡組はリードを許しながらも地力を発揮、よく逆転勝ちして最終戦にまで持ちこんだ。早稲田大川選手は全日本学生を取った名前衛であったが諏訪組終始これを避けながらゲームカウント4−3と追いつめた。ここで後衛木村選手は土壇場での開き直りからか無謀とも思えるくらいのショットを連発、これが悉く決まり諏訪組健闘空しく敗れ去った。一部昇格はならなかったとはいえ早稲田を相手にこれだけの試合をやったという自身が徐々に実力に変わり始めるのである。
翌31年は春秋とも六大学では勝った明治・早稲田と入替戦で対戦するが、これまたあと一歩のところで壁を敗れなかった。

一  部  昇  格
32年春、越前主将のもと有力な新人の加入をみた塾は二部リーグ戦では他校を大差で圧倒し勇躍明治との入替戦に臨んだ。トップは両校大将同士の対戦となったが、内藤選手の角度のついたシュートボールとそれに呼応して越前選手が縦へ横へ取りまくり零封してまず塾が先制。続く村井組は相手の柔軟な粘りにあって惜敗したが、三番手の新人ペアが完勝して一部へあと1勝に迫る。第4試合は四年生ペアの近藤・山崎。明治三宅組が固くなってややミスが多かったとはいえ両選手共完璧なテニスを見せ完勝、ここに塾の7年ぶり一部復帰がなったのである。二部での苦労が長かっただけに喜びは格別であった。

第 二 期 黄 金 時 代
一部昇格を果たしその座を守り続けた四年間は、団体戦・個人戦共華々しい戦績をおさめ、大いに慶応の名を斯界にとどろかせた。
第二期黄金時代の到来である。
関東リーグでは32年秋季から一部で戦うわけだが、さすがに二部時代とうって変わって苦戦苦戦の連続であった。しかし徐々にその成績も向上して行き最下位を続けながらも名実ともに一部校の仲間入りをしたといえる。33年春季には勝ち点を挙げるには至らなかったが内藤・内藤組が4勝と健闘し、同年秋季には日大から初の勝ち点を奪っている。そして35年春季、一部6シーズン目にして遂にテールエンドなる定位置を脱出して第4位となった。この瞬間二部時代から数えて連続11回の入替戦出場記録に終止符がうたれた。
慶同戦に初勝利を飾ったのは32年である。これまでずっと同志社の軍門に降っていたが、選手一同今度こその意気に燃え晩秋の京都に乗り込んだ。又岩井監督も主務牛山善弘氏を連れられて清水寺に御詣される一幕もあった。試合は第2回定期戦より殲滅戦形式となっていたが、トップを切った内藤・越前組が完封して幸先のよい先制点を挙げたのもつかの間、続く4チームが枕を並べて散ると言う予想外の展開となった。しかしこの日の両選手の当たりは完璧で遂に最終戦まで持ち込んだ。ゲームカウント2−2の時、さすがに連戦の疲労からか越前選手両足痙れんというハプニングに見舞われ続行不可能と思われたが、よく立直りこれをD−3で降して塾に初勝利をもたらした。
34年盛夏、会津若松で開かれた全日本大学対抗で塾は準優勝を獲得した。半田主将率いる塾はまず準々決勝で第1シードの中央と対戦したが、塾の大将西村・糸川組が三組まわす大車輪の活躍で突破、準決勝では2年生岡井・古山組の若さが爆発し西の雄関大を降した。然しこの大会で優勝することは学生にとって最高の栄誉とされているだけに、十年前と今回の2度にチャンスを逸したことはかえすがえすも残念至極。それが2度とも好敵早稲田に野望を断たれたというのも何かの因縁であろうか。
34年(1964)春、日吉において現役のみの慶早戦が実現した。純粋な形での慶早戦は明治39年(1906)以来であるから約半世紀ぶりに復活したといえる。5チームの点取り戦であったが9ゲーム3セットマッチの為番狂わせの起る可能性は極めて少ない。2番4番は快勝したが早稲田の主力3チームには歯が立たなかった。同年夏、舞台は全日本大学対抗決勝で慶早両校が大学日本一を賭けて対戦することはこの時皆知る由もなかった。尚これまでの通算成績は塾の10勝11敗とほぼ対等といえる。この慶早戦が名実共に学生スポーツ界最高の試合となる様両校精進を重ねてゆかねばならない。それが“花の早慶戦”と世間に呼ばしめている我々の特権でもあり使命でもあるのだ。
全日本学生に於いて塾は三年連続順々決勝進出を果たした。まず30年に新人の佐藤・山崎組が西の強豪中塩・石田組を降してベスト8入りしたのを皮切りに、翌年には内藤・越前組が、続いて村井・大岩組が進出した。ことに村井選手はその年に天皇杯を取った太田選手を弱冠1年生で破っての進出であった。
33年7月の金沢、内藤尚男選手は東日本学生シングルスで優勝した。ただもうずば抜けて強く無人の荒野を独り行く様な感じで快調にゴールインした。持ち前の機械のように正確なストロークと抜群の脚力でもって、他を全く寄せ付けぬさっそうたる優勝であった。続いて9月に神戸で開かれた第1回全日本大学生シングルスでも優勝を飾ったのは実に意義深いことといえる。尚、体育会昇格以来、“優勝”の二文字に輝くのは内藤尚男選手唯一人である。

 東日本学生でも塾の快進撃は続く。34年村井・水内組は3回戦から準決勝までの連続5試合、並み居る強豪を全てファイナルゲームの末降すという離れ技をやってのけた。決勝ではやはり力尽きたか法政ペアに名を成さしめたが、この粘り腰は入替戦では負けの多かった村井選手のまさに面目躍如たるところである。翌35年、今度は西川・糸川組と岡井・古山組の二組がベスト8入りを果たした。

 西村組は準決勝で日大ペアと大接戦を演じたがよくこれを降し関東の雪辱を遂げた。そして結晶進出。大学対抗では勝っているがこの時の中央ペアの意気物凄く惜敗。しかしながら前年の村井組に引き続いての準優勝を得た。
 学連の大会はもとより一般に出場しても塾の活躍はとどまるところがない。35年東日本一般で西村・糸川組は前年同様斎藤・橋本(赤Mク)に敗れたが2年連続第3位に入賞し一般の東西対抗に選抜され出場した。
西村選手は前衛鳥井選手(日大OB)と組み一次戦で圧倒的不利であった東軍の期待を一身に背負って獅子奮迅の大活躍、藤田・武田組、六島・川口組といった名だたる西軍の強者を向こうにまわして遂に日没引き分けに持ち込んだ。そしてこの大会での活躍が認められて西村選手はアジア大会に推薦され出場、個人戦では第3位に入賞し銅メタルを受賞された。翌年1月、大阪府立体育館で行われる新春恒例の全日本インドアに西村・糸川組が選出されたが、これが塾初のインドア大会出場の瞬間であった。

現 コ ー ト 完 成
慶応義塾創立百周年の記念行事の一環としてコートのところに日吉記念館建立が決定され、部は3年2月を以って馴染み深いコートに別れを告げた。同年9月下田運動場に現コート4面が完成した。コート開き当日、奥井復太郎塾長が御来場下され始球式がとり行われた。これは奥井先生がコートの端に立ってボールを2個投げこまれ、これをシングルス二冠王内藤尚男選手が第1サーブを入れ目出度く終了。続いてコート上で内藤享佑主将が宣誓書を朗読した。この宣誓書は今も合宿所に掲載されている。尚同年4月殉職された第16代主将世良田稔氏の追悼大会が真新しいコートで開催され先輩現役共々深く氏の冥福を祈った。これが世良田杯の起りである。

合 宿 所 建 設 さ る
兼ねてより先輩及び部員からクラブハウスのようなものがあればと望まれていたが、先輩並びに現役父兄の多額の寄付と山一土建株式会社(専務取締役岩井二郎氏)の献身的な御厚意により、34年12月コートに隣接した立派な合宿所が完成した。この合宿所が今後の部の発展に果たした役割は計り知れないものがある。尚初代舎監には西村信寛氏があたられた。

二 部 転 落
一部の座を明け渡す時がきた。36年春関東リーグ戦、塾は主力選手を多く送り出し背水の陣で試合に臨んだが早稲田に勝ったものの最下位となった。入替戦では明治の挑戦を受けたが、 “今こそ4年前の恨みを晴らさんかな“と明治の意気込み物凄く、結果は塾の完敗であった。秋の二部リーグ戦、塾は苦しみながらも第1位となり一部復帰を狙ったが春には勝った早稲田に一方的にやらせてしまった。

台湾大学と親善試合
36年夏、小田原の全日本学生大会に出場する為中華民国から国立台湾大学軟式網球隊が来日し、大会後各地を転戦親善試合を行った。関東地方では関東選抜軍・早稲田と共に塾がその対戦校に選ばれ国際親善試合に一役買った。試合は塾がB−2で勝ち辛うじて軟庭創始国日本の面目を保った。

一部昇格、1シーズンで二部転落
37年春、二部を全勝で飾った塾は入替戦では法政と対した。名門法政はこれまで20回の六大学リーグでは約半数の9回優勝を飾っており、関東リーグでは一部最下位となって入替戦に出場するのも26年春以来11年ぶりのことである。この法政が相手と決まり塾は気分的にも楽になりぶつかっていけたのが幸運だった。大将渡辺・木路組は流石に強かったが塾は確実に1、3、5番でポイントをあげ一部に復帰した。これはリーグ戦入替戦を通じて一度も負けなかったペア2組即ち小松原・寺本組と武井・深沢組の安定した強さによるところが大きい。
秋迎えての一部リーグ戦、接戦すれども球運なく全試合2−Bで破れ最下位となる。武井・深沢組が4勝しで気を吐いたがあと1ゲームが、あと1ポイントガ取れず負けた試合が多かった。

一 部 昇 格
39年春、二部を問題なく通過した塾は入替戦で立教と対した。双方とも強気のオーダーで がっぷり四つの白熱戦となる。第1試合鈴木組は前半得意のレシーブアタック戦法で優位に立ったがマッチポイントがどうしても取れず後半秋葉選手の巧さにしてやられて惜敗。続く中西組は青木選手の完璧な当たりで完勝、タイスコアに追いつく。そして両校主将チーム同志の対戦は後衛亀田選手の強風を利した強烈なサービスとアタックに寺岡組接戦すれども敗れ王手をかけられた。ここで勝負あったかと思われたが4番手の4年生ペア谷口組がこの窮地を救う。全般立教1年生ペアの若さに圧倒されゲームカウント3−4で3本マッチポイントを取られたが、これを谷口選手よくしのぎファイナルゲームに入るや高取選手の大活躍で大逆転勝ちした。こうなるとムードは逆転、最終戦では勝負強い大木組が相手を全く寄せ付けず完勝。この結果塾はB−2で立教を降しここに一部復帰がなった。

糸川雅也監督登場
39年春、体育会昇格以来15年間監督を勤められた岩井三郎氏が勇退され、代わってコーチの越前真生氏がその任にあたれた。しかしながら転勤というやむを得ぬ事情により、その座を去られ、新しく糸川雅也氏が監督に就任された。

糸川氏中心 S32〜S36
山本連ー春山―大久保……黄金時代
関東リーグで一部にあったのは4シーズンと長くはなかったが、これから約3年間程は前の黄金時代に優るとも劣らぬ成績を納めている。
まず関東リーグ戦であるが、これは5チームの点取り戦で6校総当りで行われる。当たり前のことであるが英雄主義即ち殲滅戦ではないので1チームだけつよくても勝てないということである。学校を代表する5チーム全部が強くなければ熾烈を極める一部リーグ戦ではとうてい生き残れない。要するに関東リーグは学校としての実力を図るのに絶好のバロメーターといえる。
39年秋季、2年ぶりに一部に復帰した塾は勝ち点2で第3位となり初のÅクラス進出を果たした。上位2校即ちリーグ優勝の中央とこの年の全日本大学の覇者早稲田を破っての堂々の第3位である。全体としても25戦13勝12敗と一部で初めて勝ち越した。
40年春季、初戦の明治に始まり快調に3連勝、このまま突っ走ると思われたがまず中央につまずき続いて早稲田にも破れ第3位に終わった。同年秋季、日大戦で鈴木組が4−2からひっくり返されたのが結果的に大きく響き優勝を逸したといっても過言ではない。中央戦では2つ取られてから中西組が学連の雄石川・村上組をD−0でふっとばして続いて2つ勝つという粘り腰を見せた。春季同様勝ち点3であったが第4位にとどまった。尚この時には塾の4ペアが勝ち越した。
このように一部昇格以来特に40年の2シーズンは他の一部校と対等もしくはそれ以上の成績をおさめたリーグ戦である。鈴木・大林組、中西・青山組、石田・大久保組は学連のトップクラスにあり、又たとえ2−2の最終決戦になっても原・浜名組ががっちり締めた。このペアは  10戦とも5番手として登場し最終戦では4戦全勝、すべて塾を勝利に導いている。何とか最下位脱出に懸命であった前期黄金時代を凌駕し、関東リーグの主力たりえた塾の姿が其処には見られる。
東日本大学対抗では41年に準優勝を得た。大会前開催地酒田にて行った合宿の成果たるや上々で、準々決勝では学生界bPとの折り紙付の加藤・清水組を擁する日大をB−0で倒し、続く準決勝では進境著しい日体大を順当に片付けて決勝に駒を進めた。対するは中央。前年も前々年もまさに紙一重の差でこの中央に敗れているが、それはつぶしには滅法強い全日本でも屈指の後衛石川選手がいたからである。今回こそ積年の恨みを晴らさんとばかりに挑んでいったのであるが竹島組にしてやられ又しても中央を覇たらしめた。
学連の個人戦でも塾の躍進は目覚しいものがあり、関東では37年の武井・深沢組と一条・高取組以来5年連続ベスト8に名を連ねているが、東日本でも41年に中西・大久保組が決勝進出を果たした。そして法政の技巧派山口・長谷部組と雌雄を決したのであるが4−Dで敗れ惜しくも快挙はならなかった。そして全日本こそはと期待されたが準々決勝で惜敗し涙を喫んだ。また39年より関東学生インドアが始まったが、この大会は関東の歴戦の雄16チームが選抜され4ブロックに分かれて予選リーグを行いその1位のみ決勝トーナメントに出場できる。中西選手は3年連続選抜され40年と41年にはそれぞれ青山選手、大久保選手とのペアで猛者揃いの予選リーグを勝ち抜いて決勝トーナメントに進出した。
天皇杯を舞台にしても塾の快進撃はとどまるところを知らない。39年夏大垣での天皇杯、鈴木・大林組は快調に勝ち進み5回戦では全日本大学対抗2連覇の原動力となった早稲田の中山・水谷組をファイナルで降しベスト8に進出した。順々決勝では西村・佐藤組に2−Cで敗れるのであるが、この西村選手とは申すまでもなく塾出身の西村信寛氏のことである。明けて40年、今度は石田・大久保組が前年の鈴木組に引き続いてベスト8に入った。準々決勝では35年度天皇杯保持者の伊藤・園本組に惜敗したが学連参加チームの中では最高の成績をおさめ気を吐いた。尚、42年にこの石田組は大阪の全日本インドアに出場した。
ところで先程西村信寛氏の名前が出てきたのでここでちょっと触れておこう。同氏は卒業後も朝日生命に勤務の傍ら、全日本のトッププレイヤーとして活躍されている。天皇杯には36年から40年まで出場され、ベスト8に進出されること実に4度。38年には準決勝で斎藤・橋本(赤Mク)に敗れた。そして翌39年、準々決勝も突破、日本一を賭けて学生時代からの好敵手坂本安司選手(日大OB)と決勝で対戦したがゲームカウント2−Dで上田・坂本組に屈してしまった。この年全日本インドア・東京インドア両大会で同氏は第3位に入賞されている。

二 部 転 落
41年春季、関東リーグ戦では塾は勝ち点なしで一部最下位となり日体代との入替戦に臨んだ。これまで日体大はまださして強くはなかったがこの春に前年インターハイ個人戦で優勝した西田豊明選手を加え、めきめきと頭角を現し始めていた。第1試合絶対の信頼を置く石田組は若い日体ペアの押せ押せムードを懸命にこらえながらも遂に力尽きて敗れた。続く中西組はやはりトップの敗戦が影響してか次第に焦りが見られるようになり、中脇組の巧い試合運びに屈した。窮地に立たされた塾は3番手川口組が踏ん張って1点返したが、4番手小野選手の豪打の前に原組の執拗な粘りも空しく敗退、塾は二部転落の憂き目を見る。

大久保選手アジア大会出場
42年夏、大久保選手は芝浦工大の白土選手とのペアで天皇杯出場、まさに破竹の快進撃で決勝まで駒を進めた。勝ち進むにつれて力感溢るる豪快なスマッシュ、切れ味の鋭いボレーが爆発し大久保テニスの真骨頂を見せた。決勝では石川選手(中大OB)と日本一の座を争い、3−Dで惜敗したが堂々の準優勝を獲得した。又この年5月から始まったアジア大会予選では立教OBの亀田選手と組み第2次予選から出場、これを1位で通過して最終選考会へ駒を進めた。予選を勝ち上がってきた各ブロックの代表とアジア大会出場を賭けての熾烈なリーグ戦である。亀田・大久保組はこの最終第3次予選も1位で突破し晴れて代表の座を獲得、同年9月ソウルにおけるアジア大会で日本の団体戦優勝の原動力になった。

三田倶楽部東京クラブ対抗に参加
42年に新設された東京クラブリーグ戦に塾のOB会である三田倶楽部が進出した。この年五部からのスタートであったが成績もどんどん上がり、後には一部に昇格し、桂川製螺→朝日生命といった実業団の強豪と覇を争っている。

堀江湛教授を新部長に迎える
部が体育会に昇格して以来20年間部長の任にあられた河村先生が引退され、その後を受けて法学部教授堀江先生が部長に就任された。

二 部 時 代
日体大との入替戦に敗れて以来塾は15シーズンの永きに亘って二部生活を続ける。そのうち丸6年間は二部でも優勝できずさらに42年秋季には三部転落の危機に瀕したこともある。塾の実力の低下も否めないが学生軟庭界に変動が起こり始めたのも事実である。関東リーグの歴史を追っていくと発足以来塾と明治の間で入替があったに過ぎなかったのであるが、37年頃から頻繁に一部と二部の入替が行われるようになるまさに戦国時代の様相を呈し始めた。41年に一部昇格した日体大は以後ずっと一部に定着し日大と共に今日の隆盛を築くのであるが、早稲田・立教というかっての名門校が入学難も反映してか塾のあとを追うように二部に落ちてくる。代って芝浦工大・青山学院・専修・駒沢といった東都の大学の台頭が著しくなり、これらの学校と明治・中央・法政とが入替戦をしてはめまぐるしく一部と二部の間を昇降するようになった。よって二部校自体の実力も向上、そして拮抗するようになり、先に挙げた上位2校を除く一部校との差は殆んどなくなってきたといえる。また学生の体育界離れという現象はどの学校でも見られるが塾に関しても多い時の4分の1と極度に減少、30名を割り始めた。こうした状況の中で吉野・高田組、石田・高山組、伊地知・加藤組等のインドアにも選抜されるような好チームを有してはいるものの学校全体としての力量は他校のそれとほぼ同様で、球運に恵まれなかったこともあるが関東リーグ戦国時代を抜け出すにはやや力不足の感を免れなかった。
六大学リーグ戦にもこの影響を受けてやや変わって来た。この頃から前述の通り早立両校が目に見えて弱体化し塾の前に立ち遮るのは関東リーグ一部の法政と明治の2校に絞られてくる。過去準優勝は3度あっただけであるが43年春季の準優勝を皮切りにほぼ上位に定着する。勝負に“もし”とか“たら”は愚かであるが“もしあのアタックが通っておれば、ボレーが決まったならば”の多かったこと多かったこと。優勝のチャンスは何度となくあったのである。そしてその度に敗れ苦汁をなめた。それらの試合を今ここで列記するのはやめておく。何故ならその苦い思い出は初優勝を果たした時に必ずや報われるであろうから。
45年7月秋田で開かれた東日本学生大会、塾は団体戦で4年ぶりにベスト4に入った。準決勝では分のよい青山学院と対したが不覚にも破れ決勝進出は成らなかった。個人戦でも川越・加藤組と伊地知・中津組が健闘共にベスト8に入った。また43年から始まった関東学生シングルスでこの年、石田幸太郎選手は決勝まで勝ち上がり内藤尚男選手に続いての快挙なるかと思われたが不運にも脚の調子悪く準優勝にとどまった。
翌46年晩秋の京都岩倉での慶同戦。この年同志社は全日本大学対抗準優勝であったが、伊地知・加藤組が4連続ファイナル勝ちする大活躍で5年ぶりに塾に優勝杯をもたらした。

岩井三郎氏会長就任
塾軟庭部が目黒のコートで誕生以来永年に亘って部ならびに三田軟式庭球倶楽部の面倒を見てこられた倉橋富治会長が勇退され、後任に岩井三郎氏が就任された。そして理事長には豊田隆郎氏が就任された。

一 部 を 窺 う
二部転落以来、丸6年間は二部で優勝して入替戦に出場することすら出来ぬ臥薪嘗胆の時代であったが今ここにして漸くチャンスがめぐってきた。47年秋季入替戦。中央を相手にするが実力の差は如何ともし難く宮本・阿蘓組が1点返したにとどまった。
翌48年春季入替戦では青山学院と対した。第1試合は両校とも絶対の信頼を置く大将同士の対戦となったが、宮本組は最高の当たりで富沢組を圧倒しまず塾が先行した。続く試合も高橋選手の粘りと新人山本選手の大胆なネットプレーがうまく噛み合い快勝して塾は一部へあと1勝と迫った。ところが3番手中村組が接戦の末敗れてからムードがおかしくなり、4番5番とも正気を見出せぬまま簡単に敗れてしまい塾は大逆転負けを喫し一部昇格はならなかった。青山学院の執念もさることながら塾の今一歩の甘さが出た一戦でもあった。

一 部 昇 格
2度の入替戦敗退に燃えた塾は続く秋季二部リーグ戦も全焼で通過3たび入替戦に駒を進めた。対する中央は夏の全日本大学対抗優勝校である。あっという間に2試合取られ勝負あったと思われた。しかし、である。春に全く同じ状況で青山学院が塾を降した様に塾はまさにその再現をやってのけたのである。
 第3試合、もうあとがない塾は、この1年間関東リーグでは無敗の宮本組が期待に応えて、まず反撃の狼煙をあげる。4番手松木組は阿蘇選手の円熟した試合運びで逆転勝ち、悠々最終決戦、塾の5番手男足立組は常に先行を許しながらもしぶとく食い下がり遂にファイナルゲーム。レシーブであったが藤原(清)選手の強気の攻撃でこのゲームC−0でとり、大逆転勝利で塾は実に7年ぶりの一部復帰が成ったのである。
尚、山田組は学連の精鋭16チームに選抜され翌年新春の全日本学生インドアに出場した。これは第1回大会の石田(幸)・大久保組以来である。
49年春、一部昇格の原動力となった宮本組を送り出したとはいえ有力新人の加入を見て不安と期待の入り混じった面持ちで一部戦線に突入した。上位校には歯が立たなかったが目標としていた打倒下位3校のうち青山学院と法政を倒し第5位となった。法政との最下位決定戦で足立・片野組が勝って塾の一部残留が決まった瞬間、全部員コートに飛び出し踊りあがって喜んだ。
続く秋季、今度は初戦の日大戦から中央戦にかけての14連敗が大きく響き、最終戦で明治から待望の勝ち点を挙げたものの時すでに遅く勝組数の差で最下位となった。入替戦では法政と合見えたが、春季に勝ち又六大学でも最近分がよかっただけに全員自信をもって臨んだ。が、結果は無惨にも粉砕され塾は僅か1年で一部の座を明け渡してしまった。

二部転落その後
日本の軟庭界で最も権威のある大会は天皇杯であるが48年にその出場資格が改正され学連からは全日本学生で16本に入ったチームと制限された。50年夏、伊勢の全日本学生で松木・山本組はこの年東日本一般を取った明治の矢野・青木組も降して16本に入った。そして天皇杯では名実共に世界一の西田・時安組をあわやのところまで追いつめた。
関東リーグでは二部に落ちたというものの常に一部を狙える戦力で2度入替戦に出場している。まず50年秋季、明治との入替戦。トップの4年生ペア松木組が貫録勝ちして塾が先行したが、大将下岡組が山形組の思い切りの良い攻撃に終始防戦一方となり惜敗、ここで一部昇格の望みは潰えた。
翌51年秋季、今度は駒沢に挑戦した。夏の全日本大学対抗では優勝した日体大をあと2本にまで迫った塾だけに実力的にもやや分があるように思えたが勝負はまさに水もの0−1のあとの第2試合、西ヶ谷組が大将前田組と四つに渡りあって快勝したまではよかったが、大将下岡組は藤山選手の予想外の不調と時折見せる畑辺選手の強打が決まり接線の末敗れた。しかし4番佐藤選手が踏ん張り2−2の最終決戦に持ち込んだ。塾の若い2年生ペアは健闘したが名手上般選手の落ち着き払ったネットプレーの前に完敗。又しても一部復帰はならなかった。

佐野勝男教授を新部長に迎える
52年春、堀江教授が学務御多忙の為退かれ、
後任に文学部教授佐野勝男先生が部長に就任された。

低 迷 期 の 現 在
52年春に三部と入替戦をやったのを機に塾は低迷を始めた。翌年は春に六大学リーグ戦で 東大に26年ぶりに敗れ最下位の屈辱を味わい、秋には三部転落の危機にも瀕した。個人的には小林、古賀、赤井といった好選手も居たが傑出するまでには至らず層の薄さに拍車がかかっている状態である。
今もこの苦しいやりくりが続いているが54年春に平田、白石、村田等の期待できる新人が多く入部してやや回復の兆しを見せている。


     
 
         

1979年部報目次へ

   
     HOME>お楽しみ>1979年部報