切 な る 望 み
部 長 米 田 治
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| 僕が部長になって約4年経過した。この4年間の感想を一言で述べるなら、「部長を引き受けてよかった」につきそうだ。
学生時代以来体育会についての経験皆無にも拘らず、とても居心地のよい、しかも貴重な体験の 4年間だった。それは監督をはじめとする先輩諸氏の献身的な御協力の賜物であるが、その主な理由として次の2点を挙げる事ができると思われる。
先ずは、わが軟庭部の内部のリベラルな雰囲気である。ある程度予想していた、いわゆる「体育会的」な雰囲気とは全く異質な、このリベラルな雰囲気は僕の生活感覚にピッタリだし、よりよき組織の原則としてそれは僕にとって極めて好ましいものであった。しかしよく考えてみれば当然で、慶応義塾の自由で潤達な伝統的校風が、われわれの部の気質として定着しているはずのものなのであるから……。
次には、アマチュアリズム的な行き方をあげ得ようか。滔々たるプロ化の風潮の中で、素人集団を自任し、学生スポーツの本道を監督、先輩諸氏とともどもためらうことなく、堂々と歩む行方は、さわやかで大いに称賛されてよいものである。文武両道の兼備も其れゆえ当然で、現在までのこの4年間、この問題について部長として僕の心を悩ました経験が殆んどなかったのも嬉しい限りであった。だからといって不満がないわけではない。その最たるものが試合での勝負強さをもっともってほしい。もっと端的に言うなら、勝って勝って勝ち抜くといったタフさがほしいと言うことである。女子部の方は、4部優勝と3部昇格を果たせたが、男子部の方も是非このような成果をあげてほしい。そうなれば、それこそこれら三拍子揃った軟庭部の部長として、全く部長冥利に尽きるというものである。このような成果達成の出来るだけ早からんことを望むや切なるものがある。
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1 本 の 差
監 督 内 藤 享
佑
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| 1歩1歩、ゴールに向かって前進している証を見た。昭和59年度、全日本学生団体第3位、そして、対同志社大定期戦に勝利したのが、それである。それぞれ、昭和34年(準優勝)以来25年振りの準優勝進出であり、昭和48年以来11年振りの対同志社定期戦勝利であった。
しかし、一方、まだまだ楽観は許されず、我々のゴールはまだ近くないことを認めざるを得ない現象は続いている。前述の2戦では活躍があったものゝ、他戦では全く振るわず、不甲斐なく厳しい現実を見せられた。特に、秋季関東リーグ戦では、全日本学生団体戦での活躍から慶應義塾の2部復帰は固いという下馬評のもとで戦ったのであるが、全く振るわず、優勝どころか3位、一時は最下位を心配する程の不出来であった。
活躍したその気運を伸ばし、前方に立ちふさがる壁を突き破るためには、やはり日頃の厳しく、且つ効果的な練習・訓練、そして精進これあるのみである。
「勝負は1本の差!」とことあるごとに学生諸君に説いてきた。2ポイント取った時、そのゲームを取れるチャンスは必ずある、そして勝たねばならぬ。と……
試合の流れの中で、この1本を取ればゲームポイントに追い込めるチャンス、もう1本とればそのゲームを取れるチャンス、一進一退、競り合っているゲーム展開の中で頭1つ出しそのまま勝ちきるチャンス、敵が作戦的にペースを変えてきた出鼻をくじく1本、じりじり押されじり貧的流れを変える1本、等々、それらの「絶対の1本を、この1本!と感じることが出来る」か否か、その第1歩。
そしてその1本に勝負をかけるとき、動か静かの選択、例えば後衛から敵の前衛にぶつける。抜く、又は前衛がポーチしてボレーを決めにゆく、ロブを追う、等々の動の攻めがいつも最適な勝負とは限らず、敵の動を誘い、待ち、逆にそれをものにする静の攻めもあり、それらの中からTPOに最適の選択がある。その「動か静か、そして何をするか、について、極めて高度な自己認識、即ち自分がやりおゝせる事、やれない事の識別の上に立って、適正な判断ができるか否かがその第2歩。
そして、選択した勝負に「己の持つ力、技を100%(120%というべきか?)発揮し、その1本を取りきれる」か否かが第3歩。であり、それが勝負の行方を決める全てだ。この第1〜3歩を少しでもよりタイミング良く、深く、確実に行い、勝ちきれる心、技を磨く練習、訓練こそが汗を流す目的でなければならぬ。
実際には、一見、互角に進めつゝも、その1本を逆に敵に取られ、その後の風向きが敵に廻り、敗者となることの何と多いことか。その1本の重要性を痛感するものである。
「本部席から観戦していたら、ものに憑かれたように、阿修羅の如くテニスする大学があり、よく観てみると本塾チームであった……」と、現日本学生軟式庭球連盟会長の安友省三先輩が、我が部の全日本学生団体3位に至る戦いぶりについて、昭和59年度の納会でそう評された。燃えに燃えた時、阿修羅のようなテニスができ、その1本が取れたのである。
この1本に強くなる為には、やはり毎日の精進以外に道はない。コート上での練習のみならず、日頃の生活の中でも常に前述の第1〜3歩を意識して、この1本の為に自己を磨いてほしい。練習・訓練の為の練習・訓練ではなく、勝つ為のこの1本の為の練習・訓練を常日頃心掛け、実行できるようになった時、我々のゴールは1歩近くなることを保証する。全日本制覇に向かってもう1歩前進しよう。
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特
別 企 画 …こ の 人 に 聞 く …
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テ ニ ス 60 年
三田軟式庭球倶楽部会長
岩 井 三 郎 |
私がテニスを始めたのは小学校3年の折であった。通算60余年であるが戦時中、中断された期間があり丁度60年位という事になる。小学校の折はサッカーと陸上もやり6年の折、100bの県下の記録を作ったが半年ほどで破られた。旧制湘南中学校に入り陸上、サッカー、テニスをやっていたが、3年生の始めテニス1本に絞った。
どうしてかと言われゝば、やはりテニスが1番面白かったからである。中学5年を卒業しテニスのお蔭で見事浪人し、浪人中一般の神奈川県選手権に出場し、思ってもいなかったが優勝した。浪人中に何事かと両親に叱られたものだ。
翌春慶應に入学し予ねて神奈川県で知り合っていた故西村秀雄氏(デ杯選手)に奨められ庭球部入りして大森のコート(当時は大森であった)に通って硬球を始めた。未だボールドと乱打位であったが半年程して軟庭界の大御所で全日本保持者の日向正善氏が法学部本科2年に在籍しておられ、又同学年の現副会長の鎮目さんや小野さんも居られ慶應に軟式庭球部を作るからとの事で又軟球に戻った。目黒クラブに御厄介になり練習し日向氏の御蔭でリーグ戦にも優勝し、その後に於いても小林、呉等の名選手を生み度々優勝して来た。卒業後は3年程会社勤めをしたが実家の仕事に就く事になり、又テニスを始め神奈川代表で明治神宮大会(戦後は之が国体となる)にも出場していたが、戦争となり全てのスポーツは中止となり、私も芝浦工機(現東芝機械)に入り軍需生産に励んだ。
戦後昭和22年であったと思うが、当時日比谷のコートは米軍に接収されていたが、由緒ある早慶戦なら貸してやるとの好意からオール早慶戦を行い之が契機となって又テニスを再開、東京・福岡・名古屋・広島の国体に神奈川或いは長野(一時自衛隊教官として松本に在籍)代表として出場、名古屋の折は準決勝、又都市対抗戦では横須賀代表として出場、全日本3位となった。
一方慶應の方は戦時中一応医学部が中心となり継続されましたが、戦後各種スポーツが大学の正課となり、之を機に之迄対抗競技部の一部であった軟庭部が体育会の部に昇格し私が初代監督に選任された。監督といっても自分の仕事を持つ、所謂サラリーマン監督であり、戦後の混乱期自分自身が食うや食わずの苦しい時代であって却々部の面倒を見ることも出来ず部員諸君に本当に申し訳なく思っている。然し監督生活15年の後半は仕事もなんとか軌道に乗り日吉のコートにも週1,2度は顔を出せる様になった。私の京橋の事務所には部員の人々が絶えず出入りし、「軟庭クラブ」の異名迄頂戴、又中には私の仕事のアルバイトをしてくれる方々も多くなり公私共に皆さんとの御付き合いも深まり十数人の方々の媒酌もさせて頂いた。思えば楽しい時代であったと思う。
昭和41年監督を辞任させて頂き、何かほっとした気持ちになり鎌倉の家の近くの有名な故熊谷一弥氏のコートに娘をお願いに行った処、熊谷さんから、君も硬球をやれと言われ本当のお義理で始めたハードが病み付きとなり遂に熱中し2年目で鎌倉トーナメント、オール神奈川の壮年に優勝、毎日トーナメントで第3位となり全日本に推薦(全国20組に厳選)され敗れはしたが、50余歳となり軟球からの転向者としては先づ先づと自己満足している。
10年程前、仕事も第1戦を退いた為週2,3日は近頃上達している奥様連中を相手に相変らずテニスを楽しんでいるが、昨秋鎌倉で開かれたオールドベテランのミックス大会に私のクラブ某夫人と出場し往年のデ杯選手、川地氏の組を破り第3位となった事は良き老後の1頁を飾ったと思っている。
思えば戦争を挟み60年テニスをやって来た訳で、私の人生にとりテニスがどのような役割を果たして来たか否かはわからないが、少なくともマイナスではなかったと思っている。1番良かったと思うことはテニスを通じて多くの方々との心の触れ合いであり、得難いものとして生涯大切にして行きたいと思っている
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“ソフト・テニス”の響きよさ
昭和34年卒(経済ジャーナリスト)
三 戸 節 雄
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| 「ソフト・テニスは日本、韓国、台湾だけのスポーツではなく、世界のソフト・テニスになりましたね」と言うアメリカの女子選手の声を聞いた時は嬉しかった。
「ソフト・テニスの魅力は何ですか」と、今度はこちらから問うと、すかさず「老若男女を問わず入りやすく、すぐにもダブルス・ゲームが楽しめ、しかもテクニックとメンタリティの上でこれ程限りなく高次元を求めうるスポーツはない」と言う答えが返ってきた。重ねて、「ソフト・テニスの言葉の響きはどうですか。良いのですか。それとも奇異に響きますか」と尋ねたところ、「“ソフト”の響きは現代的に洗練されていますよ」とこれまた嬉しい言葉がはね返って来た。
この会話は、さる8月23日から27日までの5日間、名古屋で開催された「第6回世界軟式庭球選手権大会」において、たくさんの外国人選手にインタビューした中のひとこまである。
1975年(昭和50年)に第1回世界選手権大会がハワイで開始されて以来、ソフト・テニスは着実な歩みをたどり、日本で始めて開催された今大会には、10カ国(日本を含めて)150余名の選手が参加した。日本・韓国・台湾の他に、アメリカ(ハワイ及びカリフォルニア州)・フィリピン・香港をはじめ、はるかアフリカのザイールから、又ブラジルから、ベネズェラから、めずらしやカリブ海のドミニカからも選手団がやって来た。
民族色豊かな大会の会場で、又宿舎のホテルでの朝食夕食のひととき、“ソフト・テニス”はあちこちで心地よく響いていた。
そうなのである。アメリカの女子選手ばかりではない。どこの外国選手もごく自然に口にする “ソフト・テニス”こそ、長らく「軟式庭球」の国際大会で使ってきた名称なのである。その名称が今回の大会ほど外国人はもちろんのこと、我々日本人の間でも違和感と言ったものがなく、なにやらフレッシュな響きをもって受け止められた事はない。
それは何故なのだろうかと、今大会の広報委員長である西村信寛氏(昭和36年卒)と話し合った。私は今大会において西村氏の下で広報委員を仰せ付かったなである。
いまや“ソフト”流行の世の中である。コンピューターが家庭にまで普及する時代となって、コンピューターの利用技術の総称であり人間の頭脳によって構築されるプログラムそのものである“ソフトウェア”の重要性は日増しに高まっていく。“量より質”とか、“物より心”とかが声高に叫ばれる中にあって、“ハード”(硬い)よりも“ソフト”(柔らかい)の方が、人間の感情を高め豊かにする響きと内容を備えているのは明らかである。
“ソフト・テニス”の響きのさわやかさ、イメージのよさの背景には必ずや、「情報社会へ向かってのソフトウェア定着」があるに違いない、と私が強調すると、コンピューターの専門家でもある西村氏は「フム、フム」とうなずいていた。“ソフト・テニス”に新しい時代が開けてきたことを話し合い、「世界のソフト・テニス」への深慮遠謀をめぐらす時期の到来を確認し合ったのだった。
―卒 業 生 の こ と ば―
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「も う 一 息」
主将 末 森 敦 |
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卒業するにあたり、この場を借りて書きたい事は沢山ある。部の雰囲気、練習方法、試合の進め方、その他もろもろ。
しかし、私が主将としてこのどれも満足のいく結果をもたらす事が出来なかった今、私がこのような事について書いても、何のたしにもならないと思う。そこで私の4年間のテニス生活をささえてくれた言葉を記す事で私のアドバイスとしたい。
それは、「もう一息」
もう一息と言うところでへたばっては
何事もものにならない
もう一息
それをもう一息
それに打ち克ってもう一息
もうだめだ
それをもう一息
勝利は大変だ
だがもう一息
である。この「もう一息」を読んでいくうちに何となくやれそうな気がしてくるのである。人より一寸努力することは簡単であるが、その努力を積み重ねていく事はなかなか出来ない事であると思う。実際、「勝利」は大変なのである。まして「優勝」はもっと大変な事なのである。この「勝利」への大変さを十分認識し、部の為だけでなく自分の為に努力していってもらいたい。
最後に、部長先生、監督を始めOBの皆さん、現役諸君、大変お世話になりました。ほんじゃまた。
(ゼネラル石油就職)
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態度はとっくにセンスフル
主務 荘 司 康 友 |
低迷している我部にあって、昨年最上級生中心のメンバーで臨んだ全日本大学対抗の戦績は、諸先輩方の間でも明るい話題の一つであったと聞いています。地方の新聞や、軟庭関係の雑誌でも「伏兵」、「ダークホース」とか、「番狂わせ」等の、本当にありがたい形容を沢山頂きました。秋になり、冬になり、あの夏の日が思い出になりつつある今日この頃は、思うのです。「なんで優勝できなかったのだろう?」と。そして、その答えも同時に出てきます。それは、「俺達が優勝しちゃってもいいの?」と言う気持ちが多少なりとも皆持っていたからなのでしょう。
高校球児が、甲子園の優勝を目標にしている様に大学の体育会の部員なら、インカレ優勝を狙って自らを鍛えなければならない。常にインカレ優勝を目指している日大や、日体大を見て、「あいつらは、脳味噌まで筋肉になっているんだから強いわけだ」などと言う発想は、弱者の戯言に過ぎない。「レギュラーになる」とか「リーグ戦で勝ち越そう」とか「関東ベスト8」などと言うのは、多少の目安でこそあれ、目標であるべきでないと思うのです。校内で勝とうと負けようと、センスがあろうとなかろうと、調子が良かろうと悪かろうと、そんな事はどうでもいい。インカレで優勝することをめざして頑張ればよいのです。
ここで大学生の皆さんへ、
前記した事は、私の4年間を終えての感想であり、反省です。
皆様の中で、「インカレ優勝を目標にするなんて、とんでもない」と思っている人がいるなら、今すぐこの目標に向かって練習してください。そして、結果がどうあれ、まず心構えは「インカレ優勝」を全員が目標とする慶大軟庭部であってもらいたいと思います。
(キャノン就職)
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「時 間 で す よ !」
山 路 武 史 |
早いもので、気がついてみれば小谷野が3年生になっていた。とても信じられない事態だが、よく考えると私が5年生なのだから無理もない。
最近よく考える。来年4月から働かなければならない。それはそれでまた新しい世界の始まりである。しかし、学生時代との決定的な違いが1つある。それは時間である。自分の自由に使える時間が大幅に少なくなるであろう。それは必然であり、受け入れなければならない現実である。だからこそ今感じる。時間は無限じゃないと。時間は有効に使わねばと。
これまでの学生生活を振り返ると随分もったいない時間の使い方をしてきたと思う。その最たるものに、休憩と言うのとは別に「時間をつぶす」と言う概念がある。愚の骨頂である。(あまり深刻に考えると、かえって疲れてしまうが)
ところで、最も有効に時間を使う事が出来たのは、やはりテニスの時だろう。反省すべき点はいろいろあるが、これ位は合格点をあげたい。昔、あるOBの方から「とにかくテニスだけ一生懸命やれ。あとの事は手を出すな」と言うような事を言われた事がある。しかし、私はこの意見には反対だ。 興味があるものにはどんどん手を出すべきだと思う。もちろん私たちは体育会でテニスをやっているのだから、その他の興味によってテニスに集中できなくなるような事は許されない。もしそれ程までも興味を持てるものがあるならテニスをやめるべきだと思う。とにかくテニスに対してハンパはやめてほしい。(私にはテニス以上に興味を持てるものがそう沢山あるとは思えないが)
と言う事で私が後輩諸君に言いたいのは、テニスが出来るという喜びと、テニスを思いっきり出来る時間が限られたものである、と言う事をしっかり認識してほしいという事なのである。特に1年生の諸君、あと3年もあると思っているかもしれないが、それもまた限られたほんの短い時間である事を早く感じて欲しい。2・3・4年生も同様である。とにかくみんなに頑張ってほしい。
最後になりましたが、米田部長先生、内藤監督はじめ諸先輩方、同輩後輩の諸君、4年間本当にありがとうございました。とりあえず、もう1年よろしく。
(5年生だよ〜ん)
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我 想 ふ
井 本 敏 彦 |
強いチームになる為には、
1.より高い、共通の目標を持て。
慶大軟庭部と言う組織の目標と、個人の目標を一致させる。
それには、みんなが勝ちたいと思うこと。
2.自分がやらなければ誰がやる。
各自がやる気を持ってぶつかれ。
3.耐える力を持て。
繰り返し、繰り返し、訓練すべし。
4.役割分担をしっかりと。
各自の特徴・性格などをふまえて各自が責任を持つ。
5.助け合いの精神を持て。
6.話し合う。
問題点があれば話し合い、自分を変え、現状を変え、その態から脱するべし。
7.声をかけあう。
あいさつをする。気持ちを通じ合わせる。
以上、慶大軟庭部での4年間をふり返ったと共に、会社での新人研修で得たことを基に、“強い チームになる為には”と言うことで7つの項目にまとめてみました。
そこで、後輩の皆さんにお願いがあります。君達も各自慶大軟庭部を強いチームにする為にいろいろ考えてください。しかし、考えるだけでは人間進歩しません。考えたなら、次は実行してください。私のように、終ってから考えてもどうしようもありません。今考え、行動してください。強いチームになるために頑張ってください。
それより山路君、「やっぱり男は女が必要ですね」
(オリンパス光学就職)
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「私 の 人 生 観」
須々木 健 |
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