就 職 シ ー ズ ン 雑 感
― 4 年 生 の 諸 君 に ―


                                部 長  米 田  治       

今年も就職シーズンは峠を越えた。就職状況はわが軟式庭球部は勿論、私のゼミも近来になく好調だ。わが国有数の大企業、高名な新聞社等々の名前が少しオーバーに言えば陸続と並んでいる。学生諸君が嬉しそうに「……に就職がきまりました」と報告してくると、「よかったね!……」と僕自身も彼等と喜びを共にするのであるが、それでも何か素直に喜べないわだかまりの思いが、心の中にこみ上げてくるのを禁じ得ないのである。
このわだかまりの思いはいささか複雑でうまく表現できそうもないのだが、思い切って強引に整理すると次の2つに要約できるのではなかろうか。その第1は何も塾生だけに見られるものとは思わないが、特に彼等に顕著な「寄らば大樹の陰」式の大企業中心主義的な安定志向、第2は現在の自分たちの就職の成功を、もっぱら自分自身だけによる成功としてとらえるエゴイスティックな傾向とでも言い得ようか。
第1については、現代ほど変化の激しい時代はないのだが、僕のように歴史を専攻しているものからいえば、近代から現代への約1世紀にもわたる転換期の最終段階にあたるのが現在なのであり、それだけに転換への動きは加速度を増し、いっそうの激しさを加えているのである。昨日の亭々たる大樹は明日には、ぽっかりとした大きな空洞をもった、枯死寸前の老木となり、何もなかったその根元にはみずみずしい別の若木が勢いよく成長している。過去と現在、現在と未来の新陳代謝の速さ、すさまじさ…時代の転換はつねにそうだが…現代を凌駕するものはないといえよう。このような時代に「寄らば大樹」とでもいえるような大樹とは一体何であろうか。こんな疑問を抱く塾生諸君がいてもよいのではないか、いると信じるのだが……。そして激しく渦巻く現代社会の最先端を行く潮流に身を投じて、思い切った活動をしてみたいとの意気込みを塾生の中に見出したいのであるが。歴史学における文明理論に「辺境理論」とよばれるものがあり、要するにそれは、次の時代の文明は現在の文明の中心から遠く隔たった辺境地帯から生まれてくるという主張だが、それを想起せずにはおれないのである。
第2の点については、われわれ人間の社会はすべて、先に行った人々、現在いる人々、後からやってくる人々からなっている歴史的な社会なのであって、現在ここにいる人々は大なり小なり先に行った人々の遺産のお蔭を蒙っている。塾生諸君の就職における成功も、義塾の先輩たちの目にはさだかに見えない努力の蓄積によること大なのである。先人達と現在のわれわれとをつなぐ目に見えないきずなを意識してこそ、自分の先人からうけた恩恵を後からくる人達へ伝達しようとすることができるしそうすべきなのだ。これこそが人間的な社会ではなかろうか。
書き進んで行くうちに繰り言めいたものになってきたようだ。それでも意のあるところをくみとって欲しい。何れにせよ就職の成功おめでとう。


(昭和61年10月28日記)

 


構     想
                         監 督  内 藤  享 佑

「全日本」を狙おう、7年以内に全日本制覇が可能だ、その為の具体的長期計画を練って、実行しよう!と、演説を最初にぶってから、その「全日本」を取れないまゝ、7年目のシーズンもこの程終った。7年前、はからずも、我が軟式庭球部の監督という大役を委嘱され、非才をかえりみず、お引き受けした頃、昭和55年度春のシーズン開始直前に、目標管理の重要性とその手法を学生諸君が理解し、自ら実行できるようにしたいと考え、私の勤務するダイナポット鰍フ本社会議室で、ミーティングし、勉強会を催したとき、目標設定の一例として私が論じた我が部の長期構想(私案)の結論である。
1部への復帰も、六大学優勝も、関東、東日本、全日本等での活躍も、我々の終局の目標たる全日本制覇に向かって、1歩1歩進む過程にあるものであって、それら自体が本来の目標ではない。「全日本制覇」を胸に秘めて、本気になって、それを取りにゆかねばならぬ。そしてその目標を達成する為に必用な、具体的なアクションプログラムを組んで、実行しよう。と、私の長期構想をぶった。
その構想の種々要件の1つとして、「資質ある人的資源の確保」を強調した(紙面の関係で本稿では、他の諸要件は省略)。即ち、@ 外部からの人材を確保する為のスカウト体制の樹立、強化。 A 塾高(日吉、志木)部員の指導育成と大学進学後の我が部への入部率を高めること、である。
本塾への入学が非常に厳しいという事実はあるものゝ、種々の策を練り可能性を追求すれば、必ず道は開ける……が私の持論である。
(1) 現状の、法、商、工各学部の○註推薦入学制度を最大限に利用する。例えば、該推薦の指定高校は全国に数百校との由、そのうち、軟式庭球が盛んで、且つ、我々がコンタクトを持てる高校を最低50校位は作ることが出来る筈、1校当り平均10年に1名の軟式庭球選手がその推薦を受けられる(軟式庭球選手は概して学業成績が良好)と仮定すれば、毎年5名ずつ人材を確保することが出来ることになる。コンタクト校が100校出来れば毎年10名、20年に1名としても最低5名確保できる計算となり、嬉しい夢が拡がる。
    (註)指定校において、学業成績優秀(5点法で平均4点以上)で、スポーツ、文化等の分野で活躍したもので、学校長の推薦を受けた学生。通常の入試を経ないでほぼ自動的に入学許可される制度。
(2)その推薦入学制度とは別に、入試受験への勧誘活動も、従来より行われてきたものであるが、もっと組織的なものとして強化することも重要な策の1つである。全国の高校軟式庭球選手の中には、中央、各地で活躍しているもの、目立つ存在ではないが実力があるもの、素質があるもので、学業成績優秀な学生が必ずいる筈。各県に少なくとも数名はいる筈(決して無理な仮定ではない、むしろ少なすぎる!)で、そのうち仮に1名づつ本塾入試に勧誘出来れば、毎年50名受験し、1/3が浪人して再挑戦するとすれば、1/15の合格率としても、最低3〜4名確保出来、各2名づゝ勧誘出来れば、5〜6名は夢ではない。
つまり、これらの単純な計算でも明らかなように、潜在的可能性は十分あるのであるから、あとは、実現させる為の手を打つのみ。我が三田軟式庭球倶楽部会員の諸先輩、OB諸氏によるスカウト網を全国に張りめぐらすこと、たとえば、各県 1名の委員を選任し、委員を中心として、情報の収集、目標高校とのコンタクト、人脈の活用、勧誘活動等々を確実に追行できる体制の確立が望まれる。受験校で、受験を目指す学生は1〜2年で部活を中止するものが多いので試合記録外に宝が埋もれているケースが多々あり、高校1年生の頃から発掘し、フォローアップしてゆくことが非常に重要な課題である。
私の7年での全日本制覇構想とは、7年前、私が監督になった年、当時高校生の有望(技術、学業成績優秀)な学生を発掘し、フォローアップしてきたとすると、その学生は7年後の今年丁度大学4年生になっており、以下同様にして、確保した部員が各代10名以上、そして塾高1年生より育ててきた(7年間鍛えれば一流になれる!)部員を加えて、今頃は、我が軟式庭球部の全盛時代が到来し、全日本制覇に手が届いているはずであった。これが7年説の所以である。この構想の実現を果たすことが出来なかったことは、誠に残念、力が及ばなかったことを申し訳なく思っている次第であります。
口で語るほど簡単、楽観的のものでないこと位は十二分に判っていますが、手を打たなければ何事も起こらぬことも明白で、じり貧的将来が心配。夢をいっぱいに拡げて、チャレンジすべきと信じ、このあたりで、もう1度原点に立ってじっくりと長期構想、計画を立て、全日本制覇への道づくりをすべき時であると思考します。
幸い、昨今、諸先輩のリードのもとに、三田軟式庭球倶楽部の組織活動の活性化への手が、理事改選等に、着々と打たれております。これを機に目標に向かってのアクションプログラムを明確にして、組織的に、着実且つ活発に実行する……斯様な倶楽部活動の実現が手の届くところにあることを感じております。
強い、本塾軟式庭球部が実現し、全日本制覇に手が届く日が1日も早く来るよう、諸先輩、OB諸氏の御指導、御支援を切にお願い申し上げます。

 

 


特 別 企 画
…こ の 人 に 聞 く …
偶     感
                         日本学生軟式庭球連盟会長
                       (昭5卒) 安 友 省 三

第3回アジア学生軟式庭球選手権大会は日本、韓国、台湾、3チームの参加の下に11月10日から4日間に亘り東京駒沢体育館において開催され、4つのタイトルを日本は女子団体、男子個人、韓国は女子個人、台湾は男子団体とそれぞれ優勝を分かちあった。
日本男子は緒戦に於いて台湾と対戦しそのサービスに敗れ、第6回世界選手権と同じ轍を踏んだことは残念であった。インドアであることからして台湾は世界大会で成功したカットサービスを武器として戦ってくることは既定のことであり、このサービスを打破しない限り日本の優勝はあり得ないと言われても過言ではなかった。日本学連を代表するトッププレーヤーが人間が工夫したサービスを返球することが出来ないなんて不可解なことであった。それが現実となってしまったのである。
第6回世界大会の団体戦が全部終了した夜、名古屋のホテルで第3回アジア大会について日、韓、台の代表者が集まった席上韓国の役員から台湾のカットサービスはゲームの雰囲気を毀す者であり満足なプレーが出来ないから禁止すべきであると発言された程韓国の役員にとってカットサービスは憎いものであった。その心情は日本にとっても同様であった。角力や柔道では封じ手というものがあるがテニスには封じ手はない。とすればこれを打ち破る返球の方法が工夫されなければならない。その対策の甘さが再度現実となってしまった。
私はカットサービスを奨励する積りはないがカットサービスを回避せず進んでこれと取り組みリターンする方法を工夫してもらいたいと願っている。
一方現在多用されているイースタンサービスをより効果的に強力なものにする方法を研究すべきだと考えておる。日大川崎の強烈なサービスが相手を苦しめたことを思うとそのサービスが自由自在に狙ったところへ入ればその効果は偉大なものであると思う。サービスはいつも決まった所から決まった地点に入れるのであれば何の効果もない。時にはポジションを移動し相手を牽制しながらその弱点を衝くなど変化をもたすことこそサービスの有利性をフルに活用することになるのではないか。サービスは何もイースタンに限定する必要はない。リバースサービスもある。リバースの方がボールに変化を与えることができるのでより効果的な場合もある。台湾の選手は6時間の練習中3時間をサービスの練習に充てたと言われている。プロゴルファーはフォームを変えると数万個のボールを打つという。軟庭のプレーヤーもそれ位の努力をストロークの完成に費やしても無駄ではない。
今の学生のテニスは素直で奇麗で癖が少ない。基本が完成してくれば自分の性格にマッチしたテニスをマスターすべきである。うまいテニスより強いテニスを目指すべきである。相手に好かれるテニスでは勝てない。相手に嫌がられるテニスは強い。
一流と言われるプレーヤーは皆秀でた得意の技を持っている。それは永年に亘る練習の結果身に備わったものである。サービスであれスマッシュ或はボレーであれポイントゲッターとなっている。この特技は努力で完成できるものである。玉も磨かなければ光らない。
塾も早く2部に昇格し、続いて1部へと堅実に歩み続けてもらいたい。そして日本代表として活躍されることを期待している。
この度のアジア大会に三田クラブから過分の寄付をいただきご厚情まことにありがたく紙上から部員各位に感謝いたします。




テ ニ ス 雑 感
                         (昭8卒) 小 野 晴 男

私とテニスとの付き合いも大分長くなりまして約70年にもなろうとして居ります。種々雑多のことに遭遇し此の眼で見て来ました各種のコート、様々なプレーヤーの掛け引き等、其の場、其の場の光景がフィルムに焼き付けられて私の頭脳の引出しに格納されて居る感じがします。長い年月のフィルムですから其の数は何百枚或いは何千枚と言う枚数になって居ることでしょう。此の中から何枚かを順序不同で取り出して文章に姿を変えて並べて見ましょう。先ず手近な所から並べて見よう。
私たちが入塾した当時は昭和の極く初期で其の当時の庭球部(硬式)は石井、田所をトップにして山岸、志村等の台頭もあり錚々たるチームではあったが早稲田のほうは福田、阿部、川妻、相沢、麻生等一流プレーヤーが綺羅星の如く陣容に比較すると未だ見劣りがしたものです。英国留学から帰塾した小泉信三先生が程なく庭球部長に就任され早稲田を目指して猛練習を始めた訳です。先生は授業が終わり研究室の仕事も終ると当時大森駅近くにあった4面のコートに廻られ太目の大きなステッキに両手をもたせてスタンドに腰を下ろして若手の練習ぶりを熱心に見守って居りました。選手も先生が見て居られるので熱心な練習を毎日続け、眼に見えて強くなって行きました。僅かの間に早稲田を破る処迄上達しました。「凡ゆる練習は不可能を可能にする」と言う先生の有名な言葉が実例で示された訳であります。強いチームは生まれるものではなく、造られるものだと言う事を知りました。
強いチームは作られるものである例をもう1つ挙げて見よう。終戦後国際テニス連盟から離れていた日本が復帰を許されてデ杯に戻った当時のことですが、日本は東洋ゾーンに出場してフィリピンとか印度の壁が厚過ぎて東洋ゾーンから抜け出ることが出来ない時代が長く続いたのですが、日本の代表は早稲田の学生であった宮城・加茂組がデ杯戦の後行われた全米ダブルス戦に出場し、見事優勝したことがあったのです。此の時のデ杯監督が今は故人になられた早稲田の福田雅之助氏であった。福田さんは加茂・宮城の両選手をゼネラル物産の室内コートで毎日スマッシュを100本練習させたとのことです。終には100本中97,8本入る様になったと報告されています。東郷さんの  100発100中の砲一門は100発1中の砲100門に勝るとの言葉を地で行った様な練習があった訳です。世界4大トーナメントである全米大会に優勝するためには此の様な長期な苦しい訓練があった訳です。1955年アメリカからデ杯を奪還した豪州チームを日本のデ杯監督原田武一が日本へ招待し田園コートで日本チームを混じえて模範試合を行ったのですが、ローズウォル・フォード選手のテニスは我々から見ると神技としか思えないテニスで舌を巻いたものです。ローズウォル・フォードの外にもセッジマン・ニューカム等を加えて史上最強チームが豪州に生まれたのであるが之も造られたチームであった。
ウインブルドン大会を近代テニスの紀元元年とするならば100年以上経過した年月の内にはこういう例は探せば外にもあることと思われます。吾が最も愛する慶應義塾軟式庭球部も之等の例にならって今日からでもこう言う練習に入ってもらい度いと思います。
以上は実技の例の話ですが以下心の方の問題を少し考えて見ることにしよう。最近私の心の一隅に執念と言う言葉がチラチラして離れない。今頃執念なんて言う言葉があるのかなと思う人が多いと思われるので此の言葉を使用してよいのやら悪いのやら迷っている間に61年3月16日、全日本室内テニス選手権大会で女子シングルスに優勝した雉子牟田嬢の言葉として米国遠征で考えさせられたことは勝つという執念が外人にはある、それを肌で感じましたという談話が新聞に掲載されていた。その他大相撲大阪場所の新聞の記事の中にも力士の勝ちへの執念と言う言葉がふんだんに出てきましたのでテニス意外にも堂々と使われる様になったと思われる。
執念がなければテニスでは勝つことが出来ない事例を少し挙げて見よう。
日本が硬式テニスを採用した初期元年か2年だったかと思われるが、全日本選手権大会に優勝した東京高師の太田芳郎選手がデ杯戦の代表で海外へ遠征した時、イタリーのデ・モルプルゴ及びデ・ステファニ両選手と対戦した時、其の時使用されたコートは大理石を粉にしたものを敷きつめたもので、コート面はキラキラ光って眼は痛いしコートは太陽に焼かれて熱いし、相手は欧州でも有数なイタリーの強豪で、母校のクレーコートでプレーする様な訳には行かず太田選手は1本打っては何クソ、2本打っては何クソと日本語で掛け声を掛けて試合をしたと当時の新聞に報ぜられました。
又別の例では昭和26年の全日本テニス選手権大会では全米第1位のラーセンを招待して行われましたが決勝では予想通り慶應の隅丸次郎氏との間で行われました。隅丸氏はラーセンを倒すのにはラーセンが20本打って来たら当方は21本打って行くと公言して終に優勝してしまいました。間違のない立派な考えだと私は今でも思っている次第です。むずかしいことは言わなくても1本余分に打っていれば勝つなんて立派な考えです。テニスが上手くなるにはサービス・ストローク、立派な戦術が必要なことは勿論ですが、テニスに勝つためには之等のものを駆使した不動の執念の裏打が無くてはかなわぬものと思われる。こういう考えは内藤享佑監督さんなどはしっかりしたものを持っていらっしゃる。身近に居られて何彼と御指導を頂いたりアドバイスを頂くことの出来る現在の選手諸君は幸福だと思います。
新学期を迎え格段の練習に励むことを期待します。                       妄言多謝


 

 

 

私 と 軟 式 テ ニ ス
                                      昭和60年度全日本一般女子ランキング第1位
                          昭和60年度皇后杯優勝
                            古 屋 千江美(東芝姫路)
 私と軟式テニスの出会い………それは、小学校5年生の頃だったと思います。小学校と中学校が道を挟んで、となり同志にあったのです。
これと言って、テニスが好きなわけでもないが、いつの頃からかわからないが授業が終ってから、中学校の校庭のすみで中学生がテニスをしているのを見てました。
その時からすでに、私の中に軟式テニスの存在があったのでしょう。私の中学校は、全校生徒が100人にも満たない本当に小さな中学校です。だから体育祭なんかは、いつもとなりの小学校と一緒にします。却ってこの方が楽しいかもネ。
中学に入学すると、女子の部活動と言うのが2つしかなかったのです。軟式テニスと卓球と……もちろん私は軟式テニスのほうを、選びました。中学の時は、2年生の時県の新人戦で優勝、3年の県体で3位の結果でした。
中学3ヶ年が終って、高校進学の時自分としては硬式テニスの方がやりたかったのですが中学校の先生や、高校の先生の勧めにより別大付属高校に進学することになり、自分なりに胸をはずませて入学しました。
3ヶ月過ぎる頃になると、「どうして、別大付属なんかに来たんだろう。」と、別大付属に入学して、テニス部に入り、毎日考える事はこの事ばかりでした。
授業が終わり、一目散にコートまで走って行き、照明設備の不十分なコートで夜の8時過ぎまで練習。毎日、毎日の授業が終わるのが怖かった。1日中勉強していてもよいぐらい……。
苦しい練習が終わっても家に帰ると、中学校の頃とは違う。何もかも親に頼ることばっかりだったので、急に違う環境の中へ、ポツーンと置き去りにされたようで、自分にすごく孤独を感じていました。今まで家では、全くと言っていいほど親にまかせきりであったせいもあり、私がどんなにか親に甘えていたかを本当に、この時身にしみて感じました。
高校に入学するまでは、「よし別大付属に行っても頑張るぞ。」と張り切っていたのですが毎日、毎日厳しい練習に弱音を吐きかけていたのです。よく練習中に「今ごろ県立の高校に通っていれば、毎日こんなにつらい思いはしなくてすんだのに……。」といつも思っていました。心の中ではいつも「テニスなんかやめてしまいたい」の言葉以外はありませんでした。厳しい練習についていけなくなったのでした。自分だけが、なんだか取り残された感じになったのでしょう。そんな状態がしばしば私を襲ってくるのでした。
でも先輩や友人を見ていたら自分がすごく甘えているように思えました。「こんな事じゃーいけないんだ。自分は何をしにこの学校に入って来たの……。」「それは全国制覇することなんだ。」と心の中でいつも自分にいいきかせてきました。
今がんばっていれば、この苦しい厳しい練習をがんばっていれば、きっとよい結果が出てくると!
夏の熱い時の沖縄での九州大会、沖縄でもまれにない暑さの中での試合でした。団体戦は、余りよい結果ではありませんでした。個人戦で私は2位をとる事ができました。
でも監督は、喜んでもくれませんでした。ましては怒りの方が大きかったと思います。自分では2位でもすごいと思っていたのに……。
3年の時、初めてインターハイに出場することができました。結果は32本で終わってしまいました。私が勝負に負ける時はいつも受身になっている。そんな時自分の甘さが出てくる。3年間テニスをやってきて、その結果がこんな形でしか残らなかった。この時点で、私はテニスをやめようと思いました。何の為に3年間やってきたのだろう。毎日毎日休みもなく厳しい練習に耐えてきたのだろう。
自分の事がすごく情けなかった。
あっと言う間に高校3年間が終り就職か進学か悩みました。今だから言えますが、本当は、体育の先生になりたかったのです。中学の時から体育の先生というものにあこがれてました。これも私の夢の中の夢に終わってしまいました。高校卒業後私は、軟式テニスの名門である東芝に入社することになりました。
本当言うと私、テニスについて余り感心がなかったのです。トッププレーヤーの人の名前すら全くと言っていいほど知りませんでした。だから東芝に来て軟式テニスの本を見たとき、あー、本に載っている人がいると思いました。今思えばとっても恥ずかしい事だと思います。
両親と離れて4年目の寮生活、はじめての仕事と不安でいっぱいでした。初めのうちはなにがなんだかわからなく、仕事の方も覚えるのが必死でテニスと両方におわれてました。高校の時とは練習量がちがうし内容が濃いのです。練習や仕事のことであっと言う間に月日は過ぎてゆきましたが、3年目の秋夢にまで見ていた皇后杯をとることができました。全日本クラスの大会で、初めて優勝したのが皇后杯だったのです。ウソみたいに嬉しいし、自分より周りの人達の方が喜んでくれた事が何よりもうれしかったです。
目標のないところに努力は存在しないと思います。少し大げさではありますが、生きがいは人が情熱を注ぐその中に苦労とともに見い出す喜びもあると思いますし、決して目標は夢であってはならないと思っています。
目標とは達成すべきその結果であり、いい結果を出す為にも目標に向かって1球入魂で、1戦1戦全力を尽くし、悔いの無い試合をしてゆきたいものです。
これからみなさんもがんばってください。


 

 

 

 

 

 
 素 晴 ら し き 慶 大 軟 庭 部
                        東日本・関東学生軟式庭球連盟
                       理事長 弘 松 昌 樹

私は学連に2年の春から入ったわけですが、この2年半を通して学連で色々なことを学びました。先ず第1に、 「人間は1人では何も出来ない」という事です。周囲の人、先輩、後輩、そして友人と様々な人々の協力のお蔭で今の自分があるのです。クラブの皆が血眼になって、全精力を傾けている関東リーグ、インカレも、あの大会が成立するまでにどれだけの人々の援助が毎年あるのか、驚くばかりでした。私自身も、安友会長、金森会長、内藤監督、中津助監督、その他、各校の監督、学連そして慶大OBの方々、メーカーの方々によって、どれだけ成長する事ができたか、本当に感謝に堪えない気持ちで一杯です。そして、つくづく感じたことは、学蓮という外回りを強いられてきたことも多く影響するのでしょうか、慶大軟式庭球部の中にいるときの居心地の良さ、これは格別のものです。古巣に帰ってきたというのか、何となく落着くのです。きっと部員1人1人、1年から4年、そしてOBの方々、皆が素晴らしい人達であるからでしょう。どこかに温かみを皆が持っていて、久し振りに会っても「ヨー元気か」と、直ぐに打ち溶けることができる、そんな雰囲気をもっているのです。
私自身は、この様にたまたま?周りに立派な人々がいらしたお蔭で、充実した学生生活を送ることができました。ですから最近よく思うことは、もう既にできていることかもしれませんが、部員の皆も、皆が皆にありがとうという気持ちをどこかで持ってやっていったら、そして上級生が下級生を常に見て1人1人の性格を生かして固定観念を持たず、芽をつぶさないよう実力を発揮できるよう、部を引張っていったら、きっと2部復帰の日も近いと確信しています。そして常に自分が陽の目を浴びているときは、どこかに裏方の人間が頑張ってくれているのだという気持ちを忘れないでいて欲しいと思います。軟庭というこんな小さな?世界でも、このような事をものすごく感じてしまうのですから私自身社会に出たら、きっと計り知れない人の縁というものを感じていくでしょう。最後に、誠に諸先輩の方々、同期そして後輩の皆さんありがとうございました。そしてこれからもよろしくお願いいたします。


(昭62卒)

 

 

 


O B 通 信

 

関 西 支 部 に て「ゴ ル フ コ ン ペ」
                           「す き 焼 パ ー ティ ー」 開 催!
                   ・・・参加OB28名・・・

60年の秋に野球部が13年目の六大学優勝、又61年のお正月には、蹴球部のラクビー日本選手権優勝と塾体育会にも「陸の王者」復活のきざしありといった昨今の塾体育会の動きであります。
わが軟庭部もその隆盛?の再建を期すべく現役選手諸君の奮闘に期するところ大なるものがありますが、同時に OB各位の絶大なる支援、援助の重要なことも、言うに及ばずといった所であります。
そこで関西にいらっしゃるOBの方々から久しく跡絶えておりました関西でのOB会をとの声大なるものがありまして、松田先輩(S31卒)の紹介で名門(日本で1番古い)神戸ゴルフクラブ“通称六甲ゴルフ場”にて「関西三田会コンペ」開催とあいなりました。
世話人代表といたしまして岡本政一(S29卒)、久米宏(S30卒)先輩の両人にお願いし、名古屋以西約80名のOBに対し、ダイレクトメールの御案内を申し上げました所、何と返事を頂いたのは8割を越し、さらに東京方面におきましては29年卒の風間先輩を中心に御連絡をいただきました。
コンペは4月19日(土)の春の良き日に設定したのですが、早朝より雨は降らなかったのですが、あいにくの天気、ゴルフ場は六甲山の山頂、ガスが出て、ティーショットをすれど玉の行くへはどこへいったのか玉に聞くしかないといった状況でありました。しかしそこはさすが軟庭のOBの方々わきあいあいに内に、その状況もジョークとして無事終了いたしました。このコンペは楽しい思い出として語り継がれていくであろうと信じております。
(戦績及び参加者は別表をご覧ください)
コンペ終了後は神戸肉での「すき焼パーティー」。パーティー開催にあたりましては、鎮目大先輩(S8卒)より、感慨深い感謝のスピーチ(鎮目先輩はのどの手術をされていて、パイプを通してスピーチでした)から始まり、懐古にしたるパーティーがすき焼のにおいよろしく開宴されました。パーティーは話しつきることなくつづき、最後はカラオケによる恒例の塾歌、応援歌と肩を組みながら大声をあげての大合唱。さらには、現役諸君への激励と、塾の発展と、先輩諸兄の健勝、健闘をエールによって祈願しお開きとなりました。
現役諸君もこの先輩のパワーと人脈をもっと活用し我が塾軟庭部の発展への努力を今以上に努力して欲しいと思います。関西を中心としたOB活動もこの機を契機に、関西復権を目指し頑張っていきたいと思います。
最後に事務局より、参加された先輩および参加されなかった先輩諸兄に対し、御協力のお礼を文末にさせていただき御報告にかえさせていただきたいと存じます。


(事務局代表S48卒 下岡得二)


☆ ゴルフの成績は下記に通りです。
   優 勝  石 田 幸太郎(S42卒)
   準優勝  伊 藤 信 雄(S30卒)
   3 位  大 賀 茂 幸(S55卒)
☆ 参加者は下記の方々です(敬称略)

鎮目 俊之(S 8卒) 川野 忠男(S17卒) 風間  清(S29卒) 岡本 政一(S29卒
柳本 公典(S29卒) 井上 眞治(S29卒) 久米  宏(S30卒) 伊藤 信雄(S30卒)
松田英三郎(S31卒) 諏訪  弘(S32卒) 木村 行宏(S36卒) 倉田 博之(S36卒)
山本  連(S41卒) 林  哲夫(S41卒) 石田康太郎(S42卒) 川口十二郎(S42卒)
石田幸太郎(S46卒) 慈幸 義雄(S46卒) 弓場 行雄(S47卒) 下岡 得二(S48卒)
近重 博義(S50卒) 植野 康晃(S51卒) 藤原 清隆(S52卒) 下岡 伸行(S53卒)
片野 次朗(昭53卒) 大賀 茂幸(S55卒) 垣本 耕一(S57卒) 吉田 省三(S58卒)

 
       
   

1987年部報目次へ

   
     HOME>お楽しみ>1987年度号