自 己 暗 示 で 克 服
岩 田 一 彦
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| 以前、何かで読んだことがある。「バッターボックスに入る前、誰もいない控え室に行き鏡の前に立って、目の前にいる自分に『打てる。絶対に打てるんだ。』と自分に言いきかせる。そうすることによって自己暗示にかかり打てそうな気がしてくるし、集中力が極限に達する。」巨人の王監督の言葉である。阪神ファンの私は、彼には過去何度となく泣かされてきたが、憎たらしい気持ちより、尊敬の念の方が強い。自分は弱いから、自分に言いきかせて自分を強くするしかなかったと言っていたが、こうすることによって、いかに自分の弱さを克服するかが課題であったらしい。
すばらしい発想だと思うし、多少の差こそあれ、誰でも経験のあることではないか。
試合で調子のいい時のことを思い出してほしい。そういう時は、どんな球も取れる気がする。好調の時は誰でもそんなもんだろう。この場合、どんな球でのとれる、攻められると思う。そう思うこと自体、自己暗示にかかっている証拠といえよう。一流を極めた人間と凡人の差はどこにあるかを考えると、苦境に立った時、どのような発想をするかであると思う。後衛であれば、不調のどん底にあればどこに打っても取られる気がするという時がある。こういう時、いかに好調時の精神状態にもっていくか。これが問題である。王監督は前述のように自己暗示を掛けて克服した。
本当に社会人としてやっていけるのか、という周囲の心配をよそに、私も実際一社会人である。現役時代、弱すぎた自分を克服して常に強く自分を保つことを心掛けて、この先生きてゆきたいと思う。
現役の皆さん、調子がいい時、それが自分の実力だと思わず、苦しい時にどれだけ出来るかと言うことを考えて、頑張ってください。
最後に、私の心は永遠に現役です。若く、そして新鮮。OBの皆さん、現役の諸君、長い間私を支えてくれて、ありがとうございました。
(興亜火災海上保険)
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輝 く 星 に !
桑 原 浩
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| 早いもので、体育会を卒業して以来、はや1年近く過ぎました。想い起こせば、楽しいことばかり。本当に充実した4年間を送らせてもらいました。下級生時代は、武蔵小杉の4畳半の下宿から、コート整備に遅れぬよう必死に通った2年間でした。あり余る才能とセンスを持てあまし、一時、開花しかかった選手生活も、いつの間にかしぼんでしまい、雌伏の時期でした。上級生になり、住まいもややリッチに、学芸大学駅の6畳+台所のアパートに移り、家庭教師、サウナのバイトの副収入で何とか生計を立てていました。同期の友人は、個性的な仲間ばかりで、練習後のつきあいも多岐にわたり、学生時代の生活の2本柱は、昼のテニスと夜のお酒でした。
主将の岩田は、全身これプレッシャーの固まりとなりながらも、部員を良く、おおざっぱにまとめ、副将の田部は、みんなのストレスのはけ口を一手に引き受け、マイペースでギャンブルに没頭し、将来の監督を目指す。高山は、六大学・学連に友達の輪を広げて、初心者の手本になり、秦野は、何度もあった退部の危機を、世渡りのうまさで乗り切る。福田は、淡々と自分の持ち分をこなしながらアフターテニスをエンジョイし、義平は、経験を積んだカラオケと、巧みな話術を武器に晩年は合宿所の主となった。
かくいう自分は、毎年夏の終わりには、劇的な出会いを経験し、1年ごとに人間的に成長してきました。卒業後、なかなか日吉のコートに足を運べないのが残念ですが、同期の皆も日本のどこかでがんばっていることと思います。のんちゃん、あきちゃん、かほりちゃんも立派な社会人になっていると聞いています。後輩諸君も、義塾の代表として、精進を重ねて、OB通信の内容を充実させて下さい。最後になりましたが、内藤監督をはじめ先輩諸氏には大変御世話になりました。改めて御礼申し上げます。野村證券の輝く星となる自分を見ていて下さい。どうもありがとうございました。
(野村證券)
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「心 の 支 え」――後輩の皆さんへ――
高 山 洋 司 |
皆さんには、心の支えになるものがありますか。私には、そうなるものがいくつかあります。
まず1つ、それは「友」をあげることができます。今まで知り合った友は、誰でもたくさんいることでしょう。しかし、今は………という人がいかに多いことか。自分が悩んだ時、苦しんだ時、気軽に連絡できる友がいたらたいへんすばらしいことです。そういった友を作ることができたのは、慶大軟庭部に席を置くことができたからと思っています。
もう1つ、それは「体力と精神力」をあげることができます。私は中学、高校、大学とスポーツに打ち込んできました。その結果何か苦しいことがあると「もっと苦しい人もいるはずだ。俺の苦しさなんかまだまだ。」と自分に言いきかせ遂に発奮剤とすることができるようになりました。今でいうと次の仕事へのファイトが沸いてくるといった感じです。それを培うことができたのも慶大軟庭部に席を置くことができたからと思っています。
最後に1つ、それは「恋人」をあげることができると思います。これは私がなしえなかった残念なことです。皆さんもこの点について弱い人が多いのではないでしょうか。恋人に溺れてしまうというのも少々考えものかもしれませんが、他の何よりも支えとなる、と思いますよ。慶大軟庭部で一生懸命やっていたからなんて言い訳はしませんけど……。
皆さん、大学生活をエンジョイし、何よりもテニスをがんばって下さい。期待しています。
最後になりましたが監督及びOBの皆様4年間御指導いただき本当にありがとうございました。
(安田火災海上保険)
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勝 っ て 陸 の 王 者 に !
福 田 尚 志
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| 大学4年間を振り返ってみると、勉強したという記憶は全くない。自分にとって大学4年間は軟式テニス一色の4年間であった。
我が軟庭部は練習時間なら、他のどこの大学にも負けていないだろう。学生生活のほとんどを日吉のコートで過ごしたような気がする。自分にとってこの4年間は非常に充実したものであった。思い出もたくさんできた。神宮まで慶早戦の応援に行き、銀座で大ジョッキを10杯ちかく飲み、日比谷公園でつぶれ次の日の朝、日吉に直行し、2日酔いのまま気合だけで練習に参加したのも今ではいい思い出になっている。
「軟式テニス?暗いなあ」とよく言われたものだった。軟式テニスの面白さは、やっている者でないとわからないと思う。ボールが非常に軽いため常に風を頭に入れてプレイしなければならない。軟式テニスは、ダブルスしかないのでペアーどうしの信頼関係が必要になってくる。硬式と違い軟式は、ボールを思いきり打てるため、ストレス解消には最高である。私は軟式テニスの面白さを人にこう説明する。
卒業するにあたり、1つだけ心残りの事がある。それは、自分が入部した当初から我が軟式テニス部は関東リーグで3部に低迷しているということである。いくら軟庭が面白い、いくら部の雰囲気がいいといっても「陸の王者・慶應」であり、試合に勝たないといけない。
後輩諸君、今シーズンこそ勝負です。君たちの力なら大丈夫です。ガッツで今シーズンこそ、自分たちが果たすことの出来なかった夢、「2部昇格」を実現してください。応援しています。
(関西読売テレビ)
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「山中湖での胴上げを夢見る者より」
秦 野 和 広 |
社会人になって、半年余りが過ぎましたが、まだまだ社会という組織の底をはいずり回っているゴキブリみたいな存在のため、社会人になりきれていません。
ただ最近特に感じるのは、「辛抱」が大事だということです。どんな職場でもそれぞれの人格があり、エゴがあり、欲望がうずまいています。その中で、チャンスをものにするためには、ここぞと思う時に自分が生かせるように自分を作っていなければなりません。そう思う時、軟庭を10年間やってきて本当に良かったと思います。軟庭の試合というのは辛抱を重ねて、ここぞと思う時に思い切った手を打つ、しかもそれを2人で遣り遂げなければなりません。この素晴らしさを今改めて強く感じています。
ここで1つだけ提言させていただきます。軟庭の基本は何といっても「2人で1つ」ということです。2人で一緒に辛抱し、2人で一緒にポイントをとっていく。この気持ちは絶対に大事です。そのためには仲のいいペアではなく腹を割ったペアになることが不可欠です。試合になればプレッシャーが否応ナシに高まり、味方の応援さえもプレッシャーに感じることもあるでしょう。そういう時には、次の言葉を思い出してください。“コートに立てば、おまえはスターだ。周りの者はみなおまえを見に来た観衆だと思え!”そうです。自分達はスターです。2人で思いきりスターしてあげましょう! これは今でもはっきり覚えている言葉であり、今後の生活でも常に持ち続けようと思っています。
まあ、とにかく、山中湖で胴上げできることを祈っています。
最後に先輩、同期、後輩の皆様方、今後ともよろしくお願いします。
(日本長期信用銀行)
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最 後 に ・・・・
吉 田 典 子 |
はじめて日吉のコートで練習したのは、3月下旬の小雨の降っている日でした。佐々木さんと二人きりでストロークしたことを、今でもはっきりと覚えています。そのときは、当時の女子部が私を入れてもわずか3人しかいないなどとは、考えてもみませんでした。あれから4年間、様々な経験をし、たくさんの友人もでき、充実した毎日を過ごすことができました。
私が高校生の頃は、たいへんなテニスブームで、コートは1面しかないのに、部員は30人。おまけに、定時制の始まる5時までには、練習を終わらせなければなりませんでした。「おもいっきり練習してみたい。」それが私の夢でした。大学生になったら、絶対に体育会に入って思う存分練習するんだ、そして、自分がどこまでできるかを試してみるんだ、といつも考えていました。
今、4年間を振り返ってみると、自分を限界まで追いこむことはできなかったように思います。もっとできたはずなのに。100%がんばらなかったから、それが心残りですが、それでも、自分なりに少しはがんばったので、テニスから学んだものもたくさんあります。自分をコントロールすること、他人を思いやること、他人に厳しくなること……etc。
もう、あんなふうに毎日練習することもないと思うと、とても淋しいです。でも淋しいというだけで終わらせてしまっては、4年間で得たものが死んでしまうので、テニスをしていたときの気持ちはいつも忘れずに、テニスで得たことを、生かしていきたいと思います。
先輩方、後輩、同輩の皆さん、私にこんなすてきな4年間を下さって、ほんとうにどうもありがとうございました。
(沖電気)
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お か げ さ ま で
武 本 映 子 |
慶應に入学して自分の方向を決め兼ねていた時もし銀杏並木で佐々木博子先輩に出会わなかったら、今こうして自分の学生生活を充実感を持って思い出せていただろうか?3年生1人1年生3人という女子部、もう1人でも欠けたら試合にも出られないんだと使命感に清水の舞台から飛びおりるような気持ちで入部を約束したのだった。
部員は信頼するに足る最良の友人ばかりだったが、それにしてもテニスは趣味でも楽しみでも決してなく、むしろ義務で苦業のようなものだった。楽しい誘惑は外にいっ杯あったのをみんな犠牲にして、最後はきっと良いことがあるんだと信じて練習していた。夏などコートに向かう足のなんて重かったこと!毎日の練習をこなすのが精一杯、試合が近づけば練習すればする程不安になり、試合が終われば勝った時でさえ後悔に悩まされる。(果たして反省のなかった試合なんてあっただろうか?)
しかし今振り返ってみて輝くような喜びを持って思い出すのは関東リーグ4部、そして3部への昇格、それから六大学リーグと選手権の優勝である。それだけで全ての体育会生活はいま言葉にならない程の思い出と自分への自信を遣わしてくれたのである。今はOGとしてテニスを楽しんでいるが、もう現役の頃のような記憶をテニスは私に与えてくれないであろう。(私は現役の時果たせなかった事への罪滅ぼしのつもりでコートに来ることが多い。)現役の皆さん、どんなに迷いながらもできるだけテニスに打ち込んで下さい。それは私が1年生のとき追いコンで聞いた卒業生の言葉でした。
私がラケットを始めて握った中学1年生、それは母の強い勧めだった。自分ひとりで頑張ったつもりでも、実はいろいろな人のお蔭でここまでやって来られた気がする。これからも人を大事にしてやっていこうと思っている。
(キャノン)
―卒業生のことば―
昭和62年度卒業生
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卒 業 に あ た っ て
主将 原 靖 則 |
終わってみると、4年間などは非常に短いものである。1年生の時は大学のテニスなど始めて見ることばかりで、アッという間に経過し、2年生になれば下級生責任者の職務に追われる。3年生の前期4ケ月を過ぎれば、主将としての1年間など光陰の矢の如しである。
また、3年生までは目立った戦績も残せなかったため、ただ毎日が練習の繰り返しであったように感じる。
しかし4年生になって、過去3年間の練習が報われたのか、東日本選手権3位という、自分でも出来過ぎの戦績をおさめ、東西対抗やインドアにも出場することが出来た。私は高校時代、県大会で8本が限界であり、本部入部後も2年生秋季リーグよりレギュラー入りを果たしたという、いわば普通の後衛だと自分自身を評価している。ゆえに出来過ぎというのである。
にもかかわらず何故あのような好成績を残せたのか。そこには前衛難波君の貢献度大であることは否めない。しかし私自身、良き同輩に恵まれたことが最大の要因であると考えている。毎日ボールが見えなくなるまで共に練習したのは、やはり同輩の連中である。誰もが1度は退部について考えるというが、私が1度もそうした考えを抱かなかったのも彼らがいたからである。また主将としての身勝手な私を盛り立ててくれたのも彼らである。私はここでもう1度彼等に感謝の意を表したい。
最後に後輩に2つ、去りゆく卒業生として言い残したい。1つは練習しろ、それが結果として表れるか否かは別として一生懸命練習しろということである。そしていま1つは、友達をつくれ、それは塾内に限らず、むしろ塾外にこそより多くの友達を作れということである。特に軟式テニス一筋に学生生活を送っている友人を持つことである。彼らは諸君の見識を大きく広げてくれるであろう。
以上、卒業にあたって私の考えるところである。
(野村證券就職)
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「チ
ャ ン ス は 寝 て 待 つ な」 小谷野 俊 介 |
突如として前髪を長く垂らした得体の知れない物体がこちらへと走ってきた。そこに居合わせた大学1年生の小谷野君、「何じゃらホイ?」といつものようにボーッと見とれてしまった。
さて、その得体の知れないものが段々と近づいて来る。よーく見てみると名札を着けているようだ。何か書いてある。でも良く見えない。もうしばらく待つか。
いくら何でも目の前まで来れば、さすがの小谷野君でも読めてしまう。「えーと、試合に出してやるよ、だって」そうと知ったら是非ともこいつを?まえなくては?
咄嗟に手を出したが猛スピードで走っているので?まらない。長距離には自信のある彼は追いかけようとするが、駄目だった。
遠ざかって行くのを見送っていると、そいつは、ペロリと舌を出して消えてしまった。
チャンスは、いつ走ってくるかわからないが、また誰にでもやって来る。自分は、その?み方が下手であったと思う。1年の時、秋の六大学に出場できるチャンスがありながら、校内の決定戦であと1本が取れずに出場できなかった。今から思うと地団駄踏んでも悔やみきれない1本である。
スポーツにはどの種目でも試合の流れがあり、テニスはその中でも流れの影響を強く受けると思う。その流れに敏になることが、チャンスに乗り遅れない方法だと思う。普段の練習にも流れはあるし、他人の試合も流れの観察にはもってこいである。
このことにもっと早く気づいていれば、もっといい目に会うことができたろうと思う。
まあ、これからは4年間のテニスと睡眠の蓄積を生かして機をみるのに敏となり、チャンスを掴み取って幸せになろうかな?寝てるばっかりと言われないためにもね?
みなさん、ありがとうございました。
そして、これからもよろしくお願いいたします。 礼……ペコッ。
(日本テレビ就職)
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無 題
岡 寛 |
部員数が益々減り、競争してレギュラーを勝ちとるという時ではなくなった今日、いかにしたら自分の技量を高めていくことができるかが非常にむつかしい問題になってきていると思います。少人数の時こそ頭を使い、基本的な練習をしっかりつむ時だと思います。
まずテニスはしっかりと生きたボールを打てるようにならなくては、頭を使い相手の心理を読み取って戦略を立てることもできません。
例えば、他のスポーツすもうにしても、入門したての力士はひたすらに「押す」ことをけいこします。また競輪選手の新米は「逃げる」練習ばかり繰り返します。彼らはなぜこんな単純で苦しい練習ばかりするのでしょうか。確かに押しずもうだけしかできない力士や逃げるだけしか能のない選手は、ある程度までいっても一流になることはできません。しかしこういった単純なこともできない選手は、プロでは通用しません。故にどんな新入りも最初はこんな単純なことを繰り返し練習するのです。
これをテニスにおきかえてみると、テニスにおいてはまず打ちまくることが、すもうで言う押しに相当すると思います。相手のボールが速かろうが深かろうが最初はひたすらボールを高いところでぶったたくことです。つまろうが、打点がおくれてミドルに飛ぼうがまず打つことを身につけ、生きたボールを打てるようにならなければ、次のレベルの技術を身につけることはできません。もし仮にそれをせずして次のレベルの技術を身につけたとしても、簡単にメッキがはがれるだけです。
残念ながら、現在の慶應のテニスは一部を除いて簡単にメッキがはがれるようなテニスになってしまいました。故に苦しくなった時やびびってきた時に慶應はあげて逃げるテニスをしてしまうのです。ここ数年にわたり大事なところで勝てなかったのはこういったところに原因があるのではないかと私なりに思います。
単に打つだけではテニスは勝てませんが、打つことができるという前提がなければ上手にあげるということもできないということを各自がよく肝に銘じて今度こそは打ちまくって勝てるように切に願う次第です。
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無 題
鳥 越 直 也 |
どうしてあと1本が取れないのか?
どうして勝てないのか?
どうして3部で優勝できないのか?
みんなが考えることである。私なりに考えてみると、いろいろな要因があると思うが、この原因はランニングの少なさにあるという結論に至った。
よく慶應は練習時間では他大学に劣らぬと言われる。自他ともに認める事実である。しかし、ランニングとなると全くしない。走るのは、春先と雨でコートが使えない時に、たまに走る程度である。恐らく慶應の体育会の中で最も走ることをしない部であろう。それが証明されるのが毎年12月の初めに行われるクロスカントリー(体育会のマラソン大会)である。この大会は各部の上位5人の順位を争うのであるが、毎年優勝するのは硬式テニス。軟庭は下から数えた方がはるかに早いであろう。因に今年は硬庭の5位が全体の21位、軟庭の1位が全体の76位であった。この結果は、当然、硬庭と軟庭の走る量の違いである。同じテニスなのにどうして、我部は走らないのであろうか?
私は大分県の津久見と言う少々野球で知られた人口3万人弱の町の出身であるが、10年程前、津久見高校野球部が甲子園で全国制覇した頃は、とにかくよく走っていたものである。日曜日は特に、尺巻山(645m)への山道を往復、走っていたものであるが近年の津久見高校を見るに当時の半分も走っているであろうか?(だから桑田、清原のPLにB-0で負けるんだ。)同じことが我部にも言えるのではなかろうか。
やはり人間、苦しいことは避けて通りたいものである。しかし、こう言ういやな、苦しい事を避けるその気持ちが、あと一歩というところでふんばれない弱さにつながるのではないだろうか。それが我部の弱さではないだろうか。 12月の初め、電車の中でふと早稲田の女の子に会った。男子と一緒に毎日4km走っているということだった。
これからは、もっともっと走ることをやるべきである。後衛はとくにそうである。これが勝つための1番の近道だと思う。特に後衛諸君、勝つために走ってください。そしてこの春のリーグが最後の2部昇格のチャンスと思い、悔いの残らぬよう1日1日、頑張ってください。
最後になりましたが、米田先生、内藤監督を始めOBの皆様、同輩後輩諸君、4年間、ほんとうにありがとうございました。
(NTT就職)
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部 そ し て …1 部 復 帰 弘 松 昌 樹 |
私は学連役員でしたから部員のみなに比べたらうんと練習量は少なかったわけです。しかし名選手のプレーというものは否応なしに毎回のように見てきました。学生の試合だけでなく社会人の試合もです。ですから頭の中では自分はいつもインカレチャンピオンなのです。おかしな話ですが、彼らと同じように打てないと自分でも不思議な気がするのです。結局そんなボールは打てないのですが………。
そこで、もっともっと部員の皆が人の試合を見たらいいのになあと思うのです。まあ簡単に言えば、イメージトレーニングなのでしょうけれども。もう1点は、いつも積極的でいなければいけないということです。せっかくのチャンスに勝つことができなかった時など人は特に落ち込むと思います。しかし、その時こそ自分で自分を盛り上げて落ち込まずに、その前に努力していたように、再びチャンスが来るよう頑張るのです。チャンスなんて常にやって来ると思い込んで、運を呼び込むのです。傍から見ていてちょっと感じたことですけれども………。
私が学連役員をしていて、やはり嬉しかった事と言えば、昭和59年のインカレ3位、昭和60年の新進個人で開田・宮部組が3位、昭和61年のインカレ8本、原・難波組の東日本3位、東西対抗、関東インドア決勝トーナメント進出と、3部とは思えない戦績でした。しかし、男女とも3部に現在いるわけです。原主将・岡副将をはじめとして我々の代に出来なかった2部そして1部復帰をするために、リーグに出るメンバーが1人1人出させてもらったというよりは、必要とされて代表として出ているのだという自信と誇りを持って積極的姿勢で頑張っていって欲しいと思います。軟式庭球部全員がそういう観念をもってすれば必ずや1人1人が満足の行く試合ができ、そして部が一丸となって2部・1部復帰?
なのです。
なろうと思うよりなれると思え? そして、Let it be?
(安田火災海上保険就職)
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テニスの引出しの中の財産
鈴 木 祥 子 |
洗濯したウエアを箪笥の引き出しに入れようとした時、私の服の中でテニスに関する物の占める大きさを思いました。ウエアばかりではありません。机の横に並べられたラケット、袋にいっぱいになった試合のドローなど、部屋の中もテニスのものがたくさんあります。毎日のように開いていたウエアの入っていたあの2番目の引き出しは、これからは何日に1回開けられるのでしょうか。淋しさを覚えずにはいられません。
私は運動が得意でなく、その上勝負争いを好まない性格で、体育会に席を置くのが不思議なくらいだと思うことがよくありました。でもテニスは続けました。というよりやめる事ができませんでした。
テニスは私に一生懸命になる瞬間を与えてくれました。例えば、マッチを取られてレシーブが回ってきた時、全神経はあの小さなボールひとつに集中して他のことは何も考えられなくなります。日常生活の中であんな緊張した一生懸命な瞬間を得ることができるでしょうか。そしてその集中力の強弱は驚くほど正直にレシーブの良し悪しとなって表れるのです。思いどおりのレシーブが返ったときの嬉しさ、その嬉しさと嬉しさを得るため一生懸命になることの大切さを教えてくれたのがテニスでした。学生時代にこのテニスを続けていくことが何かとても重要な気がして、離れられなかったのだと思います。
またテニスは私に仲間を与えてくれました。決して多いとは言えないけれど、4年間共に喜び悲しんできた仲間です。研究室とコートの往復の毎日を幸せに過ごす技を持っていたおーちゃん、頭と口の回転が速くて元気な楽しいまりちゃん、笑顔の下でいつも細かく気をつかってくれたえっちゃん、そして私。同期の4人はそれぞれ個性的なキャラクターでしたが、その歯車はかなりうまく噛み合ったのではないでしょうか。卒業する今、彼女たち3人が私の大学生活の1番の財産となりました。
社規人になり生活が変われば、ウエアの入っていた引き出しの中も変わっていくことでしょう。しかし私の心の中にあるテニスの引出しは、いつまでも変わることなく大切に保存し、その時折取り出して存分に活用していきたいと思っています。
4年間本当にありがとうございました。
(日本ゼオン就職)
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清 水 万 里 |
「立派な腕してるね。」
三田のギャルは、細い腕、細い足、色白、洗練されたファッション感覚。メークもしなくちゃ。それには、ほど遠いって?確かに。でも、私には同じような感覚を理解してくれる3人の仲間がいるからいいのだ。4年間、4人で顔くっつけあわせて過ごしてきたんだから。ここでちょっと、彼女たちを御披露しておこう。
サッコと呼ばれる彼女は、「おかあさん」をやってくれる。いろいろなことによく気がつく。目覚ましがなくても起きられる。遠征や合宿の朝は、特に彼女の存在が光るのだ。耐久性はbP。4年間こわれなかった。ほとんど皆勤賞なのは、ひじょうに偉い。どっしり落着いているが、「動きが重たい」との声もある。(人のことは言えないけれど……)料理、編み物は「まかせて。」女の子だね。手先が器用。だから彼女によくくすぐられて、苦しい思いをしたものだ。前衛。途中で後衛も経験して、主将もやった。苦労してるんだなあ。立派。
副将のO(オー)ちゃんは、けっこう楽天的。からかうのは面白い。唯1人の理工学部。三田キャンパスの話題に乗れないのさ。「いいのお、ワタシはワタシい。」主義で、ビーカーを扱う大学生活。1年通していつも食欲旺盛。真夏にコロッケ、ギョ−ザ入り弁当をぱくつく姿が、みなを一層夏ばてにさせたといわれている。多忙な応用科学生は日没の頃、コートにやってくる。暗くてもボールが見えるんだそうな。猫だね。チャームポイントの太ももを使った強いボールで、わが部を支えてきた。元気なテニスで、軽やかに走りまわるのだ。
「胴上げが楽にできそうだ」と歓迎されそうなエッチャンは、ビールが好きだ。女子部はイッキしなくていいはずが、自らイッキするファイト。が、最近控えているみたい。「ヤラレタッ。」と、食べ物に関してがんばる反面、相手を思いやる考え方が身についていて、「おねえさん」なのだ。ノリがひじょうにいいから一緒にいると面白いことに出くわす。私と一緒にいる時に限って、彼女だけTシャツを当てたり、金貨を拾うのだ。悔しい。だが、おみくじは彼女が「末吉」、私は「大吉」だった。「ヤラレタッ。」彼女にこういわせるのが大好きだ。
テニスがわからないまま入部した私は、ずいぶん3人に助けてもらった。そのかわり、部内をにぎやかにするため、人一倍たくさんしゃべってがんばったのだ。
4人。4人なら車が1台で足りるな……。遊ぶことを考えている今日この頃。楽しみ!
(富士ゼロックス就職)
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「 最 後 に 一 言 」
大曽根 智 美 |
「僭越ながら自己紹介させていただきます。神奈川県立多摩高等学校出身、理工学部1年、大曽根智美です。ポジションは後衛です。以後よろしくお願いします。」と叫んでいた頃からはや4年。「元気だけが取柄」と言われた私も、とうとう卒業生となろうとしている。軟庭部で過ごした4年間。長くも、短くもあった日々に少しも悔いはない。やりたいことを思いっきりやれたし、やらせてもらった。そして何よりも良かったと思うことは、このクラブが自分にとって、自分らしい顔でいられる場であったことである。家での自分、研究室での1学生としての自分、その時その時、色々な顔があったけれども、コートに立って白球を打つときの自分、これが1番私らしいと思っている。自分らしさを全て出せる場、それがクラブであったし、テニスであった。又、テニスは優しくも厳しくもある良い友だった。少しでも気を抜くと厳しかったが、努力には必ず報いてくれる。報われない時は自分に甘えている時なのである。この4年間慶大軟庭部のおかげで、学生としてテニスと、結構良いつき合い方が出来たと思う。
最後に、素晴らしい環境を与えてくださった部長先生、監督さん、植松さんをはじめOB、OGの方々、現役の皆様、そして伴に歩んで来た同輩の皆様、本当に感謝しています。
(三菱化成就職)
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”思 い 出”
片 岡 延 江 |
練習を終え、友人Mと日吉を出たのは日もとっぷりと暮れた夕方6時30分だった。さて、どこへ行こうか。私は、女子高出身であるMのセンスに期待したが、彼女は女子高外部と言われるようで、都立高出身の私とたいして変わらない知識でいくつかの場所を示した。
湾岸道路お台場コース
夜の東京中心街
横浜フルコース
けっきょく、時間と相談してMの家からいちばん近い横浜コースにおちついた。綱島街道をいつものクセで多摩川の方へ向かってしまったがために、第3京浜を使うことになった。(横浜=第3京浜と考える人がいるがこれは大きな間違え、日吉からは新横浜から新幹線をしりめにちょいちょいと通りぬけるとすぐなのだ。)キンコーン、キンコーン、警告音を聞きながら快調に車は走っていた。Mが運転免許修得中だったために、私のひとつひとつにワザに感心を示してくれ、私はいい気になって運転していたのである。
先ず着いたのは、山下公園。たかが公園なのにこれだけの人が集まってこれから花火でもあるのかしら。ごみごみしてちょっと興ざめだった。次は横浜中華街。お目当てのおかゆ屋は行列だったのであとのお店は全部同じ、だとうな値段の店に入った。あげそばをたのんだけれどあまりの量にぎょうてん、Mに食べてもらった。
さてここまでは誰もが行くお定まりコース。いま、横浜はメジャーすぎて、と思っていた諸君、本牧埠頭をおすすめしよう。ここは入り口に部外者進入禁止と立て看板があるけれど、ひるんではいけない。もし、中で呼び止められたら、「父を迎えに来ました」と、言えばOK。入口から港まで60km/hは軽くとばせる。初心者向けの道と言えよう。貨物港だからまわりに倉庫やコンテナがたくさんあり、その間に海が見えてくるしかけ。停泊している船の灯りが美しい。Mが彼ならナぁ……。
さて、つぎにニューグランドのカフェバーへ、などと書きたいところだが、夜もふけたことだし、外人墓地、港の見える丘なども軽くかっとばして、尾山台の彼女の家へと車はすべりだしたのである。帰りはすんなりと30分ぐらいで着いたかな、「どうもありがとう、えっちゃん。」の熱い視線に私はテレてしまった。
と、いうふうに練習を終えたある放課後を書いたのだけど、こんなことをしたのは4年間でたった1日だった。でも楽しかったのは何故だろう。内藤監督、植松先輩をはじめ諸先輩方、生意気な後輩たち、そしていろいろなことはあったけれど、4年間一緒にやって来た同輩、O−ちゃん、サッコ、マリちゃんのおかげだと思う。
みなさん、本当にどうもありがとうございました。
(キャノン就職)
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