〈特 別 寄 稿〉

卒 業 半 世 紀 の 思 い 出
                           昭29卒 岩 井 三 郎

今年春、卒業50周年で卒業式に招待された。この様な事は前から聞いてはいたが、50年を迎えるのは遠い将来の事の様に思って居たのに、それが現実となってしまった。思い起せば卒業は昭和12年で、其の年の7月、?溝橋事件(支那事変の発端)が起き、やがて全面戦争に突入した。在学中は徴兵猶予されていたが、卒業の翌年、丈夫な者は皆入営し、幹部候補生から将校になった者が多く、太平洋戦争終結迄置かれたため、卒業当時、経、法、文、医合せて820名中、約200名が戦死した。
私も卒業と同時に会社勤めをしたが、翌昭和13年3月召集となり、満州に送られ、ハルピン、牡丹江と転じ、関東軍の一兵卒であったが、ノモンハン事件の前、東部ソ満国境で、張鼓峰事件と言うソ連軍との戦斗があり、工兵であったため一週間河に浸かり架橋に専念した。岸に上がった処ふらふらするので熱を計ったら40度あり、其の後も熱が余り下がらず、結局肺炎と言う事で、当時の軍隊は胸部疾患を嫌った事から一応除隊となった。幹部候補生であった事から、将校になる日を目前に控え、全く残念に思い涙を飲んだ。同時入隊の者は、其の後ノモンハン事件を経て太平洋戦争となり、南方に駆り出され、殆んどがガダルカナル島に於いて戦死した。私も病気にならなければ、当然同じ運命を辿った事に間違いなく、悪運の強い方であると共に、戦死した方々に誠に申し訳なく思っている。
除隊後、病気が心配だったので、学生時代から御世話になった糸川病院長糸川欣也博士(当時軟庭学連会長、36卒、糸川雅也君の父君)に診断して頂いた処、「大した事はない、ボツボツテニスを始め給え」と言われ、再びラケットを握るようになり、神奈川代表として明治神宮(今の国体)にも出場した。
戦時中は軍需会社、芝浦工作機械(現東芝機械)に入り課長となって居たため、除外申請され再召集は免れた。然し、会社が数寄屋橋(現阪急デパート)にあり、再三爆弾攻撃を受け、東芝ビルは免れたが、近くの有楽町駅では、直撃弾で1度に退避して居た200人が吹き飛ばされ死亡。隣のレストランは、之も直撃で全員死亡した。又、昭和20年3月10日の東京大空襲(推定12万人死亡)では、部下の女子事務員2人が、1人は明治座(老人、婦女子の退避所となって居り、此処に避難した2千人が、周囲からの火で類焼し、殆んど全員死亡)で、1人は小岩の国電線路際土手で焼死した。翌日死体累々たる中を捜しに行ったが、高熱で完全燃焼して居るため、判別さえつかなかった。
斯うした苛烈な戦争の中、食糧とても殆んどなく、痩せ衰え乍らよく皆頑張ったものと思う。終戦となった時は、残念と言う気持ちより、之で戦争が終ったと言う、何かホッとした感情以外には何もなかった。
戦後は2年ほど、自衛隊に情報教官として迎えられ、一時松本連隊に在ったが、テニスの御蔭で松本の選手達にも知り合いが多く、松本城のコートで練習し、長野県大会に優勝、広島国体に長野県代表として出場、2回戦で敗退したが、コーチした女子チームが全国制覇することが出来た事は何よりであった。
軟庭部の初代監督を其の前から御引き受けはして居たが、自衛隊やら、自分の仕事も戦後の混乱期で軌道に乗らず、四苦八苦であったため、監督15年の前半は部員諸君に満足な御世話も出来ず、申し訳なかったと今でも思っている。
数年前,仕事も第1戦を退き、週1,2回事務所に顔を出す位となった今日、鎌倉のクラブで老人達や奥さん連中と相変らずテニスをやったり、時には旅行を楽しんでいるが、軟庭クラブの皆様や慶應観世会(在学中友人と共に創設)、昭和12年会の方々と巾広い御付き合いをさせて頂き、暖かい心の触れ合いを得ている事は、私にとって誠に幸せな老後であり、皆様方に心から感謝申し上げている次第です。

 

 

 

 


早 慶 に 求 め ら れ て い る も の
                    早稲田大学軟式庭球部 監督 中 山 晴 之

慶應義塾OB並びに現役の皆様、関東リーグ2部復帰・春季六大学リーグ優勝おめでとうございました。復活慶應の力強い息吹を感じ、胸の高鳴りを覚えます。この時に拙文を載せて頂く機会が与えられたことを光栄に思う一方、「早慶のレベルの差について」というテーマを与えて下さった浜名邦男氏の意地悪に大いに悩まされております。
そこで浜名氏のご指示を一切無視し、思いつくまま、感じたままを述べ、紙面を汚させて頂くことをお許し願おうと考える次第です。(浜名君、ゴメンナサイ)
野口 洋氏から監督をお引き受けしたのは、昭和51年9月でした。野口氏の監督時代は悪戦苦闘の時代でした。氏は常に「インカレを取れ」「そんなことでインカレに勝てるか」と言い続け、勿論学生もそれに応えるべく必死に努力をしましたが、2部、3部と転落を続けました。この時期には、有望な選手もいたようですが、「このままやっていても早稲田は勝てない、我々が最上級生になった時OBから叱られるのは明らかだ。その前にやめよう」と言って退部し、唯一残された実績のない学生が歯を食いしばって部を支えたそうです。(その学生は惜しくも若くしてこの世を去ってしまいました。)そんなご苦労を重ね、ようやく復活の手応えを感じ始めた矢先に、私に後事を託されたのです。
それまで自分のテニスのことしか考えず、母校に足を運ばなかった私ですが、学生と接する機会が多くなって(と言っても土・日だけしか行けませんが)感じたことは、皆、本当に一生懸命練習し、心から勝ちたいと思っている、ということです。ところが試合になるとどうしても勝てない。大切なところで1本がとれないのです。全早慶戦懇談会で慶應OBの山本 連氏から「慶應にあって早稲田にないもの、それは早稲田精神だ」と、強烈なパンチを頂いたのも確かこの頃だったように思います。学生達と共に考え、議論しました。確かに練習はやっている。しかし、今やっているこの練習は何の為にやっているのかをもっと考えよう。アウトボールを打ち続ける乱打は意味がない。出来ないからスマッシュ練習をやらないのではなく、試合になって1本でも追えるようにスマッシュ練習を必ずやろう。そして何よりも、やる前から負けを決め付けないで、最後の1ポイントまで諦めないでやれるだけのことをやろう。というところから出発しました。野口先輩の言わんとしていた言葉の中身が、ムラジ君の言わんとしていた意味が理解され始めたようです。慶應にたたかれると涙を浮かべて私のところへ「次は絶対に勝ちます」と言いに来る者が出てきました。佐々木・針尾、武士・水田達が日体大を破ってインカレ準々決勝へ進んだのは昭和52年のことでした。
部員不足を解消しようと学生達が行った勉強会の成果で、無名ながらも10名前後が入部するようになり、私の後を引き受けてくださった有馬一三氏のご指導により、58年に遂に1部に復帰し、15年もの永きに亘った早稲田冬の時代を脱出することができました。
59年9月から、有馬先輩の後任として再び学生に接している現在、私の心にあるのは、冬の時代に苦労しながら早稲田を支えてくれた人達、遠慮会釈もなく早稲田を鍛えてくれた慶應の方々に対する恩返しの為にも、インカレ団体戦を制する、ということです。
慶應と早稲田は軟庭草創の頃から良きライバルとして、学生軟庭会の頂点を競い合っていましたが、昭和34年インカレ団体戦優勝を争って以来、再びそこで戦うことがないまま現在に至っています。入学難、あるいはサークルへの流出によって人材の確保が極めて困難な情況にあるのは両校共通の悩みと言えます。それでもなお、早慶に対しては、「常に強くあれ」と求めているのは両校OBだけでなく世間一般の多くの人々だと言っても過言ではないでしょう。
幸いなことに、ここ数年の早稲田は高校のトップクラスが入部し、インカレ団体制覇は目前にあります。しかし同時にそれはなかなか手中に収めることが出来ないものであることも事実が証明しています。その実現の為には1人のヒーローは必要としない、全員がそれに向かって挑戦しなければならないと思います。部員数が少ないと言うことは全員がレギュラーであると言うことであり、1人の「負け犬根性」や「慢心」が大きな傷口となってしまう危険をはらんでいます。「あなた勝つ人、私出るだけの人」あるいは「試合に勝てばいいのだろう」(練習は適当にやっていても)という考えを持つことが1番恐いのです。
秋の関東リーグにおける早稲田はまさにそんな状態でした。早稲田の神崎選手は現在の学生界で頂点に立っている1人ですが、彼は人一倍勝負への執着心を持ち、多くの人の意見を聞き、工夫すると言う謙虚さを持っています。神崎・小野寺のプレーを見て、「スゲーッ!」と声があがるのを学内の練習で耳にする度に私は不愉快になります。彼らは決して圧倒的にポイントし続けている訳でなく、追い込まれ、攻め込まれた場面ではフォローし拾いまくってボールを生かし、そこから自分達のテニスを展開します。そういうところをもっと見て欲しいと思うのです。全員が自分なりにそうなるように努力しなければ、早慶のように自主性を尊重しようと言う部は直ぐに転落の道を歩くことになります。
慶應と早稲田に求められているもの、それは個々が自分に厳しく、絶えず向上心を持ち、部における自分の存在の大きさを自覚して努力することであり、それによって「常に強くある」ことだと思います。そうなって始めて、内藤監督が常々口にされる「早慶でインカレ決勝を」という理想が実現されるのだと思います。
その為に、私はもう1度冬の時代を思い起こし、初心に帰って学生達と共に考え、議論し、強い早稲田を作り上げたいと思います。
……1部リーグで早慶の対決が1日も早く実現されることを祈りながら……

 

 

 

 


同  期  会 
友だちの友だちは友だちだ 友だち増えれば いヽ話も増える
鼻 の 下 の 伸 び 具 合 は い か に
                             昭29卒 石曽根 邦一郎

全長会―昭和29年、慶應義塾大学体育会軟式庭球部のメンバーが、卒業時に命名したものである。
我ながら、実に不可解な解明をつけたものである。私の周りにある種々な会名、例えば「にぎりめし会」「三友会」「十七会」「木旺会」「イーグル会」「ファミリー会」等は、その名から会の構成、性格が自ずから連想されるようなものが多い。が、この「全長会」なるもの一体素直に「ゼンチョウ会」と読んで良いものか、どんな会なのか、関係者以外には全くわからないであろうと思われる代物である。
さて、そのココロは、在学中我々は、体育会の一員であり、テニスブーム到来のはるか前のテニス部員であった。当然というべきか必然といおうか、女性には、ほとんど縁の無い者ばかりである。縁が無ければ無いほど、女性に対する憧れはいよいよ募り、たまさか、相見える機会を得れば、その鼻の下は、無限に伸びる。このことを自認した結果の自然発生的な命名。「全員鼻の下が長い」即ち「全長会」という次第である。と言うものの、この、全て長いという会名は、キャプテンだった私のテニス、性格、行動からつけられた節が強いが、この辺は敢えて省略するとし、将来、女性の甘言にのって身を誤まらぬようにとの願いもこめられていたのだろう。
「全長会」のメンバーは16名、現在は東京の他、山形、千葉、神奈川、埼玉、静岡、山梨、長野、奈良、岡山そして鹿児島と全国各地に分散しているが、卒業以来、折に触れ集い、テニスを楽しみ語り合い、助け合って来た。最近はラケットに代り、クラブを握っての会合ばかりであるが、この10年余りは毎年1泊2日のゴルフ会を恒例としている。
この全長会ゴルフツアーが、今年は鹿児島で2月上旬開催された。一昨年、鹿児島三越へ赴任以来、参加できずにいる私のための心温まる有難い計らいである。単身生活の慰めと共に全長会の会長の名に恥じぬよう、鼻の下を伸ばしながらも、女性の甘言で身を過るようなことにはなっていないかの厳しいチェックを兼ねての開催であった。東京、神奈川、埼玉、長野、岡山から岡本(守)、風間、木村、関根、原、柳本の6名が来鹿した。スケジュールは当社の秘書嬢による、昭和ヒトケタの好むところを十分に配慮しての苦心の立案。
初日、空港近くでゴルフ、そのご温泉から大宴会へとなだれ込み、ついでにごく軽く天文館の視察。翌日は桜島、磯庭園等を遊覧、そして鹿児島三越でお土産を調達して離鹿、という完璧なものであった。こうてんにもめぐまれ、南国の眩いばかりの明るい陽光のもと、ゆったりとしたゴルフを楽しみ、焼酎と薩摩料理を存分に賞味、噴煙を上げる雄大な桜島の遠景に感嘆、そのふところへ上陸しては、自然の凄ましさに畏敬の声をあげるという具合。さらのこれこそが、今回の來鹿の眼目、と口には出さずとも全員が認めている天文館視察では薩摩オゴジョの優しく、暖かく、細やかなサービス振りに文字通り鼻の下を長くしたのであった。
学生時代からの悪友共が久しぶりに顔を揃えたのである。テニスの思い出、憧れの君の噂話に花が咲いたことは言うまでも無いが、塾軟式庭球部現役の強化策、助成金の集め方、税金の話、社員教育、在庫管理の重要性等、互いの仕事にプラスになる真面目な堅い話もごく一部ではあるが飛び出したことをメンバーの名誉のために附け加えておく。
結論として、全長会メンバーから私への評価は如何に。2日間と言う短時間で、私の鹿児島での活躍を皆にアピールする事は、きわめて困難であったが、全長会会長の名に恥じぬ鼻の下の伸び具合、それでいながら女色に溺れることなく、清く美しく元気に勤務に精励しているらしいことをお認め頂き、合格点を頂戴した次第であった。
来年度の例会は岡山県井原で開催と決定、ゲームもゴルフと決ったが、わがメンバーは、テニス部OBとは思えぬ程のゴルフ達者揃いである。来年こそはエブリワンで対抗できるまで是非、腕を磨いておきたいものである。
心おきなく語り合える悪友達との再会を楽しみにして。

(61年4月随筆かごしまより転載)

 

 

 

足 掛 け 3 0 年 の 百 和 会
                       昭34卒 浅 井 晴 夫

塾創立100周年の昭和34年に庭球部を卒業した同期生は、内享キャプテン(現監督)を筆頭に14名、その同期会を「百和会」と命名して以来、早や29年が経ちました。
この間、不規則ながら何回となく同期会を開催してきましたが、皆それぞれに要職にあって多忙なため、最近では同年卒の体育会の集まりの「一世紀会」の折とか、盛岡に居る鎌田君が上京した折とかに、お互いに声をかけ合って、何人かで旧交を温めるのがいつの頃からかのならわしとなっています。わが同期には、老骨に鞭打って献身的に監督を続ける情熱の男、内享、現役時代稀有の名手で1部返り咲きの立役者、内尚、30周年記念誌発行の編集長で目下テレビで大活躍の三戸、森岡のドン鎌田など、まさに多士済々、ひとたび集えば若き昔に戻って談論風発、夜の更けるのも忘れることも少なくありません。加えてここ数年は、諏訪先輩のお誘いで、29年〜32年卒の先輩の「球児会」にも仲間入りさせて頂いて、沼津へお伺いしたり、34年〜36年までの仲間で、田中君が支配人をやっている長南CCでゴルフをしたり、といった形で交流が続いています。
夢中で過ごした人生も、お互いアッと言う間に、はや50才代に突入してしまいました。来年は卒業30周年ということになりますので、何か全員が勇んで参加できるような企画をして、古き良き時代を偲び、現役諸君に声援を送りたいと思っています。

 

 

 

 

 

先 輩 と し て の 役 割
                              昭29卒 岩 井 二 郎
三田軟式庭球倶楽部の会員名簿に記載されて居る方々は、全員、青春の一時期を一緒に過ごされた人達で、共通の楽しみや苦しみを味わい、共通の経験や体験を得る中で、互いに助け合い、切磋琢磨し、影響を与え合ったことと思う。卒業して時がたつにつれて、学生時代のこれ等の経験等が、それぞれの人生の中に強い影響を及ぼしていることに気が付く筈である。このことは誰にも消されない諸君の経験であり誇りであると思う。
今般、現役の諸君が6年振りで、関東リーグ2部に昇格された事は、選手諸君の努力は勿論、監督始め裏方として協力してくださった方や、応援に駆けつけてくれたOB諸先輩等、三田軟式庭球倶楽部が少なからず役に立てた事だと信じたい。
そこで先輩として我々は第1に何をなすべきか。コートに行ける人、納会に出席出来る人、色々とあると思うが、まずOBとして年会費を納入することである。
会報62-1号に記載ある様に、62年度の繰越金としては僅か 143,365円でしか無い。400名を越す団体の資金としては、まことに心許ない額である。三田軟式庭球倶楽部としては物心共現役に対して援助協力する事によって存在価値があると信ずる。

 

 

 

 

二  八  会
                                昭36卒 糸 川 雅 也

36年卒業の同期会を二八会という。商売は通常2月と8月が暇なことから景気の悪い二八と使われているが、我々の二八は同期の卒業生が28人いたというごく単純なことからのネーミングである。
28名という数は今もって我が部の記録であろうが、入学時は更に多く100名を越えていたのである。余りにも多過ぎて、当時5面あった日吉のコートでは練習もろくに出来ないので、当時の越前主将は、1週間のうち4日以上コートに来ることと定め、それに満たない者は退部さすという厳しい処分をして、淘汰された結果が28名となったのであるから、皆筋金入りである。
卒業25周年ということで、一昨年大学の卒業式に招待され、その折久し振りに集まり皆で再会を喜んだ。残念乍ら松本健一郎君は他界し、当日出席したのは20名程であったが、昔話に花が咲きとても楽しい一夜であった。
孔子は、「五十にして天命を知る」といったが我々はちょうどこのあたりであるが、なかなか知名とまではいかない。
ともかくゆとりのある者、ない者、それぞれ元気に過ごして次回の再会を期待したいものである。

 

 

 

 

四 十 一 年 同 期 会
                 昭41卒 岩 城 英 隆

我々41年組は、卒業してから、早や20年以上の年月を経ました。そこで卒業20周年として、何か記念行事をやると言うことになり、61年10月10日に久しぶりに同期会を開きました。場所は、同期の青木(担)君の紹介で、東急文化会館にあるゴールデンホールにお世話になり、以下のメンバーが全国から集合致しました。山本、林、浜名、由利、青木(担)、中村(旧姓中山)、鈴木、田処、川島、谷合、片岡(旧姓山田、2年まで在部)、岩城の       12名。大林君は仕事の都合で、坂口君は米国在住のため止むを得ず欠席となりました。なお、林田(旧姓高橋)さんは、残念ながら、病気のため御逝去されました。
当日は、当時お世話になった糸川監督及び三戸先輩にも御出席頂き、各自の近況報告や昔の思い出に話が弾み、  20年前にタイムスリップしたようでした。又、20周年記念として軟庭部に何かお役に立てばと思い、現役部員の希望を考慮し、全員の賛同を得て、合宿所に冷蔵庫を寄贈させて戴き増した。今度は4・5年後に関西方面で集まることにし散会しました。

 

 

 

 

や ろ う 会 (八 郎 会)
                            昭42卒 大 森 富 夫

11月6日7日、卒業20周年のコンペを宝塚にて開催しました。キャップ青山君は、海外出張にて欠席、他7名全員が快晴のもと宝塚の野山をじゃがいもほりに歩き回りました。
女性のいない我々42年卒の会の名前はやろう会(八郎会)と言って居ります。
現役諸君に一言「何でも積極的にやろう」。という気持ちを忘れず、明るく元気に頑張っていただきたいと思います。

 

 

 

 

同 期 会 と 近 況 報 告
                               昭51卒 志 津 文 幸

昭和47年入学の同期13名(女性1名)の同期会は、1年半程前に遡ります。東京近辺在住(福島からも)の7名の参加により赤坂郷土料理“くしろ”で開かれました。(ここのママは、安喰浩が地下鉄新宿駅最終電車で知り合い、そのまま意気投合して飲みにいった人)
この会場には、安喰、安藤、遠藤、石山、桜井、松本、志津が久しぶりに集まり学生時代のチョンボの話に花を咲かせた。
食べきれない料理を後に2次会会場である俳優座裏の“スナックJUN”へ向かった。これまた安喰の馴染みの店だ。(なお、現在彼は大阪勤務となり、東京地区としては貴重な人材を失った)ここで遠藤夫人も合流(夫婦で福島より上京)し、カラオケでは皆各々セミプロ級の喉を披露したが、中でも遠藤夫人の清らかな歌声に、日頃の世俗にまみれた我々の心は洗われたようであった。(本心より)
そしてシンデレラタイム。塾生のきれいな飲みっぷりに変わりはなかった。名残を惜しみつつも次回の開催を約して解散となった。(各人のその後の行動については筆者は関知しない)
その後この会は開かれていない。“ヒマ”な私に集合の音頭を取れとの声が多いので、部報が発行されるまでに一度は開催したいと思っている。
なお、関西では、任意の同時代会(拡大同期会)がしばしば開かれているそうで羨ましいと思う。
さて、最後になりましたが、13名の近況をお知らせします。
遠藤 雄一 (福島県郡山市)
郡山軟庭連盟の役員として招待インドア開催と、TV放映のための広告集めに。もちろん家業にも活躍中。
桜井 義明 (東京都葛飾区)
会社業務のため一般旅行取引主任資格を取得。旅行会社へのトラバーユも可能だがその気なし。
石山 清隆 (東京都東村山市)
先日、テニスで剥離骨折。年を感じつつも元気。電気工事業を営み多忙。子供は3人まで頑張る。
松木 充嘉(東京都町田市)
ついに現役プレーヤーを引退、よくやったと言える。学生時代のコンクリート壁打ちが思い出される。子供多く  多忙。
工藤 正人 (千葉県浦安市)
石油会社に入社したが石油を売ったことがない。今はコンピュータを売っている。子供多く多忙。
志津 文幸 (千葉県千葉市)
5時に退社できるのは私だけ。皆様のために働きます。10年やっているゴルフもドライバーショットは飛ぶが スコアにつながらず。子供多く多忙。
高橋 和夫 (神奈川県秦野市)
現役時代以上に真面目の様子。テニスを離れ、ゴルフも年3〜4回とのこと。仕事も大事だけど1杯会にもぜひ  参加を。
植野 康晃 (大阪府東大阪市)
月1ゴルファーにもかかわらず62年度アベ91は立派。仕事多忙で土曜も休めず。
真島 一裕 (大阪府豊中市)
夏にゴルフを始め、11月に初ラウンド101を記録。自己の才能を認識して猛練習中。仕事超多忙で、元日しか休めず。
藤原 清隆 (大阪府大阪市)
本社から現場に栄転し、橋造りとトンネル掘り。水を得た魚のごとしか。ヘルメットの似合うビジネスマンを目指すとのこと。
安喰 浩 (大阪府豊中市)
この人を失った東京地区の我々は落胆している。相変らずに様子ですが、早く関西の水に慣れることを願う。
石川 ひろみ (岡山県津山市)
ド田舎(自然がいっぱい)に住むも週2回の軟庭は立派。子供多く多忙。納会を全国で開催してはどうかの希望あり。
晦日 進一郎 (長崎県大村市)
子供特に多く多忙ではあるが、相変らずのバイタリティーは劣え知らず。大村市の名士となる日も近いか。
(筆者註)@子供多く……3人子持ち、 A子供特に多く……4人子持ち

 

 

 

 

 

五 十 八 年 同 期 会
                                   昭58卒 高 梨 憲 爾

私達58年卒業生は7人、現在は仕事の関係で関東・中部・関西と各地方に分かれています。その為塾軟庭部の動向については気をかけてはいるものの、距離的に遠かったり、勤務の都合があったりして、なかなか試合の応援や各種行事に参加することができません。同期の間でも、個別に会ったり、電話で連絡を取り合ったりすることはあるのですが、7人が揃って語り合う機会には、これまで恵まれませんでした。
よく言われる言葉に「旧交を暖める」という言葉があります。暖めるという意思がないと、冷めてしまうおそれがあることを、つい日常の雑事や忙しさにかまけて、暖めるという動作が、おろそかになってしまう。そこに凡人の悲しさがあるのでしょうか。
そうしたまま時が過ぎましたが次第に誰からともなく、「是非機会をつくって、みんなで会いたい」という声が高まりました。そして61年9月27日〜28日、当時浜松市に在住していた村田君の計らいによって浜名湖畔に宿をとってもらい、第1回の同期会を開きました。林君の都合がつかず6名の参加となりましたが、浜名湖で採れたという幸を前に酒を酌み交わし、思い出に花を咲かせました。リーグ戦や入替戦、全日本の大会など語り合う思い出はあまりに多く、秋の夜長といえど、この一夜に限ってはとても短いものに感じられました。
考えてみると、私達がこのように膝を交えて酒を飲み、語り合ったのは、実に卒業式の晩以来のことだったのです。何年たとうと、同じコートでともに汗を流し、喜びに湧き、悔しさに涙した仲間は素晴らしいものだと改めて思い起こされた気がしました。
一夜明けた翌日は天候にも恵まれたので、みんなで浜名湖観光に出ました。ドライブをしたり観光船に乗ったりと楽しいひと時でした。紅葉にはまだ少し早く残念でしたが、湖面を渡る秋風はとても爽やかで印象的でした。
昼食を取った後別れましたが、その際皆異口同音に「年に1回は同期会をもちたい」とのことでした。残念ながら62年中は日程の都合がつかず、第2回の同期会を行うことはできませんでした。しかし今年こそは、何とか実現させたいと思っています。

 

 

 

 

 


特  集 
東 京 六 大 学 初 優 勝
会報 号外   

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東京 六 大 学 初 優 勝 に 酔 う
                          昭36卒 村 井  靖
「遂にやりました」の第1報を4月24日(金)夕刻、中津助監督から受ける。予定をキャンセルし、銀座ライオンのビヤホールに急遽かけつけた。
難波キャプテン以下の喜びの顔が、花の金曜日で混雑しているビヤホール内に一段と輝いていた。
乾杯が終わると早くも2次会の場所をどこにしようか心配で落着けない。
現役の連中は運が強い。同時刻に帝国ホテルの東京三田倶楽部で会合をやっていた風間理事長グループに合流させてもらえることができた。

宮部君(4年・前衛)が、こんな話をしてくれた。
前夜、初優勝した夢を見たという。そして朝、合宿所を出る時万一のOBへの連絡のために、下級生に「部報」を持って行けと指示したという。この指示が正夢となり、岡君が風間さんに第1報を入れ、その結果が、大がかりな祝勝会になった。私がうれしかったのは、その裏にある現役のOBに対する心使いであり、風間理事長の提唱する、  CAPに対して現役が具体的な行動を示してくれたことである。
当夜は相変らず、1時過ぎまで痛飲した、うれしい酒であった。
うれしさをついでにもう1つ報告すると、帝国ホテルの三田倶楽部内で、風間さんが他のすべてのお客に対して、丁寧に頭を下げ、礼を尽くしてくれたことであった。風間さんがあいさつして回る毎に、あたりから絶えまなく大きな拍手が起きた。やはり、勝利の酒はうまい。

 

 

 

 

関 西 で の 祝 勝 会
                            昭48卒 下 岡 得 二
六大学祝勝会ス!
女性先輩2名を含め28名集う
お陰様でおいしくビールが飲めました。
大阪梅田桃花園にて1987・5・19 PM7:00〜9:30

『遂にやりましたか!』『いや本当によくやりましたね』
『長年の念願でしたね』 『3部でよくやりましたよね』
集まられた先輩諸氏の会話が弾んでいる中で、まずは、伊藤先輩(昭29卒)乾杯の音頭で関西の祝勝会を兼ねた 三田会は開宴されました。

クリックで拡大写真 集まられた先輩は東京から4名、関西の24名(女性2名)合計28名、まずは岡本先輩(昭29卒)の挨拶があり、優勝へのお祝いの辞が風間理事長、内藤監督に送られました。又、ひきつづき、風間新理事長からお礼の辞と   CAPに対する理解協力への依頼があり、大なる拍手がありました。又、内藤監督からは現役の今回の活躍ぶりの報告があり、来年の春には2部を素通りして1部昇格への飛躍および全日本優勝に向けての力強い宣言があり、慶應軟庭部及び三田軟式庭球倶楽部の底力をひしひしと感じた次第であります。
宴が進むにつれ若い世代からの自己紹介があり、その世代の六大学の試合におけるエピソードが披露され、本当に楽しく和気あいあいの内に時が過ぎてゆきました。
今回も、鎮目・川野大先輩は出席されるご意向でしたが、両先輩とも当日体調をくずされあいにく欠席されましたが、非常に残念がっておられました。終了予定の9時も過ぎてはいたのですが、ますます話がはずみ、村井先輩の優勝前夜の霊感優勝夢の話など本当に色々なお話を聴かせていただきました。参加した全員が意気投合して現役に変わらないくらい我々も頑張っていこうというような雰囲気がただよい、内藤監督の3本じめで、無事盛大に祝勝会をお開きといたしました。
今回のようにおいしくビールを飲めたのも、現役諸君のなによりもの頑張りによるものであり、感謝すると共に、優勝を心よりお祝い申し上げたいと思います。又、関西のOBも今後ますます団結を固め風間新理事長方針のCAPの考えのもと、支援してまいりますので今後ともよろしくお願いします。
末筆ながら御参加いただきました先輩を始め、残念にも御参加できなかった先輩諸氏にも、紙面をお借りいたしまして、関西の事務局を代表いたしましてお礼申し上げます。
尚、当日の出席者は次の通りです。(敬称略)

岡本 政一 29卒 風間 清  29卒 伊藤 信雄 30卒 松田 英三郎 31卒
内藤 享佑 34卒 広田 進  36卒 村井 靖  36卒 柴田 愛子 38卒
吉田 有郷 40卒 山本 連  41卒 中西 敏之 42卒 矢倉 正之 42卒
大森 富夫 42卒 高山 英幸 45卒 橋本 明  4卒 慈幸 義雄 46卒
弓場 行雄 47卒 早苗 佳人 47卒 下岡 得二 48卒 下岡 恵子 48卒
多田 透  50卒 植野 康晃 51卒 藤原 清隆 52卒 安喰 浩  52卒
片野 次朗 53卒 垣本 耕一 57卒 横地 陽一郎 57卒 灘  武志 59卒

昭和57年12月発行「塾」より転載

体 育 会 名 勝 負 物 語 O
 軟 式 庭 球 部  厚 い 1 部 の 壁 に 挑 む
―― 昭和32年春――
                             塾法学部教授  池井 優

裾 野 の 広 い 軟 庭 人 口
「関東大学軟式庭球連盟は何部まであるかご存知ですか?」
軟式庭球部OBに問いかけられて、はたと考えた。
「さあ、5部か6部まででしょうか。」
「とんでもない。男子13部、女子16部まであるんです。各部が6校づつ、ただし最下部は残り全部でトーナメントをやります。」
「そうなると大学トップクラスの軟式庭球のレベルは、ずいぶん高いんでしょうね。」
「そうです。私なんか1部、2部の入替戦に、在学中なんと8回でましたよ。」
と話をひきとったのは、昭和33年にキャプテンをつとめた内藤享佑氏(昭34経)。
慶應義塾体育会の中にあって、軟式庭球部は地味な存在であり、かって大きな大会の団体優勝をかざったこともない。先輩方の話をうかがっていると、2部に優勝しては1部最下位チームとの入替戦に臨み、志を果たせず再び2部残留、やっと待望の1部入りを果たせば、強豪の中にあって最下位。2部優勝チームの挑戦を受けるといった苦闘の跡がひしひしと伝わってくる。
「軟式庭球部の場合は、この試合が名勝負というのがないんですよ。しかし、1部に挑戦しては敗れ、挑戦しては敗れ、遂に1部に上がって、ここでもまた2部の優勝チームに入替戦の挑戦を受ける。こういう話もいいんじゃないですか。」
「その通りです。リーグ戦の優勝、全日本チャンピオンになることだけが名勝負じゃありませんから。」
このシリーズも16回目を迎えるが、謙虚な軟式庭球部OBの言葉に、他部とは違った取材の意欲が湧いてくるのであった。

軟 式 庭 球 の は じ ま り
日本にテニスがもたらされたのは、明治初年にさかのぼる。だが始めは横浜、神戸などで一部の外人が楽しんだにすぎなかった。テニスが正式に日本人に教えられたのは明治11年のことである。来日したアメリカ人リーランドが体育教師の養成機関である体操伝習所に用具を伝えてプレーのやり方を紹介し、そこでテニスを覚えた連中が体操の教師として全国に散っていったことから、テニスという外来スポーツは徐々に日本国内に普及していった。当時のテニスはもちろん硬式である。
しかし問題は用具が高価であり、なかなか手に入りにくいという点にあった。特にボールは国内で生産できず、舶来物、すなわち輸入品しかなかったため、一般の人が使用するには数も少なく値段も簡単に買えるものではなかった。ここで日本人独特の知恵が働く。「日本独自のボールを作り出そうではないか。」
こうして作成されたのがゴムボールであった。明治23年三田土ゴム会社(今日でも赤M印のボールを製造している昭和ゴムの前身)がゴムボールを作成、このゴムボール、すなわち軟球がテニス、あるいは庭球の名で日本全国に広まっていった。軟球は硬球に比べバウンドが低く、したがってコートのまわりをおおう金網も硬球用ほどの高さを必要とせず、またラケットが硬球にくらべ軽かったことも、中学生あるいは女性の間にも普及していった理由と考えられる。
明治31年春、慶應義塾の塾生の1人、大塚千代造氏がクラスのテニス経験者を集め、テニスの会を催した。これが慶應におけるテニスの発足となった。翌明治32年、三田山上に6円79銭の費用をかけてテニスコートが完成。次第にテニス愛好家も増えてきたので、名前を清遊ローンテニス倶楽部と名付け、東京外国語学校を相手に初めての対外試合を行った。やがて大塚など清遊倶楽部のメンバーは卒業することになったが、彼らは卒業後も慶應義塾におけるテニスを絶やさないため、時の鎌田栄吉塾長に体育会への加入を申請。明治34年10月に正式に許可されここに体育会庭球部が発足したのである。いうまでもなく使用球は軟式であった。翌明治35年1月、1人の大柄な塾生が入部してきた。数えどし15歳のこの少年は普通部の3年であったが、練習熱心でめきめき上達した。この少年は後に塾長となり学界にも重きをなす小泉信三氏であった。特にフォアハンドの強打を武器とし、攻撃的なテニスを得意としたため、それを封じるために前衛がネットにくっつき、強打にボレーで対抗するという対小泉戦法が生み出され、それが今日の雁形の基礎になったという。
この当時になると対外試合も早稲田、東京高商(現一橋大)、高等師範(現筑波大)などとひんぱんに行い、日露戦争前後の明治38,9年頃はこの4校による対立時代となった。

軟 式 か ら 硬 式 へ
画期的なできごとが起こったのは、大正2年のことであった。すなわち庭球部が15年間にわたって親しんできた軟球に別れを告げ、硬球を採用することになったからである。硬式に変更した理由は、明治39年野球の早慶戦をめぐる応援のいきすぎから、両校の対抗試合がすべて中止となり、部員が張り合いをなくし、沈滞した空気を一掃する必要があったこと。更に日露戦争に勝利し、日本の国際的地位が高まり、スポーツも国際試合への参加が予想され、そのためにも日本国内でしか通用しない軟球と決別すべしとの空気が出てきたことであった。はじめは部内にも抵抗が多く、慶應から硬式へ転向の通告を受けた早稲田、高師、高商の3校は、「現状維持」と返答し、容易に硬式採用に踏み切ろうとはしなかった。しかしこの軟式から硬式への転向組の中から、後にアントワープで行われた第7回オリンピックでシングルス・ダブルスに2位となる熊谷一弥氏などの名選手が輩出する。
庭球部の硬球転向によって軟球を使用する軟式庭球部の再スタートは、昭和6年の慶應軟式庭球倶楽部発足にあり、塾内対抗競技部として認められ、以後日向正善、安友省三、岩井三郎、小林珍彦、呉啓三郎氏らの名選手が輩出した。しかし軟式庭球部としての体育会加入は、戦後の昭和24年まで待たなければならなかった。

体 育 会 昇 格
体育会に昇格した昭和24年秋、軟式庭球部は国民体育大会の全日本大学対抗で早稲田に次いで2位となる大健闘。体育会昇格に気をよくした快進撃であった。問題はコートの不足であった。硬式庭球部と違い、部独自のコートを持たなかった軟庭部は、朝日生命、その他のコートを転々としながら練習を続けた。しかし昭和25年9月、待望の新コートが入学式、卒業式などが行われる現在の日吉記念館のところに完成。3面(後に5面)を持つ堂々たる部のコートだけに、コート開きの日には部員はもちろんOBも多数かけつけ、盛大に祝うと共に今後の健闘を誓ったのであった。然しコートの完成とは裏腹に、軟庭部の成績はかんばしくなかった。同年秋、1部リーグ6校中5位になった。当時の規定により1部下位2校と2部上位2校の入替戦が行われることになったが、連盟からに連絡が不十分であり、かつまた慶應自体が関東学生軟式庭球連盟の横暴を理由に入替戦に出場しなかったため棄権とみなされ、2部転落を余儀なくされた。部員、監督、諸先輩揃って再三抗議を申し込んだが、連盟はこれを受け付けず、一時慶應はリーグ脱退さえ考慮したという。2部に転落した軟式庭球部は、1部復帰を目指し猛烈に練習した。1部復帰するチャンスは早くも昭和26年春にやってきた。中心選手が卒業したとはいえ、前年秋まで1部でやってきた慶應は、2部で問題なく優勝し、1部の最下位校法政と対戦した。法政には比較的分が良かっただけに、大いに期待されたが、2−3で惜敗、負けたその日選手は渋谷の理髪店で全員丸坊主になってくやし涙にむせんだ。
ただ救いとなったのはそれまで慶早東と明法立の分裂状態にあった東京六大学が27年春から、6校でリーグ戦を行うようになったことであった。27年春から春秋2回、日比谷公園コートで行われるようになった六大学リーグ戦は、不愉快な思いをした関東リーグを補うのに十分であり、また同年、同志社大学との定期戦が開始されて、関西の強豪と手合わせする機会を得たことも、実力の向上に役立つものと思われた。昭和27年は六大学リーグの開始、慶同対抗戦の開始といった波瀾にとんだ年であったと同時に、後援団体三田軟式庭球倶楽部が創設された年でもあった。OBを中心に軟式庭球部をバックアップする目的で結成されたこの倶楽部は、以後有形無形の形で現役を激励することになる。
同年、?、部の戦績を残す、?、OBである三田倶楽部会員の名簿を整備する、?、卒業生の言葉を載せる、を目的として部報が創刊された。創刊号には「軟式庭球と私」と題する小泉信三氏のエッセイをはじめ、OBによる想い出、キャプテンの現状報告、さらに早稲田大学軟式庭球部板野監督による「慶應の軟庭を語る」など、盛り沢山の内容をもち、その後、部の結束、OBとの連帯に大きな役割を果たしてきた。
だが部の成績はもうひとつかんばしくない。27年春の関東リーグ第2部では、東京教育大学(現筑波大)と雨中の大熱戦を展開したが惜敗して2位。秋季リーグ戦では優勝し、1部昇格を目指して立教と入替戦を行ったが、六大学リーグでは勝てた立教に0−3のストレートで敗退するという予想外の不振。こうして波乱に満ちた昭和27年も終った。
昭和28、29の両年も春秋2部では優勝しながらも入替戦になるとどうしても勝てない。だが、昭和30年代に入って、これまで幾度か開こうとして開かなかったつぼみが花として咲く機会が遂にやってきた。

待 望 の 1 部 昇 格
「部報」第5号(1957年)の巻末に次のような活字が躍っている。
特報!
宿願の1部昇格成る      4月29日 於 甘泉園
慶應 B−2 明治
遂に我が部は宿願を果しました。しかしこれも、1つの段階を乗り越えたに過ぎず、前途には更に厳しい困難が控えています。今後一層の「和」と「ファイト」が必要とされます。兎に角、近年にない朗報です。
昭和26年以来6年間、2部で優勝して入替戦に挑むこと春秋合計9回、どうしても敗れなかった1部の厚い壁を突破したのである。
もっともこの1部昇格にはそれなりの伏線があった。フロックでできたことではない。
昭和30年代に入って多くの優秀な高校のプレーヤーが入部してきたことが大きな要因である。30年4月、豊橋東高から内藤享佑(昭34経)、内藤尚男(昭34経)の兄弟、32年には教育大付属から後の監督となる糸川雅也(昭36経)、浦和高から現在日本軟式庭球連盟役員の西村信寛(昭36経)東大付属から村井靖(昭36政)水内毅(昭36政)など高校時代かなりインターハイなどで鳴らした有望新人が入学し、最上級生キャプテンの越前真生(昭33政)、近藤英夫(昭33法)、山崎武之介(昭33政)らとダブルスを組み、高校軟庭のスターで固めた1部リーグの他大学と互角に渡り合えるチーム作りが着々と進んできたのである。
「当時から慶應は入学試験が難しくてね。1年浪人して弟と一緒に入りましたよ」とは内享と呼ばれ、後に弟の内尚と大活躍する内藤享佑現監督の弁。
こうした大型新人の加入によって、日吉コートの練習は活気を帯びてきた。
「なにしろ私が入部した時、新人が70人もいたんです。それで幹部会というのができましてね。出席率の悪い奴はどんどん首を切られる。全部員が150人もいました。多すぎるので何とか数を減らして、やる気のある連中にしぼろうとしたわけですが、なかなか落ちこぼれていかない。ファイトのある連中がそろっていたんですね。結局、それが層の厚さとなって部の力になりました。」(糸川)
部の中で1軍から3軍に分かれて練習に励む。
「入部当時は2軍でしたが、1軍のトップクラスは別として、中以下から俺の方が……って気持ちで金網越しに1軍の練習を見てました。やがて1軍に入れた時は嬉しかったですね。」(西村)
1軍は対抗戦に向かって練習。2軍、3軍はそれをバックアップする役を進んでやった。
「慶應にはいわゆるシゴキなんて一切なかったし、それぞれ皆で工夫して練習してましたよ。」(内藤享)
こうした部が一体となって研究を重ねた練習の成果は試合に現れてきた。その成果の1つは、昭和30年秋の早稲田との入替戦における善戦であった。2部リーグで優勝した慶應は、1部の最下位早稲田に挑んだ。この年の早稲田が力不足で1部の6位になったのではない。全日本大学対抗優勝の実績を持ち、実力がありながらシーズンが終わったら最下位に落ちていたというチーム。それだけに早・慶の力の差は歴然としていると思われた。
硬式と違い、5ゲーム先取で決まる軟式の試合、第1組から4組までD−4、2−D、4−D、D−3と2勝2敗で迎えた第5組、諏訪・内藤享組が早稲田の木村・大川組(大川選手は前年度学生チャンピオン)と相対した。
後衛諏訪と前衛内藤のコンビよく、一時は4−3とリード、あとワンゲーム取れば、早稲田を下して1部昇格、しかし、早大名手大川の捨て身の反撃に4−Dと惜敗。最後のエールを交換しながら止めどなく流れる涙に顔を上げることができなかった1年生の内藤。しかし持てる力を初めて知って「やれば出来るんだ!」と1部昇格の意気に改めて燃えたのであった。
昭和31年に入っても春秋とも2部では優勝するが、入替戦になると春は明治、秋は早稲田にいずれも2勝3敗で敗れ、依然として1部への壁の厚さを痛感させられるのであった。
昭和32年春、越前首相の下、有力な新人と上級生のペアで力をつけた慶應は、2部リーグで他校を圧倒し、かなりの自信を持って明治との入替戦に臨んだ。トップは両校大将同士の対戦、内藤尚・越前組がまず登場、内藤が角度のついたシュートボールで左右に相手を揺さぶれば、越前がたて、横にとりまくり、完封してまず先制。続く第二組(村井・大岩組)は相手の粘りにあって惜敗したが、3番手新人ペア(西村・糸川組)がものおじしないプレーで完勝。待望の1部へあと1勝と迫った。第4試合は4年生ペアの近藤・山崎組。近藤英夫が山崎武之介と4年生らしい意気の合ったプレーを見せれば、対する明治は2部転落を意識して固くなり、ミスが目立ち始めた。第4組の快勝によってここに7年振りの1部復帰がなった。
あまりにも長かった2部の苦労。あまりにも厚かった1部の壁、それを乗り越えただけに現役選手の喜びはもちろん、監督・OBのうれしさも一様ではなく、祝賀会の席はおめでとうの声と共に、「1部の座を守りぬけ」の激励の声に満たされた。
こうして慶應軟式庭球部は32年秋から1部リーグで戦うことになったが、2部時代と違って苦戦の連続であった。高校時代トップクラスのプレーヤーであった選手からなる1部リーグ、ボールのスピードが2部と違って段違いに速く、勝ち点も取れない最下位を2シーズン続け、1部リーグで定位置、テールエンドを脱して4位になったのは、昭和35年春。この瞬間、2部時代から数えて連続11回の入替戦出場記録にピリオドが打たれた。
これを機会にふっ切れた軟庭部は、1部の中堅として活躍。昭和34年夏、会津若松で行われた全日本大学対抗戦では、準々決勝で第1シードの中央を破り、準決勝では関西の雄、関大を下して決勝進出。いっぽう早稲田も強豪を下して決勝に進出、ここで夢の早慶戦が全日本学生決勝で実現することになった。4年生を中心とする早稲田に対して3年生以下が中心の慶應は、精神的な若さがわざわいし実力が出せないまま敗れ、ついに準決勝に止まった。
この間、昭和32年秋の慶同定期戦で内藤尚・越前組の大活躍で連敗に終止符を打ち、翌33年には内藤尚選手が第1回全日本大学シングルスで優勝するなど、「慶應に軟庭あり」の名がようやく世間に知られるに至ったのである。

慶應ス ポツを憂う
                   体育研究所 笹島 恒輔 教授

慶應は、以前はスポーツも非常に強かった。だから、未だかってインターカレッジや全日本で優勝したことのない部は、柔道と陸上競技とスキーのわずか3つです。最近日本のアマチュアスポーツは弱くなったと言われますが、慶應にもそういう傾向ははっきりとあらわれています。
その第1の原因は、旧制の頃は、全国でわずか45しか大学がなかったし、今より入学しやすかったので、それだけ運動選手が集まりやすかった、ということがあります。これは、今まで日本の大学で1番学生のオリンピック選手を出しているのは、早稲田、慶應、明治、そして東京帝国大学の順になっていて、体育専攻の大学は入っていないということからも明らかです。
第2に、新しい大学がたくさん出来てきて、そこがスポーツを利用して学生を集めるようになったこと。競技で活躍すれば新聞に名前が出ますね。そうするとそこに受験生が集まる。実際、東都大学野球の秋のリーグ戦で優勝した学校は、必ず翌年受験生が増えています。
第3に、部員数の減少があげられます。現在でも部員数の多い野球部やラグビー部の場合は、せりあわなければならないのでチーム自体が強くなれるのですが、多くの部は、部員が少ないから、練習を怠けても試合に出れるという状況なわけです。
第4に体育系の学校が極端に増えたことです。我々の学生時代は、日本体育大学しかありませんでした。ところが、今は体育専攻の大学が、早稲田、日大、国士舘、順天堂、筑波大、日体大などがあって、推薦入学で選手の取り合いをやっています。そういう大学は、当然強くなるわけです。そうすると、体育専攻をもっていない慶應などは、自然と弱くなってしまうのです。
塾高の選手を鍛えたらいいのではないか、と言うかもしれませんが、高校でしぼられていると、大学に入ると、もっと楽なほうへ行こうといって同好会に入ったり、あるいはスポーツをやめたりしてしまいます。塾高の運動部員が何人大学の運動部に入っているかを調べるとわかります。かなり少ないのです。しかも、慶応の中で強い体育会は、キャプテンのほとんどが外部の出身者で、塾高出身者がキャプテンの部は、種目によらず弱い部が多いのです。このことに対しては、いろいろ考え直すべき点があるかもしれません。
第5に、今日においては、他に刺激を受けるところが多いことです。昔は、学校から、映画や喫茶店に行ってはいけないと言われていたので、はけ口がスポーツしかありませんでした。今は、マージャン、ディスコなどいろいろなところにはけ口があるでしょう。
最後にあげるべき点は、これは慶應のみならず、日本のスポーツにおいて言えることですが、野球が盛んになりすぎているということです。昔は偏らないようにということもあって野球部は、わずかの中学にしかおくことが許されていませんでした。最近の日本のアマチュアスポーツが弱くなっていることの原因として世界があまりにも強くなりすぎたというのがあると思うのですが、最近日本にとってかわって中国が強くなったのはこのような手段をとっているからなのです。
中国ではある1つの町においては、1つの種目しかさせません。だから中国では、水泳の里やバレーの里というのがあるのです。一流選手の過半数はそこから出ています。しかも、経済的にも保障されています。日本の場合一流選手になっても企業に就職したら、将来は保障されないでしょう。プロになれば別ですが、そうでなければ、会社で出世が遅れることは明らかです。そうすると、会社勤めで偉くなった方が収入が多ということで、みんなそちらの方を選んでしまうのです。ところが、中国では大学進学率は1.5%ときわめて低いのですが、優秀選手は優先して大学進学の枠に入れるようになっています。中でも、強い代表選手は、授業料免除は勿論のこと、生活費まで保障されるのです。
中国の場合、一般庶民は社会主義圏に共通することで、自由には旅行できないのですが、運動選手であれば、大会のたびに全国を旅行でき、場合によっては海外渡航も自由に出来ると言うことで、非常に人気があり、それだけ優秀な選手を集めやすいということがあります。また、混血児にはスポーツの才能のある人が多いという点で、58もの少数民族からなる中国は、人材に恵まれていると言えます。現に中国の柔道の選手はみな蒙古出身なのです。
アマチュアスポーツで世界から立ち遅れた日本においては、先日設立されたスポーツ振興懇談会は、必要不可欠であり、日本の今のセクショナリズムを是正し、国家経費によって一流選手を養成する場所を提供していく方向をとっていく上で非常に重要な位置にあると思います。これからの慶応大学のスポーツ発展のためにも、活躍してほしいところです。
      昭和62年10月20日

慶應キャンパスより転載

 

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