特  集
   
   
  小野先輩を偲ぶ
   
   
   
   
 
 
 弔   辞
                                               三田軟式庭球倶楽部 会長 岩井 三郎
     

昨日、小野晴男様の訃報に接し、驚き入った次第でございます。半年程前から御具合が悪く、入退院を続けて居られた事は、承知して居りましたが、最近は快方に向かわれて居られた御様子であった丈に、 実に残念至極でございます。
小野様と私とは、昭和6年以来、五十数年の御付き合いで御座いまして、私が慶應義塾予科1年で硬式の庭球部員でありましたが、当時本科2年でいらっしゃった小野様を中心とする同期2,3の方から、塾に軟式庭球部を作るから来ないかと御誘いを受け、元々、軟式出身者であっただけに、喜んで馳せ参じた次第で御座います。そして其の年、春秋2期に亘り、小野様達の御活躍により、大学リーグ戦に優勝することが出来、今日の慶應義塾体育会軟式庭球部の確固たる基礎を作られたので御座います。
軟式庭球部は現在御承知の様に、現役と其の先輩団体である三田軟式庭球倶楽部と合せて、四百数十名に達する大所帯となって居りますが、統制のよく取れた家族的雰囲気に満ちた、優秀な団体になって居りますことから考えましても、創始者である小野様の功績は偉大なるものと申す外は御座いません。
又、近年に於きましては、軟庭部から毎年発行いたします会報は、総て小野印刷所より発行されて居り、殊に軟式庭球部体育会昇格30周年を記念いたしまして、三田軟式庭球倶楽部より発刊されました「ソフトテニスの新世紀、軟式庭球百年」と題する文献は、之も小野印刷所で製作されたことは申すに及ばず、何かと小野様の御配慮により、大変な成功を収めたもので御座います。
以上申し上げました様に、テニスを通じ、又、小野様の御仕事の面に於きましても、慶應義塾軟式庭球部、三田軟式庭球倶楽部と小野様とは、不可分の関係に在ったもので御座いまして、吾々と致しましては、今日の御逝去、誠に痛惜おくあたはざるもので御座います。
茲に、慎しんで、其の御冥福をお祈り申し上げるもので御座います。

     昭和62年12月27日

今は亡き小野晴男先輩への感謝
                                    昭34卒 三 戸 節 雄

     『ソフトテニスの新世紀』の生みの親である小野先輩

小野晴男先輩がいつもにこやかに優しく迎えてくださった沼津の印刷所へ、私は14回もお邪魔しました。
『ソフトテニスの新世紀』のまとめを、新たに小野印刷所へお願いするため、昭和60年10月5日の土曜日、編集スタッフの山本連君(昭和41年卒)とうかがったのを皮切りに、いよいよ発刊の記念パーティ(昭和62年3月7日、土曜日、三田山上)が行われる少し前の2月20日にいたるまでの間、小野先輩にお会いできるのが楽しみで沼津へ通いました。
『ソフトテニスの新世紀』は、小野先輩と打ち解けた会話を通じて、絶えず有益な示唆を受けつつ、豊かな内容になっていきました。たとえば針重敬喜著『日本のテニス』の転載にしても、私としてはそのうちの「軟球篇」だけでも大部になり全面転載など最初は思いもおよばなかったのですが、小野先輩との会話を通じて、“部分より全体の歴史が比較できないほど価値が高い”ことを悟り決断しました。もっとも全面転載すればそれだけお金がかかるわけでして、その点では経済的に負担をおかけした三田軟式庭球倶楽部OBの皆様に心より感謝いたします。
三田軟式庭球倶楽部の記念誌づくりに対する小野先輩の熱意はことのほか強く、しばしば圧倒される思いでした。小泉信三先生が口にされかつ実行された「練習ハ不可能ヲ可能ニス」については、小野先輩も早くから心に記しておられ、早川種三氏より小泉先生の書をお借り出来た時には大喜びされました。「スポーツマンにとって、これほど味わい深い言葉はない」と何度も何度も強調された小野先輩のきりりとしたお姿を想い起こします。
ことほど左様に、記念誌の企画の1つ1つに賛意を示され、また貴重な助言をなさってくださいました。小泉信三先生のことにとどまらず、熊谷一彌、清水善造そのほか硬式庭球界の大選手たちの軟庭時代の活躍ぶりを手を取るように解説され、それらの人達を含む「日本のテニス」の歴史を書くことの必要性を説かれたのでした。『ソフトテニスの新世紀』の生みの親は、小野先輩だったのです。

     読書家の小野先輩と議論するのは最高でした

小野先輩の読書好きは、学生時代からのものだったようです。いつも謙虚な小野先輩はけっして自慢話をなさったり、教養人ぶったりはなさいませんでしたが、その時代時代の政治、経済、外交、文学をめぐる代表的な人物と文章については熟知しておられ、若輩の私には大いなる刺激でした。
最初に沼津をお訪ねした時から、今村武雄著『小泉信三伝』に話がおよび、その後もこの書物に話題が収斂しまた拡散することがしばしばでした。慶應義塾の自由な学風が、画一的な官僚的な日本の社会にあってユニークなものであったが、昨今はそれが薄れてしまった。これも時代なんですかね、と小野先輩は苦笑された。今村著の中に小泉先生の慶應義塾の学風についての文章が引用されている。小野先輩はそこを指摘し笑っておられた。
「……先生は『福翁自伝』の中でも、『今の開国に時節に古く腐れた漢説が後進少年生の脳裏にわだかまっては、とても西洋の文明は国にはいることができないと、あくまで信じて疑わず』といっています。けれども当時の中学校で慶應ひとり漢文を教えなかったのは、吾々の読書力、作文力を弱めるものであったといわなければなりますまい。兎に角当時の慶應義塾の学課規定は、文部省の方針に従わず、また些か継っ子になることを得意とするような風がありました。」
『福翁自伝』から小泉信三作品集へ、さらに司馬遼太郎へと、小野先輩の読書談義はとどまるところを知りませんでした。
昭和61年の4月末に沼津へお邪魔した折には、さっそく発表されて間もない司馬遼太郎の『アメリカ素描』について言及してこられました。アメリカに関する書物は山ほどあり、またアメリカ情報は新聞に雑誌に氾濫しているけれども、肝心のアメリカ人の心情や社会構造の変化について納得させてくれるものはない。それに比べると、初めてアメリカの地を踏む司馬遼太郎の洞察力のすごさよ、というわけです。その年の6月には司馬作品の『ロシアについて』も刊行され、アメリカ、ロシア、日本をめぐる国際関係、その利害得失について議論の尽きることがありませんでした。私の沼津行きの楽しみは、記念誌づくりのほかに、小野節をじっくり聴き込むことにあったかもしれません。小野先輩のけっして押し付けることはしないが、きわめて説得力のある話し振りは、いつまでも忘れることが出来ないでしょう。
小野晴男先輩は真の読書家でした。

     伊豆長岡で“校正合宿” 小野先輩に励まされ奮起
記念誌『ソフトテニスの新世紀』の編集に当っては、私を含めて10人のスタッフで編集委員会を構成しスタートしました。本格的の活動を開始した昭和56年の春以降、編集の道程は紆余曲折、長い時間がかかり三田軟式庭球倶楽部のOBの皆様にはご迷惑をお掛けしましたが、編集スタッフ一同、ベストを尽くして取組みました。
編集作業は依然として職人的な要素があり、わけても大冊『日本のテニス』の校正は大作業でした。無論私達の校正作業以上に、小野印刷所の皆様のご苦労といったら言葉には表現できますまい。なにしろ昭和6年発刊の300ページ(しかも旧仮名・漢字)におよぶ書物を、改めて活字を打ち直してつくろうというのですから、並大抵のことではありません。小野印刷所の皆様には、いくらお礼を申しても申しすぎることがないほどです。
さて私ども編集スタッフ一同は、昭和61年8月30日(土)31日(日)の両日、小野先輩のお取り計らいで伊豆長岡にて“校正合宿”をしました。
参加メンバーは赤井宏司(昭和55年卒)、工藤正人(51年卒)、玉木進(48年卒)、伊地知信好(47年卒)、山本連の諸君と私の6名でした。鎌田純(54年卒)、大和洋一(53年卒)、の両君はロンドン駐在、小宮有二君はニューヨーク駐在、橋本明君(45年卒)は大阪転勤で参加できませんでしたが、私ども10名のチームワークは、素晴らしいものでした。このチームで新しい雑誌を企画したら既成の雑誌を参ったと言わせる問題提起ができるのだがなあ、などと想像するほど優秀で個性的なスタッフたちでした。
声は枯れ目は充血する難行でしたが、ひとつの緩みもなく校正作業を終えました。さすが三田軟式庭球倶楽部の勇士たちでした。
お体の調子が悪いにかかわらず、小野先輩がご子息の恭嗣さんとごいっしょに、陣中見舞いをしてくださいました。スタッフたちはどんなに感激したかわかりません。
『ソフトテニスの新世紀』の編集スタッフ一同、生前、小野先輩にお世話になったことに対し深く感謝すると共に、ご冥福をお祈りする次第です。

(経済ジャーナリスト)

塾 軟 庭 部 発 祥 の 頃
                         昭8卒 小 野 晴 男

不世出の熊谷一弥氏の当時、それ迄、塾庭球部のテニスは軟式テニスであったものが、デ杯に出場する必要もあって、軟式から硬式に転換した。それ以来、塾には軟庭部が無くなり、大多数の軟庭愛好家は淋しい年月を送ることになった。
そこで、当時の予科会なるものが、軟庭愛好家の期待をになって、全予科生の軟式テニスのクラス対抗戦を計画した。コートは多分、日比谷公園だったと思う。
1クラス3組編成で、選手の揃いが悪かったクラスもあった様だが、私の属して居た2年K組は多士済々で、5組位はあった。自然に頭角をあらわし各クラスの注目する処となり、今、関西支部長をやっている鎮目俊之君と小野を擁する2年K組が目の敵となり、“優勝する為には2年K組を倒せ”が合言葉となった。
さて、大会当日となった。
同年の田原直人君と新木を擁するクラスは、優勝候補の2番手に居たが、今は横須賀に居住して詩吟を教えている田原君が作戦を立て、小野・鎮目に3番手を当て、他の2組に勝って、その年も次の年も優勝してしまった。我々優勝候補も、ただの敗け組に終わってしまったのである。
その後のことである。私の生涯忘れることの出来ない事が持ち上がった。クラス員全員が、今年は小野・鎮目を擁する我がクラスを勝たせようと、級友の1人が言い出して、全員、50銭だか1円を醵出して、ガット代に使用してくれと言い、我々代表に陣中見舞いを提供してくれた。
同級生の激励を受けたK組は、次の大会に万全の体制で臨むことになった。始まってみると、前回同様小野・鎮目組は又もや外されたが、他の組が奮闘して相手方の組を倒してくれたので、3度目で初めて優勝を飾ることが出来た。
更にその後のことである。いよいよ慶應義塾が大学高専の大会に出ることになった。皆の希望で、部として認めてもらい、補助金を出してもらう様、学校当局に要請することに決まったので、私が代表となって、林塾長に面会し、皆の希望を伝えた所、塾長は、「まず第1に大学高専で優勝することが先決問題である。」と言われたので、塾監局の下で待っているチームの諸君にその旨を伝えた。
試合当日は順調に勝ち進んで、日大その他強豪の学校を倒して慶應が優勝できた。幸運にも次の大会にも優勝できて、望外の喜びを得たことを思い出す。その優勝の陰には、日向正善君の大活躍が與かって力があった。
後年この林塾長との約束が実現されて、部として認められ、補助金ももらえる様になった。現在の基礎が出来上がったわけである。
以上が軟庭部誕生のあらましである。今後も軟庭部を愛して益々発展する様、現在の皆様にお願いする次第である。

(風間注)
小野さんは亡くなる2ヶ月程前まで、時々、事務局や自宅に電話を下さり、会報の読後感や、励ましや、時には慰労のお言葉を頂いたことを、つい昨日のことのように思い出します。小野さんのお人柄に甘えて、病気ご療養中のこととは知りながら、ご寄稿を依頼し、ご快諾を頂戴いたしました。
後で分かったことですが、このため小野さんは病躯に鞭打って、最後の力をふりしぼり、必死になって書かれたとのことでした。
この原稿は事務局に62年11月19日に到着し、同月23日に入院された小野さんは、12月26日不帰の客となられました。この文章は文字通り、小野さんの最後のご遺稿となりました。
心からご冥福を祈ります。

御  挨  拶
                                 小野印刷所 代表取締役 小 野 恭 嗣

葬儀には三田軟式庭球倶楽部の岩井三郎会長始め、沼津三田会、沼津庭球協会の皆様には、特にお世話になり有難うございました。
健康な父で、寝込んだこともありませんし、成人病検査では1度も、ひっかかったこともありませんでした。
10年前に軽い脳血栓で入院しましたが、この3・4年進んだ形になりました。若い時から激しいスポーツで鍛錬していたからでしょうか、塩分の食べものが、ことのほか好きでした。若い時からの嗜好は変わりにくく、動脈硬化の一因になっていたのかもしれません。
この5・6年は、仕事や対外的な関係もほとんどタッチしておりませんでしたが亡くなってみますと、1日でも長生きしてほしかったと思うのが家族の実感です。
父は、人の苦労がよくわかるようで、正義感が強く、弱い立場の味方でした。
沼津―東京間を毎日往復している便利屋さんがおりますが荷を届けに来ると父が「今日も無事に帰ってきてよかったねー」と、優しい声をかけてくれる、と言って、男泣きして、おくやみを言ってくれました。
また新聞配達員が父とどのようなコミュニケーションがあったかは、わかりませんが、葬儀に参列してくれました。
部報に載せる原稿は最後の力を絞るように、死力を尽くして書いていました。
時々、当時を思い出すのか、小泉先生がコートに毎日のようにお見えになり、学生の練習をジーと見ていらしたそうですが、学生としては実に気合が入ったそうです。
父は小泉先生から多くの薫陶を受けていたようです。
「ソフトテニスの100年史」の巻頭部の「練習は不可能を可能にする」は、座右の銘にしていました。
また、しばし「困難には自分が直接行って打開せよ」とその勇気の必要さを教わったそうです。小泉先生は「勇気」のある偉大な指導者で、当時全盛だったマルクス経済学に敢然と立ち向かったのも小泉先生だったそうです。
父にとって、小泉先生は学問の師であり、人生の師でもありました。きっと計り知れない感銘を受けていたと思われます。
最後に私見ですが、スポーツマンが世の中で好まれるわけは、スタート位置についてパッと行動に移る、その行動性であり、またファイト、闘争心をもっていて、積極性があるからではないでしょうか。
庭球部の皆様は、まさに「心優しく、暖かく、なお勇気ある人々」です。
父と同様のご厚情をお願いしながら、庭球部の皆様の益々の御健勝をお祈りします。

合 掌

(風間注)
小野様よりのご芳志の30万円が、29卒、沼津在、山本洋君より、事務局に届けられました。岩井会長とも相談の上、有難く拝受し、現役強化のため、永続使用可能な、形あるものに使わせて頂くことになりました。厚く御礼申し上げます。

       
   

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