| 『ソフトテニスの新世紀』の生みの親である小野先輩
小野晴男先輩がいつもにこやかに優しく迎えてくださった沼津の印刷所へ、私は14回もお邪魔しました。
『ソフトテニスの新世紀』のまとめを、新たに小野印刷所へお願いするため、昭和60年10月5日の土曜日、編集スタッフの山本連君(昭和41年卒)とうかがったのを皮切りに、いよいよ発刊の記念パーティ(昭和62年3月7日、土曜日、三田山上)が行われる少し前の2月20日にいたるまでの間、小野先輩にお会いできるのが楽しみで沼津へ通いました。
『ソフトテニスの新世紀』は、小野先輩と打ち解けた会話を通じて、絶えず有益な示唆を受けつつ、豊かな内容になっていきました。たとえば針重敬喜著『日本のテニス』の転載にしても、私としてはそのうちの「軟球篇」だけでも大部になり全面転載など最初は思いもおよばなかったのですが、小野先輩との会話を通じて、“部分より全体の歴史が比較できないほど価値が高い”ことを悟り決断しました。もっとも全面転載すればそれだけお金がかかるわけでして、その点では経済的に負担をおかけした三田軟式庭球倶楽部OBの皆様に心より感謝いたします。
三田軟式庭球倶楽部の記念誌づくりに対する小野先輩の熱意はことのほか強く、しばしば圧倒される思いでした。小泉信三先生が口にされかつ実行された「練習ハ不可能ヲ可能ニス」については、小野先輩も早くから心に記しておられ、早川種三氏より小泉先生の書をお借り出来た時には大喜びされました。「スポーツマンにとって、これほど味わい深い言葉はない」と何度も何度も強調された小野先輩のきりりとしたお姿を想い起こします。
ことほど左様に、記念誌の企画の1つ1つに賛意を示され、また貴重な助言をなさってくださいました。小泉信三先生のことにとどまらず、熊谷一彌、清水善造そのほか硬式庭球界の大選手たちの軟庭時代の活躍ぶりを手を取るように解説され、それらの人達を含む「日本のテニス」の歴史を書くことの必要性を説かれたのでした。『ソフトテニスの新世紀』の生みの親は、小野先輩だったのです。
読書家の小野先輩と議論するのは最高でした
小野先輩の読書好きは、学生時代からのものだったようです。いつも謙虚な小野先輩はけっして自慢話をなさったり、教養人ぶったりはなさいませんでしたが、その時代時代の政治、経済、外交、文学をめぐる代表的な人物と文章については熟知しておられ、若輩の私には大いなる刺激でした。
最初に沼津をお訪ねした時から、今村武雄著『小泉信三伝』に話がおよび、その後もこの書物に話題が収斂しまた拡散することがしばしばでした。慶應義塾の自由な学風が、画一的な官僚的な日本の社会にあってユニークなものであったが、昨今はそれが薄れてしまった。これも時代なんですかね、と小野先輩は苦笑された。今村著の中に小泉先生の慶應義塾の学風についての文章が引用されている。小野先輩はそこを指摘し笑っておられた。
「……先生は『福翁自伝』の中でも、『今の開国に時節に古く腐れた漢説が後進少年生の脳裏にわだかまっては、とても西洋の文明は国にはいることができないと、あくまで信じて疑わず』といっています。けれども当時の中学校で慶應ひとり漢文を教えなかったのは、吾々の読書力、作文力を弱めるものであったといわなければなりますまい。兎に角当時の慶應義塾の学課規定は、文部省の方針に従わず、また些か継っ子になることを得意とするような風がありました。」
『福翁自伝』から小泉信三作品集へ、さらに司馬遼太郎へと、小野先輩の読書談義はとどまるところを知りませんでした。
昭和61年の4月末に沼津へお邪魔した折には、さっそく発表されて間もない司馬遼太郎の『アメリカ素描』について言及してこられました。アメリカに関する書物は山ほどあり、またアメリカ情報は新聞に雑誌に氾濫しているけれども、肝心のアメリカ人の心情や社会構造の変化について納得させてくれるものはない。それに比べると、初めてアメリカの地を踏む司馬遼太郎の洞察力のすごさよ、というわけです。その年の6月には司馬作品の『ロシアについて』も刊行され、アメリカ、ロシア、日本をめぐる国際関係、その利害得失について議論の尽きることがありませんでした。私の沼津行きの楽しみは、記念誌づくりのほかに、小野節をじっくり聴き込むことにあったかもしれません。小野先輩のけっして押し付けることはしないが、きわめて説得力のある話し振りは、いつまでも忘れることが出来ないでしょう。
小野晴男先輩は真の読書家でした。
伊豆長岡で“校正合宿” 小野先輩に励まされ奮起
記念誌『ソフトテニスの新世紀』の編集に当っては、私を含めて10人のスタッフで編集委員会を構成しスタートしました。本格的の活動を開始した昭和56年の春以降、編集の道程は紆余曲折、長い時間がかかり三田軟式庭球倶楽部のOBの皆様にはご迷惑をお掛けしましたが、編集スタッフ一同、ベストを尽くして取組みました。
編集作業は依然として職人的な要素があり、わけても大冊『日本のテニス』の校正は大作業でした。無論私達の校正作業以上に、小野印刷所の皆様のご苦労といったら言葉には表現できますまい。なにしろ昭和6年発刊の300ページ(しかも旧仮名・漢字)におよぶ書物を、改めて活字を打ち直してつくろうというのですから、並大抵のことではありません。小野印刷所の皆様には、いくらお礼を申しても申しすぎることがないほどです。
さて私ども編集スタッフ一同は、昭和61年8月30日(土)31日(日)の両日、小野先輩のお取り計らいで伊豆長岡にて“校正合宿”をしました。
参加メンバーは赤井宏司(昭和55年卒)、工藤正人(51年卒)、玉木進(48年卒)、伊地知信好(47年卒)、山本連の諸君と私の6名でした。鎌田純(54年卒)、大和洋一(53年卒)、の両君はロンドン駐在、小宮有二君はニューヨーク駐在、橋本明君(45年卒)は大阪転勤で参加できませんでしたが、私ども10名のチームワークは、素晴らしいものでした。このチームで新しい雑誌を企画したら既成の雑誌を参ったと言わせる問題提起ができるのだがなあ、などと想像するほど優秀で個性的なスタッフたちでした。
声は枯れ目は充血する難行でしたが、ひとつの緩みもなく校正作業を終えました。さすが三田軟式庭球倶楽部の勇士たちでした。
お体の調子が悪いにかかわらず、小野先輩がご子息の恭嗣さんとごいっしょに、陣中見舞いをしてくださいました。スタッフたちはどんなに感激したかわかりません。
『ソフトテニスの新世紀』の編集スタッフ一同、生前、小野先輩にお世話になったことに対し深く感謝すると共に、ご冥福をお祈りする次第です。
(経済ジャーナリスト)
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