良きテニスのお仲間たちに感謝して
会長 昭12卒 岩井 三郎 |
| わが軟式庭球部も、昭和54年に部昇格30周年、平成元年には40周年を迎え、記念事業として合宿所の改築を行った。戦前の対抗競技部の一部として創立し、対外試合に慶応の名で出場できるようになった時から数えると、すでに50年を越えており、まるで夢のような思いである。
戦後、体育実技が学校の正課となり、これに従って軟式庭球部が体育会の一部に昇格した訳である。私が初代監督に任命されたが、講和条約前であったため、厳密な資格審査の上、軟式庭球の実技指導員とされ、同時に慶應義塾大学教員の辞令をいただいた。
それからというもの、新しい部としてどういう方針で進むかについて、深く考えさせられた。体育会としての伝統の中に入るわけであるから、酷しさと規律を厳粛に守ることはもちろんであるが、新しい部には新しい部なりのユニークなものがあって然るべきと思い、スパルタ式教育よりも、部員各自にやる気を起こさせるような和気に満ちた新しい部を作っていき、いずれ生まれる多くの部出身者の三田軟式庭球倶楽部と一丸となって、小市民的かもしれないが、美しい社会を形成していく、というのが夢だった。
戦後の混乱期で、自分自身が食うや食わずやの時であったため、日吉にも休日以外はなかなか赴くことができなかったが、私は部員諸君に対し、監督という立場より、むしろ同じテニスの道を進む良き仲間として身体でぶつかっていく方だった。
監督を務めた15年の後半は、少しは時間的余裕もでき、部員諸君と過ごすことも多くなった。私の京橋の事務所には、絶えず誰かが出入りするようになり、私の仕事をアルバイト的に手伝ってくれる部員も多かった。当時の主将の一人である内藤享佑さん(現総監督)からは、私の事務所は「軟庭クラブ」という異名を頂戴していたほどである。そのように、仕事に、テニスに、激務と思われる日々であったが、反面、私としては生きがいがある楽しい時期でもあったと思う。
監督を辞めさせていただき、その後、総監督から会長となって間もなく、軟式庭球部昇格20周年の祝賀会が三越の特別食堂で開催された。その折、三田軟式庭球倶楽部の皆さんが、東京のみならず全国各地から参集し、その人数は卒業生の80%以上と思われ、極めて和気あいあいとした雰囲気が漲った。
その時、金子体育会理事より「岩井さん、これは他に類を見ないような素晴しい部ですね」と、声をかけていただき、お世辞におっしゃったのかは分からないが、私としては涙がこぼれるほど嬉しいことであり、夢が半ば以上実現した喜びをかみしめた。
その後、糸川さん、内藤さんと名監督が続き、豊田さんが副会長に就任され、意欲的に風間新理事長を迎え、さらにスタッフの方々も充実し、基礎が磐石となり、より立派な軟式庭球部、三田軟式庭球倶楽部となっていくことを楽しみにしている。
最後に私の近況を申し上げると、有名な故熊谷一弥氏(テニス世界ランキング2位、元軟式庭球部顧問)が創設され、皇太子殿下(現陛下)もご来場賜り、700人のクラブ員を擁している名門鎌倉カントリーテニス倶楽部の会長を、やむなくお引き受けすることとなった。これも、私のテニス人生に伴う宿命と思われ、監督時代に若返ったような気持ちである。そして、ここでも良き仲間たちのお世話をさせていただきながら、週2,3回はテニスに親しんでいる。
(記・1990年1月)
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四 十 周 年 に 思 う
理事長 昭29卒 風 間 清
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| 平成4年3月14日の日吉二幸食堂における、創部40周年記念並びに合宿所完成祝賀会で、私は開会の辞を述べる機会を与えられた。私はこのことを稀有にして名誉な有り難いこととして受け止め、昨日のことのように鮮やかな心象が、今に残っている。
なにぶん開会の辞であるため、多言を憚かったので、部の歴史と40周年に至った経緯に軽く触れるにとどめたので、もう少し肉付けをして、40周年に思った事を若干付け加えたいと思う。
そもそも、慶応義塾における軟式庭球の歴史は、物の本によれば、遠く明治34年にその端を発している。塾、早稲田、一橋、高等師範によって覇権が争われ、元塾長、小泉信三博士も明治の終わり頃、斯界における豪打の持ち主としてつとに著名で、塾を代表する軟式庭球の名手として対外試合に活躍されたことは、故小野晴男氏(昭和8年卒)、豊田前理事長(昭28卒)、三戸節雄氏(昭34卒)をはじめ、多くのOBと小野印刷所のご努力によって、30周年記念事業として上梓された『ソフトテニスの新世紀』にも明らかである。
世上、小泉信三氏は硬式庭球の名手であったという誤解があるように思う。先年、新合宿所建物の延面積の拡大という厄介な問題について、石川全塾長の片腕とも言われた松本三郎前常任理事と折衝の折、私が「小泉信三さんは軟式庭球の名選手だったんですよ」と申し上げたところ「えっ、そうなのですか、硬式とばかり思っておりました」と認識を新たにされた。誤解は塾内にも蔓延している。
その席で松本さんが合宿所問題に就いて終始じっと耳を傾けられた後、「三田軟式庭球倶楽部のご意向は、塾としても喜ばしいことなので、塾長とも相談して前向きに検討して、できるだけ早くご返事を差し上げます」といわれた時、心の底から嬉しさが込み上げてきたことを忘れない。
折衝の翌日、松本さんが自ら日吉に赴かれ、旧合宿所とその周辺を視察されたことを聞き、その素早い行動と、机上だけで論ぜず、現場を自ら目で見て判断するリーダーの姿に感心したことも忘れない。水泳部の旧合宿所の半分を取り壊すことによって、我が部の新合宿所の延面積の拡大が行われたことは、先刻ご承知の通りである。
話は小泉信三氏に戻る。私が最初に小泉さんを意識したのは、経済学徒として小泉さんの一連の共産主義批判の書を読んだことによる。その後、小泉さんが軟庭の名手であることを知った。その時抱いた親近感と畏敬の念は今でも変わらない。「小泉信三さんは我が部の大先輩です」と胸を張って人に語る時、誇りと自らを律する気持ちが綯い交ぜになり、その夜『小泉信三全集』や関係書を繙くことがある。
鎮目俊之氏(昭8卒)が数度目の癌に冒されて亡くなる1月余前、吹田市のご自宅へお見舞いに伺ったことがある。鎮目さんは、同病で明日をも知れぬ奥様の臥せられている部屋の隣室で、静かに読書をされていたご様子であった。私に「今生の思い出に小泉信三全集を読み返しているところです」と語られた時、己の死の近いことを知ってなお泰然として読書されていることに、私は圧倒され返す言葉を失った。同時に、小泉さんに傾倒するその深さを垣間見る思いがした。我が部には、小泉さんを心から尊敬する人が多い。
小泉さんのロンドン留学中の大正2年、塾庭球部は硬式を採用した。この間の事情に就いては、今村武雄氏著『小泉信三伝』に明らかであるが、恐らく小泉さんは全面硬式転向ではなくて、硬式と軟式の両立を想定していたのではないかと、私は勝手に考えている。もしそうであったとしたら、40周年ではなく90周年くらいになるのではないかと、死んだ子の年を数えるような思いもあった。かくして大正2年以降、昭和6年に慶応義塾軟式庭球クラブが結成され、体育会の外郭団体として認められるまで、軟庭の体育会における歴史は中断した。
40周年にあたり、初期の部報を読み返した中に、昭和28年発行の増刊号に岩井会長ご寄稿の『塾の軟式庭球の回顧』がある。ここには昭和初期から戦前まで多くの先輩名手の方々の活躍ぶりが詳述されている。練習するコートにも事欠き、専ら借用コートで練習して、全国制覇をはじめ、驚くほどの戦績を上げられている。練習は不可能を可能にする。
戦後は信濃町の慶応病院内のコートで練習が再開された。私も慶応高校生として練習に参加させていただいた。コートの北側に接する道路を隔てて、当時の共産党書記長の徳田球一氏の家があり、猛者といわれた徳球さんも、偶に練習を見物していて、外へ飛び出したボールを投げ返してくれたりした。コートの南側には解剖室があり、脇に人の屍体や腕や脚などが浮いているホルマリン槽があった。この槽の中に入ったボールをよく拾わされた。「死んだ人より生きている人の方が恐いナムアミダブツ」と変な念仏を唱えながらボールを摘み出したことを思い出す。念仏のおかげか、今日に至るまで祟りはない。
昭和24年新制大学が発足し、体育科目が必修となり、体育実技が実施されることになった。このことと、当時の主将田中舒氏(昭25卒)、マネージャー山口龍男氏(昭25卒)のご努力によって、軟式庭球部は体育会の部に昇格した。爾来、周年行事は24年を起点として行われてきた。
この年、日本経済再建のためのドッジラインがしかれたり、シャープ・ミッションによる税制改革の勧告がなされたり、1ドル=360円の単一為替レ−トが決まる等して、国民生活は多大の影響を被った。石坂洋次郎氏原作の『青い山脈』が映画化され、大ヒットしたのもこの年である。
翌25年、現日吉記念館の場所にコート3面が設置された。コート開きの日、先輩方が嬉々として日吉の坂を上ってこられた。まだ、銀杏並木はほっそりとしていて、日吉駅前の坂下までよく見通せた。そこを、肩が触れたり離れたりしつつ、さんざめきながら登ってくる情景を鮮やかに覚えている。その中に熊谷一弥氏の姿があった。
始球式の直前、大石繁徳氏(昭27卒)から野太い声で「風間お前受けろ!」と命令された。1年生の私はケラのまたケラであるから、これはほとんど問答無用であった。日本初のオリンピック銀メダリスト、不世出の名手に対峙して、私は身を硬くした。熊谷さんのサーブは、ブルブルブルッと震えながら、弓なりの弧を描いて私に食い込んできた。当時のボールは品質が一様でなかったのだ。後年、この始球式のことを私が思い悩んだことを、」当の大石さんは知る由もない。その後、コートは2面増設され5面となった。
コートの脇に面してグリーンハウスという食堂があった。この食堂を恰もクラブハウスのように重宝した。当時、体育会に籍を置く女子部員は極めて珍しく、紅一点、日野曉子さん(昭29卒)の存在は塾生の耳目を集めたものである。29年卒には、全日本高校チャンピオンの日野さんの外に、国体高校出場者が6名もいて、今昔の感がある。
やがて百周年事業のためコートは現在地に移され今日に至っている。コートが完成した時、内藤享佑氏(昭34卒、総監督)が主将として宣誓文を残している。「我が部員一同新しいコートをいつまでも愛すると共に益々この道に精進し慶応義塾体育会の為に尽くすことを誓います」。日付は昭和33年 9月7日となっている。
翌34年暮近く、今よりはるかに少ないOBの努力と現役の父母の協力を得て、コートの側に最初の合宿所が完成した。開所式には奥井塾長が臨席され、祝辞を述べられた。合宿所の実現には、当時建設業を営まれていた岩井二郎氏(昭29卒)が与かって力があった。
話は平成に飛ぶ。平成3年10月いよいよ着工となり、旧建物を取り壊す前日、私は岩井氏に電話した。「二郎ちゃん、明日から合宿所の撤去作業を始めることになったんだけど、長い間本当に有難うございました」。壊すという言葉を避けて撤去といった。彼は「良かったね、いろいろご苦労様、僕にできることがあれば何でも言ってくれよ」と爽やかに応えてくれた。新合宿所は、多くのエピソードを部の歴史に加えて、平成4年2月13日に完成した。
本来、40周年は平成元年に当たるが、40周年記念事業である合宿所の完成を待って、冒頭に記した祝賀会が行われたわけである。
翻って、戦前の諸先輩が恵まれない状況の中にあっても、素晴しい成果を上げられたことに思いを致せば、現在はむしろ恵まれ過ぎた環境にあると言っても過言ではない。軟式庭球部を心の故郷と思うOBも増えている。三田軟式庭球倶楽部は、物心両面で現役を支援しよう。現役の皆さんも大いに頑張って、ソフトテニスと勉学に、一層の成果を上げてほしいと心から願っている。
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NO EXCUSE
総監督 昭34卒 内 藤 享 佑 |
「“NO
EXCUSE”でゆこう」と、これまで事あるごとに学生諸君に話してきた。そして、それは自分自身に対する戒めでもあった。勝負の世界に身をおくものに“EXCUSE”はない。どんな条件のもとでも、負けても仕方がない、というEXCUSEはない。今、持てる全て、全ての可能性を練習によって磨き、育て、勝者足らねばならない。(小泉信三先生は“練習ハ不可能ヲ可能ニス”と説かれた)
顧みて、現実は3部(男子)と7分(女子)であり、まして、全日本制覇に手の届く状態ではない。しかし、これらの不本意な事実に対してEXCUSEしたくなるタネは唯一つ、即ち入試の厳しさ、体育会敬遠の風潮による部員の質量の不足である。
質はともかく量だけでもあれば、といつも思う。量さえあれば、たとえ高校時代は無名選手でも、素人選手でも“練習により可能にする”ことができる。そして、石川元塾長の説かれた学生スポーツのあるべき姿「文武両道」を実現する自身がわが部にはある。また、その実績もある。
しかし、部員の質量についてEXCUSEする前に、その問題を解決すべくあらゆる手を打って一歩でも二歩でも前進し、ゴールに向かうのが勝負師に課せられた宿命であり、条件であることを片時も忘れてはならない。
わが部の置かれている環境を見てみよう。岩井会長、風間理事長を中心に、CAPを掲げたOB・OG諸氏の物心にわたる強力なバックアップ体制が着々と充実しつつある。たとえば、改築された日吉合宿所は、部員の食住のみならず、ミーティング、日吉を訪れてくれるOB・OG諸氏の便、学生やOB・OGの集いの場、そして受験生への宿泊・ヘルプの提供等々、強力な武器であるはずだ。
又、日本ソフトテニス連盟の西村専務理事(昭36卒)は、就任以来、ソフトテニスの国際性向上、競技の合理性向上等を通じて「魅力あるソフトテニスづくり」を基本方針のトップに掲げ、活力ある組織作りと愛好者の増大に向けて様々な活動を推進しており、大きな成果を上げてきている。
このように、周りの環境は「ヨシ」であり、POSITIVEな材料に勇気がわいてくる。EXCUSEする前に手を打とう。本塾日吉、志木高校を強化し、大学部員につなぐこと、塾高校生が進んで入部したくなるような魅力溢れる体育会軟式庭球部であること、出身高校、OB・知人の人脈を十二分に生かしての受験者とのコンタクト、それを通じての候補者の発掘と説得、本塾の法・商・理工学部の推薦入学制度を最大限に生かすこと……考えるだけでなく、叡智と勇気を持って実行し、勝負師の条件を全うしよう。練習、練習、そして勝利。全日本制覇へ邁進しよう。
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ソフトテニスの国際化
昭36卒 西 村 信 寛 |
平素、会社の部活動や連盟のことなどで、ソフトテニスとの関わりが多い割には、塾の方へ足を運ぶ機会がなく、恐縮しております。
1993年は、勤務先の朝日生命男子が、松本充嘉監督(昭51塾卒)のもと、日本リーグ4年ぶり3回目の優勝と全日本実業団選手権初優勝の二冠を成し遂げてくれ、部史の中でも最良の年となりました。連盟では林敏弘氏(早稲田大学教授)の後を受け、財団法人日本ソフトテニス連盟専務理事に就任してから5年目となり、微力ながら新しいソフトテニスの魅力作りに取り組んでおります。また、昨年は同じく林先生の後を継ぎ、アジアソフトテニス連盟の事務総長に就任いたしました。
日連は、ソフトテニスの統括団体として、日本体育協会および日本オリンピック委員会に所属しており、競技人口は約九十万人から百万人、総愛好者は七百万人と推定されます。また、全日本大会は小学、中学、高校、大学、社会人、実業団、レディスなど全ての層にわたっており、日体協・JOC加盟競技団体の中でも最もポピュラーな競技の一つといえます。しかし、残念ながら日体協・JOC・マスコミなどのオリンピック優先の風潮の中で、もう少しなんとかならないものか、と嘆く声も少なくありません。
こうした中で、日蓮は国際化の推進を基本方針に据え、ここ数年、海外普及に鋭意取り組んできました。私も及ばずながら責任者の一人として率先その任に当たっておりますが、とりわけ、宮本行夫氏(東京女子体育大監督)などのご尽力によるところが大きく、また、先輩の内藤享佑氏(昭34卒)にも大いに助けられております。
従来、ソフトテニスの国際普及は韓国、台湾が主体であって、それ以外の国は一部愛好者の活動によるものといった状況でした。しかし、それではいつまでたっても正式な国際競技として先の見えない話です。そこで、日蓮ではアジア地域に的を絞り、かつ目標としてIOCにも直接関連するアジアオリンピック評議会(OCA)の承認及びOCAが主催するアジア競技大会への参加を目指すことで、普及と組織化を図ってまいりました。
そのきっかけとなったのは、1986年に中国・北京へ単身乗り込んだ宮本氏と、当時の中国国家運動委員会科教部(主要体育大学の統括機関)都浩然部長との出会いといえましょう。私は宮本氏からの報告を聞き、中国のソフトテニスへの取り組みが国家レベルで行われ、都氏はじめ幹部の熱意が本物であることを感じ、日蓮が全面的に支援してこれを成功させねばならないと考えました。さらに、それをバネに、アジア全域への普及とOCAへの加盟、アジア競技大会への参加が実現できるとの確信を抱きました。
その後の進展は、今振り返ってもよく可能だったと思うほど急激でした。87年末、中国軟式網球協会発足、88年2月、海部俊樹氏を会長に迎え、日本、中国、韓国、インドネシア、マレーシア、ネパール6ヵ国により、アジアソフトテニス連盟設立、同7月、アジア競技団体連合会(GAASF)加盟、同9月、ソウルでのOCA総会においてソフトテニス競技を憲章に基づき承認。同11月、先の6ヵ国に中華台北、タイ、フィリピン、シンガポール、香港を加えた11ヵ国で第1回アジアソフトテニス選手権大会開催と続き、よく89年5月には、北京アジア競技大会でのソフトテニス公開競技実施が決定され、90年にその本番を迎えました。本大会には、先の11ヵ国に加えて、マカオ、モンゴル、モルジブなどの参加も得ました。
日蓮ではこれに並行して、94年に開催される広島アジア競技大会におけるソフトテニスの正式種目実現を果たすべく、活発に活動を展開し、遂に実現させることができました。本年10月には、いよいよ本大会が行われますが、現在、大会の成功を期して準備に鋭意取り組んでおります。
さらに、将来的には国際連盟を活性化し、IOCへのアプローチも行いたいと考えております。この件に関しては、世界的な影響力を持つ中国オリンピック委員会秘書長魏紀中氏が、力強い支援をしてくれております。そのためには、硬式の壁の厚い欧米へ何としても普及を図らなければなりません。
わずかな年月でここまで展開してきたわけですが、その間、徹底した日蓮関係者の支持の元、多くの方々の献身的な活動や資金的支援をいただけたことは幸いであり、深く感謝しております。
今後のことを考えると、まず、普及途上にある各国のソフトテニスの定着化と指導体制の自立化を図っていかねばなりません。そのためには、現地指導者の育成と用具の流通が重要なファクターとなります。国際派の日本人スタッフが、1人でも多く参加してくれることを期待しております。
国際化に絡んだもう1つの大きな課題に、国際ルールの制定と1994年からの国内大会での本格実施があります。新ルールの内容についてはここでは詳しく述べませんが、趣旨を一言で言えばダブルスでは二人のパートナーの平等性を高め、オールラウンド・プレーヤーを目指すものにしたこと。そして、シングルスを新たに制定したことです。シングルスは、前から学連が行っておりますが、それとは異なり、ボール・ネットなどダブルスと共通性を持たせたものとなっています。
このことに関しては、ひと昔前に、日蓮機関紙、手紙のやり取り、直接話し合いなどでの呉啓三郎氏(故人)との論争が思い起こされます。氏は塾関係者の1人で、長い間私が師事してきた方ですが、オールラウンド・プレーヤーをソフトテニスの理想とし、自らもそれを実施され、多くの成果を上げられた方です。その呉先生から私は何度となく、日蓮指導要領の雁行陣と前衛・後衛の専門化に偏ったやり方について、問題点を指摘されました。それに対して、私は連盟責任者の立場から、現在の戦法は、長い間の多くの指導者・プレーヤーの研鑽の帰結であり、多数意見であることを前提に、正当性を訴えました。
論議はいつも平行線を辿りましたが、私も呉先生の言わんとするところはよく理解していたわけで、将来はそういう方向に仕向けられないかと考え、ある時、立ち話でしたが、「それではルールを変えましょう」と言ったところ、「ルールに問題ではない」と先生がおっしゃったことを今でも覚えています。先生の本意は今でもよく分かりませんが、ご自身のプレーヤーとしての信念と、私の連盟役員としての立場の違いだっただけかもしれない、と思ったりしています。
ソフトテニスは今、変革の時代を迎えています。塾関係者の皆様のご指導・ご協力を今後ともよろしくお願いいたします。
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