《特集》
東京六大学軟式庭球連盟

…設立から初期の発展過程を顧みて… 部報36号 平成6年3月11日発行
 

 

昭和27年6月5日、東京六大学軟式庭球連盟は設立され、私達は当初から「六連」と略して愛称としていました。早いものであれから40年余、設立に携わった役員は勿論、当時の部員全員が今年中に還暦を迎え終わるでしょう。
設立時の理事達が再会しようという企画のあることは部報前号で紹介しましたが、平成元年5月と11月に実現して旧交を温めるとともに、既に忘却しかけていた苦労・悦楽等を想い起こして、懐かしさをかみしめました。
「六連」の設立に当たった私たちの不手際で、当時の記録を残しておらず、誠に申し訳なく存じます。しかし、こうして40年を経てなおこれほどまでに感慨深さを想い起こさせる「東京六大学」とは何?と考えた時、少なくとも六大学の軟庭に関与する一人でも多くの方に、その誕生から幼い頃の生い立ちを知っていただきたい衝動にかられ、特集を企画しました。
まず、前述の2回の会合にお集まりいただいた方々にお願いして、当時の記憶を辿ってご寄稿を賜り、合わせて総理大臣杯獲得の経緯を第6代理事長にお尋ねしたご返事もご披露いたします。当時のことは戴いたご寄稿で殆んど言い尽くされていると思いますが、あまり触れられなかったことを中心に私の想い出も載せさせていただきます。ただ、あくまでも各々の記憶であって記録ではありませんので、幾分の事実との誤差や、主観に左右された記述があるやも知れぬことはご承知戴きたいと存じます。   

                                 井上 眞治

 
     
 
長年の懸案「六大学リーグ」           
          
石曽根 邦一郎
                                           慶應義塾大学 昭和29年卒・昭和27年,28年主将
                                                 昭和27年 六連理事 ・現在:千葉三越 常務取締役
塾の軟式庭球部は昭和24年、当時の主将田中舒氏・主務山口龍男氏らの尽力で、塾内競技団体から体育会所属に昇格したが、その頃から六大学リーグ開催の希望が芽生え始めていた。
東京六大学といえば、東京といわず日本を代表する伝統と格式を誇る大学であると同時に、東京六大学野球に代表される如く各種スポーツや文化部でグループ活動する、いわばファミリー的な連携の輪であった。
そのような中で軟式庭球では慶−早−東・明−法・法−立といった定期戦が個々にあり、これらを統合して六大学リーグを形成したいと望むのはごく自然であり、一層の親睦と技術の向上、ひいては軟式庭球の普及発展に寄与するところ大と考えられた。
然しながら未だ日本全体が貧しい時代で、各校共に財政的にも苦しく、一方入学難も強まり始めて六大学の戦力は低下の傾向にあったのに対し、日大・中央は戦力を強化して実力を誇示しており、東京六大学の結束には快しとしないであろう。あるいは学制改革の進行で専門学校の大学・短大昇格が盛んで、日本学生軟式庭球連盟も加盟校を増やして組織の拡大を図っている折から、一部のグループが全体の流れとは別個の躍動をすることを歓迎しないであろう等々様々な思惑が働いて、基本的には統一された願望が細部で意思統一できず足踏み状態が続いた。
ところが昭和25年、関西地区で確固たる実力を有していた関西六大学が連盟を結成してリーグ戦を挙行するに及び、先輩から受け継いだ我々の念願は一層強化し、昭和26年秋に各校幹部が協議して実行への施策を練ることとし委員を選出した。塾からは入学以来学連専任マネージャーを務め、事務面や大会運営経験の多い井上を委員として送り出した。
委員会はスタートしたものの、六大学以外の学連加盟校から反発をかわない具体的な方法となると一朝一夕に意見を統一できず、よく27年春になって正攻法で事に当たろうということになった。
日本軟式庭球連盟及び日本学生軟式庭球連盟に趣旨を説明し、東京六大学軟式庭球連盟設立の同意を求めよう。その間は委員会の主催で定期戦としてリーグ戦を挙行して実績を作ろうというものである。
1.東京六大学相互間で実施している定期戦を統合して春秋2回のリーグ戦を行い、一層その親睦を深めると共に、技術の向上を目指して研鑽する。
2.参加校の多い学校対抗等では実施不可能な各校7チーム対抗戦を採用し、新人及び平素団体戦に出場できない部員にも機会を与えて育成充実を図る。
3. 観戦者の多い会場を選び、衆目の下で学生スポーツの範となるべく善戦を展開して、自らを鍛えると共に、観衆に軟式庭球を紹介して普及発展に寄与するべく努力する。
4.ルールは日本軟式庭球連盟の定めるところに準じ、日本軟式庭球連盟及び日本学生軟式庭球連盟
の日程を妨げない。
等を説明し、併せて恒久的且つ健全な運営には連盟を組織し、責任の所在を明らかにすることが好ましいと考えるので連盟設立にご同意戴きたい。同時に両連盟の後援のご承認も賜りたいと嘆願した。
とはいえ短時日で了承を得られるとは考えにくかったので、徒に他を刺激せぬよう取り敢えず会場は慶応の日吉コートとし、6月20日から3日間委員会主催による第1階リーグ戦を挙行すべく準備に入った。
5月末になって我々の意表をついて両連盟から「趣旨を了解、連盟設立に同意、後援を承諾する」旨連絡を受け、一同狂喜した記憶は今も新しい。早速予め準備してあった草案を元に規約を制定して連盟を結成したのが昭和27年6月5日である。
井上が理事長に選任され、私も理事の一人として記念すべき第1回リーグ戦の運営に当たったが、同時に主将であって、たまたま翌年創刊された「三田軟式庭球倶楽部会誌」(現部報)に27年度の現況報告を書いているが、その中の東京六大学リーグ戦の項目をここに紹介して私の拙文を了りたいと思う。
東 京 六 大 学 リ ー グ 戦
野球その他多くのスポーツ等でポピュラーな東京六大学でリーグ戦を行い、六大学相互の親睦と軟式庭球を普及発展せしめんとする長年の懸案は昨年遂に達成され、日本軟式庭球連盟・日本学生軟式庭球連盟・毎日新聞社・昭和ゴム株式会社・朝日生命保険相互会社等の後援或いは協賛を得て春秋2回リーグ戦が行われるに至りました。この六大学リーグ戦は新人の育成を目的とし、従来他のリーグ戦・対抗戦には取り入れられなかった「7チーム点取り」を採用したのであります。この結果新人及び従来の3チーム乃至5チ−ム対抗では出場することの出来なかった者も大いにその腕をあげ、特に新人の実力向上に寄与するところがあったと信じます。
 


 

「六 連」の 初 期               
     宇都宮 幸正
                                           明治大学 昭和29年卒・昭和27年 六連理事
                                  昭和28年 六連理事長(第2代)
                                                現在:(昭和ゴムボール課長を経て)TNネット梶@取締役

六連創設時代のあれこれを語れというご連絡を戴き、連盟結成の一翼を担った一人として大変光栄に思い早速筆を執りました。
「六連」の誕生は大変難産でした。各校共に物(テニスに必要な道具や場所)も資金も不足していた頃で、大会運営費など到底出せない状況でしたが、六校の強い願いが周囲の協力を引き出し、遂に結成して第1回大会が貴校のコートでスタートした次第です。
さて、丁度六連20回記念大会(昭和36年10月)のプログラムに、私が六連の思い出として書いたものがありますので、これを転載して当時をご披露いたします。
『 六 連 』 の 回 想
庭球会の発展と共に全日本の学生連盟が組織的に整備されて活動も多彩を極め、従来から行われてきた早−慶−東・明−法・法−立等の個別的定期戦はスケジュールの関係上困難になり、そこでこれらの伝統あり、意義ある各定期戦の消滅を惜しむ念と、これらの定期戦を統合したリーグ戦を行う事により、今までより一層各校の親睦と斯道発展に寄与しようという気運が数年前より起こっており、その設立を願っていた諸先輩の意をついで、昭和26年秋に第1回の打ち合わせ会を開き種々検討しましたが、当時の複雑で悪状況の環境のため各校の意見一致を見ず、井上氏(慶大)を中心に再三に亘る打ち合せ会を重ねた結果、昭和27年5月20日単に定期戦形式により会を運営することとして「東京六大学軟式庭球リーグ戦委員会」を結成、毎日新聞社・昭和ゴム株式会社に後援協賛方依頼したところ快くお引き受けいただきました。
この間委員会の名称では非常に不便で、又組織から見ても連盟組織と変わらないので、日本軟式庭球連盟及び日本学生軟式庭球連盟に事業予定・規則・目的などを説明して連盟設立の同意を求めていましたが、6月初め同意を得ると共に両連盟の後援の許可を得ました。
昭和27年6月5日、委員会を改めここに「東京六大学軟式庭球連盟」設立を見ました。〔理事長=井上(慶)、理事=石曽根(慶)・荻野(立)・五十嵐(早)・川口(法)・犬井(東)・宇都宮(明)〕
そして6月20日より3日間第1回リーグ戦が慶大日吉コートに於いて行われたのです。リーグ戦は各試合とも好ゲームの続出で、同率同得点の早−明の間で決勝再試合という大接戦の末早大が優勝を決めるといった、いわば行うものをして満足せしめ、観るものをして喜ばせる有様でした。
以後会場は最初から予定した日比谷公園テニスコートに移し、六大学野球の神宮の如く六大学軟式庭球の日比谷として行うことになったのです。設立記念行事として、10月8日には原智惠子ピアノリサイタルを神田共立講堂で行いました。
昭和29年には東京六大学より2年早く結成された関西六大学との間に東西六大学王座決定戦を毎年秋に行うことにし、昭和31年に東京六大学女子リーグ戦も始まり、33年春にはスポーツニッポン新聞社の後援を得、併せて六大学のOB交歓試合も開催することになりました。
翌34年には佐藤氏(慶大・32年度理事長)の努力で軟庭界初の総理大臣杯を獲得、本日ここに記念すべき第20回大会を迎え、その内容の充実と六大学連盟の目的として規約にも示してある「六大学相互の親睦及び技術の向上を計り、学生スポーツの範を示す」ことに一歩一歩前進し、今日全日本学連・全日本庭球界の重要な大会にまで六大学リーグ戦が発展してきたことは、一人私のみならず皆様と共に慶びたい次第です。今後とも大学の中心であり日本軟庭の歴史と共に歩んできた六大学が、全日本の庭球界の原動力となり、技術の向上は勿論のこと、スポーツマンとして人間性の向上に寄与せられんことを祈ります。
尚、終わりに臨み、日本軟式庭球連盟・日本学生軟式庭球連盟・毎日新聞社・スポーツニッポン新聞社・昭和ゴム株式会社他各協賛団体並びに六連関係各位に心から御礼申し上げると共に、今後ともご指導ご鞭撻のほど特にお願い申し上げます。
  昭和36年10月15日
30年余り前の記事を再び記しましたが、少しでも多くの方々に「六連」の生い立ちを知って頂き、「六連」の発展にご協力戴きたいと思っております。
終わりに慶大軟式庭球部及び三田軟式庭球倶楽部の益々のご発展をお祈りいたします。


 

 

 

自 己 中 心 的「回 想」
 
           五十嵐 幸雄
                                                  早稲田大学 昭和29年卒・昭和27年 六連理事
                                                昭和28年 日本学生軟式庭球連盟 理事長
                                      現在:新潟日報 常務取締役
 東京六大学といえば一般の多くは、直ぐ野球と結び付けて考えた。昭和27〜8年ごろの東京六大学リーグ戦(東京六大学野球連盟主催)は、天下の人気第一であり、新聞のスポーツ欄はトップ級の扱いで報じていた。東京六大学軟式庭球連盟(我々は「六連」と呼んでいる)が出来たのは昭和27年である。「野球と同じように軟式庭球でもやろうじゃないか」という負けん気いっぱい、進取の精神に富む人達がいたことが、六連実現の一番の要素だったと私は思っている。
六大学リーグ戦である以上、一校でも欠けてはならない。特に東大の永続的参加の保障が先ず必要になる。その意味では同校への働きかけのリーダー格であった慶応井上さんの説得力と、参加をOKされた東大犬井さんの決断はきわめて重みがあったというべきだろう。東大の参加方針が決まればあとは比較的スムーズに動いたと記憶している。
井上さんの尻にくっついて、六連運営のための資金集めに、原智惠子さんにあってピアノリサイタル開催を懇願したり、六連設立の趣旨や役員名簿、さらにはリーグ戦の日程、試合結果と、ことあるたびに朝日・毎日・読売等の新聞社運動部に出かけて記事掲載を頼み込んだことなど印象深い思い出である。
六連で助手的存在だった私が、昭和28年度日本学生軟式庭球連盟(全学連)の理事長を務めることになった。もともと六連加盟校の間には当時の全学連に若干の偏りやあきたらなさを感じ、その主導は東京六大学を中心に進めスッキリさせようというリーダー意識が底に働いていたように思う。前年度の理事長と東日本幹事長が六大学以外の人たちであったため(もっとも六連設立をもくろんで六大学も意識的に推挙したのだが)改選に当たっては六連加盟校の中から出そうと働いたわけである。それには無党派色の強い東京女子大・共立女子大等の女子大勢をこちらに引き付ける票集めから始まった。その為に公平・明朗な各種大会運営の実施・全国的な加盟校拡大運動の展開等を主張して、これが多くの賛同を得たという形で、私が選出されたわけである。六連の第1回リーグ戦で早稲田が優勝したことがその背景になっていたと思っている。ちなみに東日本学連幹事長には共に六連設立に奮闘した法政の川口敏明さん、六連理事長には同じく明治の宇都宮幸正さんが就任した。ともかく六連加盟校の結束は抜群で各連盟の運営明朗化と公平化に大いに力したと自負している。
従って全学連と六連の関係は極めてスムーズで、その関係を軸に全国各地区学連の加盟校も大幅にふえ、年度末には確か女子大・短大を含め計133校の加盟校だったと記憶している。
全学連時代の出来事の一つの記録として、私の手元に今も2通の招待状がある。28年5月24日中国大使館(港区桜田町)で開かれた董顕光大使主催のパーティの案内と、同月28日蚕糸会館(有楽町)での留日華僑連合総会主催のそれである。この年の5月下旬から6月上旬にかけて東京・大阪の数会場で、軟式庭球としては戦後初の国際試合が当時の中華民国(台湾)から台湾軟式網球隊を招いて開催された。パーティは来日を記念してのものであるが、パーティそのものよりも私にとってはこの国際試合に伴う苦い思い出がある。
この台湾隊と全学連加盟のA大学軟庭部が大阪で交流試合を行い、その開会式でトラブルが発生した。A大の学生自治会代表が挨拶で、「台湾政府を認めるわけにはいかないが、スポーツに政治は持ち込まないので試合は歓迎する………」といった趣旨を発言した。当時の学生自治会は「聞けわだつみの声」といった調子の極左傾向が一般的であったが、これに対し台湾隊は「わが国家・政府に対する重大な非礼行為」として抗議して退場したのである。直接この日の運営責任はないが招待者の立場にある全学連の加盟校が引き起こした事件である。電報で報告を受け急遽東海道線で西下し大阪で検討の結果、A大軟式庭球部の各大会への出場停止処分を決め、各方面への謝罪釈明に奔走したのである。当時中国大陸と台湾との間には時々砲撃があり、いわゆる台湾海峡波高しの頃であった。このような時の相談相手が六連関係者に多くいたことは言うまでもない。
私の断片的で自己中心的な回想はこの辺で終るが、結構起伏のある春秋であったと改めて想い起こしている。
最後に35年ぶりにして、当時共に血を滾らせた六連理事の面々と再会し、こうして慶応の部報に寄稿するに及ぶきっかけを作ってくださった犬井さん、実行に持ち込まれた井上さんはじめ、当時の六連の関係者と、慶応大学軟式庭球部に厚くお礼申し上げます。

 

 

 

私のテニスと六連発足時の思い出など
犬井 圭介
                               東京大学 昭和28年卒・昭和27年六連理事
                                     現在:全日本エンタープライズ社長(前 全日空副社長)
 テニスとの出会いは戦後間もない昭和22年の春でした。当時小生は都立第9中学校(現・北園高校の前身)の5年生でしたが、その年戦後初めて軟式テニス用のラケットとボールが都内の各中学校に配球され、それを機会に我が中学校でもテニス部が創設されることになりました。私もその一員として参加したわけです。旧制高等学校の受験を半年後に控えていただけに両親には強く反対されましたが、それを口説きに口説いて勉強は決して疎かにしないという約束でようやくOKされ、たしか   「280円」のラケットを買ってもらった時の嬉しさが今でも思い出されます。テニスと勉強の両立ということで出発したのですが、友達が受験勉強に精を出し始めるころにテニスに没頭し始めたわけですから、当然翌年春の受験には失敗し、落第生だけを集めた新制高校3年生に編入されました。おかげ様で新制北園高校の第1回卒業生の栄を担うことになったわけです。新制高校の1年間もテニスに夢中で両親には随分心配をかけたように思います。卒業後浪人しないで東大(新制)に入学できたのは、当時の学制改革の都合で、入学試験が卒業後の7月まで延期されたからであり、もし通常通り  2月受験ということだったら、準備不足でとても合格の域には達しなかったのではないかと今も思っています。
東大の4年間も軟式庭球に明け暮れました。入学直後の軟式庭球部の創設。旧制東大の人たちとの合流、学連2部の対抗戦、対京大定期戦など思い出は尽きませんが、何といっても、4年生であった昭和27年6月の東京六大学リーグ戦は、そのハイライトのひとつだと思います。
それまで学連の対抗戦以外に、早−慶−東・明−法・法−立の、各定期対抗戦が個別に行われておりましたが、この方式では活発化する学連の対抗戦、個人戦等の行事の関係で、日程調整がむつかしくなるという事情が生じ、むしろ3つの定期対抗戦を総合して六大学定期戦として行ったほうが良いのではないかという考えが有力になってまいりました。もちろん、その背景には軟式庭球の世界にも野球と同じ六大学リーグ戦をという思いがあったことは否めないと思います。昭和26年の秋からその実現に向けての打ち合わせ会が行われるようになりましたが、中心は当時すでに学連の役員として活躍され、経験豊かだった井上さん(慶大)で、五十嵐(早大)・石曽根(慶大)・宇都宮(明大)・荻野(立大)・川口(法大)・遠山(早大)の諸兄に加えて小生が常連のメンバーだったように思います。当時の学生はテニスコートでもユニフォームの上に詰襟の学生服を羽織っていたくらいですから、出席メンバーはいつも制服・制帽で黒ずくめ、今では考えられないスタイルでした。その中でも、なぜか井上さんの丸帽・遠山さんの各帽・そして宇都宮さんのいつもきちんとしている恰好の良かった詰襟服が、今も強く印象に残っています。
リーグ戦創設に向けての準備は、井上さん、宇都宮さんなどを主役に着々と進められ、27年6月第1回の六大学軟式庭球リーグ戦が慶大日吉コートで開催されることになるのですが、そこに至るまでの各校間の意見調整、日本軟式庭球連盟や学連との調整、毎日新聞社・昭和ゴムへの後援依頼、会場の確保などの諸準備、そしてリーグ戦当日の競技運営など、何れをとってみても極めてスマートでしっかりしているように思います。第2回大会は同年10月日比谷公園テニスコートで行われましたが、中央に大会本部の白い天幕が張られ、周囲には六大学の校旗が立ち並び、試合経過に関する放送サービスも万全という環境の中で、多くの観衆を集めて熱戦が展開され本当に感激の3日間でした。40年経った現在でも、このリーグ戦の創設に参画できたことを心から嬉しく思っています。
準備のための会合を重ねるにつれて、各校代表者の間で仲間意識が強まり、御茶ノ水にあった岸体育館での会合のあと神保町あたりの酒場で盃を交わす機会にも何回か恵まれました。今では各種の同好会等を通じて大学間の学生交流が一般的に行われているようですが、当時はそのような機会も少なく、この神保町界隈での六大学にコンパは小生の学生時代の懐かしい思い出の一コマになっています。
昭和28年社会人になってからもテニスからは離れられず、いつしか軟式から硬式に変わりましたが、テニスは私のホビーになりました。もう還暦も過ぎ去りましたが、毎週末でもテニスを楽しめるのを嬉しく思っています。過去40年間のテニスを通じて沢山の人たちと知り合えたことを心からありがたく感じています。
昭和63年秋たまたま「日系ビジネス」の「交差点」から取材を受け、かねて旧交を温めたいと思っていた東京六大学リーグ戦創設当時の各校代表の皆さんとの思い出をお話しましたところ、その内容が同誌11月7日号に掲載され、それを契機に井上さんのお世話で古い仲間の交友が復活いたしました。若い頃に一緒になってエネルギーを注ぎ、何かをつくりあげた仲間は長い人生の中での忘れがたい存在として心の底深く刻み込まれているものです。今回の交友の復活に心底から幸せを感じつつ、これからもこの交友をもっともっと大切にして生きてゆきたいと思っています。

 

 

 

東 西 六 大 学 対 抗 戦
  
       加藤 昌孝
                               東京大学 昭和31年卒
                                     昭和29年 六連理事長(第3代)
                             現在:朝日生命勤務

何分遠い昔のことになりましたので、記憶も薄れてしまいました。軟式庭球連盟の本部に問い合わせ、機関紙「軟式庭球」に昔記載した記事が入手できましたのでコピーをお送りします。東京の7チーム得点戦・関西の5チーム殲滅戦の違いを東西対抗戦にどう扱うか、費用等いくつかの問題を解決し、新聞社へのPRも工夫して実現させた思い出があります。


終戦後発足した関西六大学リーグ戦及び東京六大学リーグ戦が、本来の学生スポーツのあり方に則りながら、尚且つその独特な試合雰囲気は、見て楽しめるという点でも大きな特色を持ってきた。この東西六大学リーグが更に発展する一つの段階として、このたび東西六大学対抗軟式庭球大会の実現を見るに至ったことは喜びにたえない。この大会が更に発展し、見て楽しめるものとなれば嬉しいことだと思っている。
発足以来年毎に発展し、回を追って充実の一途を辿りつつある東京六大学軟式庭球連盟と関西六大学軟式庭球連盟の間に、両連盟の親睦を深め技術の向上を計るために東西対抗戦を是非行いたいと強い要望が以前からあったのである。
関西側は誕生以来既に5年目を迎え、文字通り関西学生軟庭界の精鋭を網羅して内容の充実を誇れば、2年遅れて発足した東京側も短期間に異常な発展を遂げ、その試合雰囲気は関東学生軟庭界の注目を集めている。この東西を代表する両六大学リーグが、その試合方式に関し全く対象的な行き方をとっていることも大きな特徴である。即ち、関西側は各校5チームづつの殲滅戦、東京側は各校7チームづつの得点戦方式をとっている。此等は日本軟庭界における団体対抗戦の最も普及している試合方法である。依って今回の東西対抗戦に於いても、両リーグ独自の性格と長所を取り入れるべく、種々検討の末優勝校の5チームづつによる殲滅対抗戦、及び各校1チームづつ(優勝校のみ2チーム)計7チームによる選抜得点対抗戦と言う2つの対抗戦を含む独特な大会となったわけである。
又単に試合方式において従来の大会と異なるのみならず、伝統ある東西六大学間の対抗戦を通じて学生スポーツの範たらしめ、更には軟式庭球界の発展に努めたいと思う。
『 第 1 回 大 会 』
豪雨のため1日延期された第1回東西六大学対抗軟式庭球大会は、快晴のテニス日和の恵まれた 11月29日、日比谷公園テニスコートで、土手を埋める観衆に囲まれて華やかに開催された。大会は先ず加藤委員長の開会宣言に続き、山辺副会長が兼子会長に代わって挨拶、ついで読売新聞社、報知新聞、昭和ゴム寄贈の優勝杯、優勝旗、花束の贈呈が行われ、上空には読売機ヘリコプターが飛来して大会を祝福するといった盛大さで、午前11時試合の火蓋を切った。
『優勝校対抗殲滅戦』
試合は先ず東京六大学優勝校立教大学と関西六大学の覇者関西学院大学との間で行われた。若冠 1年生の石橋を中心に若手で固めた新進立教が、関西選手権を持つ六島・川口組を中心にした古豪  関学に対し如何に食い下がるかが興味を呼び、試合前の予想は関学7分の利という見方が圧倒的であった。
ところが地元の声援をバックにした立教はトップ田中・奥田組が柳下・石井組に敗れはしたが、続く石橋・戸田組は順当な星をあげ、ファイター矢島・石井組が関学副将渋谷・加納組みに先手先手と攻めて金星をあげ、長橋・纐纈組も苦戦の末に勝つと勢いにのり最後の山口・野口組が関学の看板チーム六島・川口組に猛然と襲いかかり、遂に5−1と一方的に破って第1次戦は立教の4勝1敗と圧倒的優位に立った。
然し、2次戦で関学唯一の勝ち残り柳下・石井組は苦戦の末立教の首将チーム石橋・戸田組を破るや生気を取り戻し、関学独特の声援を背に3次、4次そして5次戦も勝ち抜き、読売新聞評によれば「立教の5組をゴボウ抜き」する超人的偉業を遂げ、ここに第1回東西六大学優勝校対抗戦に優勝の栄冠は関西学院大学が勝ち取った。


『各校選抜対抗得点戦』
この結果、殲滅戦は関西、得点線は東京が優勝、  閉会式を行い、会長から昭和ゴム寄贈の優勝旗及び 報知新聞社杯が関学川口主将に、読売新聞社杯が立教纐纈主将に授与され、盛大を極めた第1回東西六大学対抗軟式庭球大会は成功裡に幕をとじた。

 

 

 

 

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