報第36号・1989〜93年度 合併号
 
 
総 理 大 臣 杯 獲 得 の 経 緯
         
佐藤 順陽
                                            慶應義塾大学 昭和34年卒
                                                昭和32〜3年 六連理事長(第6代)
                                          現在:日蓮宗慈観会 主管
《註》この特集編集にあたり、総理大臣杯獲得の経緯を当事者の佐藤君に問い合わせましたところ、早速ご返書を戴きましたので、その部分をご紹介します。      井上 

六大学の総理大臣杯の件ですが、あいまいになった記憶をたどってみますと、32年に理事長になり、2年続けて就任しました。第20回プログラムには34年に総理大臣杯を獲得したとありますが、33年ではないかと思います。
経緯について申し上げますと、当時軟庭には政府に関わる杯が1つも無かったのです。政治力が弱かったのだと思います。私は3年の時から新聞記者を目指して勉強していましたが、知人に産経新聞政治部デスクをしていた諏訪賀久夫氏(後、政治評論家で故人。慶応水泳部OB)がおりました。
六大学をもっとグレードアップさせたかった私は、諏訪さんに「なんとか政府関係の杯をとれないものか」と相談しました。しかし、さすが政治記者の考えは学生の考えとは違い、気宇壮大といいますか、「総理大臣杯にしなさい」と一言。スポーツ界でも少ない総理大臣杯だから正直言ってびっくりしました。「本当に取れるのですか」、「いや岸さんは国民に人気がないから、人気取りにもちょうどよいよ」と冗談を言って、さっそく首相官邸記者クラブのキャップに話していただきました。キャップの入方宏さんは現在芸能評論家で、日本舞踊連盟事務局長をしております。入方さんが掛け合ったのは第1秘書官の中村長芳氏(後にクラウン・ライオンズの代表)。中村氏も快く承諾され、33年秋(或いは春だったかも)の大会には立派な杯が授与されたと思います。(記憶違いがあるかもしれません)。案ずるより生むが易しで総理大臣杯が誕生したのでした。これも知人に恵まれたからで、幸運に思っております。


 

 

 

「六連」一期生理事の再会を果たして
 
      井上 眞治
                                慶應義塾大学 昭和29年卒
                                             昭和25〜7 学連専任・昭和27年 六連理事長
                                              現在:(阪急百貨店を退社)喫茶 サザンクロス 自営

六連設立当時私が理事長を拝命し、理事は、五十嵐幸雄氏(早)、石曽根邦一郎氏(慶)、犬井圭介氏(東)、宇都宮幸正氏(明)、荻野政清氏(立・故人)、川口俊明氏(法・米国帰化)の6氏がおられました。部報前号にありますように、犬井氏の呼び掛けで取り得る限りの連絡をとって、平成元年5月13日に五十嵐氏・犬井氏・宇都宮氏・当時立教の主将だった猪狩俊彦氏と私の5名が新橋で再会を果たしました。
何しろ37年ぶりのことで直ぐ顔が分かるかといった心配もしたのですが、あに図らんやる髪こそ白く或いはやや淋しく、顔の彫りが幾分深く、腹の辺りが多少太めかなと思える程度、昔の笑顔そのままでの対面でした。
誰もが印象に残る事業に従事した誇りと共に、懐かしさと夫々の想い出を持ち続けてはいたものの、さてどうだったか順序立てて語れといわれても、歳のせいか歯痒いくらいおぼつかないのが現実でした。幸い几帳面な宇都宮氏が保存しておられた当時の連盟規約・プログラム等が思い出を手繰る糸口となり、次々と悦びや苦労話が懐かしく掘り起こされ、大まかながら各々の脳裏にストーリーが再現でき、時を忘れる始末でした。折角の再開をこのままにする手はない、時々会って旧交を温めよう、取り敢えず次回は秋のリーグ戦を観戦してから一杯酌み交わそうということになりました。
秋のリーグ戦は11月9日から11日まで慶応の日吉コートで挙行されましたが、現役に連絡を取りましたところ閉会式に出席して一言激励しろということで、そのつもりをしていたのですが、あいにくその頃雨が多く当日が初日になってしまい、折角の機会を逸してしまいましたが、コートまでお越しいただいた方々と夕刻まで観戦して会合をセットした自由が丘に向かいました。
この日は石曽根氏・犬井氏・宇都宮氏と私のほかに、3代目理事長を務めた加藤昌孝氏(東)・川口氏に代わって現在関東学連会長等連盟の役員をしておられる鈴木実氏(法)の6名での会食でしたが、この2回で一応6校が全部顔を合わせました。1回目に居らせなかった方が半数でしたので、話は繰り返しも多かったのですが、新たな想い出の喚起やストーリーの修正箇所があったりで一層若返った気分に浸り感慨深いものがありました。更の加藤氏の出席で我々の卒業後に実現した東西六大学対抗戦の詳細を知ることができ、鈴木氏の参加でテニス自体・用具・学生とその環境等の今昔の変化に至るまで鮮明になり、単に懐古に止まることなく有意義な会話が弾みました。
その折、近いうちに又会いましょうと言いながら、この部報の発行が諸般の事情で遅れてご寄稿いただいた方々に顔向けできない心苦しさもあって延び延びになっています。部報の刷り上がりを待ってお詫び方々皆さんにご連絡してお会いしたいと思っています。
連盟設立当時のこと、東西六大学対抗戦、軟式庭球界初の総理大臣杯獲得に至る事は6人の方々のご寄稿などで充分お分かり戴けたと思いますが、あまり触れられていない事を中心に少し想い出を綴らせて戴きます。
学連派遣の専任マネージャーだった私を除き、理事の方々は皆プレーイング・マネージャーでお忙しかったと思いますが実に精力的な行動力のある方々でした。委員会による大会開催の方針決定から開催日までの短時日に、日程と会場の決定に始まり連盟や新聞社との折衝、資金集めや昭和ゴムとの打ち合せ、プログラムの作成、連盟設立認可後の規約作成、新聞社への情報提供と報道依頼等々山積した作業をクリアーできたのは、偏に諸氏の個人的な事情を犠牲にした奉仕の精神と超人的な行動力の賜物と敬意を表し感謝しています。
東京六大学軟式庭球連盟設立の記念行事は何にしようか、上品にしたいし出来れば資金集めの足しにもしたいということで協議の末、ピアノリサイタルを企画しました。当時は今よりはクラシック音楽が若い世代に受け入れられていたとはいえ、運動部主催となるとユニークな企画だったと思います。ともかく来てもらえそうなポピュラーなものということで、ピアノ=ショパン、それなら日本のピアニストの第1人者「原智惠子さん」と極めて単純かつ大胆な目標を定め、当時慶応で教鞭をとっておられた村田武雄先生にお願いし、紹介状を戴いて原さんをお訪ねしました。年配の女性マネージャーは胡散臭そうにズブの素人の主催を懸念されている風でしたが、原智惠子さんご自身は村田先生のお口添えならと快く応諾してくださいました。
ご多忙な女史のご指定の日取りで共立講堂をおさえたのですが戦火を潜り、修復された共立講堂のピアノは一流プロの演奏にはとても使えない代物で、いいピアノを借りてこなければなりませんでした。とても私達の才覚ではいいものを安く借りるなどおぼつかないので、今度は原さんに泣き付いてご紹介戴き河合ピアノに赴きました。
ここでも予算が無いので少しでも安くと粘りに粘って、搬出入の運賃だけを負担しプログラムに広告を載せることで借り出しました。学生ならではの厚かましい芸当だったと思います。切符は不慣れな音楽界のものを加盟六校の部員が協力してさばいたお陰でほぼ満員にすることが出来ましたが、残念ながら資金稼ぎとまでは行かなかったと記憶しています。
10月18日当日は慶応の主務だった豊田隆郎氏に司会をお願いし、好評を得て無事終了しました。慣れないことで頭が今風に言えば真っ白だったのでしょうか、当日のことは殆んど覚えていません。終演後原智惠子さんを囲んで理事と司会者との記念写真を撮ったことは覚えているのですが、誰も持っておらず残念な気がします。この時のプログラムは豊田さんが保管しておられ、第1回六大学リーグ戦をはじめ当時の大会のプログラム等貴重な資料と共に三田倶楽部にご寄付いただきましたので風間理事長にお渡しして保存していただきます。
プログラムといえば、当時のプログラムは全国大会でも1〜2色刷り、関東学連規模以下の大会では連盟役員が手作りのガリ版印刷の時代でしたが、昭和ゴムの小岩井ボール課長さんの肝いりで、紙質・インクこそ悪くつやはありませんが多色刷りに踏み切って戴き、大感激しました。恐らく軟庭界では戦後初の多色刷りドローだと思います。
思いつくまま筆を走らせていますと際限ありませんのでこの辺で止めますが、私が初代理事長をお受けできたのは、たまたま先輩方の願望の機が熟した時に学連の業務に携わっていた偶然の結果です。しかし私にとっては何ものにも変え難い、ある意味では私の人生で最大の意義深い出来事であり体験でしたが、曲がりなりにもそれを成就できたのは理事の方々を始め、選手の方々の溌剌たるプレーの賜物で、改めて感謝と敬意を表したいと思います。加えて40年近い歳月を経て、学校の枠を超えて旧交を温めあうことの出来る悦びは何物にも優るものです。
最後になりましたが、あの時賜った日本軟式庭球連盟・日本学生軟式庭球連盟の深いご理解、或いは毎日新聞社・昭和ゴム梶E同社ボール課長小岩井滋郎氏をはじめ、多くの後援・協賛を賜った団体とご担当の方々に衷心より厚く御礼申し上げます。

 

 

 

部報から 
六連に関係あるものを抽出
 ●5号(昭32年)東京六大学女子リーグ戦       31年11月20日 於・日比谷
以前から女子の六大学リーグ戦への動きはあったが、今期に至りその気運高まり、遂に実現の運びとなった。とはいえ各校とも選手不足の感あり、2チームの殲滅戦という暫定的試合方法をとることになった。(中略) 試合運営その他全般に今後に俟たれるものがある。
?註?その後現在まで継続されていますが、記録を見ると選手不足に終始しているようで、明治が   
32年春〜34年春と43年春〜61年秋の長期に、早稲田も43年春〜46年秋に棄権しており、順位のばらつきも顕著で選手層の薄さを物語っています。

●8号(昭35年)六連だより                    富塚 稔
この春秋のリーグも日比谷公園の恒例の行事の1つになった感さえあり、その内容が整然としている中にも、その内に秘めたる覇気のあるプレーから評判も良く、地方から是非自分のところでやって皆に見せてもらいたいと言われる位です。これは各校のプレーの立派さと、態度の秀でている所からあのような雰囲気が生まれるのではないかと思います。(中略)
リーグ戦のこの雰囲気を作り出すのを助けているのにスタンド側の応援を忘れることは出来ません。プレーを引き締めそれに活力を入れているのです。その代わりスタンドの気持ちが直ぐ選手に反映するのですから、一層その態度には気をつけていただきたいと思います。(中略)
六大学のうち4校が関東リーグ1部校ですから六大学の技術の高さがわかると思います。そしてこのリーグ戦には各校より7チーム出場できますから新入生はもとより、今まで学校対抗に出場したことのない人でも、出場のチャンスはありますし、こういうリーグ戦に出ることは自分自身を知り、技術の向上に絶好のチャンスと思いますし、部の発展のためにも是非頑張ってください。(以下略)
?註?連盟設立から8年経った頃の記事ですが、設立時の目的に対する方針がそのまま生きていることが如実に描かれた記事だと思います。

● 17号(昭44年)
?註?この記事は直接六連とは関係ありませんが、日本学生軟式庭球連盟の母体となった東京学生軟式庭球連盟設立時のことを、三田倶楽部会長の岩井三郎先輩(刊行時・総監督)が書いておられ、その中でも東京六大学が中枢となって活躍していたことが覗えて興味深いので、岩井先輩のお許しを得て改めてご紹介しておきます。



 

 

 

『学連創立について』 
               総監督 岩井 三郎
 学生連盟の設立については現在の学生諸君は勿論、庭球界に於いても余り知られていないので創立者の一員としてご紹介しておく。
軟庭界は大正末期から昭和の初期にかけて混乱が続いた。私の記憶で間違いがあるかも知れぬが、簡単に言えば日本軟球協会があり、これに対立して明治神宮大会を主体とする全日本軟式庭球連盟があり、更にこれが分裂改組された。故宮田光雄氏(元警視総監)が会長、崎山武夫氏が副会長で昭和7年日本軟式庭球連盟(現連盟の母体)が新発足した。
一方、学生は昭和の初め、一応、関東学生連盟ができ、報知新聞社後援の下に、大学・高専大会が行われていたが、この学連なるものは、いつも何れかの連盟の隷属化にあり、その色彩も都度代わり、内容的にも誠に貧弱なものであった。いわばその連盟の勢力範囲誇示の手段に使われていたに過ぎない。
私が慶応に入学したのが昭和6年で、翌7年軟庭部の母体とも言うべき慶応軟庭クラブが誕生し、昭和8年、その年の高専大会で優勝したが、これは旧協会時代の流れのものであった。昭和9年であったと思うが、連盟の崎山副会長が死去された。その折連盟から「君達学連の会長が死去された」と聞かされ、崎山氏には申し訳ないが、崎山氏が会長であったことを始めて知った。これも前記のように連盟が学生連盟の会長は、連盟副会長が自動的に当るということになっていたからであり、学生は連盟会員でもあった訳である。
そこで早稲田の北条君、先田君、立教の落合君、内藤君、明治の清水君と私が期せずして、もっとスッキリとした学連を作りたい、とりあえずは学生自治でもよいではないか、連盟とは手を切るということになり、崎山氏葬儀を全員で手伝った後、平河町の連盟本部を訪れ、これまでの学連より脱退を表明、会員からも離脱して東京の他の大学・高専に呼び掛けたところ、何れも我々の意思を了として脱退したため既成学連はここに解散となった。
而して高専クラスは其のクラスだけでリーグを結成して(現在もその一部が医師薬リーグとして残っている)吾々と袂を分った。結局残ったのは六大学と中央となった。そこで名称は暫定的に東京学生軟式庭球連盟としたが、別に事務所がある訳でもなく、早稲田や三田の喫茶店で打ち合わせをなし、幸い前年度大学・高専リーグで慶応が優勝していたため優勝旗寄贈主である読売新聞(報知と読売が合併)に赴き、改めて吾々が作った学連に優勝旗を再交付してもらい、後援も約し、曲がりなりにもリーグ戦を挙行、早慶同率優勝した。これが現日本学生軟式庭球連盟の母体であり、誕生である。
その年の末(昭和9年)改組された日本庭球連盟の常任理事に就任した萬俵賀一氏より話があり、君達の作った学連は学生自治のものであり大変結構だし、その自主性も大いに尊重する。連盟ももう全国的に統一され立派なものになったから、君達の作った学連と兄弟関係のように提携していきたい。決して以前の学連に処したように隷属的存在にはしない。ついては、やはり立派な社会人を会長、後援者に迎えるべきではなかろうかとの事から、では連盟に関係ない人ならと意見が一致し、2〜3候補の中から糸川病院長の糸川欣也氏に白羽の矢をたて、萬俵氏共々清洲橋の糸川病院に赴き糸川氏より承諾を得、初代学連会長に就任していただいた。(氏は後の連盟会長、氏の子息が現監督(当時))
初めは名目的で多少の後援を期待する程度と思っていたところ、糸川会長は極めて熱心に吾々と共に学連の育成に没頭してくれ、吾々は糸川病院を半ば宿舎として諸計画の事務追行に当った。その翌昭和10年には関西の関学・同志社に呼び掛け関西学生リーグを統一し東西合同して名称も全日本学生軟式庭球連盟とし、東京會舘に於いて東西合同記念結成大会を開催し、名実共に吾国において初めて全日本の学生連盟が誕生した訳である。
現学連の隆盛を見て誠に吾々としても感銘深いものがあるが、創立当時のわれわれの、また、会長の意思でもあった学生らしい学生の自主性を根幹として、あくまでも進んでいって頂きたいものである。

 

 

東京六大学軟式庭球連盟規約

昭和27年6月5日 東京六大学軟式庭球連盟理事会制定
   理事長 慶応大学 井 上 眞 治
   理 事 法政大学 川 口 俊 明  早稲田大学 武 田 良 一  立教大学 荻 野 政 清
        慶応大学 石曽根 邦一郎  明治大学 宇都宮 幸正  東京大学 犬 井 圭 介
第1章 名称・目的及び行事
第1条 本連盟を東京六大学軟式庭球連盟と称する。
第2条 本連盟は東京六大学の親睦及び技術の向上を計り、学生スポーツの範を示すことを目的とする。
第3条  第2条の目的の為に春秋2回のリーグ戦を行う。
第2章 支配
第4条  本連盟は独立自治的なものであって、その規約によってのみ支配されるものである。
第3章 加盟校
第5条  本連盟は6校を以って組織する。
1.法政大学 2.早稲田大学 3.立教大学 4.慶応大学 5.明治大学 6.東京大学
第4章 役員
第6条 本連盟に左の役員を置く。
1.会長 1名、 2.副会長 2名、 3.顧問 若干名、 4.参与 若干名、 5.理事長 1名、 6.理事 6名(会計1名を含む)
第7条 会長は毎年輪番制当番校の軟式庭球部長此れに当り本連盟を統括する。
第8条 副会長の内1名は次年度当番校軟式庭球部長とし、他1名を理事会に於いて推薦する。副会長は会長を補佐する。
第9条  顧問は東京六大学軟式庭球部長より会長、副会長を除く4名及び各校先輩中より理事会の
承認を得て会長此れを委嘱する。
第10条 参与は本連盟後援者中より理事会此れを推薦する。参与は本連盟の主要事項について諮問に応ずる。
第11条 理事長は毎年輪番制当番校より選出し理事会を統括する。
第12条 理事は加盟6校より各校1名選出し理事長を補佐する。
     尚会計は理事会に於いて理事の互選により選出する。
第13条 役員の任期は1月1日より12月31日までの1ヵ年とし、次年度役員に引き継ぐ。
     但し留任を妨げない。
第5章 会議及び役員会
第14条 本連盟に左の会議及び役員会を設ける。
 1.定時理事会、 2.臨時理事会、 3.役員総会、 4.主将会議
第15条 定時理事会は5月及び10月此れを開催し、理事長は少なくとも10日前に、日時・会場・議題を定め理事に通知するものとする。
第16条 臨時理事会は理事長の必要と認めた時及び、2校以上の要求があった場合此れを召集することができる。
第17条 理事会に附議される事項は左の如くである。
 1.予算及び決算、 2.リーグ戦期日及び会場の決定
 3.規約の改正、 4.その他の重要事項
第18条 理事会は5校以上の出席を以って成立し、投票数の過半数を以って議決する。
     可否同数の場合は理事長此れを決定する。
第19条 役員総会は会長の必要と認めた時及び、役員の3分の1以上の要求があった場合会長此れを招集する。
第20条 主将会議は理事長が必要と認めた時及び、2校以上の要求があった場合理事長此れを招集する。
第6章 競技
第21条 リーグ戦の日時・会場は理事会に於いて決定する。
第22条 試合方法は7組の9ゲームによる点取りとする。
第23条 第22条に定めた他の試合規則は、現行日本軟式庭球連盟ルールに殉ずる。
第7章 財務
第24条 本連盟の財務は会計が掌握管理し、理事会此れを監査する。
第25条 本連盟の収入は左の通りである。
 1.各校の負担する会費、 2.寄付による収入、 3.前年度繰越金、 4.その他の収入
第26条 本連盟の支出は差の通りである。
 1.経常費、 2.臨時費
第27条 本連盟の会計年度は、1月1日に始まり、12月31日に終る。
第8章 規約改正
第28条 本連盟規約は理事会の3分の2以上の賛成に依らなければ改正補正することは出来ない。
改正された規約は決議後直ちに効力を発する。


東京六大学軟式庭球連盟


 

 

 

 

 

友だちの友だちは友だちだ
友達が増えれば いい話も増える
同 期 会

※ここに掲載させていただいた原稿の多くは、1990年1〜2月に執筆されたものです。本誌の発行が大変遅れ、ご多忙中に執筆いただきました皆様へご迷惑をおかけいたしましたことを深くお詫び申し上げると共に、編集の都合上、多少手を加えさせていただきましたことを了承いただければ幸いです。(風間注)

 
   
名古屋三田会発足
           昭36卒 村 井   靖

名古屋に転勤になって2年目の平成元年、三田軟式庭球倶楽部の名簿をめくっていると、名古屋周辺でがんばっている軟庭OBの懐かしい顔が、15から16名も浮き上がってきた。どうじに、無性にその顔が見たくなった。
折も折、蒲郡市で活躍している石田兄弟から「軟庭のOB連中でゴルフをやりませんか」との電話が入る。渡りに舟と「いっそのこと、名古屋三田軟式庭球倶楽部の発足会にしようじゃないか」と話が決まり、昼の部の「テニス会」の世話役は、名門名古屋ローンテニス倶楽部の理事として活躍している柘殖君(昭38卒)に頼み、夜の発足会の世話役は小生となった。翌日のゴルフの世話役は石田弟(昭46卒)に頼み、7月21日・22日でやることになった。
準備会を上野君(昭37卒)や小川君(昭37卒)、柘殖君(昭38卒)とやるうち、お世話になった岩井会長を皆でなんとかお招きしたいとの声多く、お付として坂井さん、岡井君(共に昭37卒)にも来てもらい、若手にハッパをかけてもらいたいとの要望も出てきた。
7月21日の当日、ラケットを片手に、ますますお元気な岩井会長と坂井さんが名古屋駅にご到着(岡井君は急用で残念ながら欠席)。その足で、名古屋ローンテニス倶楽部へ。柘殖君のアレンジに抜かりなく、同クラブのメンバーが、名門鎌倉カントリーテニスクラブ会長で三田軟式庭球倶楽部の会長である岩井さんの来名を知っており、我々一行を暖かく迎えてくれたのが印象的で、ゆっくりとテニスを楽しむことが出来た。
夜の発足会は総勢15名が集まり、4時間があっという間に過ぎてしまった。1人1人の近況報告、昔話、いずれも個性豊かな楽しい話の連続で、酒の量もグングン上がる。圧巻は、何といっても岩井会長の我々へのプレゼントとして聞かせてくれた「謡(うたい)」で、恐らく、3曲も続けて会長の「謡」
を聞いた人は今までいないのではないかと思う。酒井さんも期待通り若手にハッパをかけてくれた。「あなたたち、男でしょう。男は女と違って愚痴を言ったり、泣いたりしてはだめよ。常々、前向きに積極的に考え、行動する。それが男というものよ」。一同「御意」。
二次会も、翌日のゴルフのことも忘れ、深夜まで飲めや歌えの大騒ぎ、無邪気な立居振舞いは昔と同じ。ともかく、皆エネルギーはまだ充分残っている。
翌日のゴルフのことはあまり覚えていないし、書きたくもない。確か、兄弟揃ってハンディキャップが6とか7とかの石田兄弟が、プレー後お金を集めていたので、彼らが勝ったに違いない。
中身の濃い「名古屋三田軟式庭球倶楽部」の発足会は、こんな具合で無事終了した。今後は年2回(1回は名古屋三田体育会の集まりに、もう1回は軟庭三田会で)のペースで再会を約した。幹事は最年長の小生と石田兄弟に決まったが、残念なことに小生が10月に東京に転勤となり、後事は上野君に託した。

〈名古屋三田軟式庭球倶楽部メンバー〉
  村井靖(昭36卒・ゼネラル石油)          菅原信弘(昭43卒・日本電装)
  野々山武亮(昭36卒・日本ガイシ)         石田幸太郎(昭46卒・石田鉱業)
  上野祥二(昭37卒・日本ガイシ)          伊奈明子(旧姓山本・昭52卒)
  大島孝三郎(昭37卒・大島商店)         大賀茂幸(昭55卒・キャノン販売)
  小川知明(昭37卒・日本特殊陶業)        西村佳司(昭57卒・ゼネラル石油
  柘殖光彦(昭38卒・ワコーフード)         村井貞彦(昭58卒・三菱電工)
  吉村昭紀(昭38卒・三菱鉱業セメント)       山路武史(昭61卒・日本ガイシ
  石田康太郎(昭42卒・石田鉱業)          高山洋司(昭61卒・安田火災海上保険)

岩井会長、坂井さん、どうもありがとうございました。名古屋の連中は皆、仕事も遊びも元気で頑張っています。

 

 

 

昭和30年卒同期会
          昭30卒 栄 谷 嘉 恭

入部当初は二桁いた仲間も、家庭の事情等で1人、2人と退部して、卒業時は5名。さらに、昭和33年に大黒柱であった世良田を失い、目下4名の小世帯。“会員としての義務は必ず果たそう!”を全員一致のモットーとしてもっぱら書信または電話で連絡を取り合っているが、各々東西に分散しているため、“ぜひ球児会ゴルフコンペにも参加しよう”等の気運はあるものの、皆、仕事のやりくりがつかず、未だ実現せず。
今年こそはゴルフ、それが終ったら麻雀と、4名という利点を生かした会合を持ちたいものだと夢想している。

 

 

昭和32年卒同期会
            昭32卒 岩 本 義 久

昭和32年に卒業して、ちょうど32年が過ぎて昭和が終った。特に意味はないが、なんとなく意味あり気でもある。仲の良い同期8名、周囲の状況はかなり変わったが、たまに会って酒を飲み交わすと全然変わっていない。変わっていないのを確かめて安心する会……それが同期会なのかもしれない。
政治経済の話はお互いボロが出るので、ほとんどなし。最近の話題は合宿所改築のこと、ゴルフのこと、出張した海外報告、家族のこと等々、誠にたわいもない。皆それぞれの会社の、そこその役職のはずだが、話しぶりは学生時代の特徴そのまま。多分、あれ以来成長が止まっている(?)のかもしれない。
三井の宮内、東ソーの前田、ゼネラル物産の藤岡、岡谷鋼機の諏訪、伊勢丹の芳賀、名古屋CBCの水谷、自営の佐々木、それに私、三越の岩本。以上8名がメンバーで、未だ欠けていない。
1月13日は、何年ぶりかの同期ゴルフ会。前衛の方が器用で上手い、いや、後衛の方がストロークが安定しているから良い、と論議の種は尽きないが、要はどちらでもいいのである。集まることが大きな楽しみなのだ。
同期会というのは数々あるが、これほど肩の凝らないものはない。永い人生のわずか4年ではあるが、1つの目標に1つになった4年間、自分の全てをさらけ出した4年間、勝負に明け暮れた4年間、まさに“たかが4年、されど4年”である。
合宿所建設はタイムリーであった。後輩に何かしてあげたいが、今更テニスの指導でもない。我々は即大賛成、寄付も即納でまとまった。今拙文を書いていて、何となくさわやかな気分である。

 

 

昭和35年卒同期会
                   昭35卒 橋 本 光 正

卒業の翌年から同期会を開いて、早30回以上となった。毎年開催しているのは、卒業年度の中では珍しいのではないだろうか。ゴルフの会も、第4回の会合からずっと実施してきている。
我々は景気の良い年〈黄金の年〉に卒業したことから、会の名前もGF会(ゴールデン・フィフティーン)と名付けている。残念ながら連続出席者は一人もいないが、毎回10名くらいは集まり、1年1回の顔合わせをしている。日中はゴルフ、夜は宴会というのが定例になっている。ゴルフは、第1回以降の優勝から3位までの記録が残っていて、その晩の酒のいい肴になっている。
GF会の歩みを振り返ってみると、幹事の丸木君のお蔭が大きいと思わずにはいられない。海外に出る人が最近は常に2,3人(現在は金岡、光川の両君)いる中、10人くらいがいつも集まるわけだから、みなもこの会に出席することを最重要行事としているのだろう。平成2年は30回記念だった。今後も楽しい会合を続けていきたいと願っている。

 

 

二  八  会
                   昭36卒 糸 川 雅 也

昭和36年の卒業生は28人であったので、会の名前は単純に二八(ニッパチ)会と名付けた。しかし、アフリカ等海外で活躍していた松木謙一君は、病に倒れて不帰の人となってしまったし、河野悌二君、高橋美哉子さんは音信不通となっているので、現在は28人揃ってはいない。それでも、概ね皆元気にそれぞれの道で頑張っており、嬉しい限りである。
さて、二八会も地方在住者が多く、卒業後は全員で集まることは滅多になくなってしまったので、ここで最近会った連中の消息を報告したい。
相変らずテニスに熱心なのは、村井、水内、小林で、彼等は1年間に何回コートに通ったかを会うたびに競い合っている。もちろん、年間100回以上のハイレベルの争いである。昨年も世田谷のコートで西村、糸川を加えた5人で硬式テニスを楽しんだが、さすがに腕の方も皆びっくりするほど確かである。我々の年代になってくると、コートに通う回数が勝負のポイントになるが、ちなみに小林は三郷市のチャンピオンだそうである。
中川とは業界が近いこともあり、仕事がらみで会う機会も多いが、業績も立派な貫禄充分の堂々たる社長である。佐藤もバッグ類の製造卸を浅草橋で営むロワードという会社の社長であり、先日社用で、ある国際大会に使用するコングレスバッグをお願いしたところ、大量とはいえ格安に提供してくれた。栗生は人の面倒見が良く、ちょくちょく連絡してくれるので有難い。
さて、最近の一番大きな話題は、何といっても西村が日本ソフトテニス連盟の専務理事に就任したことだろう。前任の早大教授の林さんが会長代行になられたので、そのあとに推挙されたのであるが、彼の情熱と見識とで、再びソフトテニスの隆盛を取り戻してもらいたいと思う。三田会としても、これからもできる限りの応援をしていきたいと考えている。
平成2年1月のある夕方、西村を激励する会を開こうという話がまとまって、当時一緒に学連で活躍していた六大学の仲間と会う機会を得た。卒業以来、約30年振りに顔を合わせるという者もいて、懐かしく、また楽しい一時を過ごすことができた。早稲田の城、斉藤、有馬、林、立教の中山、法制の相庭、明治の上田、慶應の村井、それに私というメンバーであり、学生時代の様々な思い出話に花が咲いたことはいうまでもない。

 

 

昭和41年卒同期会
                        昭41卒 岩 城 英 隆

平成元年8月下旬、かねてから計画していた夢が実現した。同期の中村(旧姓中山)が根を下ろしている淡路島で同期会が、ついに実現したのである。出席者は同君を始め、山本、林、由利、青木、川島、田処、鈴木、そして小生の計9名。仕事の都合で浜名、大林の両名は残念ながら欠席だったが、何人かは家族も同行し、大変楽しい会になった。
テニス、水泳、釣り、バーベキュー等、淡路島での快適なバカンスを充分満喫することが出来たが、特に美味しいものに目がない小生にとって、バーベキューで食べた淡路牛の味は格別だった。
ただし、楽あれば苦あり、最後の日になって、折悪しく台風の直撃を受け、丸1日足止めを食らってしまった。もっとも、これも今となっては楽しい想い出の1つになっている。
ホスト役になっていただいた中村夫妻(夫人は昭44卒中村美穂さん)には本当にお世話になった。この場をお借りして、改めて御礼をさせていただきます。

 

 

や ろ う 会
                        昭42卒 矢 倉 甚 兵 衛(正之)

前回の会費納入の件をお知らせいただいた会報で、会費100%のA評価を頂戴したのが我々昭42卒一同である。以前部報でもご紹介させていただいた通り、やろう会の活動資金として1人月1,500円を集め、三田会費は8人分一括自動振込み、合宿所新築寄付も全員が最小限この基金の中から負担し、とにかく8人一致協力の体制をとっている。やろう会基金は、同期会開催の際、負担がかからないようにとの目的でスタートしたが、過去の蓄積を合宿所新築寄付に回したので、やろう会の集いは先送りである。
三田会での昭42卒代表は、現役時代主将の青山忍君(三越)だったが、昨年、副将の石田康太郎君に交代した。彼は、慶應高校3年の時、浜名邦雄先輩(昭41卒)とのペアで関東大会2位に入り、大学時代はアジア大会出場の大久保勉君(昭43卒)と組むなどして活躍した。大学卒業後は、九誠重工勤務の後、郷里の愛知県蒲郡市に帰って、石田製鋼社長を務めている。東京からは若干離れているものの、条件の許す範囲で三田会に貢献してくれるはずである。我らの代表をよろしくお願いいたします。

 

 

昭和46年卒同期会
                        昭和46卒 石 田 幸 太 郎

平成元年9月3日、伊豆ゴルフクラブに46年卒を中心に14名が集まった。沼津の大橋君のお世話で、プール付きの豪華なホテルに宿泊してプレーすることができた。
日本青年会議所会頭の大任を無事果たされた川越君、ニューヨークから帰国した小宮君など、この時は集まるタイミングが揃った上、ちょうど厄年で、ぼちぼち仲間の顔を見たくなった頃でもあった。
当日は台風となり、強風波浪大雨注意報という条件下で、スコアは発表のしようもない。優勝は小宮君だった。彼がゴルフ部に入っていたら、マネージャーとしてだけではなく、選手として大活躍したのではないかと思われる。馬券を独り占めにしたのは小林君。高山英幸さん(昭45卒)は最近ゴルフを始められたそうで、「もっと若い頃から始めれば……」としきりに後悔されていた。
上田君は、日吉コートに雨が降ると、一番素直に喜んだ一人だったが、台風の日にゴルフに引っ張り出され、嘆きの連続だった。写真班のつもりでいた弓場君(昭47卒)は、友達の縁を切ると脅迫されてコースに出た。富永君は、お腹に邪魔されて、ゴルフの才能が発揮できないようだった。丹崎君(昭47卒)はあだ名付き馬券の準備、フロントの精算と、こき使われた1日だった。今まで出席できんなかった伊地知君(昭47卒)の参加は新鮮だった。一方「何故か必ず出席できてしまうんですよ」という中津君(昭47卒)は意外とゴルフが上手である。学生時代とは大幅にイメージチェンジした静かな紳士・慈幸君(昭46卒)は、メガネの奥の細い目が今も優しいままである。宮本君(昭49卒)は一番若いだけに、下積み生活が長くなった。彼は、ゴルフも仕事も大器晩成型と見ているが、いかがだろうか。
将来は、川越君の所属する宮崎フェニックスカントリー倶楽部にも行ってみたいし、前後の代のグループで対抗戦を望む声があれば、受けて立ちたいと夢見ている。また、今回は女性の方々をお呼びすることが出来ず、申し訳なく思っているが、近い将来きっと実現させたいと考えている。

 

 

昭和55年卒同期会
                     昭55卒 赤 井 宏 司
我々、昭和55年卒業組は、東京にいるのが僅か2名で、残りは地方にいる。なかなか一堂に会するのは難しいだが、うまい具合に、毎年1人ずつ結婚したため、結婚披露宴イコール同期会となっていた。
昭和57年3月の赤井から、昭和63年11月の丸山まで続いた我々の同期会(たいていは披露宴→二次会→麻雀大会というコース)も一応全員が妻帯者となって終了した。次の段階に入った我々は、“金曜日の夜に集合して宴会、翌日ゴルフ”というサラリーマンの典型のような同期会をする予定だったが、幹事の怠慢により、未だに開かれていない。また、2度目の結婚を挙げる予定の者も、今のところいないので、いったいどうなっていくのだろうか……。今後の展開については、また次号で報告させていただきます。


         
   

1989年〜1993年度部報目次へ

 
     HOME>お楽しみ>1989〜1993年度合併号