報第36号・1989〜93年度 合併号
《特別寄稿》
 
 
わが「教員野球」の思い出
         
米 田   治
                                           元慶応義塾体育会軟式庭球部部長

何しろ、体育会軟式庭球部の部長を務めながら、それまでラケット一つ握ったことのなかった人間である。部長就任を要請された際、全く未経験を理由に断ろうとしたところ、ずぶの素人のほうがかえって適任だ、という奇妙な論理に反論できず、納得させられてしまって、引き受けたような次第であった。ところが、今この原稿を書こうとして、唯一ともいうべき過去の事実に思い当たった。それをここで書こうと思う。
それは野球である。文・経・法・商の4学部対抗教員野球大会の一場面である。昭和30年代後半だったと思う。
この野球大会では、野球部の学生と欲練習をやった。塾の硬式野球部に井石君といったスラッガーがいた。左打ち、上背は180pを超すような、がっちり体格の巨漢であった。卒業後は確かプロ野球界に入り、かなり活躍したはずであるが、具体的な点は十分な記憶が無い。今ここのテーマは、打席に立ったその井石君と、文学部教員のエース(?)米田投手との対決の1コマである。
彼の第1打席は、学生の教員に対する遠慮もあり、それに、技術上のレベルが月とスッポン程も違うという余裕も手伝って、ものの見事に大振りの三振。第2打席でも同じような心構えであったろう、又空振りの三振。しかし、三振した後、これは少しおかしいなあ……とでもいうような仕草を見せた。第3打席目にバッターボックスに立った彼の表情は真剣そのもの、野球部の面目にかけてもどうしても打って見せるぞ、との気迫があった。それなのに、敢えなく三振に終った。最後の第4打席目になると、もはや必死の形相、恥も外聞も無いとはこのことか、第1球目からピッチャー前へセイフティバント。意表を突かれた僕はダッシュしたが、下半身を鍛えていない素人投手の悲しさ、転倒して打球を取り得ず、バントは見事成功と相成った。
このように述べていくと、素人ながらも天晴れな名投手……といった印象を読者は抱かれるかもしれない。僕もそのようにしてこの駄文を終えたいのだが、これでも僕にも「自我を消して、過去の事実をして、その事実が語るがままに語らせたい」という歴史学者の良心がある。それを最後に語っておかないと、僕の良心が許さない。
では、どうして彼のような野球部の名スラッガーが、僕のようなヘッポコ素人投手に三振したのか。しかも、三打席とも連続三振を喫したのか。その理由は簡単明瞭、僕のような素人投手の投球は、僕らにとっては正常なスピードであっても、彼らのような野球部の選手には堪え難い程の超スローボールであったのだ。彼のような速球に強いスラッガーの場合はなおさらであったろう。待っても待ってもこない球を待ち切れなくなって、バットを振ってしまったのだ。
それに投球フォームが変則でバラバラ、これもバッティングを狂わせたに違いない。その証拠に、この経験に味をしめて、ある程度練習を重ね、いささかコーチも受けて次の年の教員野球大会に臨んだところ、ハチャメチャに打ち込まれて大量失点、無惨な敗戦投手になったことでもわかる。
いずれにせよ、楽しかった古き良き時代の大学教員生活の1コマである。プロ野球界を去った井石君は今、どうしているだろうか。これを書きながら懐旧の思いがしきりである。このエピソードで相手が軟式庭球部の学生であったなら、部長として大いに威張っていられたのに……といささか残念である。

(記・1990年2月)


※ 慶応義塾軟式庭球部部長として、部員たちが長い間お世話になった米田治氏(元文学部教授)は、1992年3月をもって慶應義塾大学を退職されました。この場をお借りして、米田先生に改めて御礼申し上げると共に、今後益々のご活躍とご健勝をお祈りいたします。また、米田先生の後任には、大森雄太郎(文学部助教授)が就任されました。次の文章は、米田先生のご挨拶状から転載させていただきました。(風間注)

謹啓、陽春の候、皆様にはますます御健勝のこととお慶び申し上げます。さて、私こと、本年3月末日をもって慶應義塾大学を、定年まで1年を残して選択定年によって退職し、4月1日より常葉学園富士短期大学国際教養学科長として赴任することになりました。義塾在職中、公私にわたり頂きました皆様方の御厚誼には誠に有難く御礼申し上げます。
なお、義塾には引き続いて当分の間出講いたすことになっておりますので、三田の丘の上でお目にかかることがあるかと思います。
今後ともご指導、ご鞭撻を賜りたく心からお願い申し上げます。
まずは略儀ながらご挨拶まで。                            敬具
  1992年4月                                 米田 治

 


 

 

TENNIS と GOLF
 
      岩 井 二 郎
                                   監事 (昭29卒)      

亡き父は戦前よりのゴルファーでした。私の記憶の中には、当時、駒場にあった東京ゴルフクラブに連れて行ってもらったことや、フェアウェイに立つ父の姿が、おぼろげながら頭の中に残っています。戦後、辛うじて残った霞が関、保土ヶ谷等のゴルフ場は米国軍に接収され、父たちは、彼らがいない時にこそこそプレーをするという状態でしたが、父のゴルフへの情熱は薄れることがありませんでした。
そのようにスポーツをこよなく愛した父は、テニスコートに必要な「にがり」をどこからか持ってきたり、マネージャーとして必要な資金も出してくれましたし、合宿所の建設にも理解を示してくれたものです。
父がいつも言っていたことは、君がやっているテニスとゴルフの基本的に違うところはテニスは相手があるスポーツだが、ゴルフは自然または自分が相手なので、自分自身に厳しくならなくてはいけない、ということでした。私はテニスにはあまりセンスがなかったし、卒業してから3年ほどテニスもご無沙汰して、その後、足も動かなくなり諦めてしまいました。ただゴルフの方は、その後40年間プレーしています。
テニスとゴルフとは完全に違うスポーツですが、とかくゴルフに対しては偏見があり、会社の付き合いだとか、囲碁、小唄、ゴルフの3つが出世の条件だとか言われています。しかし、私にとってゴルフは父の思い出であり、立派なスポーツであると思っております。
十数年前に事業の方も安定し、毎週日曜日にはゴルフも出来るようになって、9年前からはクラブ対抗の選手にもなりました。それによって、ワンストロークの大切さを知り、テニスの「あと1本」の気持ちと同じことだということを思い出したりもしました。
学生時代の多摩川までのランニング、各地への遠征、合宿等々、苦しかったこと、楽しかったこと、それが現在の自分のものの考え方、生き方に大きな影響を及ぼしていることは事実であると思います。現在、学生生活を過ごしている皆さんは、良く学び、良く遊び、良い友達を作って、良き思い出を大いに作っていただきたいと思います。

 

 

 

現役の皆さんへ
                         糸 川 雅 也 (昭36卒)
 日吉のコートには大変ご無沙汰しており、申し訳なく思っております。少し体調を崩してしまい、休日ともなると心と身体はうずうずして仕方がありませんが、今は我慢をし、じっと耐えています。
ところで、ソフトテニスも新ルールになり、古い人間には戸惑うことも多いと思いますが、これも新時代に向けてのさらなる発展のためと、思い切った変革をされたわけですから、特に現役の皆さんには、早く慣れて(すでに、慣れ親しんでいるでしょうが)1段でも2段でも上を目指してもらいたいと思います。
さて、他のスポーツ界をみていますと、昨年はJリーグが発足し、大変な人気を得てファンが白熱しています。また、ラグビー、スケート、マラソン等、各種の競技で新しい芽が吹き出しているように思えます。プロ野球にしても、ID野球と称し頭を使ったヤクルトが日本一になるなど、ただ投げて打っただけでは勝てなくなっているようです。
翻って、我が部の現状はいかがでしょうか。他校の選手に対して勝利を収めるためには、このあたりにキー・ポイントがあるように思えてなりません。
現役の諸君と接する機会もなく、OBの特権で物を言っているだけですが、お許し下さい。
一層の活躍を心からお祈りしています。

 

 

 

退職のご挨拶
                               元慶應義塾体育会主事 宮部 美充
 拝啓 早春の候益々ご清祥のことと大慶に存じます。さて、私儀、本年3月末日を持ちまして慶応義塾を定年退職いたしました。
義塾に奉職以来45年、塾生時代を含めますと53年の間、多くの皆様方から寄せられましたご厚誼に対しまして衷心より感謝申し上げます。
また、義塾在職中は多方面にわたり、一方ならぬご厚情を賜り、お蔭をもちまして大過なく勤めることができましたことは、私にとりまして望外の喜びであり、厚く御礼申し上げます。
顧みますれば昭和23年、志木の創設を皮切りに、学生健保の創設(昭和34年)、保健管理室の創設(昭和39年)、情報科学研究所の創設(昭和44年)等、前半はほとんどいわゆる「線路工夫」の仕事に没頭してまいりました。
そして、後半は義塾創立125年事務局として各種の記念事業に関与し、最後は体育会主事として体育会創立百年の記念事業を担当させて頂く等「お祭屋」として忙しい中にも楽しく勤めさせていただきました。
これも偏に皆様方のご理解とご支援の賜であると深く感謝しております。退職後は、三田塾監局前のビルの小さな一室を借用して三田事務室を開設し、同窓会やOB会(三田会)の事務を行う傍ら、25年間続けております「旅の会」を更に充実したものにいたしたいと存じております。三田へお越しの節は、是非お立ち寄り下さいますようお待ち申し上げております。何卒今後ともご厚誼のほど、よろしくお願い申し上げます。
なお、体育会主事としての私の後任には、都丸禎一君(昭和36年政卒)が就任いたしましたので、私同様のご厚誼を賜りたく、よろしくお願い申し上げます。
末筆ながら、皆様の益々のご健勝とご多幸を祈り上げます。                         敬具
   平成5年4月

 

 

 

二  十  本
                                    前大学男子部監督 昭57卒 小 林  学

この原稿を書くために、過去の部報を再読してみました。皆さん、とても良いことを書いておられ、その1つ1つを実行できれば、テニス界の王者になれることは間違いないと思います。皆さん、今一度部報を読み返してみませんか。
さて、主題にあります通り、学生の大会で通常行われております9ゲームマッチにおける勝ち方について私流の考えを述べようと思います。言うまでもなく、9ゲームマッチに於いて相手に1本も取らせなかった場合に、自分が取らなければならない本数は20本です。ここで、私流の20本の取り方の一部を展開してみます。
(編集者註/原稿執筆時が1990年であるため、旧ルールで書かれています。)
まず、トスに勝ち、サービスゲームからはじめます。
@ ファーストサービスをミドルに入れ、そのレシーブを前衛がポーチする。
A ファーストサービスを逆クロスに入れ、レシーブリターンをミドル寄りに打ち、前衛がポーチする。
B ファーストサービスをミドルに入れ、前衛がポーチに出て押し出す。
C ファーストサービスを逆クロス深く入れ、ミドル寄りにロブを上げさせ、左ストレートのサイドライン真ん中に強打し、相手後衛にミスをさせる。
D ファーストレシーブを相手後衛の左足に打ち、前衛がポーチする。
E ファーストレシーブを逆クロス深く返し、レシーブリターンストレートを右ストレートサイドライン沿いに強打し、浮いた球を前衛が処理する。
F ファーストレシーブをクロスサイドライン寄りに打ち、相手後衛にサイドプレッシングをさせ、前衛がそれを抑える。
G ファーストレシーブリターンストレートをクロスにロブを上げ、前衛がポーチする。
これでようやく2ゲーム、8本取ったことになりますが、誌面の関係もありますのでここまでとします。
このような調子で20本取れば、相手に勝つことになるわけですが、世の中そんなに甘くありませんので、いろいろなバリエーションが“楽しめる”ことになります。ファイナルゲームまで100本近く展開を考えていくと、なかなか楽しい(?)ものです(暇でないとできませんが)。
ここで大事なことは、決して負けてはいけないということです。自分の実力をよく考え、可能な限り作戦を立てて勝ってください。20本目(マッチポイント)をどのようにして取るか、いろいろ考えるとワクワクしてくるはずです。
よく「あと1本が取れないと」と言われますが、最後の1本を取るためにこのような練習をいつもしておれば、本当の試合で必ず勝利者になれるでしょう(もちろん実際の技術を身につける練習もしなければなりませんが)。
私流20本のとり方(ブレーンストーミング編)について異論、その他の案などありましたら、私宛にご教示ください。


近況/岡井 政義氏(日本経済新聞コラム)

 

         
   

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