報第36号・1989〜93年度 合併号

卒業生のことば
1989年卒業生

 
 
お世話になった皆様へ
                  商4 石 野 猛 士
                                           

部報の原稿を書くというシーズンになり、11月の初めから考えていたのですが、上手く自分の思っていることを伝える表現が見つかりません。
ただ申し上げたいことは、OBの先輩に申し訳ない気持ちで一杯であると言うことです。OBの組織である三田倶楽部が益々整備されていくのと反比例して部は弱くなり、挙句の果て、3部降格という、最も避けなければならないことをしてしまいました。深く反省しております。今の私に出来ることは、今回のことを糧として、立派な社会人になることだと思いますので、これからもご指導、ご鞭撻の程よろしくお願いします。
又現役諸君は今度のリーグ戦で必ず2部復帰を成し遂げて下さい。私は日本のどこかで祈ってます。また、出来ると信じています。そこで、君達に今まで見てきた者として、一言残していきたいので、参考にしてもらえたら幸いです。  


小川 基本的プレーは安定してきたのだから、バックのレシーブを研究する。
坂本 サーブは入るようになってきたから、威力とコースを向上させる。
菅原 基本的なことは良くなったので、球際に強くなる。
桜井 堅実さを求めているのは良いが、もっと大胆な選手になってほしい。
中村 練習で技術の向上を考えるのは良いが、もっと勝利に対する執念心を持ってほしい。
南  今のままで良いから、もう少し確率を考える。
林田 テニスに対するひたむきさは買えるから、球の威力を向上させる。
山内 フォアは良くなったので、バックとサーブを良くする。
本村 良いものを持っているので何か武器を作る。
浪川 ガッツがあって良いが、謙虚な心を忘れずに。
小田 健康管理に気をつけて、何か得意なプレーを作る。
最後になってしまいましたが、米田先生、内藤総監督を始め、先輩諸氏、同輩後輩の皆さん、本当にお世話になりました。また、ありがとうございました。 

          野村證券梶@就職


 

 

 

「振り返ってみて」             
          経4 今 井 武 志

私は、12月3日の納会で一応引退しましたが、それまでの4年間で得たものといったら数えられません。
1年生の入学式のあと、混声合唱団もいいなと一時思ったことは、今となってはとても人前では口がさけてもいえません。
4年間で自分自身本当に変身しました。これも体育会に4年いたからこそだと、今、しみじみ思っております。
@ まず、体重が14kgもふえ、これからますますその増加率もアップしそうです。入った当時はヒョロヒョロだったんですが、いまでは「どうしたのその太もも」と言われるぐらいデブになりました。
A 当たり前のことですが、テニスがうまくなりました。うまくなったと言っても一人前には、まだまだ達していないのですが、この現時点の段階で、もう一度1年生からやれたら、もう少しましな戦績が残せるんじゃないかと思います。せめて高校からテニスを始めていたらと思うと残念でなりません。
こんな私も3年生のころ、努力賞(日吉コートに一番来た)を頂き唯一誇れる産物としてありがたく思っております。裏を返せば、一番学校へいかなかったともとれるのですが、これは見逃してください。
B 3番目は、お酒が強くなりました。これもOBの方々の並々ならぬご指導があったからこそ出来た技だと思います。今では夕方が待ち遠しくてなりません。しかし、酒を飲みすぎて、道を歩いている無防備な人たちに、むやみやたらに声をかけるのは自制します。
いま、3つ程書かせていただきましたが、まだまだあります。
とにかく今の私があるのは、体育会という組織があったからこそです。
やや元気不足の後輩諸君、安心して思う存分4年間テニスをしてください。最後になりましたが、米田部長先生、風間理事長、内藤総監督、植松女子部監督をはじめとするOBの諸先輩方、本当にありがとうございました。
………後輩に1つお願い………
コートローラーを絶対にこわすな。(ミラ・パルコよりも高いものなんだ!) 

野村證券梶@就職

 

 

 

LIFE IN LONDON
                       文4 中 沢  豊
 10月に行われた関東リーグをもって、中学以来親しんできた軟式テニス、学生としての軟式庭球に一応のピリオドを打った。毎日の練習から開放されて嬉しい反面、その長い期間に実質的に終止符が打たれることは、矢張り淋しいものがある。そして今一つ、悔いがあるといえば、最後の年を最高の年にできなかったことであるが、大学での戦績は、自分なりに満足している。反省すべき事もいろいろあるが、諸先輩方、同期の仲間に支えられ意義ある生活を送れたのではないかと思う。
ところで、私は今、ロンドンにいる。どうしてかというと、理由は多々あるのだが、最大のものは極力時間を有効に使いたいからということになる。この点に関してはタイムリミットを延長してくれた慶応義塾に感謝している。
さてロンドンと聞いて皆さんは何を思い浮かべるだろうか。旅行された方や、住んでいたことのある方はその風景を思い浮かべるであろう。行った事のない方は、霧の街ロンドンを想像したりするだろう。街のイメージは10人10色だと思う。そこで、私の目から見たロンドンを紹介してみたいと思う。但し現在、1ヶ月目なので現時点の印象ということにしておきたい。
第1印象は、伝統的な街ロンドン。近代から建ち続ける建築物は威厳を感じさせる。そして慣れてくると、この街並みがあってこそ人々をイギリス人たらしめていると思えてくる。それはつまり、東京のような殺風景な街並みは、独特の雰囲気こそ持つが、伝統とは無縁のものだ。しかし英国人は、実に伝統を守っている(彼らに言わせれば、かなり変わってきているそうだが)。政治にしろ、文化にしろ、新しいものに対して柔軟だが非常に慎重である。そういえば1つ驚いたことがある。彼らは滅多にカサをささない。すぐに止むから持ち歩く必要がないというが、それでもガンガン雨の中を歩いていく。一見妙な光景である。
セントラルについては知っている人も多いと思うので南の方について、少し書こう。テムズ河を渡ってしまうと有名な場所も市内にはなく、住人の街が散らばっている。そこでは昔風の煙突がある家が同じような顔をして並んでいる。何となく、いい感じである家の中は、GFがキッチン、ダイニング、リビング、そして2階は、寝室になっている。広い家だと寝室が7か8部屋ある。1部屋も8畳前後の広さがあり、外観のイメージよりも広い。裏庭は様々に利用されているが、どの家でもガーデニングには力を入れている。辺りには広い道があるだけで他には公園以外何もない。従って駅から遠いと、かなり不便だと思う。夜は早くに店が閉まってしまう。7時過ぎて営業しているのは、パブのみだ。酒は安い。1パイント(大ビン弱)のビールが300円以下だ。ついつい深酒してしまう。でも娯楽はパブぐらいしかない。
現在までのところ、全体的に気に入っている。英語はそれほど上達していないけれども、住みやすい街だと思う。決して開放的ではないが、自分から動けば人々はとても親切だ。東京で抱くイメージとはかなり異なる街だと思う。
とりとめも泣く思いつくままに書いてみた。すらっと読み流してください。



 

 

 

4 年 目 の 正 直
      
             政4 白 駒 伸 春
  1988年12月、オール慶應後の納会も終わり、自分はあることを決心した。1年間をふり返ると悔いの残ることばかりで、特にリーグでは自分が勝っていれば塾の結果が全く違っていたからだ。とにかく残された1年、この悔しさを心に刻み、絶対に借りを返してから卒業しようと決心した。
決心してからの行動は迅速だった。納会が終ると二次会をブッチして合宿所に駆け戻り、「軟式テニス」を読みあさった。数時間後、中沢君たちご一行が泥酔して御帰りになったのでふとんの中にもぐり込みその続きを読んだ。オフの間にはこの他いろいろと読書にいそしんだ。精神的な面で非常に勉強になったのが、ジム・レイヤー著「メンタル・タフネス・トレーニング」で後輩諸君に是非進めたい。またインドアなどをよく見に行き、明治の斉藤君、早稲田の川西君、西村君などを見て、技術的な面でヒントをつかむこともできた。オフの間から体力作りを基本に技術面でのチェックを行い、常に春のリーグに照準を合わせ調整できたと思う。
リーグでは石野君と組んで全勝することができた。いろいろ助けてもらった面も多かったが、2人で1ポイントを取るというテニスが出来た。とりあえず借りは返せたと思った。また小柳君と、夏とオール慶應で組んで、2人でいいテニスが出来たと思う。
春のリーグでは大学からテニスを始めた海老原・今井組が最高のテニスをしてくれて本当に感動した。2人の頑張っている姿は一勝忘れることができないと思う。最高にうれしかった。
今年は本当の意味でテニスを楽しむことが出来ました。これも学さん、中津さんはじめOBの諸先輩方にご指導いただいたからだと思います。本当にありがとうございました。あっという間の学生生活でしたが、すばらしい仲間、先輩方、他大学の友達などに恵まれ、最高の財産が出来ました。卒業後も一生この財産を大切にしていきたいと思います。みんな思い出をどうもありがとう。


日本航空梶@就職 

 

 

慶大軟庭部を愛する者より 
        
 医4 小 柳 和 夫

シーズンを通して3年以下がだらしないと言う話をよく聞いた。たしかにそう思うし、文句も言えないだろう。それでは4年生はどうだったのか。自分達の力不足もたしかにあったが、それ以外の問題もあったと思う。
まず、もっと技術的指導をすべきだったと思う。現在は上級生にうまい人がたくさんいて、それを見ながら練習できる時代ではなくなった。つまり、何をどう練習すべきかわからず、暗闇の中を手探りしているのと同じ状況にある。だからこそ、もっとしつこく文字通り手取り足取り教えなければいけなかった。これには、下級生の積極的姿勢も必要だ。
2つ目は、もっと必死な姿を見せなければいけなかったと思う。練習はデモンストレーションではないが、4年生がそれだけ必死にやれば、自ずと下は付いてくるものだと思う。また、リベラルな雰囲気のいいが、それはある程度レベルの高い集団には適するが、今の段階では馴れ合いや怠慢を生むだけだと思う。
次は、現役諸君に対して。
まず、常に闘争心を持って練習してほしい。テニスは対人競技なのだから、相手よりも精神的優位にたち、また自分を奮起させるために、どんな状況でも闘争心を持ってやってもらいたい。わが部に一番欠落しているのは、この闘争心である。この「心」があれば、技、体は自然とついてくると思う。うまくやろうとしないでほしい。闘う集団になれ。
2つ目は、受動的でなく能動的に練習してほしい。どんな練習でも自分の目的を見つけられるはずだ。球拾いだって走ってやれば体力がつくし、フットワークの練習にもなるだろう。人の長所、短所をじっくり見れば、自分のプレーの参考になるし試合も有利だろう。
3つ目は、大きな目標と小さな目標を、常に念頭において練習してほしい。小さな目標をどんどんクリアーし、頂点を狙って欲しい。
最後に自分自身は4年が終った今でも悔いが残っている。それはイメージした練習を自信が持てるまでとことんできなかったからである。現役諸君には時間があります。質・量とも充実した練習をしてください。ただ、4年間は本当に短いということを忘れないように。1球無駄にすれば2球、1日無駄にすれば2日、それを取り返すのに時間がかかると思って日々精進して練習して下さい。これが4年生として最後のお願いです。

 

 

 

 

我が素晴しき仲間
 
              法4 海老原 康 弘

僕は、大学4年間の思い出の殆んどが、体育会軟式庭球部に尽きます。そしてここに、感謝の意味もこめて同期の仲間に今、一言ずつ書きます。
小柳和夫 医・塾高出身 後衛〉通称ネコ。彼の嫌いなものはエアサロと消火器。好きなものはお酒。その酒で彼は数々の話題を提供してきた。酔って電車の中を走りまくって、寒いのに片っぱしから窓をあけたり。またこんなこともあった。試合前夜の活動のせいかNコーチに「アスリートとしての体力」まで心配されたこともあった。
しかし入替戦ではすばらしかった。それ以降4年になって苦手なサーブ、バックも何とか克服し、安定した核となって活躍した。また人一倍必死でもあった。
しっかり進級してくれ。
白駒伸春政・柏陽高出身 前衛 〉彼はさわやかフェイスでロマンチスト。同慶戦の京都では紅葉したもみじを何やら拾って集めていたとか。
彼は自分でも言うように3年までの自分の失敗を無駄にせず、4年で活躍した。特に春のリーグでは、今までとは全然違っていた。4年になって成果を出すというのは慶応体育会らしい姿であると思う。
また、彼とは合宿所でも一緒に生活し有意義な日々だった。(と思う)
今後もよろしく。
今井武志 経・洛南高出身 前衛〉彼の生態は不可解である。彼の下宿先の留守電も奇妙な内容が多く(1日中シャワーを浴びているとか、夜中に学校に行っているとか)私生活が良く分からない。しかし、彼は妙な生活を苦ともせず、主務をほぼ完璧にこなした。部活動を滞りなくできたのも彼のおかげである。
しかし、今井とはよくけんかもした。ペアの僕もよく文句を言ったが彼にあげボールが悪すぎて練習にならないと言われたのをはっきりと覚えている。
4年間お疲れ様。
中沢 豊 文・横浜南高出身 前衛〉石野が技術的主将としたら彼は精神的主将といえるかもしれない。彼は3,4年になって合宿所にとまる回数が増し、コートのみならず、24時間部員をひっぱっていた。タフな男である。原さんや梶原さんにゲンドウを注意されながらも試合ではしっかりしたところを見せ、頼りになった。現在はロンドンにいるが元気にやっているだろうか。
 戻ってきたらまた飲みたい。
石野猛士 商・厚木高出身 後衛〉今最も幸せな男イシノ。今まで合宿所が電話中だったのは彼のせい(彼女のせい?)と思って間違いない。また、彼はコートでは強いが「鳥せい」では弱く、始めて見るものには中沢が主将なのではと思ってしまうほど。
 しかし、石野は1年からレギュラーとして1番出世し、チームの中心となってクラブを引っ張っていった。
 大変な主将お疲れ様。
伊賀真理 経・姫路高出身 後衛〉通称イガマリ。イガマリはつねに明るく大きな声でいつどこでも笑いをふりまいているのでイガマリの周りにいると暗くなるということはありえない。しかし、イガマリも4年になって変わった。我々に感化されたのか酒が入ってからは22の女の子とは思えない過激でストレートでデンジャラスな発言もバシバシ出てきた。
そんなイガマリも少ない部員を主将としてよくまとめてきた。
お疲れ様でした。
彼等が私の同期たちだ。長いようで短かった4年間、同じ目標を持ってやってこれたことは最大の宝だと思っている。本当にみんなありがとう。そして最後になりましたが米田部長先生、内藤総監督、小林監督、植松女子部監督をはじめOBの先輩方、いろいろと本当にありがとうございました。
現役のみんなもありがとう。来年は、厳しい年になると思うけどがんばってください。

ゼネラル石油梶@就職

 

 

最高の贈り物
    
                  経4 伊 賀 真 理

もうすぐ、4年間の大学生活、そして10年間の学生テニス生活を終える。いろいろな人に出会い、多くのことを経験し、様々な想いを味わった日々であった。こんなにも素晴しい時が過ごせたのも、本当にたくさんの方々のお蔭だと、感謝の気持ちで一杯である。そして一番お礼を言いたい2人に、この部報の原稿を贈りたい。
それは、いつも私を応援し続けてくれた父と母である。中1の秋の新人戦から高3の春のインターハイ予選まで、ほとんどの試合に2人で見に来てくれた。当時は、照れもあり厭でたまらず「来ないでよ」と怒ったり、試合会場を教えなかったりしたこともある。家族の理解の中でテニスが出来て幸せだと気付いたのは、つい最近である。
父は自分の夏休みのほとんどを私の試合を見るために使ったらしい。また、時々テニスの練習の相手もしてくれた。そして、試合の朝早く家を出る私のために、必ずお弁当を作ってくれたのは母であった。試合の合間でも食べ易い様にと、おにぎりを1個ずつ包んでくれた。泥んこになったテニスウエアやくつ下を洗ってくれたのも母である。
姫路での生活は、両親に頼りっぱなしだった。私は、中学、高校と随分気が強かったが(今でも相当強いと言われるが)それは、どんなに外で強気でいても、家に帰れば甘えられる両親がいてくれたからだと、実家を離れて初めて気付いた。
1枚の板の上を歩くとき、それが地面の上に置いてあれば、誰も簡単に歩ける。しかし、それが深い谷に掛けてあれば、恐くて歩けないだろう。私は板の上を簡単に歩いてきたつもりだったが、それは両親の愛という大地に支えられた板の上だったのだ。親が子供を愛するということは、子供の人生を支えるということでもあるのだ。
また両親は、自由に伸びやかに私を育ててくれた。4年前、「慶應の雰囲気が私には合わない」とその進学に私は迷い悩んだ。その時母の「長い人生のうちの1,2年なんて無駄にしてもいい。合わないと思ったら、学校をやめればいい」という言葉は、私の心を軽くしてくれた。修学旅行には行けず、バイトに明け暮れた学生時代を送った父は、私のやりたいことに対して、最大限の援助を惜しまなかった。
この4年間の大学生活と、10年間のテニス生活は、私の一番大切な宝物となった。そして、それは両親から贈られた一等素敵な贈り物でもある。この贈り物に対して、父と母に心から感謝したい。


大阪ガス梶@就職

 

 


卒業生のことば
1990年卒業生

卒業にあたって
              法4 小 川 英 之

中学の時にこの軟式庭球を始めて以来、ふり返ってみると10年もスポーツをしていると思うと、我ながらよくも飽きもせずにこんなに長い間続けられたものだと感心する。一体なぜ続けられたのか、と聞かれたならば、私は軟庭が好きだからと答えるだろう。その答え方が最も簡潔であり、素直な表現だと思う。しかし、私は他にも好きなスポーツがある。例えば、山登り、走ることも好きだ。だとしたら私にとって選ばれしスポーツは軟庭でなくても良かった、といえるかもしれない。
そのようなことを言ってみても、私にとって、軟庭を10年やったという事実は確実に自分の歴史の1ページになってしまったのだし、その間はそれなりに楽しく、幸福であったと思う。軟庭をする喜びみたいなものが常にあったような気がするからである。何がその喜びなのかといわれても、うまく表現できないが、それは試合の時でも、練習の時でも感じられるものだった。ボールを打ち合う相手がいて、あの快い打球音を響かせながら汗を流すだけでも、私は喜びを感じていたのかもしれない。
そんな私ではあったが、軟庭をしていてちっとも楽しく思えない時があったのも事実である。それは自分が大学の上級生になり、責任のある立場になった時からだったように思う。この慶大軟庭部の主将になり、強い部にしたい、勝ちたいという思いが強くなればなるほど、自分が明かりを持たずに暗い夜道を歩いているような気がしてならなかった。その場を逃げ出したらどんなに気が楽になるだろうと考えもした。今までの自分が持っていた「やればできる」という信念が音をたてて崩れていったのがこの時期だったように思う。
そのような時期を経て、冷静に自分を見つめ返せるようになり、私は歴史学者のように、過去の信念のかけらを拾い集め、再び「やればできる」という気持ちを持とうと思っている。なぜ私は「やってもできない」結果に終ったのか、それはやり方が違っていたからではなかっただろうか。その間違った選択のために部の歴史に汚点を残し、犯罪人にでもなった気分だが、その事実も事実として受け入れ、これからの軟庭以外の人生にも役立てていきたいと、そうしなければならないと思う。


東北電力梶@就職

 

 

「雑  感」
                商4 坂 本 順 一

4年間の体育会での生活をふり返ってみると、言い古された言い方ではあるが、あっという間に過ぎ去った感がある。とはいえ、その1日1日には、数多くの体験があり、外界からの刺激・考慮すべき材料が含まれていた。先日の台風、観測史上最も遅い上陸であるらしいが、その暴風で、すっかり吹き飛ばされたイチョウ並木の葉の色づき方は、毎年思うことだが、いつのまにか、黄色くなっているのである。気付かないだけであって、日々、少しずつではあるが確実に色づいているはずである。4年間で、自分も変わったと思う。1日1日では感づいていないが確かに変わった。その日に果たすべき事柄に追われているから気付かなかったが、機会あるごとに一定期間の変貌振りを観察し、反省することの必要性を痛感する。
顔つきが変わったとよく言われる。高校まではあまり言われたことがないが、大学生となり学生証などの写真と今の顔を比べられる度に指摘されるようになった。学割を発行してもらう時、銀行口座の開設の際、「やせましたね。」「顔つきが変わりましたね。」など、「げっそりしましたね。」とまで言う人もあった。犬を飼っている人と話す機会があったが、年を尋ねると案外年とっていた。15才になる紀州犬であるが、人間でいえば75才にもなるという。考えてみれば、子犬から成長する時、顔つきが変わるが、その後は、あまり変わらないものである。だから、年老いてもあまり顔に出ない。いかにも、そのように書くのは漫画だけであろう。ただ毎日見ている飼い主なら、その違いに気付いているのかもしれない。顔は口ほどにものを言う。顔の表情に、内面が表れるのは人だけであろうか。
庭球においても相手の心理を読むことが必要とされるが、1つの判断材料として相手の表情を見るということが挙げられる。私はコートの後方でプレーすることが多かったが、前衛なら間近に見ることができるのではないかと思う。

                       潟Rマツ 就職

 

 

I hope as follows 
 
     中 沢  豊

今年も部報の原稿を書く季節になった。慶応義塾から“オマケ”をもらった為、今回で5回目になる。毎年何かしら「これを書こう」というものがあるが、今年は、自分自身のテニスに関することに於いて、全くない。第1線から退いてしまったからだろう。或いは我部の雰囲気自体が以前と少しずつ変わってきているからかもしれない。
本年度の戦跡を見ても、昨年同様不振な状態は依然として続いている。学生達が一生懸命やっていることを否定するつもりは毛頭ないが、少し疑問に思うこともある。
先ず初めに、よく言われることだが、練習密度の低さである。現役部員の中に入部以来飛躍的に上達した学生はいないと思う。毎日欠かさず練習しているのに、である。従って量的には既に限界に達していると考えて、他校の、例えば早稲田の場合と較べてみて、推薦でない、我々と同じような状況にある多くの学生は年々かなり上達している様に思える。少なくとも数人は1部リーグに於いて3勝前後の勝点を挙げる。勿論決定的な差として、早稲田には学生のトップ選手がいて、全体を引っ張り、我々はどんぐりの背比べで練習している。この差は大きいと思う。しかし、それだけの差で慶早戦に大敗するだろうか。日吉の練習の中に、「なんとなく」という抽象的な形容詞がそのプレイにまさに具現化されている気がしてならない。少人数で練習することのデメリットはいろいろあるが、メリットがあることも忘れてはいけない。そのメリットを生かせた者だけが、上達していくのだと思う。
もう1つは、鳥せいに行かないことだ。鳥せいに行くことは、他の飲み屋に行くことと違う。鳥せいに10時半過ぎに行き、奥の座敷の手前のテーブルに着く前に、大将と佐々木さんにあいさつする。そしてビールを飲み干す。こうなったら話題はひたすらテニスである。私が下級生の頃は毎晩行って、毎晩話を聞いていた。時には質問し、時には反論したりした。常にテニスのことを考えていた(と思う)。5時を過ぎたらテニスのことを考えないようでは、日々の練習は現状維持がせいぜいだろう。紙面の都合で終わりにするが、来季こそ頑張って欲しい。
最後に監督さんを初め諸先輩方、本当にお世話になりました。これからも宜しくお願いいたします。


鰍iCB 就職

 

 

頑 張 れ 慶 應 
   
         医5 小 柳 和 夫

この1年間 学生でありながら、OBの立場にもいるという、2面性をもつ状態を経験させてもらった。
まず、OBとして1年間、過ごしてきたが、テニスについてはやっぱり三田倶楽部は強いという印象を強烈に感じた。慶應の歴代の名選手がたくさんいるから当然といえば当然なのだが、その底力のすごさに、いつも感嘆している。こういう状況でテニスを一緒にやらしてもらえて、非常に勉強になった。来年も試合に出させてもらえるよう頑張ろうと思う。テニス以外では、OBの人達の影での活躍がいろいろわかった。合宿所立て替えは勿論のこと、選手獲得、資金的援助、これほどまでにバックアップしてくれるところはないのではないかと思える程である。現役諸君は、このような状況を作ってくれている諸先輩に対する感謝の念を忘れずに練習に励んで欲しい。
次に、学生として1年間をふり返ってみたい。やはり学生の試合結果には一喜一憂している。学生が勝てばよくやったと思い、負ければ責任を感じる。春の4部降格は、1年前の自分達の代の3部降格が遠因であり、また4年の時の下級生が主力と戦ったことが責任感を一層強くした。
しかしながら、4部降格という暗さを、この文章を書いている今はほとんど感じない。なぜだろう?大ざっぱにいえば、春よりは段違いに強くなっていることがそう思わせているのだろう。さらに言えば、次のシーズンの期待が出来るチームになってきたと思えることだろう。特に秋の早慶戦で挙げた2勝は、まさにそれを裏付けるものだと思う。中津さんではないが、この2勝は非常に大きい。負けた3つは、0か1だったが、それでも5番勝負になったことは事実なのだから、自信を持ってやってもらいたい。
最後に、現役諸君にもう1言だけ言いたい。とにかく頭をつかって、がめつく、へたばるまで練習するように。そして、自分が強くなろうと思ったら、他人をどんどん使うことである。OBが来たら、勝つまで試合をするもよし、相手がへたばるまで乱打をするもよし、挙句の果ては挙げボールをしてもらっても良いから、どんどん使うように。見てるだけでは強くならないのだから。次のシーズン、本当に期待してます。


 

 

卒業生のことば
 1991年卒業生

前 略 丸 山 先 輩
             法4 菅 原  厚

本当に早いものである。入部したのが4年前とは、どう考えても信じられないのであるが……
実にいろいろなことがあった。下級生時代の苦しさ、自分の技術の伸び悩みに涙する時期、3度の入替戦、上級生特に主将になってから感じるプレッシャーとあせり、この私も多分歴代の4年生が感じた思いをおなじように感じて卒業しようとしているのではなかろうか。
ただ1つ物足りなさを感ずるところ、それは体育会としての生活、慶大軟庭部員としての生活は実に有意義なものであったし悔いは残らない一方、戦績的なものにおける満足感は歴代の卒業生よりも欠けていると思うのである(皆さんご存知の通りである)。しかしながら、やはり卒業するにあたり、悔いの言葉をあとに去っていくのは悲しすぎるので……少ない自分の満足のいく試合の中から感じたことを述べて終えてみたいと思うわけで……
前略、丸山さん、松山のインカレでは、的確なご指示と励ましのお言葉をいただき、また夜もお世話になりましてありがとうございました。あの時は、今まで感じたことのない喜びと感動を得て大変思い出深いです。今でもあの興奮を忘れることは出来ません。
私、思うのですが、あの時は前衛がよかったですね。後衛は前衛が勝負するまで球をもち、前衛は期待通りプレーしてくれる。あれがまさに軟式庭球だと私は確信しております。古豪、福岡大を相手に、あそこまで堂々と、ものおじすることなくむかっていく選手達はすばらしかったと思います。
しかしながら、最近前衛陣に元気がありません。あの時の大胆さ、きれのある動きはどこへやら  ……。皆何か迷ってやっているような気もしますが……。
前衛の私ですので、さきほども少し触れた通り軟式庭球というのは、やはり前衛の勝負合戦と基本的に考えています。仕掛けるプレー、誘うプレー、最後の最後はやはり前衛がさわるのでそこの勝負だと思うのですが。だから、前衛陣に勢いがないと後手後手になるのは必至です。
ところで、前衛陣がこのような一方、後衛陣に考えてもらいたいことがあり……後衛がもっと前衛陣が楽に活躍できるように相手後衛に攻め込んでやれということです。松山での試合以後後衛は少しずついい方向に向かっていると思います。しかしそれは球もちがよくなっているということであり、今後は、もっとコースをついて相手後衛を少しでもうちずらくすることが大事だと思うのです。少し元気のない前衛陣にとって今1番必要なのは自身です。いちかばちかの勝負ももちろんありますがそうではなく、後衛がさっきいった状況を作って、前衛に楽に決めさせて、いいイメージをつけさせるというくらい思ってもいいと思うんですが……。
前衛はそれだけやってもらっているのだからさらに責任というものを感ずるだろうし、それで決められなかったら明らかに、前衛が非をかぶるべきですね。後衛は、「オレが相手後衛を攻めて、チャンスボールを作るから、お前しっかり決めろよ」前衛は「俺がしっかり決めてやるから、それだけの状況を作ってくれ」とお互い人のせいにできるだけの責任を持ったプレーをしなければいけないと思います。勝ちパターンは俺が作るんだと……。
長々書きましたが、要は、軟式庭球は1人では出来ない、後衛さらにもっとがんばれ、前衛自信をもって後衛に見合うだけのプレーをしろということを、私が最近の部の状況で思っていることを丸山さんにお伝えしようと思いまして……。
うちのやつらは、自信を持って充分ぶつかっていけるやつらですよね、丸山さん。     早々


日本長期信用銀行 就職

 

 

静   心 
                理4 桜 井 英 章

僕にとって学生時代のテニスとは何だったんだろう。
今までにこの問題について考えたことがないわけではない。がしかし、4年間、いや中学からの
10年間が終った今、一番客観的に考えることができそうな気がする。
中学時代の自分から大学時代の自分を語るときに、テニスというものをのぞいては語れないほど大きな存在になっている。始めるきっかけたるや、多分、多くの人がそうであるように、僕も安易な動機であった。ラケットを使ったスポーツが得意だった僕は、間違ってもその他のスポーツがうまいとは言えないが、卓球やバトミントンと較べた場合に、テニスのほうが格好よく、聞こえがいいと思ったのである。そんな動機にしろ、その地域で多少勝つことが出来、自分を表現するもののひとつとして僕の内側に根づいていった。その余波が高校時代にも及び、高校から硬庭をやろうと思っていた僕ではあるが、知らず知らずのうちに何となく続けてしまった。
高校時代の僕は全くといっていいほど勝てず、中学時代とのギャップに苦しみながらも、楽しみながらやっていたように思う。だが、自分をどんどん追い越していく同輩・後輩になんともいえない悔しさを抱いていた。そんなこともあり、大学時代のテニスの始め方は高校時代のそれとちょっと違っていた。
周りの大学生の華やかな硬庭サークルに心ひかれなかったわけではないが、高校時代にやり残して
た悔しさをなんとかしてやりたいという気持ちが先行し、体育会軟庭部の門をたたいたのである。
よく、大学のテニスをみて球の速さが高校のそれと全然違うなどとみんな驚くらしいが、入部したての僕はそんなことには全く気づかなかった。そう、気づかないほど、そのことが分からないほど、僕のレベルが低かったのである。いつ頃だったか入部してある程度たったころ、やはり大学は違うなということに気づいた。その頃が、僕にとってのスタート地点であったのだ。今思うに、こんな僕でもいろいろなことができるようになったなと思う。やはり年月がたったんだなと思う。何とも言えず、やっと終ったような、でも、とてもさみしいような、複雑である。
静かに考えてみる……。10年のテニスで自分は何を得たのか。
それは一言で言えば自信。そう自分を信じることだと思う。どんなときでも、結局最後はこれに尽きると思う。ただ単に、10年間ラケットを振り続けたから得たのではない。10年間考えたから得られたのだと思う。僕の場合は自分を表現する手段、自分を高めていく手段が、きっかけがどうであれテニスであったわけで、それが楽器でもペンでも何でもよく、だから僕はひとつのことにほかのことを捨ててでも向かっていく姿に憧れるし尊敬もする。
僕はこの自信を、他人に見せびらかさずに内側にそっと抱きながらぶつかっていきたい……。


慶大理工学部大学院 進学

 

 

 

無   題  
               理4 中 村 俊 彦

ぼくはこれから大学院に進学します。大学の4年間で余り勉強しなかったのでこれから2年間だけですが、ちょっとがんばってみようと思います。ここで僕が4年生になり、研究室に配属されてから何をしていたか書いてみようと思います。
ぼくが所属している研究室は、岸研究室という電気化学の研究を行っているところで、半分以上の人が、二次電池の電極を作っているようです。そんな中でぼくがやっているのは、無電解めっき浴における還元剤の電解再生という題目の実験です。こんな研究題目を見てもほとんどの人は分からないと思いますが、僕も最初この研究題目で1年間実験して、そして論文を書けといわれたときには、本当に出来るだろうかと思いました。まず無電解めっきについての知識がほとんどなく、ましてや還元剤の電解再生など、どういう実験をやるのかもわかりませんでした。さらに、4年の前期など試合や練習でほとんど学校に行かず、まわりの人達に卒論書けるのかと何度も言われました。そして現在そのとおりの状況となり、大変忙しい毎日を送っています。僕は本当に卒業できるのでしょうか。
さて、話は変わりますが、僕は大学院を出て何になるのでしょう。鳥せいでこの間飲んでいる時には酔って、ノーベル賞を受賞できるような大きな発明をして鳥せいにサイン色紙を飾るんだと豪語していました。また、研究室の友人や教授と飲んでいた時も、教授を目の前にしてノーベル賞を取るといっていました。だいたい、ぼくは、研究者として一番すごいことはノーベル賞をもらうことだと単純に考えているようで、酔っているときに、将来のことを聞かれるとこれしか言わないみたいです。未だ何も分かっていないこの僕に将来の道は開けていくのでしょうか、それともガケから落ちるような急転回がまちうけているのでしょうか。どちらにしても人とは違う自分だけの人生を歩いていきたいと思っています。諸先輩がたはもちろん、後輩の方々もこの未熟なぼくをどうぞこれからも応援してください、がんばりますから。 

                 慶大理工学部大学院 進学


 

 

 

無   題
 
                文4 松 尾 あさ子

私の父はあらゆる面においてグータラであるが、只1つ几帳面な所がある。10年ほど前から、ほぼ毎日日記をつけており、観た映画から読んだ本、スポーツ観戦や世の中の動き、競馬の勝ち負け(統計まで取る熱心さ)まで、こと細かに記しているのである。
その中でも、我が世のニュースベスト10は意外なことが1位になっていたりして、年が暮れる頃になると私は密かに、このベスト10を楽しみにしている。
私が1年生の年(1988)は5位に、長女テニスに負けてばかり、とある。世の中ではリクルート大疑惑、昭和天皇の病状悪化など。
2年生の年(1989)は1位が、500円玉のへそくりが見つかってしまい○○万貯金するはめに。2位が、出張中、大阪の家で浮浪者に間違われポリに踏み込まれる。第3位に、長女テニス部の主将に、とある。世の中では天皇崩御、中国の天安門事件など。
そして3年生の時(1990)の第3位には、長女、相変らず毎週テニス、とある。世の中では東西ドイツ統一、天皇即位など。
こうして振り返ってみると、この数年で昭和から平成へ、東西ドイツ統一、そしてソ連の消滅など、世の中はめまぐるしく変化している。恐らく私個人も、いろいろな面で変わっただろう。
しかし、その中で曲がりなりにもテニスという1つのことを続けることが出来てよかったと思う。ここまで来れたことを、家族や監督さん、植松さん、そしてテニス部の人達に感謝すると共に、テニスで学んだことを無駄にすることなく、これからの生活に生かしていきたい。
もうすぐ新しい年がやってくる、美味しいお酒でも飲みながら、今年の我が家のニュースベスト 10を笑い飛ばして、新年を迎えようと思う。                 

鰹コ文社 就職

 

 

 

 


1992     
                   小 柳 和 夫

除夜の鐘とサザンを聞き、バーボングラスを傾けながら、僕は今、部報の原稿を書いている。ああ、なんてカッコイイ出だしなんだろう。
振り返ってみれば、24年間という年月を生きてきた。その半分にあたる12年間、僕はテニスをし続けてきた。中学時代は賞状を何枚かもらった。当時、都代表で全国大会(全中)で上位に勝ち上がるペアに勝ったこともあった。塾高時代はあまり上手になれなかった。やはり、中学、高校は指導者と環境次第だと思った。でも、塾高生でこの文章を読んでいる人がいるなら一言言いたい。君達の環境は僕の高校の頃に比べ良いとは言えないが、それでも十分恵まれていると思う。だから、もっとそれを活かさなければいけない。もっと大学生のプレーを良く見て、真似て、盗んで、覚えて欲しい。今のパッシブな状態を抜け出して、もっとアクティブになって大学生を捕まえて練習するようになって欲しい。これは、今の女子部・男子部とも言えることで、慶応軟庭部全体の問題だと思う。
大学1年生の時は、原・難波、開田・宮部、梶川・宮本の試合を真近に見て感動し続けて終った。大学2年の時、慶應は充実していた。そして、僕にも忘れられない年になった。あの明治との入替戦の時は、難波さんがポイントしまくってくれたこと、石野君の応援する声が常に僕を勇気づけてくれたこと、そして最後に勝っていたこと以外あまり覚えていない。けれども、試合前の数週間、岡さん・難波さん・開田さんを始め多くの先輩方にたくさんのことを教えて頂いたことは、今でもよく覚えている。そして、あの頃はテニスが本当におもしろかった。以後、自分の実力が落ちてくると共に慶應が弱くなってしまった。本当に申し訳ございませんでした。
除夜の鐘も終わりサザンも終ったので、僕もこの辺でやめよう。僕の後輩たちがきっと慶應を復活させてくれることを祈っている。今年が勝負だということを忘れないで練習して欲しい。最後となりましたが、塾高時代を含む9年間、公私にわたり、米田部長先生、風間理事長、小林・植松両監督、浜名塾高監督始め多くの諸先輩方、そして同期・後輩の諸君、大変お世話になりました。心から感謝しております。     


 

 

卒業生のことば  
  1992年卒業生

「最 後 に 一 言」  
 
         政4 小 田 浩 司

今になって考えると、あっという間の4年間であった。思うこと、書きたいことは山ほどあるが、最後に後輩諸君に一言。
諸君は慶大軟庭部へ何を望んで入部したのだろうか。テニスの上達、それは当然のことである。あと1つみんなに考えてもらいたいのは個人の人格形成についてである。個性と考えてもらってもいい。人格なんてものは高校生になるころには形成されていると思うだろうが、大学の4年間というのは、それまでの自分自身を客観的、冷静に考えて、自ら理想とする人物に近づけることが可能な唯一の期間であろうと思う。そのためにはいくら思い悩んでも、苦労してもよいだろう。諸君は大学生としての4年間、また慶大体育会という、それが出来る絶好のチャンスを今、手にしているのである。
スポーツの面での塾体育会への貢献とともに、社会へ有為の青年を送り出すことも我が部の大きな役割だと思う。現役の内に納得いく成績を収め、そののちも、そこで培った精神をもって社会へ貢献することが、諸君に課せられた使命である。極端な例をとれば宮沢賢治の雨ニモ負ケズの世界である。
そんなことと笑うかもしれないが、満員電車で諸君の前にお年寄りがいたら、すぐさま、君達は席を譲れるであろうか。こんなことは小学生でもできそうなことだが、諸君は周囲の人の目を気にしたり、誰かが譲るだろうと知らぬふりをするということはないだろうか。
実際、こんな当たり前のことも実践されない世の中である。他人へのいたわりも急速に失われつつある。諸君にはこういった精神も含め、自らが自信を持って培った個性を武器に社会へと巣立ってほしい。中には、「あの小田さんが、なんでこんな真面目なことを?」と不思議がる後輩もいるだろうが、もちろん私も実行していくつもりである。その意味では、実に充実した体育会での4年間であった。今後も軟庭部出身の人間として誇りを持ち、一層精進を重ねていきたい。
最後に、テニスのことには触れることが出来ませんが、諸先輩方のこれまでの御指導について、この場を借りて御礼申し上げます。先輩方のアドバイスを糧に必ずや、有為の人物になれるよう努力いたします。後輩諸君も1部昇格、インカレ優勝そして、内藤総監督、桑野監督の胴上げを目指して頑張ってください。  

                          伊藤忠商事梶@就職

 

 

 


年刊ソフトテニスマガジンW  
         経4 山内太朗

― 和 ―
私が4年間楽しくやってこられたのも、素晴しい同期のおかげである。その感謝の意味もこめて、同期6人を紹介しようと思う。
小田浩司(香川県立丸亀高校出身)
彼とは、同じバイトをするようになって以来、大変広くつきあわせてもらった。普段はお笑い系の色が濃いが、主将を演じているときは一転して真面目だった。彼の苦労は、私が1番よくわかっているつもりである。個人的には彼にMVPをあげたかった。また血の気の多い人間で、就職活動の際の武勇伝は知る人ぞ知る事件である。彼からは「人間もっと熱くなれ」ということを学んだ。しかし私としては、カラオケで郷ひろみを演じているときの彼の方が好きだ。特に、蒲郡でのマリリンと伊東でのジャングルは忘れがたいものがある。
浪川浩行(慶應志木高校出身)
彼とは高校の時からのつきあいがある。非常に融通のきかないやつだがかなり努力家ということは周知のことである。また社交家でもあり、これからホテルマンとして大いに活躍してくれるものと思う。しかし彼もまた血の気が多く、特に下級生のころは、その為に余計な怪我が絶えなかった。おかげで部報のネタには困らなかったが。でも、とても涙もろい人情家でもある。
林田保(東京都立戸山高校出身)
彼は体育会の学生では異色である。とても勉強好きで、大学院へ進学するらしい。もちろん成績も抜群で、その桁違いなAの数のお蔭で、春合宿と花見と2回に分けてAの数一気をしたことは有名である。しかしそんな彼も、日本語がバリバリ通じるホノルルで、コーヒーを注文したつもりがコーラがでてきてしまったという珍事件を起こし、いかに受験英語が実際に役立たないかということを見事に証明してくれた。頑張って教授になってね。
宮田京子(埼玉県浦和西高校出身)
彼女を抜きにして今の女子部は語れないということは、誰も疑わないところである。練習熱心でセンスもあり、ルックスも良く、その上後輩の面倒も非常によく見ていたと思う。まさに女子部再建の立役者だったと思う。そんな彼女のファンは、部の内外を問わず、数知れないようだった。これからは生保のお姉ちゃんとしてその人望を遺憾なく発揮してくれることだろう。蔵王での「雨の慕情」は最高だった。
西尾百代(慶應女子高校出身)
授業中に京子ちゃんに勧誘されて入部したという変わり者である。だが、勉強に忙しかったせいか、あまり練習や試合には顔を見せてくれなかった。でも、六連のダンパには欠かさず来ていたことは、部員の心の中によく残っていることと思う。
山内太朗(慶応義塾高校出身)
本当にゴーイング・マイウェイなやつで、好き勝手やっていた。うちの部の伝統で、主務の良い年は部が強いといわれているが、代交替で彼が主務を退いてから、六大学優勝など部が輝かしい成績を残し始めた。しかし、彼はそんなことは全く気にせず、各学年すべてに塾高出身の部員が揃ったということに満足して、卒業していくようである。 

             三菱信託銀行梶@就職

 

 

 


謝   辞  
               理4 浪 川 浩 行

4年間、長いようでしたが本当に瞬く間に過ぎ、卒業まで数日を残すのみとなりました。今はその早さに呆気に取られ何事も文章に記すことができません。4年間の活動を支えてくださった皆様への感謝の気持ちで一杯であります。
内藤総監督をはじめ、大森部長先生、米田前部長先生、4年間どうもありがとうございました。内藤総監督にはテニスの楽しさをいつも話していただきました。入替戦はいつも苦しいものでしたが、やっぱり面白いものだと思います。米田先生は常に部の活躍を期待されました。在任中にそれが果たせなかったのが残念です。大森先生、これからの部員達の活躍に暖かい声援をお送りください。
桑野監督、小林学前監督、植松女子部監督、4年間有難うございました。桑野さんに入替戦のとき、「お前らしかいない、頼むぞ。」と言われ、本当にその通り頑張りました。
学さんには2年の春季リーグ蓮でサービスが入らないときアドバイスをいただき、それで気持ちが落着きました。あの一言はとても嬉しかったです。「君は試合に強いから緊張せず大丈夫だろう。」植松さんの温かい言葉と適切な指導はとても励みになりました。これからも女子部をミッチリ鍛えてください。
入部するきっかけを作って下さった青山さん、ご無沙汰しています。最近お目にかかれないのが少し残念です。お忙しいところを志木までたびたび来ていただき、当時高校生の私を日吉の練習へ初めて連れていってくださいました。思えばこの4年間はあの日から始まっていたのですね。もう一生食べることのできない程すごかったお鮨、ごちそうさまでした。
このほか日吉に来て下さったたくさんのOBの方々、4年間のご指導有難うございました。1人1人の方にそれぞれここでは書き表すことの出来ない程たくさんの思い出があります。才能のない私を見捨てられず、期待され、頑張ることのできたのもすべて皆様のお陰です。夜の部でも時々迷惑をおかけしてお世話になりました。また毎日の練習を共にしてきた直接の先輩方、本当に手間がかかった世話のやける後輩でしたが、皆様のお陰で4年間やり通すことができました。
4年間ほとんど毎日のように顔を合わし、最も長い時間苦楽を共にした同輩の諸君にも感謝の気持ちでいっぱいです。
小田君とは本当にいろいろなことがありました。とても楽しかったです。彼女の前で彼の○○○の話をしたりして、気まずい思いをさせたこともありました。マラソンは時々私も使わせていただいています。大変なキャプテンの役割を見事に果たし、様々な苦労はあったと思いますが、彼が頑張ってくれたために最後にいい仕事が出来たと思います。ほんとうにナイスキャプテンでした。
山内、林田君達がいたからこそ私は頑張ってこられたと思います。彼等が常に意識にあり、負けないという気持ちがあり、お互いに良きライバルでした。山内君は主務ご苦労様でした。主務の仕事とテニスの両方をしっかりこなし陰で皆を支えてくれました。日吉・三田マラソンでは最後に愛のスパートにやられました。完敗です。林田君はとても練習熱心で勉強としっかり両立していました。彼のAの数は恐れおののくものがあります。もし教授にでもなりましたらこれは大変なことで、その時は私の息子の世話を頼みます。
宮田さん西尾さんの女子部のお2人、本当にお疲れ様でした。特に宮田さんは4年間ずっと活躍し、部員の少ない時も一生懸命頑張り、キャプテンの役目も立派に果たすなど、彼女には敬意の念でいっぱいです。いつ見てもきれいなフォーム、面であったので、よく男子であったらと思うことがありました。西尾さんも途中から頑張りました。最近お目にかかりませんが、お元気でしょうか。
私はこのように素晴しい仲間と過ごせてよかったと思います。
厳しいことを言われ続け、それに耐えて本当に頑張ってくれた後輩の皆さん。短い間だったけれど楽しく過ごさせてくれてどうもありがとう。
みなの活躍があったから私もここまできたと思います。夜の部ではむちゃくちゃ怖い先輩であり、時々迷惑をおかけしました。どうもすみません。でも本当に楽しかったです。これからは皆さんの時代です。しっかり頑張ってくれると思います。
こうしてみると実に私のまわりにはたくさんの人達がいて、その方達のお陰で4年間やってこれたのだとつくづく思います。最後に4年間好きなことをさせてもらった両親に感謝の意を表します。
諸先輩、同輩、後輩の皆様、どうもありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。


潟zテルニューオータニ 就職

 

 

 


最 後 に 一 言 
             政4 林 田  保

月日の流れというものは早いものであっという間に4年間過ぎてしまったような気がします。この部報の原稿を書くのもこれで最後になってしまいました。まあそこで最後ということなので今まで4年間テニスをやった感想を書いてみたいと思います。
僕はこの4年間自分なりに目標を立ててやってきたのですが、まあ大体達成できたと思っています。その目標とは@リーグ戦で全勝するA体力を向上させ健康な体を作るの2つです。我ながらあまりに低い目標設定かな、とも思ったのですが、僕はあまりテニスはうまくないし、体も弱っちかったのでこんな目標でも達成は難しいだろうなと思っていました。
実際、リーグ全勝できたと言っても4年の春にやっと4部で達成できたものです。でも僕にとってはこの全勝はとても価値あるものです。特に優勝を決定する神奈川大との試合で、快心の勝利を収めて胴上げされたのはよい思いでとなりました。
2番目の目標の体力の向上については、ハワイのホノルルマラソンに出たときに、思っていたより自分に体力のあったのを知って驚きました。クラブを引退して4ヶ月くらいほとんど運動をしていなかったので、6,7時間くらいかかると思っていたのですが、4時間半以内で走ることが出来ました。
さて、このように目標が達成できたのもクラブの先輩、後輩、OBの方々の助けによるところが大きいと思います。特に伊藤君には4年の春のリーグでいろいろ助けてもらい、そのお陰で全勝できたと思います。そして、特に4年生の小田君、浪川君、山内君にはどうもご苦労さまでした、と言いたいと思います。考えて見れば、僕達の代は1年で入部していきなり3部に落ち、4部に落ち、何とか3部に上がる、ということを経験しました。こういうつらい時期を乗り越えられたのも3人がいろいろな形でがんばったからだと思います。
ということでこの文章を最後まで読んでくれた人がいたら、どうもありがとうございます。あと、後輩の皆様、これからも頑張ってください。  

                 大学院 進学

 

 

 


感謝状 西尾百代殿 
            文4 宮 田 京 子

4年間体育会に在籍していれば、大概は1度はやめたいと思うだろう。私も御多聞にもれずその口であった。それでも最後の1歩を思いとどめさせた理由の1つに、西尾百代の存在がある。彼女は行動範囲ないし視野が極めて広い。中学時代からずっとこの世界に浸りっぱなしであった私は、彼女との出逢いで目から鱗が落ちたとでも言おうか、1種のカルチャー・ショックを受けた。このことは今でも深く彼女に感謝している。
西尾百代は決してテニスがうまいとは言えない。運動すること自体、本人は好きではないと言う。それでも彼女なりに懸命になっている姿は私の心の支えになるのに充分であった。私は彼女が様々な分野に興味を抱いているのを知っている。それらを時には犠牲にしてまでボールを追っかけている姿は、しばしば私を困惑させた。
スポーツは勝負の世界であると人はよく言う。過程よりも結果に重点が置かれる。それはそれでいい。そういう考え方は確かに選手を奮い立たせるからだ。ただ問題なのは勝った時にその人が何を得たかという点である。私たちは生きている以上自分を豊かにしていくべきである。スポーツをやるにも決して偏狭な世界に陥ってはならないのだ。そういう意味ではたとえ勝者でも偏狭な視野の持ち主ならば、勝者よりは、広い視野の敗者の方が人生における勝者と言える。
そのようなことを無言のうちに彼女は私に教えてくれた。このことはスポーツだけに限らない。これから仕事をしていく上でも極めて重要なことだ。
彼女は戦績を残せなかった。しかしそれは彼女が努力しなかったという証拠にはならない。それでもやはりスポーツの世界では評価されない。だからせめて私から彼女に賞状を贈りたいと思う。


感 謝 状          西尾百代殿
4年間私の支えとなり、かつ重大なことを気付かせてくれたことを心から感謝いたします。
平成5年2月19日 

         同輩 宮田京子

 

 

 

 

体育会によせて 
                文4 西尾百代

就職活動で必ず聞かれる質問に、「大学時代何をしたか」というものがある。体育会と名乗るには自分でもおこがましいほどの活動しかしなかった私だが、それでも在学中何に1番時間を割いたかといえば、やはり「体育会」が答えになる。
もともと私はひどい運動音痴で、小学校のかけっこなんかは遅いほうから何番目の部類だった。もちろん運動会なんてただの悪夢だった。その私がなぜ体育会に、しかも初心者なのに2年から入ったか。この辺の事情は昨年書いたから省くが、一言で言って「偶然」である。
私が入部した時、女子部は全部で4人しかいなかった。ずぶのど素人同士、おまけに平均身長   150p以下という小人のテニスのような西尾・木村ペアは、当然の事ながら出ると必ず負けた。それでも楽しかった。軟庭も体育会も全く知らない世界だったし、かたつむりのような歩みでも、以前できなかったことができるようになるのは大きな喜びだった。
しかし、体育会は勝つ事が全てである。いくら“参加することに意義がある”などといってもきれいごとだ。下級生が入ってきて部の雰囲気は一転し、リーグ戦での連敗をくいとめられるようになった。人数あわせだけのために存在していたような私も、“上達が嬉しい”等と呑気なことは言っていられなくなった。
負けたら次を目指して練習する、それは体育会の基本だ。だが「偶然」で入った体育会のために本来の私の目的であったゼミをあきらめるのが嫌で、ゼミにも入っていた私は丁度そのころ板挟みになった。ゼミの課題と会計の仕事、体育会、それに家の問題も重なり(私事になるが、我が家の隣にアパートが建つことになり、偶然父母が不在で半年ほど住民運動をする羽目になり、不動産屋を相手にチャンバラをやっていたのだ)体育会を辞めようかとしばらく本気で悩んでいた。やらなければいけない事とやりたいことが山積で、体育会は私を必要としていなかった。
だが、私は辞めなかった。自分が存在する理由がなければ、自分で作ればいいじゃないか。「いて欲しい」といわれる人間になればいい、そう思ったからだ。結局就職etc.で決心の割には何もせず、ずるずる引退してしまったが、後輩の皆には私のようにならずに、活躍して欲しいと思う。


 

 

卒業生のことば  
  1993年卒業生

回  顧  録 
               法4 春 日 川  覚

振り返ってみると月並みな感想ではあるが、やはり慶大軟庭部の4年間はあっという間だった。
しかし、私はその中で、一生でこの時期にしか得ることができない大切なものをつかむことができたと思う。それは、一生懸命努力することと、人を信頼することの大切さということである。それは私にとって宝である。
私は、ソフトテニスに関しては「下手」な人間だと思う。それが4年生になって少しだけ勝てるようになったのは、日吉のコートに来ていただいた総監督をはじめとするOB,先輩方のおかげだと思うし、また「大切なもの」とは何かを私に教えてくださったと思う。
わたしは、入部前に始めて日吉のコートに来た時、中沢さんにお会いし、下手な人間を上手にすることに関しては少なくとも慶應は六大学で1番だ、というお話を伺って、入部を決意した。
2年生の時、何をどうやればいいのか途方にくれていた時、前衛はバックだけでストロークすべきだという原さんのアドバイスを聞かなければ、その後の私はなかったように思う。
3年の夏に3・4部の入替戦があった。当時、私は春の関東リーグ戦から5番で出場していたが、5番勝負が1度も無いまま4部で優勝した。入替戦の前の私の状態はまったくひどいもので、外からみてもとても5番で使えるような状態ではなかった。前日に行ったゲームでも、散々な内容であった。しかし、その直後に桑野監督が私の所に来られ、私の目を見ながら一言「5番を頼む」と言われた。その言葉は非常に重みのあるものだった。
運よく、入替戦の5番勝負は勝つことができた。私にとって、あの試合は1つの転機であったと思う。同時に、桑野監督には、人を信頼することの難しさと大切さを教えていただいたと思う。
また「ソフトテニスとは、ゆっくり、思い切って」であると言う村井さんのお言葉は、私にとって非常に説得力があり、以後メンタル・タフネスを自分なりに研究するようになった。この言葉を聞いていなかったら、先の入替戦では負けていたかもしれない。
「学生スポーツとは、学生がスポーツをやるんだ」と内藤総監督はよく話してくださった。学生である以上、学業とスポーツを両立し、かつ双方において優秀な成果をあげてこそ真の学生スポーツである、という総監督のこの厳しいお言葉と姿勢は、私が主将を務め始めた頃、弱気になりそうな時に思い出しては勇気付けられた。
他にも大勢の方々に貴重なお話をしていただいた。誌面の関係上、全て書くことが出来ないのが残念である。
最後に、これを読んだ後輩諸君に一言。慶大軟庭部は大変素晴しい部です。入部した諸君は、とても良い選択をしたと思います。しかし、この素晴しさは、努力した者にのみ与えられるものだということを忘れないでください。諸先輩方は、努力により輝かしい栄光を築いてくださいました。諸君も負けずに頑張ってください。

                        東北電力梶@就職

 

 

 


四年間を振り返って
             経4 青 木 雅 樹

大学に入ってから、既に4年もの年月が過ぎようとしているが、自分の大学生活を振り返ると、何もしないうちに過ぎ去ってしまったと言う気がする。
塾高から大学へと進学した私は、大学では何か勉強して身につけたいと思い、どこかのサークルに入ろうと思いながら1ヶ月が過ぎ、3年間通い慣れた下田のコートに顔を出してみたら、いつしか  コートの上で練習する部員へと変身していた。
大学1、2年の頃は、体力的な面で最もきつい時代だった。部員が少なく、戦力など考える余裕もなく、上を見るよりも、下に落ちない、というような考え方が強かったのではないかと思う。体力、技術とも不足していた私には、地獄のような毎日であった。
それでもなんとか練習を続け、3年となった。しかし、上級生になったといってテニスがうまくなるわけでもなく、試合でも勝てず、上級生の立場的なことから、精神的に苦しい状態へと変わった。さらに、主務をすることとなり、仕事的な面でも、かなりの部分で迷惑をかけるなど、精神的苦痛はピークへと達した。
などと大げさに言っても、時間は流れるもので、今ではお役御免となり、試合でも結果が残せないまま体育会の生活を終えようとしている……。と言いたいところだが、なぜかもう1年大学生活を与えられたので、自分にできることは少ないだろうが、部員の1人として、現役諸君と行動を共にしたいと思う。

 

 

 

 

 

覇道学の心得 
 
              理4 松 村 健 史

六大学という立場にいると、早稲田、法政等のプレーを直接見る機会は多々ある。おかげでいい勉強となるが、逆にマイナスにもなる。つまり、自分がその一流プレーヤーになることだけを目標としてしまうのである。そのことで基本を忘れ、階段を10段、20段一気に飛び越えようとする。4年間という期間で、我々ヘタクソが、ナショナルチームに入るような一流プレーヤーにはなかなかなれるものではない。
私は、大学でテニスをやるにあたり「勝つこと」を考えた。つまり、自分は一流プレーヤーになることを目標にするのではなく、一流プレーヤーに勝つことを目標にした。自分が出来る可能性名あることはとことんやり、プレー中、常にあらゆる面、フォローやコースに気を使った。また、考えるだけでなく、考えたら直ぐ実行し、改良を加える。考えてばかりいて実行できなければ、何も考えない人と同じである。
下級生時代は、自分の可能性に期待し、一流プレーヤー自体に憧れていた。これが回り道をしてしまう。体育会というところは、勝負の世界である。勝つという基本を忘れずに、練習していくべきである。そして、一流プレーヤーに勝つことで、自分が一流プレーヤーの仲間入りすることが重要であると思う。
4年間という短い期間で、勝つための最も近道を探し出し、それを信じてひたすら練習する。これが、今まで私が体育会でテニスをやってきたことの結論である。    

NTTデータ通信梶@就職

 

 

 


NARO CUP物語
 
           理4 難 波 史 幸

今日は待ちに待ったNARO CUPの試合である。パートナー田中を新丸子駅で捕まえて、東京体育館へ。
体育館の控え室に入る。ここは、毎年関東インドアに出場できる人しか使用できないのに、今日だけはサークルの人と2部以下の(ヘボイ)体育会の人が使用できる。アリーナに入ると、5面で1回戦が行われていた。もう11時だった。坂詰が受付を済ませておいてくれたので十分間に合った。
昼過ぎに2回戦(一応シードをもらう)が回ってくる。高校時代、松村と同級生らしい。試合前の乱打もなく始まる。体育館で球が伸びてくる。おぉーかすった。でも、クロスにヒョロヒョロ返る。いかーん。
バシッ! 時速200km.の球が、ネットに突き刺さる。ラッキー。次はカットサービスだ。5pも跳ねず、相手空振り。観客からどよめきが。おぉー。後は田中がカモりまくって、C―0。ナイスなアップだった、とひと安心。
同じ頃、坂詰・佐川組、サークル全日本3位に競り勝つ。坂詰の球は大会1,2を争うスピードである。負けるわけがない。
3回戦、相手は国学院のいつも負けちゃう相手だ。ダブル前衛の戸惑い。あっという間にゲームカウント0―2の2―3。そろそろ3時くらいで、帰るにはちょうど良い時間だ。でも、知らないうちに勝って、C―2。
4回戦、疲れてきたので、全部1本目に前衛にもっていく。1球も取れない。取れるまで持っていこうと思う内にゲームセット、C―1。駒大のサークルの人。怒ってラケット投げる。まずい。
5回戦、相手は明治のサークルの人。第1シードに勝ったようだ。後衛のラジオ体操屈伸運動打法によるロビングは深い。こっちは疲れているので粘り負けてくる。ゲームカウント0―2の2―3にまたなってしまった。ここでまたあきらめて、取れるまで前衛にもっていく。1球も取れない。ついてる―。相手のロビングがベースラインに落ちようが、お構いなしにもっていく。相手の後衛もこっちの田中にもってくるが、塾内でもまれている彼は、オールストップボレー。最初からこうしておけば……。C―2。
準決勝。相手は城西大と独協大のペア。強い。乱打が今までのエセ打法じゃない。インハイに出たらしい。田中には悪いが、疲れ切って集中力が切れて、ミスの連発。ゲームカウント2―3のジュースを5回ぐらいして粘るが、力尽きる。2―C敗戦。結局、そのペアは早稲田の山根・宮崎(2・1年)にも勝って優勝。
獲得賞品…盾、ラケットケース。靴下、Tシャツ、参加賞のトレーナー。後輩諸君、こんなおいしい賞品を逃す手はない。いつも勝てない自分と同じ境遇の者、金や物がかかっていると急に強くなる者、関東インドアを狙っていたが、残念ながら出場できなかった者、12月第2週、東京体育館アリーナが君を待っているぞ! その上、帰りにホープ軒が食べて帰れるところがミソだ。
今日は待ちに待ったNARO CUPの試合である。パートナー田中を新丸子駅で捕まえて、東京体育館へ。
体育館の控え室に入る。ここは、毎年関東インドアに出場できる人しか使用できないのに、今日だけはサークルの人と2部以下の(ヘボイ)体育会の人が使用できる。アリーナに入ると、5面で1回戦が行われていた。もう11時だった。坂詰が受付を済ませておいてくれたので十分間に合った。
昼過ぎに2回戦(一応シードをもらう)が回ってくる。高校時代、松村と同級生らしい。試合前の乱打もなく始まる。体育館で球が伸びてくる。おぉーかすった。でも、クロスにヒョロヒョロ返る。いかーん。
バシッ! 時速200km.の球が、ネットに突き刺さる。ラッキー。次はカットサービスだ。5pも跳ねず、相手空振り。観客からどよめきが。おぉー。後は田中がカモりまくって、C―0。ナイスなアップだった、とひと安心。
同じ頃、坂詰・佐川組、サークル全日本3位に競り勝つ。坂詰の球は大会1,2を争うスピードである。負けるわけがない。
3回戦、相手は国学院のいつも負けちゃう相手だ。ダブル前衛の戸惑い。あっという間にゲームカウント0―2の2―3。そろそろ3時くらいで、帰るにはちょうど良い時間だ。でも、知らないうちに勝って、C―2。
4回戦、疲れてきたので、全部1本目に前衛にもっていく。1球も取れない。取れるまで持っていこうと思う内にゲームセット、C―1。駒大のサークルの人。怒ってラケット投げる。まずい。
5回戦、相手は明治のサークルの人。第1シードに勝ったようだ。後衛のラジオ体操屈伸運動打法によるロビングは深い。こっちは疲れているので粘り負けてくる。ゲームカウント0―2の2―3にまたなってしまった。ここでまたあきらめて、取れるまで前衛にもっていく。1球も取れない。ついてる―。相手のロビングがベースラインに落ちようが、お構いなしにもっていく。相手の後衛もこっちの田中にもってくるが、塾内でもまれている彼は、オールストップボレー。最初からこうしておけば……。C―2。
準決勝。相手は城西大と独協大のペア。強い。乱打が今までのエセ打法じゃない。インハイに出たらしい。田中には悪いが、疲れ切って集中力が切れて、ミスの連発。ゲームカウント2―3のジュースを5回ぐらいして粘るが、力尽きる。2―C敗戦。結局、そのペアは早稲田の山根・宮崎(2・1年)にも勝って優勝。
獲得賞品…盾、ラケットケース。靴下、Tシャツ、参加賞のトレーナー。後輩諸君、こんなおいしい賞品を逃す手はない。いつも勝てない自分と同じ境遇の者、金や物がかかっていると急に強くなる者、関東インドアを狙っていたが、残念ながら出場できなかった者、12月第2週、東京体育館アリーナが君を待っているぞ! その上、帰りにホープ軒が食べて帰れるところがミソだ。


1989年〜1993年度部報目次へ

     HOME>お楽しみ>1989〜1993年度合併号