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世良田 稔君を偲んで
法学部M組 栄谷嘉恭(昭和30年卒業)
軟式庭球部主将として活躍した世良田君は卒業と同時に東急入社、電鉄各部門で実習を終えた後、温泉レジャー施設伊豆韮山の水宝閣に派遣され管理業務を任された。
学生時代から責任感旺盛で率先垂範を旨としていた世良田君は、常に現場を飛び回っていたが、当日も温泉ボーリング現場の進捗状況を確認中に突然コンプレッサーが破裂しその破片が顔面を強打し即死、殉職した。卒業後三年目の春、二十六才であった。
無限の可能性を秘めたままの若死にであり本当に惜しみてもあまりある死であった。
東急コンツェルンの総帥五島慶太翁もその死を惜しまれ、老躯をおして横須賀のご遺族宅を弔問、その後も何度か訪ねられた。翁の壮大な夢を実現してくれると期待した若者の殉職を深く悲しまれたのであろう。翁の強い勧めに従って亡兄の遺志を継いで東急入りされた令弟叡氏は不動産部門で活躍された。
卒業アルバムの世良田君の遺影は「ところでその後五十年はどうだったか」とわれわれに問いかけているような気がする。
卒業50年
経済学部H組 林平蔵(昭和30年卒業)
2005年4月4日母校の入学式に我々1955年3月卒業生は招待を受け日吉校舎に向かった。
思えば卒業以来50年、東横線日吉駅の向かって右側のソフトテニスクラブのコートに行くことは有っても左側の校舎に行くことはあまりなかったといまさらの様に思った。
しかし、坂を登っていくうちに、1951年、昭和26年4月この坂を初めて登った時は入学式はあったのだろうかと考えたが、良く思い出せない。強烈に思い出されたのは我々の学舎はアメリカ軍兵士の宿舎のあとでかまぼこ型の教室であった。そして暫くして、この坂の上の食堂グリーンハウスの脇にあったソフトテニスのコートで入部したことである。かくして体育会の生活が始まるが3年生の時から2年間29年卒の井上先輩の指導で学連係りとなり東日本、全日本軟式テニス大会の運営をするようになった。時代は飛ぶ。1980年卒業25年の時は、50年の大先輩方と共に日吉に招待を受けた。この時はまさに時の政府の55年体制が整って安定政権として日本は改めて繁栄に向かう時だった。招待者代表医師会長武見先輩のこれを踏まえた挨拶があった。かくて50年、我々凡そ1000人、入学生6400人、入学生の付き添い者1000人が日吉の坂を登った。係員を入れて8000人余りでホールは満員。入部同期生、栄谷、伊藤の両君を探したが不可能、主務として苦労した久米君は欠席、われ等テニス部のホープ世良田君はこの世にいない。同期として他に中原君や後2、3人いたと思うが不明、我々の30年卒業組はこの様に少なかったので、29年、31年組の皆さんに色々おせわになった。式終了後席を変えてパーティ、学部、クラスごとに分かれて賑やかに過ごしたが、50年ぶりの再会、いるはずの者の訃報、を見聞きしてみるとまさに50年が一瞬の内によぎり生きていることの有り難さをしみじみと感じた一日であった。
このような思いを卒業生招待の行事を通じて甦らせてくれる母校慶応に感謝する。
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