| いたいた、尾崎先生。
大学卒業以来、東京、愛媛、岡山と転勤ばかりしていた私は2月のとある日、母校である高知学芸高校の校舎前に立っていた。
娘の中学受験の機会あって、立会いかたがた約30年ぶりに母校を訪ね、しばらく母校ソフトテニス部の練習風景をネット裏から眺めていた。
当時の軟庭部の指導部長だった尾崎先生は昔のまま。進路指導部長をへて、今は管理職である教頭を務めているが、相も変わらず、である。
「何しよらあ」(土佐弁で「どうしてそんなプレイをするのか!」)
やれやれ、いつもの「尾崎節」はそのまま。
年はいったが、日に焼けた真っ黒な顔はおよそ教頭先生とは思われない。
母校の高知学芸高校は、昭和63年に修学旅行で出かけた中国上海郊外の列車事故で先生と生徒が27名亡くなられたことがあって、若くして、大勢の若い命が、足早に天国に旅立たれて、誠に残念な出来事だった。
校庭にはいたましい事故の慰霊碑があり、校内には2階に「メモリアルルーム」といってなくなった方々の写真が飾られてある。今にも写真の中から飛び出してきそうな顔、はちきれんばかりの笑顔。メモリアルルームから窓の外に視線を移す。透き通る青い空と笑顔がマッチするのはどういうことか。
昼下がりの久しぶりの母校。後輩諸君の「ポーン」とこきみよい打球音が、耐震構造の施された校舎に跳ね返って心地よい。遠くではマンドリン部の練習であろうか、マンドリンオーケストラの美しい弦の音色が遠くに聞こえる。空を見上げれば、遠い昔のままの青い空、北から南に向かって日本海側に雪を降らせて力尽きた雲が足早に流れていく。無心で何の疑う事もなく白球を追っていた高校時代につかの間のタイムスリップ。あのころは何の損得や利害関係も考えていなかったなあ。
さて、校舎を一歩出ると、いつもの日々の始まり。
高知学芸〜慶応で無心だったころを思い出しながら、ぼくは約30年前、高校を卒業したときと同じように、母校の校門から再びのファーストステップを踏み出した。
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