2006年4月 入学式―2006年4月3日―
1956年(昭和31年)卒業 松田英三郎
2006年度(平成18年)大学入学式に卒業50年を記念して、慶応義塾から招待をうけ日吉を訪ねました。
4月3日の日吉キャンパスは、前日の雨が嘘のような快晴で、満開の桜に迎えられました。私自身も4回桜の季節を日吉で過ごしました。50年経って思い出してみると感慨ひとしおのものがあります。しかしキャンパスの銀杏並木や丘の上の当時からある校舎をみていると、それほど感傷的にはならず慶応義塾を卒業したのはほんの2、3年前のことではなかったかと思うぐらいです。そのうえ久しぶりに会う友人と話が弾みだすと50年の時間が止まっていたような、そんな気分になりました。
入学式は「日吉記念館」で行われました。学事報告によると、本年の新入生は合計6,521名で、それに卒業50年で招待された塾員約1,000名を足しますと、さすがの「日吉記念館」も座席がたりず、新入生の中には後方で立席の者もいました。安西塾長の式辞は「創造力」「実行力」を自ら磨き、そして「独立自尊」をはじめ慶応義塾の精神を学ぶようにとの趣旨でありました。また塾長からは卒業50年のわれわれ塾員にも社会の先導者であったと、ありがたい言葉がありました。1956年(昭和31年)卒業の塾員はおよそ2,300名だったそうで、その頃に比べ3倍近い新入塾生を前にして、しかも平成生まれの塾生の時代に入り、昭和が遠くなりつつあるのを実感する一方、義塾の発展ぶりを肌に感じました。式は格調高く慶応義塾らしい品位のあるものでした。義塾の隆盛は卒業していった者にとって何よりの喜びであり、また誇りであります。
ところで「入学式」のおこなわれた「日吉記念館」は、まさにソフトテニス部のホームコートのあった場所であります。部史によりますと、1949年(昭和24年)軟式庭球部が体育会に昇格し、1950年(昭和25年)現在の『記念館」の場所にコート5面が完成、その後1957年(昭和32年)『記念館」建設のため下田に移転、4面のコートが完成したとあります。計算してみると約7年間、この「記念館」の場所にホームコートがあり、私達1956年(昭和31年)卒業組はまるまる4年間、ここで練習を重ねたことになります。思えばテニスコートとバレーボールのコート(当時バレーボールは屋外で練習していました)それに木造の学生食堂『グリーンハウス」という風景が4年間のわが塾生生活のほとんどでありました。ソフトテニス部が2部に降格したのが1950年(昭和25年)そして1部に復活するのが1957年(昭和32年)の春でありますから私のソフトテニス部生活は、入替戦に次ぐ入替戦で結局4年間の長い2部暮らしでありました。しかし1部昇格という明らかな、はっきりした目標があったことと、その後30年部史にあるごとく、越前、大岩、近藤、山崎、内藤兄弟、半田、糸川、西村、村井といった第2期黄金時代を築いた 後輩を持てたことは何よりの幸せでありました。
当日、1956年(昭和31年)卒業の松本、田処、石堂、松田の4名は下田のコートに集合しました。岩本(輝)、新倉の2名は欠席、太田君は故人となっています。
桜満開の下田のコートは2面はオムニで、夜間照明の設備があり、ローラーひきもラインひきも不用という立派なものです。 部員は新入部員募集のため全員銀杏並木に出かけていて練習はしていませんでしたが、新しい体育会合宿所と留学生会館がコートに隣接してちょうど完成したばかりでした。新合宿所はほぼ個室で、冷暖房完備、各室電話、コンピューター配線という私達の塾生時代には想像もできない設備であります。われわれ4名、またの再会を約してコートをあとにしました。
この「入学式感想文」を書くようにと連絡をくれたのは浜名君でありました。当日、浜名君はわざわざ我々を迎えに日吉のパーテイ会場である『グリーンハウス」まで来てくれ、 銀杏並木で部員募集をしている現役部員を紹介してくれました。 そして下田のコートまでつきっきりで案内してくれ、その親切心はまさに感激そのものであります。心から「三田ソフトテニスクラブ」のありがたさを感じ、またひるがえって会費をちゃんと払っているかと思わず自問自答しました。
卒業生としてソフトテニス部OBとして、慶応義塾とソフトテニス部の発展、隆盛と活躍は何ものにも代え難い「宝物」であり「財産」でありそして「誇り」であります。OB各位と現役諸君のご多幸を祈り「卒業50年記念入学式」ご招待の感想文といたします。 |